2話 キュー
声と同時に黒い人影が扉の向こう側から飛び出し、私を捕まえていたミュータントにぶつかった。私は、投げされるように床に落ちて頭を打ち、痛みで涙目になりながらも見上げる。私を助けた、彼女の姿を。
高い身長に長い黒髪。細身で締まっていて、かといって女性として出て欲しいところはしっかりと主張している体躯。小さくて華奢な私からしたら、将来なりたいスタイルナンバーワンに近しい姿。その体を、動きやすそうにカスタマイズされた制服のような軍服のような、かっちりとした服が包んでいた。だからか今のこの世界には不釣り合いなほど清潔に見える。
彼女にはいくつか目を引く部分があった。それは頭頂部に生えた小さな獣耳と、お尻から生えた二の腕ほどの長さの真っ黒なしっぽ。
そしてもう一つは、腰の左側に携えられた真っ黒な刀だ。
「キュー」
私は彼女の名を呼んだ。
「ルィ」
彼女が私に目を合わせて、私の名を呼んだ。
「昔の人は、自殺願望が強かったと聞きますが、本当だったんですね」
彼女は、呆れたように私に言った。
「自殺願望じゃないよ、キュー。これは好奇心。好奇心は、猫をも殺すの」
私は悪態を付きながら、差し出された手を取り立ち上がった。彼女の体は私とは構造が違うという。けど、そうは思えないほど彼女の手は柔らかかった。
唸り声がヤツから上がり、私は視線をミュータントに向けた。ヤツはなおも動いているが、開ききった口の部分から赤褐色の液体を垂れ流している。ダメージはあったようだ。
「下がっていてください」
キューは左手で私をドア向こうに下がらせると、そのまま腰の刀の鞘を握り、右手で勢いよく抜刀した。その姿を見せた刀は鍔も刃も漆黒で、薄暗いこの地下では夜空に落とした墨のように闇に溶け込んでいた。
ミュータントが起き上がり、ヤツの眼球がキューの刀を認識した。するとその危険性を感じ取ったように、口から液体と怒りの叫び声をほとばしらせ、体が変異していった。
肩と足の部分から何本も太い棘のような骨が突き出し、ただでさえ大きな口腔部が股下まで裂けて、さらに巨大となった。開かれた口の中にも無数に短く鋭い骨が突き出している。どれだけ骨があるんだこいつは。
変異が終わると同時に、ヤツはキューに向かって駆け出した。両腕を広げ、その長い爪を振り回す。キューはすんでのところで後ろに飛び退き、攻撃をかわしていく。
しかしキューはいつまでも防御行動ばかりで攻撃に移れないようだ。
それもそのはずだ。キューの武器であるあの黒刀は私の身長と同じくらい長い。この狭い地下通路では立ち回りがしづらいのは明白だった。
ミュータントは狭さなどお構いなしに、どこに逃げても爪先がひっかかるように、やたらめったらに爪を振り回して前進してきた。
キューは刀で爪、ないしは腕ごと切り落とそうとどうにか斬撃を繰り出そうとするが、壁に天井に刀がぶつかり形勢を変えることはできないでいた。
そうしてついにミュータントの爪がキューの頬を引っ掻いた。傷は数ミリ程度ですんだが、キューの頬からは血が垂れ流れた。
それを見て満足したのか、ミュータントは一時攻撃の手を止め、まるで笑っているようなくぐもった声で呻いた。
「キュー!」
私は思わず心配で声を上げてしまう。
「大丈夫」
彼女は落ち着いた声で答えた。
「あなたは、私が守るので」
そうキューがつぶやくと、キューの髪色と同じ美しく黒い毛並みのしっぽがくるんと動き、ほんのりとキューの全身に青い光が浮かんだ。そして彼女の持つ漆黒の刀身に幾何学的な模様が浮かび上がったと思うと、キューと同じように美しい青の光を帯びた。
本能的に危険を察知したのか、ミュータントが一気にキューに向かって突撃してきた。キューは最小限の動作で刀の先端部分をミュータントと平行に方向け、切っ先をミュータントに向けたかと思うと、次の瞬間にその姿はミュータントとともに私の前から消えた。
キューの姿を探して視線を上げると、通路奥の壁に刀を突き刺したキューと、ミュータントであったであろう肉片が壁や通路に飛び散っているのが視界に入り、次に瞬間にようやく衝撃波と轟音が私に届いた。
そこら中にミュータントの肉片が散らばり、天井に張り付いた部分が雨漏りのように垂れてきている。生臭い匂いが立ち込め、急に空間が湿気を帯びた。
「キュー!」
私はキューに駆け寄った。刀を壁から抜いた彼女が、倒れるように膝から崩れ落ちたからだ。
「大丈夫? 怪我した?」
私はすぐさまキューの体に異変がないか調べだした。先程の攻撃の影響か、全身から水蒸気が立ち上っている。それ以外には目立った怪我はなかった。
キューは大丈夫ですと言いながら、刀を支えに立ち上がった。
「ただ、今ので完全にエネルギーを使い果たしたようです」
「それってつまり」
「今は、人間とほとんど変わりません」
キューは申し訳無さそうな表情を私に向けた。
「別にいいじゃない。キューも私も、無事だったんだから」
「ですが、また脅威が現れたら今度こそ」
「その時は、その時に考えよう。ね?」
「本当にルィは楽観的ですね。私がいないと早死しますよ」
キューが呆れたように答えると、ミュータントの肉片ではない硬い何かが私の頭に落ちてきた。
「何?」
私は天井を見上げる。パラパラと小さな石片が落ちてきて顔に当たった。
「これは……今の衝撃で地下道が崩れるようです」
悠長に言っている場合じゃない。早く逃げないと。
「逃げるよ、キュー!」
私は駆け出そうとしたが、キューがふらついて壁にもたれた。
「私はいいので、先に行ってください。私が来た方向に出口があります。外に出たらどこかに隠れてください」
「キューを置いてなんていけない。死んじゃうよ⁉」
「これくらいでは、私は死にません。体組織が破壊されても時間が経てば再生します」
「そういう問題じゃないでしょ! 再生されたとしても、痛いに決まってるじゃない」
キューは答えなかったが、私はその表情から痛覚の有無を感じ取った。
「再生するまでこんな真っ暗でジメジメして肉片だらけの場所に一人なんだよ? 寂しいに決まってるじゃない」
「孤独には慣れています」
あーもう! とイライラした私は、キューの腕を肩に乗せて立ち上がった。
……ように思えたが全く立ち上がることができない。
「おも……なんでこんなに重いの⁉」
「普通の人間とは構造が違うので。私の体重は百二十キロを超えています」
「もうー!」
百二十キロでもなんでも持ち上げてやる! と言わんばかりに足を踏ん張り。それでもキューの体はピクリとも動かない。
「ルィ、置いていってください。あなたまで死んでしまいますよ」
私はキューを無視してなおも力を込める。
するとキューからため息が聞こえた。
「ルィ。数時間だけ、よろしくお願いします」
キューがそう言うと、彼女の目の虹彩部分が淡く青色に発光した。そうするとキューは立ち上がり、ふらつきながらも私とともに前進を始めた。
「なによ、動けるじゃない」
不満をにじませて私は言った。
「予備エネルギーです。一分だけ動けますが、その後数時間眠り続けます」
なるほど。なんて口にする余裕も無く、私達は今ある全力で出口へ向かって駆けた。
背後で次々に天井が崩落する音と振動がするが、振り返る余裕も当然無い。薄暗い道、真っ暗な道、なぜか燃え盛っている場所を通り過ぎ、何体かミュータントともすれ違ったように思えたが無視して全力で駆けた。
心臓が爆発しそうなくらい跳ねている。両足が燃えそうなほど熱くなっている。さっきミュータントに襲われた時よりも、私の体は悲鳴を上げていた。
「あれです」
キューが目で合図した先には、幅三メートル高さ二メートルほどの出口が見えた。薄暗い世界に長く居たためか、私にはその出口から降り注ぐ光が天国のように思えた。
私達は、出口に突っ込むように駆け込んだ。同時に背後では地下鉄跡が崩落しきったようで、土煙ととんでもない風圧が背中に襲いかかりまさに吹き飛ばされた。




