陰謀少女《過去と企み》
前回までのあらすじ
ラヴな話だった。
「いってらっしゃーい!」
扉の前に立って、少女はにこやかに手を振っている。
仕事に出かける夫を笑顔で見送る若妻、そんな妄想も出来なくはないシチュエーションであるが、彼女を見つめるルドルフの瞳は、まるで妻の浮気を疑う夫のように、疑惑と猜疑心に満ちていた。
「シーナよ、今日もやはり留守番か?」
「うん、えーと、ほら……あれだ、女の子の日ってやつ。残念だけど仕方ない」
「女の……む、それは確かに仕方がないな」
女の子の日、と言われてしまえば、オスであるルドルフに追及など出来ようはずもない。
「このツラさ、ボーイには分かんないんだよね」
そんなことをのたまう少女を半目でジトリと睨みつつ、やむを得んとばかりに、ルドルフは一人「ライラプス号」に乗り込む。
シーナは何か企んでいる。それは間違いないのだ。
人間の村に行くことを提案した日からもう三日、ルドルフはずっと一人で狩りに出掛けていた。今日は「女の子の日」、昨日は「お尻が痛い」、その前は確か「ウンチが出そうで出ない」だったか。
ここ数日、少女は何かと理由をつけては、狩りへの同行を拒みつづけていた。
やはり怪しい。
少女の動向は、あまりにも不穏であった。
魔物を狩り、そして食らう。それを無上の喜びとする彼女が、「狩りなんて野蛮なこと、私には出来ませんわ」みたいな顔をして、自ら留守番を申し出るのだ。それも一日だけではない、三日連続でだ。
殺人鬼や暴君が、女神の教えを受けて改心する。そんなおとぎ話なら、ルドルフとて聞いたことはある。しかし、鳴き声がキモイという理由だけで、「鬼豚」の群れを殲滅するような彼女が、いきなり不殺生に目覚めるというのは、やはりおかしな話だ。
どうにか真意を探ろうと、少女の顔を見つめてみるが、可愛いということ以外、ルドルフにはまったく何も分からない。
「ルド、どうした? そんなに見て……」
「……いや、何でもない。それよりシーナ、村へは二日後、明後日に出立する予定だが、それで構わないか?」
「あいよ! 拙者、楽しみにしとりますけん!」
最近覚えた「フェツルム語」の珍しい言い回しを用いて、少女は元気に返事をする。
その様子を見るに、彼女は純粋に「エルスト村」行きを楽しみにしているようだった。「今回の村行きは、観光みたいなもの」、そう告げたルドルフの言葉を正しく理解してくれたのだろう。
分からないことをいくら考えても仕方がない。それに、「女の子の日」という話もあながち嘘とは言えないではないか。
ルドルフはそう結論づけ、始動機に魔力を流してライラプス号を起動させる。方陣が薄緑色の光を放ち、船体がゆっくり浮上する。
「じゃあ、いってくるよ。栄養のあるものを獲ってくるから、君はゆっくり休んでいるといい」
労わりの言葉をかけると、少女は笑顔で応えてくれた。
このまま抱き上げて、連れて行きたくなるな。
愛らしい微笑みに、ルドルフの心はどうしようもなく揺さぶられてしまう。背を向けるまでのわずかな逡巡は、離れたくないという気持ちの表れだろう。
「一人で生きて、一人で死ぬ。そう誓ったはずなのにな」
走り出したライラプス号のなか、ルドルフはどうにも女々しい自分を笑う。後ろを振り返れば、随分小さくなった少女の姿が、荒野の陽炎に霞んで見えた。
私はこの先も、シーナとともに在りたい。
心の底から湧きあがるその思いを、ルドルフは否定しようとはしなかった。そして少女には、広い世界で自由に生きてほしいと願った。
ならば、共に流血の地平を出る以外道はない。今回の「エルスト村」行きはあくまで観光、されど、そう遠くないうちに自分達はここを離れる。
「心がある限り、世捨て人になどなれはしない……か」
不意に口から漏れたのは、彼を故郷から連れ出し、流血の地平へと導いた恩師の言葉。
まるで、この日が来ることを予見していたかのような師の箴言に、見透かされてるようで腹が立つな、とルドルフは苦笑いを浮かべる。
もう十年たつのか。外は……故郷は、随分変わったろうな。
ルドルフの眼前には十年前、初めて足を踏み入れた時と変わりない赤い大地が広がっている。
王宮にいた子猫が荒野で暮らすようになっても、祖国「クティノス」がアルウム領猫人自治区「キャトランド」と名を変えても、この場所は何も変わりはしなかった。
復讐と王家復興に燃えた最初の四年も、すべてを諦め、抜け殻のように暮らした残りの六年も、流血の地平はずっと変わらずこうだった。
「変わらんな、ここは……」
鋭い犬歯を覗かせて、ルドルフは笑う。赤い砂塵の向こうからは、刺すような殺気と二つの咆哮。
魔獣か魔人か、あるいは鬼か。己を喰らいに来た何者かの気配に、ルドルフの尻尾がブワリと膨んだ。
二匹――いや「双首」か。
聞こえた咆哮は確かに二つ、しかし殺気は一つのみ。
「食えるヤツならいいんだが……」
ライラプス号から飛び降り、ルドルフは砂塵が晴れるのを静かに待った。高まる魔力に反応してか、腰に下げた形見の黒鞘が小刻みに震えだす。
「双首豹……!」
姿を現したのは、軍用馬並みの巨体を誇る双頭の豹。
黄褐色の毛衣に黒い斑紋、鋭い四つの眼光が、ルドルフを値踏みするようねめつけてくる。
グルルルル……
二つの口から漏れる唸り声が、重低音の二重奏を奏でる。姿勢を低くし、一歩づつ近づく魔豹の動きは慎重で、自分より遥かに小さいルドルフに対しても、警戒を怠るつもりはないようだ。
こんな大物に会えるとは。
想定外の幸運にルドルフは歓喜した。双首豹の肉は煮ても焼いてもとにかく美味い。そしてあの可愛い食いしん坊は、これを食べたことがないはずだ。
「いい土産になる」
少女の喜ぶ顔を思い浮かべ、ルドルフの相好が崩れた。しかしその「捕らぬ魔豹の皮算用」的思考は、油断あるいは慢心と呼ばれるものだ。
流血の地平での狩りは、獲ったか、逃げられたか、などという生温いものではない。食うか食われるか、殺すか殺されるか、狩り損ねれば、今度はこちらが狩られるのだ。
そして、流血の地平の苛酷な生存競争を生き抜いてきた強者――双首豹は、その油断を見逃しはしなかった。
ジャリ……
地面に鋭い鉤爪がめり込む。
一瞬の隙をついて、静から動へと、滑らかに静かに魔豹は動いた。身をかがめた低い姿勢のまま、一瞬だけ動きをとめて、その直後、全身のバネを利かせて跳躍する。
「獲物を前にして算盤をはじくな。損だ得だという話は、獲物を殺してからにしろ」
師、フリードが、口を酸っぱくして言いつづけた狩場の……いや、流血の地平の鉄則。この瞬間ルドルフは、彼の言葉を教訓のように噛みしめていた。
「っ……!」
上からの強襲を迎撃しようと、焦って踏み込んだルドルフの左足が地面の窪みに落ち込んだ。剣を抜けず、体を硬直させた彼の頭上に、二つの牙と刃物のような鉤爪が迫る。
「あ……」
ルドルフの口から、言葉にならない呟きが漏れた。包み込むように覆いかぶさる双首豹の巨体を躱すには、すでに間合いが近すぎる。
「終わりだ」
すべてを諦めたように猫人の戦士は立ち尽くした。その瞳は、ぼんやりと虚空を見つめたままだ。無防備な彼に、魔豹の爪牙が容赦なく振り下ろされる。そして体は引き裂かれ……
跡形もなく、霧散した。
グァッ……?
捉らえたはずの獲物が消え、双首豹は困惑する。
「終わりだと言っただろう」
双首の死角から告げるのは、慢心などではない、完全なる勝利宣言。
「幻覚魔法――猫ダマシ。己が向き合っていたのは幻影だ。このルドルフ、獲物を前に隙など見せん」
振り返った魔豹の四つの瞳には、少女が「ヒテンミツルギリュウみたい」と言った、ルドルフ必殺の構えが映っているはずだ。
「鳴け……三毛猫」
左手で鞘を持ち、右手を剣の柄にかけて、ルドルフは呟く。
その声と魔力に反応して、黒鞘が「ミー」と子猫のような鳴き声をあげた。
あの日、焼け落ちた王宮からルドルフが唯一持ち出すことが出来た、レクス王家の至宝――「三毛猫」。収めた剣に異なる三つの属性を付与するこの鞘は、女神の愛猫レクスの血脈、王家の魔術血統のみに反応する。
「一の秘剣――鯖虎!」
抜刀とともに巻き起こった風の刃が、双首豹の首を二つ同時に跳ね飛ばす。
「大地から前足も離れぬ四つ足風情が……猫人に挑むなど千年早いわ」
ルドルフが黒鞘に剣を収めると同時に、二つの首が地面に落ち、豹柄の巨体はズシリと沈んだ。
「フフ、肉もいいが、この毛皮も悪くないな」
家で使うか、村で売るか、獲物の死体を前にして、ルドルフは頭の中の算盤をニヤケ顔ではじいていた。
彼の脳裏に浮かぶのは、獲物を喜ぶ少女の笑顔と久しぶりの外の世界。
「今日は早く帰れるし、シーナにちょっと手の込んだ豹料理でも食わしてやろう」
浮かれる猫人の狩人は、出掛けに感じた少女の不審さなど完全に忘れてしまっていた。
そして二日後、少女と猫は人間の村へと出発する。
猫は過去を、少女は悪巧みを、互いに知らせず、胸に秘めたままで。
次回予告。
光と闇の狭間に暮らす者達がいる。
政争に敗れ追いやられた弱者、一攫千金を求める狩人、そして、魔に挑む開拓者達。
ここは流血の地平との境界線、魔の領域に対する脆弱なる防衛線、開拓者の集う地、エルストビレッジ。
人の命がパンよりも安い辺境に、修羅の少女がボンジュール。
次回「貴族少女」
つくられた舞台の上、愚か者達は翻弄される。