挨拶少女《君の名は》
前回までのあらすじ
友達ができたよ。
ベッドに横たわった少女は、ぼんやりと部屋の様子を眺めている。
赤土で覆われた丸太小屋は、中にいる限りは普通のログハウスと変わりなく見える。10畳くらいの板敷きの床には、少女が寝ているベッドの他に、小さなダイニングテーブルと椅子が二脚、人間であれば三人くらいは座れるであろう革張りの黒いソファが置いてある。
「あれは……」
部屋の隅の木製のハンガーラックに、見覚えのあるものが干されていた。
青いジャージにネイビーチェックのプリーツスカート。そしてお漏らしパンツ。
血と屈辱にまみれた服は、寝ている間に脱がされていた。少女は今、ワンピースにしては幅広な、白いポンチョのような服を着せられている。
「随分と世話をかけてしまったようだ」
ウンコ付きのパンツを洗わせるなど、迷惑どころの話ではない。少女は申し訳なさそうな顔つきで、椅子を抱えて近付いてくるこの家の主を見た。
うーん、猫!
それは、どう見ても「猫」であった。
少女から少し離れたところに椅子を置き、ゆっくりと腰掛けたモフモフは、やはり間違いなく猫であった。人間に猫耳が生えた、というものではない。服を着て二足歩行する「猫」そのものである。無論、二足歩行が出来るのだから、少女の知る猫とは骨格も手足の造りも違うのだろうが。
まさか、アレの同族か。
少女の頭に浮かぶのは、世界崩壊級のアイテムをいくつも所持するネコ型マシーン。無能な眼鏡ボーイを甘やかす、皆がよく知るあのロボ猫である。
いや、クソえもんとは違う。
ぬいぐるみのようにフカフカな見た目、しかし佇まいに隙は無く、穏やかな雰囲気のなかには隠しきれない鋭さがあった。同じ猫型であっても、クソえもん(ネコ型マシーン)やファッキンキティ(サ〇リオ)とは違う。彼は、どら焼きやママが作ったアップルパイを好むような軟弱者とは一線を画す、戦うニャンコ――猫戦士だ。
壁に掛けられた大振りの片刃剣と使い込まれた弓、それらを見ずとも少女は確信できた。この猫は強者であると。
トムとジェリーの青色や10円ガム(フェリッ〇スくん)では相手になるまい。成長し、野生に目覚めた「しまじろう」ならあるいは……
少女の脳内では、二足歩行系ネコ科動物による最強決定戦が繰り広げられていた。道具の使用は禁止なので、クソえもんとファッキンキティは初戦敗退である。
「クク、いい気味だ」と、脳内で世界的なキャラクターを侮辱しつつ、少女は彼の分析を続けていく。
「服もイカしている……」
そのセンスに思わず感嘆の声が漏れた。
美しい毛並みは白とグレーのバイカラー、フード付きの黒いマントを羽織り、首には赤いスカーフを巻いている。履き古した革のブーツはずんぐりとしていて、そのアウトロー染みた格好が、上品な毛色とサファイアブルーの瞳を見事に際立たせていた。
オシャレ上級者か。
強さと優しさを兼ね備えた、愛くるしい見た目のオシャレ上級者。少女は尊敬に満ちた眼差しで彼を見る。椅子に座った彼は、熱い視線に少し戸惑う様子を見せたが、すぐに落ち着きを取り戻し、少女の目を見てニコリと微笑んだ。
少女は「猫の笑顔は初めて見たな」などと思いながら、彼に向かって「テヘヘ」と照れ笑いを返した。
ベッドから降りた少女は、床に正座をして利き手とは逆の左手側に包丁を置いた。背筋はすっと伸び、凛とした瞳は彼を真っすぐ見据えている。
「神崎流包丁術、神崎シーナ……年は十五だ。猫殿の名前を教えてもらいたい」
言葉が通じないのは承知のうえだが、命の恩人である彼には誠意を持って応じたい。少女はそう思い、自分なりの礼を尽くして名前を名乗った。
彼もまた、それが儀礼の一種であることに気づいたのだろう。椅子から降りて胡坐をかくと、右の拳を床について、見た目に似合わぬ低い声で名乗りの言葉らしきものを呟いた。
フ…リィ……ジ…ザ? フリーザ!
彼の発した言葉から、少女は彼の名前を推測する。
「フリーザか、変身しそうな名前だね。偶然だろうけど親近感を覚えるニャ」
彼に促されベッドに腰掛けた少女は、聞き覚えのある名前と彼の気配りに表情を緩める。語尾につけた「ニャ」は、彼との距離を縮めるための少女なりの気遣いだった。
「フリーザ様、君には本当に感謝しているニャ」
少女は宇宙の帝王ならぬ命の恩人に、深々と頭を下げる。
「包丁使い」として生きる。そう決めた時から死は覚悟の上だった。それでも、受け入れられない死に方というものはある。
「お漏ら死」など冗談ではない。
荒野での失態を思い返し、少女は奥歯を噛んだ。視線の先では、洗いたてのお漏らしパンツが惨めにユラユラ揺れている。
「……私はやはり、ウンチを漏らしたのだな」
彼のお陰で運良く「糞死」は免れた。しかし、いくら洗っても落とせないものはある。少女の表情が暗く沈み、瞳に影が落ちる。ウンチを漏らした、その消せない事実が心を深く苛んでいた。
「私は一生、この十字架を背負っていかなければならないのか」
その身に刻まれた「クソ漏らし野郎」の烙印を嘆き、少女は絶望の声を漏らす。
そんな彼女を心配してか、フリーザ様が優しく声を掛けてきた。内容を理解することは叶わないが、見た目に合わないイカした低音ボイスに、「フリーザっぽくないな」と少女は笑った。
「心配無用だよフリーザ様、私は確かにウンチを漏らした。でも、それを隠すつもりはないし、きちんと向き合っていこうと思っている。そうすれば、漏らしたウンチの分だけ強くなれると思うんニャ」
少女は神妙な顔つきで、実にしょうもない決意を語った。フリーザ様は少し困ったような顔をして、何かを一言呟くと、サファイアブルーの瞳を細めて、首を大きく横に振った。
お漏らしなど気にするな、そう言っているのかな。
本当に心の優しい猫だ、と少女は思う。フカフカの体毛を持つ彼からすれば、頭くらいにしか毛のない自分は、きっと醜い「ハダカデバネズミ」のようなものだろう。血まみれで刃物を持った便臭漂う異形の怪物。そんな化け物を手当てしたうえ、家まで連れ帰るなんて、まるで聖人……いや、聖猫ではないか。
彼の慈愛に満ちた精神に感動し、少女の瞳に涙が滲む。
「フリーザ様、この恩は絶対に忘れニャいよ」
彼の手を握って、少女は再び感謝の言葉を告げた。フリーザ様は変わらず困った顔をして笑っている。
「言葉が分かればいいんだけど」
この気持ちは彼にどれだけ伝わっているのだろうか。それが分からない自分を少女はとても歯痒く感じた。
一刻も早く「猫語」をマスターする必要があるな。
少女はサファイアブルーの瞳を見つめて、強く思った。
病み上がりの身体を押して、彼と向き合う少女の姿はとても凛々しく美しかった。
「シーナ」という名も、彼の耳には心地よく響いた。
可憐なだけではない、誇り高い娘なのだ。
彼女の立ち居振る舞いから彼はそう感じていた。
王国の公用語である「フェツルム語」をまったく理解できないというのは不可解だったが、彼女が王国さえ知らない遠い異国から来たのだとしたら、それは彼にとって喜ばしいことでもあった。
彼女になら、本当の名を教えてもいいのではないか。彼はそう思い、故郷と共に捨てた名を少女に名乗った。
「私の名はルドルフ……ルドルフ・ザリア・クティノス・ジ・レクスだ」
その名のすべてが、彼があの日失ったものをあらわしている。
「今は、ただのルドルフだがな……」
呟く声に深い悲しみが滲んだ。
その名乗りを聞いた少女は、しばらく何かを考え込んでいる様子だった。そして、すべてを知る女神のような顔をして言い放った。
フリーザと。
「私はフリーザではないよ」
「フリーザ………ニャ」
「フリーザという言葉すら言ってない。それに、その語尾は一体……」
「フリーザ………ニャ」
何度訴えても、彼の言葉は少女に届かなかった。
一刻も早く彼女の言葉を理解しなければならない。
彼は、黒瑪瑙の瞳を見つめて強く思った。
次回予告。
赤い大地に蠢くものがいる。
彼が欲するは血、彼が欲するは肉。
その獣は、かつてこの地に君臨した暴虐の王の信奉者。
吹き荒れる赤い旋風が、少女に襲いかかる。
次回「至高少女」
モンキーあえて火中の栗を拾うか。