妖精少女《マイフレンド》
前回までのあらすじ
うんちを漏らして失神したよ。
妖精というものを見たことはないが、それはきっと、このような見た目をしているのではないか。
目の前で眠っている少女を見て、彼はそう思った。
艶やかな黒の毛並みは「常闇蝶」の羽、白くなめらかな肌は「涙百合」の花弁、閉じた瞳の奥にあるのは黒瑪瑙か、あるいは瑠璃か。
随分と長い間を岩と土塊の中で暮らしてきた彼にとって、少女の持つ瑞々しさは神聖で特別なものに思えた。だから彼は、少女のことを「妖精の国」からきた妖精ではないかと思ったのだ。
この可憐で儚げな娘は、なにゆえ斯様な場所に一人でいるのか。
傷を負い、汚れた服に身を包んだ少女の顔には涙の跡が見える。
「どうせ、ろくな話ではあるまい」
口減らし、孤児、追放、少女が荒野を彷徨う理由は、彼にもいくつか想像出来た。
「妖精の国にも地獄はあるのか」
憐れな少女の身の上を思い、彼は残酷な世界を憎んだ。
彼は誰時の薄暗い空には、「黄泉雀」の群れが集まっていた。彼は、少女を狙う魔鳥を雄叫び一つで追い払い、地面に腰を下ろして鞄の口を開く。大きなブラックカーフの肩掛け鞄の中には、水や食料だけでなく薬や医療道具も入っている。群れから離れ一人で暮らしている彼にとって、この鞄は命を守るための備え、相棒のようなものだ。
「血と水分を失い過ぎているな」
水袋の管を少女の口に差し込み、鋭い爪があたらぬようにと気を付けながら、彼は彼女の顔から涙の跡を拭った。
この花を散らせる訳には――
呟く心の声には彼自身戸惑うほどの熱がこもっていた。彼は静かに息を吸い込み、一度だけ深呼吸をすると、顔を隠していた仮面を外して傷の手当てを開始する。
「咬み傷か……」
洗浄、消毒、縫合、最も重傷である左手の咬傷を、彼は手早く処置していく。痛みの中、苦悶の表情を浮かべた少女は、うわ言のように誰かの名前を呼んでいた。
セガール、セガールと。
「家族……いや、恋人の名か。これほど美しい娘だ、雄も放ってはおくまい」
少し切なげな表情で彼は呟く。
応急処置を済ませた頃には、赤い荒野に朝日が昇りきっていた。彼はその明るさから身を隠すように「一つ目の巨人」を模した仮面をつけて、黒いマントにその身を包む。
やはり、来たか。
少女を運ぼうと、始動機に魔力を通して「浮き橇」を浮上させた瞬間、黒い影のような獣が岩陰から姿を現した。
「影狼……」
血の臭いに誘われてきたのか、漆黒の魔狼は少女を見つめ、低い唸り声を上げている。彼は少女を抱えて後ろに飛び退き、這うような動きで「浮き橇」の後ろへとその身を隠した。
「本能か、まったく忌々しい」
零した声に屈辱と怒りが滲む。緊張で喉が渇き、体は小刻みに震えている。
その身を支配するのは恐怖、「鬼種」さえ狩り殺す彼は、自分より弱い相手――影狼ごときに怯えていた。
まるで蛇に睨まれた蛙。
種族を縛る鎖は硬く、引きちぎるのは容易ではない。彼が魔狼に感じる恐怖、それは種に刻まれた呪いのようなものだ。
「だが、想定の内だ」
戦闘ばかりが手段ではない。彼は不敵な笑みを浮かべ、浮き橇の陰から静かに機を伺う。
「貴様にも同じ恐怖を刻んでやろう」
彼は鞄から小さな木笛――鬼笛を取り出し、それを口に咥える。そうして大きく息を吸い込み、ゆっくり十を数えたあと、肺の中の空気を一気に吐き出した。
「ブオボェェェェェー!」
鬼笛からオナラのような音が響き渡り、周囲の空気を震わせる。それと同時に、彼は浮き橇の陰から飛び出し、奇声をあげて踊り狂った。
「泣く子はおらぬか! 泣く子はおらぬか!」
大声で叫び、剣をブンブン振り回す。もちろんお手製の一つ目仮面をつけたままで。
突然現れた小さい奇形のキュクロプス、それが口から屁を吐き剣を持って近づいてくる。よほど怖ろしかったのだろう、影狼は身体を硬直させ、その場でジョバジョバ失禁した。
「泣く子はおらぬか! 悪い子はおらぬか!」
影狼は戦意を喪失している。しかし、小さな怪物の奇行は止まらない。
「悪い子は……貴様かぁぁ! ブオボェェェ……ゲホッ…ウエッ!」
なまはげ的狂気と「鬼笛」のコンボが魔狼を襲う。ついに影狼は子犬のような鳴き声をあげて、その場から一目散に逃げだした。
「上手くいったな」
彼は仮面を外し「ふう」と安堵の溜息をつく。
彼にとっての影狼がそうであるように、魔狼の天敵もこの「流血の地平」には存在する。
影狼を好んで食らう一つ目の巨人「キュクロプス」
怪力と巨体を誇る「鬼種」――流血の地平を住処とする狂暴な鬼人である。
奇策により魔狼を退けた彼は、浮き橇のなかで新たな強敵と対峙していた。
近い、近すぎる。ああ、また触れてしまった。
可憐な乙女の肉体的接触に、ピュアっ子である彼はタジタジだった。
「私が『浮き橇』から降りて歩くべきか。いや、外からの操作は困難だ。ただでさえ『反発』の制御は難しいのに……」
彼が浮き橇と呼ぶ魔道具は、地上を走るボートのようなものだ。平底の小舟を改造した船体には反発をはじめ、複数の魔術式が組み込まれている。
「とりあえず、この状況が長引くのはよろしくない。これは、何というか……不純だ」
少しでも早く戻ろうと、彼は両手の肉球に魔力を集めた。力の高まりに応じて風の方陣が輝きを増していく。
「結局、離さなかったな」
少しづつ速度をあげる浮き橇の中、彼は穏やかに眠る少女の右手を見た。
彼女の手には一本の刃物が握られている。
輝く銀色の刃に黒く滑らかな持ち手、その形状を見るに、戦闘用の武器ではなく生活用の道具として作られたものだろう。よほど大切なものなのか、彼女はそれを決して離そうとはしなかった。
不思議な娘だ。
その刃物は一目見るだけで相当な業物だと分かった。着ている服も間違いなく上質だ。それ以外の物は何も持たず、少女は流血の地平の中心近くで倒れていた。
貴族のような服を着て、ナイフ以外の装備を持たない“妖精のような”少女。それほど汚れていない薄い履き物は、荒野を歩いた時間の短さを示していた。
「飛んできた、というのなら理解出来るが……」
呟く声にわずかな落胆が交じる。
艶やかな黒の毛並みは常闇蝶の羽、白くなめらかな肌は涙百合の花弁……しかし、少女の背中に羽根はない。
つまり、彼女は妖精ではないのだ。
「人間か……」
朝日を背にした浮き橇の中、巻き上がる土煙に目を細めて、彼は小さな溜息をついた。
その瞳が開くことなく、このまま自分の姿を見なければいい。そんなことを彼は思った。
組み上げた丸太を赤土で覆った住居は、外から見ると割れた「血竜」の卵のように見える。
「彼女には似つかわしくない穴倉だ」
彼は苦笑し、自宅の扉を外から三度ノックする。扉の向こうからは、何の返事も返ってはこない。
まだ眠っているのだろうか。
「見られずにすむ」と感じた安堵は、心の弱さ故だろう。
もちろん彼は、自分の容姿を恥じているわけではない。ふわふわの毛並み、ピンと立った耳、長くしなやかな尻尾、親から受け継いだそのすべてが彼の誇りであった。
それでも……
己を見た少女の顔が、恐怖に歪むのは見たくない。
彼はそう思うのだ。
人間――自らを女神の第一眷属と呼ぶ傲慢な種族。彼自身、「人」に対して良い印象は持っていない。そして、人間が自分達に抱く感情も理解している。
怖れ、蔑み、拒絶、そんなものは、今さら気にすることでもない。そう思っていたはずだった。
泣き叫ぶくらいは覚悟せねば。
自分の中にある感情に諦めで蓋をして、彼は静かに扉を開いた。
小さな高窓から降り注いだ光が少女を照らしている。
「ふわぁぁ……く」
木製の簡素なベッドの上、白いシーツに包まれた少女は、のんびりと欠伸をしていた。彼女は右手の刃物と包帯を巻かれた左手を交互に眺め、何かに気づいたようにいまだまどろむ瞳を彼へと向ける。
「黒瑪瑙……」
髪と揃いの黒い瞳、その輝きに彼は目を奪われた。
なんと美しいのだ。
言葉を失い呆然と立ち竦む彼を見て、少女の黒い瞳が大きく見開かれる。
「待ってくれ! 君に危害を加えるつもりはないのだ!」
黒瑪瑙の輝きが恐怖に濁るのを怖れ、彼は懸命に叫んだ。この少女に怖れられることが、彼は何より恐ろしかった。
「私は、君の……」
彼は呟き、言葉に詰まる。
命を助けたのだから仲良くしてくれ、とでも言うつもりか。
自分の浅ましさに彼は顔を歪める。
こんな獣は、怖れられて当然だ。彼は目を伏せ、断罪の瞬間を待った。しかし、彼の耳には泣き叫ぶ声も侮辱の言葉も聞こえてはこない。
わずかな沈黙の後、彼は顔をあげ少女を見た。
彼女は彼のことをじっと見つめていた。闇よりも深い黒瞳がキラキラと輝いている。少女は少しの間考えるような素振りを見せて、納得したように「ウンウン」と頷いた。
「私は――」
言葉を発しようとする彼を手で制し、少女は首を横に振って何かを言う。その言葉を彼はまったく理解出来ない。
「言葉が通じないのか……」
彼の呟きに少女は静かに頷いた。
どうすればいいのか分からず戸惑う彼に、彼女は平気だというようにピッと親指を立てる。
「君は私が怖くないのか?」
言葉が通じないと分かっていても彼は尋ねずにはいられなかった。
彼女は「ん……」と小首を傾げたあと、微かに笑みを浮かべて、舞うようにベッドから飛び降りた。そしてそのまま彼に向かって真っすぐに歩いてくる。変わらぬ身長の二人は向かい合い、二つの視線が絡み合う。
彼は呼吸することさえ忘れて少女の瞳に見入っていた。彼女は彼を力一杯に抱きしめ、耳元で囁いた。
サンキューマイフレンドと。
木製の簡素なベッドの上、白いシーツに包まれた少女は再び眠りについた。石のように固まった彼はそんな少女を見つめている。
その日、誇り高き「猫人」の戦士は、初めての恋に落ちた。
「人間の雌は、もっと恥じらいを持つべきだ」
かろうじて口にした言葉は、精一杯の強がりだった。
次回予告。
救った者、救われた者、惚れた者、惚れられた者。彼らは互いを知りたいと願った。
世界の果てで出会った二人、結んだ絆は永遠か、それとも玉響か。
すれ違った想いは、やがて一つに交わる。
次回「挨拶少女」
彼の戦闘力は53万ではない。