包丁少女《プロローグ》
前回までのあらすじ
前回とかない、一話目だから!
荒涼たる大地に少女が一人立っていた。
青いジャージの上着にネイビーチェックのプリーツスカート、ジャージの胸元からは白いブラウスと緩んだネクタイが覗いている。
女子高生か中学生、十代なのは間違いない。
果てしなく広がる乾いた赤茶色の大地とそびえ立つ岩山群。彼の大国の観光地――モニュメントバレーを思わせる荒野にその少女は立っていた。
「台所が……壮大になってる」
つり目がちの黒い瞳に困惑の色を浮かべて少女は呟く。荒野を吹く風が艷やかな黒髪を乱していた。少女は砂埃と眩い日差しに目を細め、顎の辺りで切り揃えた髪を左手一つで整える。
「夢にしてはすごくリアルだ。足の裏とかけっこう痛いし」
黒いハイソックスを履いた足を持ち上げて、少女は小さくため息をついた。足の先ではプラプラと室内用の青いスリッパが揺れている。
「台所で、サバを捌いていたはずなのに……」
小首を傾げる少女の手元では、銀色の刃が光っていた。
赤くうねった大地は、荒れた海原のようにも見える。そこを彷徨う少女の姿は、さながら小舟に乗った漂流者のようだ。
「このスリッパでは長い距離は歩けない。最短距離で、ガンダーラ的楽園ユートピアにたどり着く必要がある」
異常な状況、しかし少女は足どりも軽く時折歌など口ずさんだりしながら、荒野をすたすた歩いていく。
「疲れタマキン、休憩しよ」
そうしてしばらく進んだところで、少女は小岩に腰掛けて、ちょっと下品な弱音を吐いた。
「あー喉渇いた」
どこか他人ごとのような軽い口調で少女が言う。
青いジャージにネイビーチェックのプリーツスカート、足の先には室内用のスリッパ。
立ち上がり再び歩き始めたその姿は、あまりに小さく弱々しかった。
故に、である。
「導き手」は思うのだ。
あの小さき命は、すぐに消えてしまうだろうと。
そして彼女は少女に詫びる。
巻き込んでしまったことを。
その日、導き手によって「扉」は開かれ、一人の少年と一人の少女がこの世界へと招かれた。
英雄となるべく選ばれた少年は、女神の祝福を受け大いなる力を授かった。偶然巻き込まれた少女は一人荒野に取り残されている。世界が求めたのは少年だけ、紛れ込んだ少女は異物でしかなかった。
「こんなことが起こるなんて……」
導き手は悲痛な声を漏らした。
彼女が世界を繋ぐ扉に施した厳重な認識魔法、「彼」以外通すはずのない結界をあの少女はすり抜けた。それは、少年と少女の魔力パターンが完全に一致したことを意味している。
「あり得ない。けれど、彼女は確かにここにいる」
遠く離れた岩山の頂きから、導き手はその少女を見た。視線の先では転んだ少女が「シット!」だの「マイガッ!」だのと叫んでいる。
「不運……いいえ、これは私のミスだわ」
彼女が開いた「扉」と呼ばれる空間の結合部は、地面にあいた大きな落とし穴のようなものだ。穴の表面は魔術膜によって覆われ、導き手である彼女以外に認識することは出来ない。
他者の目を欺く「偽装」と、指定した魔力パターン以外を拒絶する「識別」、二つの魔法効果を付与された魔術膜は、扉の影響下に存在するすべての魔力波形を瞬時に解析し、指定されたパターンの所持者――「彼」だけを膜の内側に通すはずだった。
「人間の魔力パターンが完全に一致する確率はおよそ千億分の一、同一の波形を持つ二人が同じ時間、あの狭い範囲に存在した」
それは一体どれほどの確率だろうか。導き手は奇跡のような偶然を呪い、他の判別基準を設けなかった己の迂闊さを悔やんだ。
「助けてあげたい。でも、あなたへの干渉は許されていないの」
言い訳めいた呟きは、少女の耳には届かない。
「言の葉の加護だけでも――」
言いかけた彼女の目に、少女に近づく痩せた魔狼の姿が映る。
「無意味ね……せめてその魂が迷わぬよう、女神に祈りを捧げましょう」
導き手は少女の死を確信し、敬愛する女神に彼女の魂の安息を願った。
「さようなら、か弱き者。本当にごめんなさい」
美しい蒼眼が涙で滲み、一筋の雫が地面にこぼれ落ちる。導き手は少女から視線を外すと、陽炎のように揺らめく薄い影となって、赤い大地から姿を消した。
そして今、導き手が去った荒野では、一匹の魔狼と少女が向かい合っている。
狼の目は紅く血走り、口元からは大量の涎が垂れている。対する少女の口元もなぜか涎でべちゃべちゃだった。
「おい、犬っころ、これが何だか分かるか」
少女は右手をすっと突きだし、それを逆手に構える。
青いジャージにネイビーチェックのプリーツスカート、右手に銀色の刃。
か弱き者――導き手は少女を憐れみそう呼んだ。
しかし「野良犬は食ったことないな」と笑う少女からは、か弱さなどは微塵も感じられない。
導き手は気づかなかった。
少女が隠した獰猛な本性に。
そして彼女は知らなかった。
その包丁の切れ味を。
「さあ、料理を始めようか」
舌舐めずりをして少女が呟く。
刃渡りは少し長めの24センチ、持ち手は黒い積層強化木、刃に「UX10」の文字。
「覚えておけよ犬っころ、これは包丁――食材をさばくものだ!」
少女の声に狼の咆哮が重なった。わずかな静寂のあと、不意に鳴った腹の音が戦闘開始の合図となった。
空腹の限界なのか、魔狼は牽制もせず突っ込んでくる。猛烈な速さで迫るそれを、少女はかわさず包丁一つで受け止めた。
「生きがいいな、新鮮なのは良いことだ」
腕を掠めた牙をものともせずに、少女は魔狼を地面へと押し倒す。少女と狼、二匹の獣は絡み合い、赤い大地を血に染めてゆく。
「食材が、包丁に勝てると思うなよ!」
雄叫びのような声に反応して、白刃が銀色の輝きを放った。一筋の閃光が煌めき、狼の喉から鮮血が迸る。
「これは包丁、お前は食材……この結果は必然だ」
少女は立ち上がり、黒い巨体が崩れ落ちる。スウェーデン製、高純度ピュアステンレス鋼の刃は血に濡れていた。
「ファッキンクライストによろしく言っといてくれ」
とどめの一撃を加えると、少女は包丁で虚空に小さく十字を切った。
強かった日差しも弱まり、荒野には夕暮れの気配が漂い始めていた。
息絶えた獣の前には、一人の少女が佇んでいる。
彼女の右手には光り輝く刃があった。
刃渡りは、少し長めの24センチ、持ち手は黒い積層強化木、刃には「UX10」の文字。
言わずと知れたミソノ刃物のハイエンドモデル――「ミソノUX10」である。
次回予告。
魔狼を打ち倒した少女を待っていたのは地獄だった。
渇き、飢え、孤独、目に見えぬ死神が命絶の鎌を振り下ろす。
魑魅魍魎、悪鬼羅刹、あらゆる異形をコンクリートミキサーにかけてぶちまけたここは、流血の地平、サンテーレ。
この過酷な世界で、果たして少女は生き残ることが出来るか。
次回「解体少女」
次も、少女と地獄に付き合ってもらう。