指輪
彼女と出会ってから10度目の夏がやってくる。
あっという間の10年。穏やかなで、幸せな時間を彼女からもらった。
自分はもらってばかりのような気がしている。これからの10年を、その先もずっと彼女といる為に、心に決めたことがある。
その日、部屋の近くに来ると、いつものようにカレーのいい香りがしてきた。
毎日見慣れているはずの101号室のドアがやけに重そうに見える。
深呼吸をしてからドアノブに手をかけた。
「た、ただいま。」
『おかえりなさい。』
「きょ、今日は一段といい香りだね。もう香りだけで胸がいっぱいになってしまう感じだよ。」
『ふふ、おおげさね。』
彼女の幸せそうな笑顔に見とれてしまう。
いかんいかん、今日は二人の特別な日にしなくてはならない。
ボーっとしている場合ではない。
「シャ、シャワーを浴びてくるよ。」
仕事のカバンを持ったまま洗面所に入る。
彼女にカバンの中の箱を見られるわけにはいかない。
彼女と暮らし始めたのは、忘れもしない10年前の今日だ。
今のままでも十分に幸せだ。彼女にも同じように幸せを感じてほしい。いつも、いつまでもそばに居れるれるように、何か一つ贈り物をしたかった。
今日、夕食でカレーを食べた後。彼女にプロポーズをするつもりだ。
彼女が望まなければ、籍などは入れなくてもいい。
おそろいで買ったこの指輪を彼女にしてほしい。
これからもずっと同じ時間を過ごし、死が二人を分かつとも、彼女と一緒にいたかけがえのない時間の証明として、永遠に残るであろうこの指輪をプレゼントしたかった。
「ごちそうさま。」
おいしいかったのは間違いないが、緊張のあまり味がよくわからなかった。
私と出会う前の彼女の過去を私は知らない。
ひょっとしたら、プロポーズすることで、彼女が思い出したくない記憶を思い出させてしまうかもしれない。
でも、もしそうなってしまったら、また10年。いや100年かかっても、彼女が今のように微笑むことができるようになるまで一緒にいればいい。
『どうしたの?怖い顔をして?』
「君に話があるんだ・・・。
10年前の今日。君と私はここで一緒に暮らすようになった・・・。」
彼女は今どんな表情をしているだろうか?
まともに顔を見ることができない。
「これからもずっと君と一緒に居たい。
ずっと、ずっと。たとえ死が二人を分かつときが来ても永遠に!」
深く息を吸い込み、ありったけの想いを込めて口を開いた。
「この指輪を受け取ってほしい・・・。」
沈黙の時間が流れる。
彼女の顔をそっと覗きこんでみた。
そこには、嬉しそうにも、悲しそうにも見える彼女の微笑みがあった。
『ごめんなさい・・・』
その週末は、彼女はそれ以上一言も口を開かなかった。
外は今年の梅雨の、最後の雨が降り続いていた。
「おはようございます!」
次の月曜は、いつものように仕事に出た。
「お、いつもより元気がいいね!何かいいことあったの?」
「いつもと変わらないですよ。」
「そうかな~?ま、張り切り過ぎて転んだりしないようにね!」
指輪は受け取ってもらえなかったが、これからも今までと同じように一緒に暮らしていけばそれでいい。
私の彼女への愛は、たとえ受け止めてもらえなくても何も変わらない。
彼女を傷つけてしまったかもしれないことが、唯一心に引っかかっていた。
いつものように仕事を終え家に帰ると、いつもの笑顔で彼女は私を待っていてくれた。
「ただいま。」
『おかえりなさい。』
彼女がいなくなっていたらという不安が無かったと言えばうそになるが、そんな不安は彼女の幸せそうな微笑みですべて吹き飛んでしまった。
「今日は、仕事で行った会社の近くの公園にキレイな花が咲いててね…」
いつものように、他愛のない話をする。それを楽しそうに微笑みながら聞いてくれる彼女。
これだけで十分だ。このまま彼女の微笑みに見守られて死んだとしても、何の悔いもない。
その週末。私は彼女の作ったカレーライスを食べることは出来なかった。
この10年。無断で休むことなど無かった私が、何の連絡もせず会社を休んだ。
心配した上司が私に電話をかけてくれたが、誰も電話に出なかった。
嫌な予感がした上司は、その日のうちに私の住んでいるハイツにまで来てくれた。101号室の前まで来ると部屋の中からカレーの匂いがしてきた。気配はないが、中にいる可能性が高い。
しかし、チャイムを鳴らしても、ドアをたたいても返事が無い。
上司は大家に事情を話し、部屋のカギを開けてもらった。
ドアが開くと、出来たばかりのカレーが台所にあり、奥の部屋に入ると、布団に一人きりで眠ったままの姿の私が発見された。
私は幸せそうな微笑みを浮かべ、眠るように死んでいた。
その日は暑い日だったが、発見が早かったことと、部屋のエアコンが最低の温度設定になっていて寒いくらいだった為、遺体は全く傷んでいなかった。
一人暮らしの男の部屋にしては非常にキレイに整理されていたが、遺体のあった奥の部屋の中央には、この部屋には不釣り合いな大きな美しい女性の油絵が立てかけられていた。
その絵の女性は、とても悲しげな微笑みを浮かべていた。
上司も警察の担当者も、その絵からは、心を締め付けられるような悲しみが伝わってきたと言っていた。
争った跡も、遺書らしきものもなく、一応司法解剖はされたが、急性心不全という事で処理された。
台所にあったカレーを誰が作ったのか?という点ではやや疑問が残ったが、誰も出入りした形跡はなく、多少不自然ではあるが、カレーを煮込んでいる途中で一休みしたまま逝ってしまったのだろうという結論に達した。
部屋からは、“もし、自分に何かあったら、彼女を街角にあるアンティークショップに送り届けてほしい”という書き置きが発見された。
彼女とは、あのとても悲しげな微笑みを浮かべている女性のことだと誰もが理解した。
“カランカラン”
古いアンティーク調のドアが開く。
街角のあの店に、彼女が戻ってきた。
「突然申し訳ありません。友人の遺言というか、書き置きがありまして・・・。
ご迷惑でなければこの絵を引き取っていただけないかと思いまして。」
私を発見してくれた上司が、この絵の悲しげな表情が忘れられず、様々な手続きをして、書き置きにあったこの店を探し、彼女を届けてくれたのだった。
店の主人は、一通り上司の話を聞いた後、私の書き置きに目を通し、遠い目をした。
「・・・ああ、そうでしたか。あの方が亡くなられたのですか・・・。
彼女は、10年程前にあの方に引き取られていったんですよ。
きっと大切にしてくれるだろうとうれしく感じたのを今でも覚えております。」
店の主人は、送り出した自分の娘のことを想いだすように話を続けた。
「彼女は私のところで責任を持ってお預かりさせていただきます。
大変だったでしょう。彼女を届けてくれて本当にありがとうございます。」
「ありがとうございます。身寄りのないあいつもこれで安心して成仏できるでしょう。
・・・あの…最後に、もう一度この絵を・・・彼女を拝見してもよろしいでしょうか?」
あの悲しい表情がひょっとしたら、少しでもやわらいでいるのではないか?と思った。
そんなことはあるはずもないことだが・・・。
「もちろんです。」
主人は店の奥から絵を置ける台を持ってきて、絵が包まれていた梱包を解き、彼女の絵を立てかけた。
彼女を包んでいた最後の布をそっとはずすと、あの時と変わらない彼女の悲しい微笑みが現れた。
「やっぱり、とても悲しそうですね・・・。
ひょっとしたら、ここに戻ってきて、彼女の悲しみが少しは和らいだかと思ったんですが・・・・いや、そんなことあるはずないですよね。ハハハ・・・。」
「・・・・・彼女の悲しみは深いが、その以上に、彼女はとても・・・とても幸せだったようです。」
「・・・なぜそう思うんですか?」
主人の目は、彼女が体の前で組んでいる左手の薬指を見つめていた。
そこには、101号室の遺体の薬指のはめられていたものと、同じ指輪が描かれていた。
ふと、あの時のカレーの香りを思い出した。
「・・・そうですね。」
きっと、”二人とも” 幸せだったに違いない。