幸せ
ドアを開けると部屋の中が少し暑く、軽い熱気が伝わってきた。
この季節は、エアコンをかけていても西日が強く、どうしても部屋の中が暑くなる。
「ただいま。今日は特に暑かったね。
ちゃんとエアコンを強くしていたかい?」
『お帰りなさい。部屋の中少し暑かったかしら?
ごめんなさい。カレーを作っていたから… 』
部屋の外にもカレーのいい匂いがしていた。
彼女の作るカレーライスは私の大好物で、毎週金曜に必ず作ってくれている。
少し多めに作り、翌日はどこにも出かけず、カレーの残りを食べながら一日家の中で、ゆっくりと二人の時間を過ごすのが習慣となっていた。
「私は大丈夫だよ。外の方がもっと暑かったから。
それより、君のことの方が心配だよ。いくら家の中でも、この暑さで熱中症になる人だっているんだからね。君は体が弱いんだから、ならなおさら心配だよ。」
『ありがとう。』
私に心配され、うれしそうに微笑む彼女を見るだけで、仕事の疲れなどどこかに飛んで行ってしまう。
「シャワーを浴びてくるよ。
汗を流してから、君の作った絶品カレーをゆっくり味わいたいからね。」
『先週も同じこと言ってたわね。』
彼女は、楽しげに微笑みを返してくれる。
毎週同じことを言っている気はするが、毎週カレーのおいしさに感動し、毎週生きている幸せを心の底から実感しているのは事実だ。
“生きている幸せ”彼女の手作りカレーを食べる。そんな小さなことと言われるかもしれないが、私にとって何物にも代えがたい時間だった。
彼女と知り合ったのは、このハイツに引っ越してきた年のことだった。
あれからもう10年になる。
それ以前の私は、子供はいなかったが、都会のマンションに夫婦二人で暮らす、普通のサラリーマンだった。
仕事も私生活も順調で、自分はそこそこエリートだと思っていた。
そんな時、世界的な不況の波が広がりつつあることを懸念して、働いていた会社が驚くような好条件で希望退職者を募った。
自分に自信があったことと、夫婦二人だけの身軽さもあって、もっと楽に働ける会社に転職することにした。
しかし、自分の希望する条件に合った会社はすべて断られ、仕方なく妥協した条件で探したが、それでも就職先が見つからない日々が1年近く続き、不況が現実のものとなり、無職の期間が長いとさらに就職が厳しくなるという悪循環に陥ってしまった。
「もう別々の道を行こう・・・。」
妻の仕事は順調で金銭面では問題なかったが、妻の足を引っ張るだけの自分が許せず、酒を飲み、心が荒れ、ケンカが絶えなくなり、10年間の夫婦生活が終焉を迎えた。
全てを無くすという事は、意外とあっけなくできるものだとわかった。
順風満帆だった生活から、僅か1年ちょっとで、気がつくと自分にはお金以外何もなかった。
新しい仕事を見つける気力も失せ、アルバイトで細々と暮らしていけるように、できるだけ安く住めるところを探し、この“裏野ハイツ”にたどり着いた。
安すぎる家賃には、それなりの噂がついて回っているようだが、自分にはどうでもいいことだった。
裏野ハイツに引っ越してから間もなく、私は彼女に出会った。
梅雨入りしたばかりのある日。家の中に居ても憂鬱になるだけの気がして、雨は降っていたが、あてもなくぶらぶらと新しく住むことになったこの街を徘徊していた。
とある街角で、窓ガラスの中からどこか悲しげに外を見つめている彼女を見かけ、一瞬で恋に落ちた。
何もかも失って抜け殻のようになっている自分に“恋に落ちる”気力があったことにも、一目ぼれなどしたことが無いのに、一瞬で“恋に落ちた”と自覚したことにも驚いた。
それから毎日、彼女にもう一度会いたい一心で、仕事を探す行き帰りに必ず彼女を見た街角の店の前を通った。
ほどなく雨の日にはほとんどいつも彼女がそこにいて、店の中から静かに外を見ていることに気付いた。
ある雨の日。
“こんなおじさんが”という恥ずかしさと、ストーカーと思われるかもしれないという怖さはあったが、自分の気持ちを抑えきれず、店に入り彼女に声をかけようと心に決めた。
中に入り、その店がアンティークショップも兼ねている、落ち着いた感じのカフェだと初めて分かった。
“雨の日は、いつもそこにいらっしゃいますね。いつも何を見つめているのですか?”
彼女は一言も話さなかったが、意外なことに嫌がりもせず、ただ静かに、少し悲しげな微笑みを返してくれた。
私は雨が降ると、その店に行くようになり、彼女も必ず同じ場所に居てくれるようになった。
最初の頃は、話しかけると、いつも少し悲しげに微笑みを返してくるだけだった。
もしかしたら話せないのかとも思ったが、何度かそうやって話しかけているうちに小さな声で笑ったり、簡単な返事を返してくれるようになった。
時々見せてくれる嬉しそうな微笑み、それを思い出すだけでもずっと幸せな気持ちでいられた。
そんな雨の日を楽しみに待つ日々が1ヶ月も続いた頃、梅雨も終わりに近づき、雨の回数も減り、彼女に会える日が少なくなってきていた。
焦った私は、次の雨の日に思い切って彼女に告白した。
“ただ一緒にいてくれるだけでいい。私と一緒に暮らしていただけないでしょうか?”
彼女は、一瞬驚いたような顔をしたが、何も言わず。嬉しそうに微笑みを返してくれた。
いつも静かに二人を見守ってくれていた店の主人も、”彼女をよろしくお願いします。”と、私にそっと声をかけてくれた。
その翌日から、彼女とこの部屋で一緒に暮らすようになった。
彼女も過去を捨て、新しい日々を迎える覚悟を決めて来てくれたのだろう。身の回りのものは何も持たずにこの部屋に来てくれた。彼女に必要なものは、全て新しく買いそろえた。貯金はだいぶ使ってしまったが、彼女が来て間もなく新しい仕事も見つかった。
あれから10年。異常と思われるかもしれないが、いわゆる男女の関係というものは無い。
彼女は体が弱く、暑さ寒さには特に弱かった。色白の彼女は、太陽の紫外線も苦手だった。
だから、室内の窓際とはいえ、外の景色を見れるのは雨の日だけだったらしい。
彼女と暮らすようになり、仕事と買い物以外はほとんど家で過ごすようになった。
“彼女と同じ時間を過ごし、彼女の笑顔が見れる。”
ただそれだけで十分幸せだった。
一度だけ、たまには二人で出かけようと、入念に準備をし、重装備で旅行に行ってみたが、まわりから変な目で見られただけでなく、結局彼女も少し体調を崩してしまった。
それからは二人で出かけるのをあきらめた。
彼女は過去に何があったのかは何も語らなかったが、たとえ過去に何があったとしても私の彼女に対する気持ちは変わりようがなかった。
私のそんな想いが伝わり、彼女の心の傷が少しづつ癒え、彼女の微笑みから悲しみの影が消えるようになるまで5年かかった。
二人きりの時に少し会話をするようになるまでにさらに2年。
週末にカレーライスを作るのが習慣になったのはさらに2年後の、1年ほど前からだった。
風呂から出てきた私に、静かな微笑みを向けてくれる彼女・・・。
温かく、いい香りのするカレーライスの向こう側で優しく語りかけてくれる。
『さぁ、召し上がれ。』
愛すること。愛されること。
本当の意味を、本当の幸せを彼女が私に教えてくれた。