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異化

作者: モール

                     1


 6畳一間の狭い部屋で、私は黙々と作業を進める。もうすぐ仕上げだ。息を付き外を見ると、既に薄暗くなってきている。時間は午後5時前。一年のうちでも一番日の短い時期だ。手足が冷えていることに気付き、私は腰を上げストーブの方へ向かった。ふと思いなおし、部屋の隅に設置されたエアコンのスイッチを入れる。すぐには暖まらないが仕方ない。

 付けっぱなしのテレビには、スーツ姿の男達が映っていた。昔見たことがある、人気の刑事ドラマだった。テレビのスイッチを消そうとするが、画面に映ったあるものを見て私は手を止める。そして音量を2つ上げた。


 画面に映し出されたのは、爆弾解体シーンだ。犯人が逮捕され、後には設置された爆弾が残されている。どこか会社のオフィスだろうか。逮捕された犯人は狂ったように笑って、爆弾解体作業を見ている。解体しているのは刑事役のよく似合う、当時はとても人気のあった俳優だ。汗を流しながら爆弾と向き合っている様を見る限り、演技力はなかなかのものだった。

 やがて、二本のコードが出てきた。赤と、青。お決まりだ、と私は思う。どちらかを切れば爆弾に設置された時限装置は止まる。そんな安い設定が、しかし当時は刺激的だったものだ。

 よく「人生の分かれ道」という単語を聞く。この二本のコードも、人生になぞらえているのだろうか。こっちを選べば正解、こっちを選べば不正解――。

 主人公の刑事が、赤いコードを切った。残り時間は2秒。時限装置は止まった----ようだ。赤を選んだ理由を、主人公はラストに語る。なかなか進展しないヒロインの履いていた、足元の赤い靴を見てぴんときた、ということらしい。


 エンディングテーマが流れると同時に、私はテレビの電源を切る。私のやろうとしていることはこの安っぽいドラマと同じことなのだろうか? いや違う、と心の中で答える。当たりかハズレの選択肢なんて現実には無い。もっと複雑に絡み合い、何が正解かも、何が不正解かもわからないのだ。

 もしも私が爆弾魔なら・・・・・・私は思う。

 もしも本当に爆発させたいのならば、「正解のコード」など始めから作らない。赤を切っても、青を切っても起爆するように作るだろう。解体させるような猶予も与えないだろう。

 それが現実だ。正解不正解なんて何もない。例えばこれから私がやろうとしていることも、例えばそれを止めようとすることも、正しいか間違っているかなんて誰が決められる?

 正解なんて何もない。




                2(市倉壮介)


 朝8時30分。市倉壮介が勤める大学の研究棟の入り口に、学生がたむろしていた。市倉はそれを不機嫌な表情で眺める。学生達は掲示板に貼り出された試験の結果でも見ているように見えた。しかし、その奥に張ってある黄色のテープが、非日常的な雰囲気を振り撒く。

「・・・爆弾かも・・」と誰かが言っているのが聞こえた。市倉は人だかりの後方に立ち、背伸びして様子を見る。市倉の身長は188cm、他の学生達より頭ひとつ分高い。自分ではさして興味もないが、容姿も悪くないようだ。この大学の分析化学研究室の助手として勤めて3年、女学生から告白されたことも数回あった。

 背伸びをすると、人だかりの頭越しに状況が飲み込めた。不審物発見、というわけだ。警察官らしい男が2人、黄色いテープの内側で何やら作業をしている。

「ちょっと・・」

 人込みを掻き分け、市倉は取り巻きの先頭に出る。2人の警官が何を調べているのかが、はっきりしてきた。黒い正方形の箱、大きさは一辺が20cmほどだろう。何より目を引くのが、箱に付けられたタイマーのようなものだった。

 ――爆弾。誰が見ても、そう思うだろう。警官は箱を慎重に動かしたり、内部の音を聞いたり、タイマーを外そうと試みたりしている。やがて一人が携帯電話を取り出すと、何やら早口で捲くし立てた。「爆弾処理班」「まだか」という単語が耳に入る。

 警察官はこちらを向くと、直ちに大学から外へ出るよう指示を出した。学生からは、説明を求める声や、あからさまに迷惑そうな声を上げるものも居た。この時期、卒業論文の仕上げにかかる学生もおり、そのための実験に追われているのだろう。この朝早くに、研究棟へ来ているのが何よりの証拠だ。

 学生達がしぶしぶと校外へ移動を始める。市倉も少し思案し、後に続こうとする。どうせ事情を聞いたところで、警官は大した情報など与えてはくれないだろう。しかし歩き出してすぐ、2人の警官のうち、一人から声を掛けられた。

「あなたはここの教員ですか?」

 教員、という身分ではないので、そのことを伝える。

「いえ、自分は研究室の助手でして・・市倉といいます」

 警官は何かを思いついた顔になり、質問を続ける。

「研究はどのようなものを?」

 それがこの事態とどういう関係があるのか、市倉にも飲み込めた。要は、研究に用いる試薬、劇物などを使って、この爆弾らしき物体は作られたのではないか、と考えているわけだ。市倉は正直に話すことにした。こういう場合、誤魔化して得をすることなど何もない。

「分析化学教室です。タンパク質とアミノ酸について研究していますが・・・・・・。危険な薬物などは使用していませんよ」

「他の研究分野ではどうですか? 爆弾原料となるものなどは・・」

「どうですかね? 何が爆弾に変わるのか、その知識がないもので。でも試薬庫にあるナトリウムとか、ニトロ化製剤なら爆弾となるかな?」

「ナトリウム・・・」手帳に何やらメモをした後、警官は腕時計に目をやる。爆弾処理班とやらの到着を待っているのだろう。向こうでは、もう一人の警官がある学生に事情聴取をしているようだ。あの学生は確か、物理工学科の二神という名前だ。警察から話を聞かれているということは、彼が第一発見者だろうか?

 さきほどの黒い物体を見ると、付けられたタイマーの時間がはっきりと見えた。デジタル時計で、20分42秒、とあった。刻々とタイムは減ってきている。こういうとき、まずは爆弾処理が最優先なのだろう、その警官も市倉にそれ以上の質問はせず、「また後で話をお聞きすることになると思います。とりあえず大学の外へ」といい、また腕時計を見る。

 市倉が校門を出ようかという頃、一台のパトカーがかなりのスピードで構内へ入っていった。おそらくあれが爆弾処理班だろう。




                 3(二神慎治)


 二神慎治は、顔に苛立ちの色を浮かべながら警官の質問に答えていた。

「だから、俺が学校来たときは、既にこの場所に置いてあったんだよ。周りを見ても、他には誰もいなかった」

 その時の時刻は、と聞かれて、うんざりした表情を作る。

「それ、さっきも言ったじゃん。8時ちょっと過ぎ。この黒いやつに気付いて、なんだろう? って調べたんだけど、どうも爆弾みたいだからさ、どうしたらいいか考えてたんだよ。したら他の研究室の奴が来て、すぐおたくらに電話したってわけ。で、何? それだけのことで俺が疑われてんの?」

 二神の質問には答えず、警官は質問を続ける。

「どうしてすぐに通報しなかったんだ?」

「だから、警察呼んでるヒマはないかもな、とか考えてたんだよ。だってどのくらいで着くのかもわかんねーし」

「君がこれを発見したときには、まだ1時間近く残り時間があったはずだが」

 これが形式なのか、さっきから警官は同じようなことを何度か確認している。前もそうだった。しつこい警官から、同じことを何度も何度も聞かれた。警官なんてしつこい、ねちっこい奴のやる職業だ、そう思う。

「えっと君は物理工学科だったね・・・・・・。深い意味はないんだけど、爆弾の作り方とか、そういう知識を持ってる人はいるのかな?」

 二神は人を馬鹿にしたような笑みを作る。

「爆弾なんて簡単だよ。材料さえあれば誰だってできる。俺だってさ、作れって言われたら今日中に作れるよ」

 ここで警官の携帯が鳴った。一言二言電話に向かって話すと、警官は二神に大学の外へ出ているよう指示を出した。二神が校外へ出ようとすると、向こうで事情聴取を受けている人が目に入った。名前は忘れた。身長が高く、生徒から人気があるので顔は覚えている。ああそうだ、市原だったか、市倉だったか、そんな名前だ。

 他の生徒は全員、既に避難しているようだ。情けない、と二神は思う。こんな爆弾ごときで大騒ぎしやがって。二神は校門を出ると、すぐ右に進む。100mほど先に、研究棟への裏口がある。二神はそこを目指して急ぎ足で歩く。




                4(篠崎正志)


 パトカーのドアを乱暴に閉めると、すぐに黒い箱と周りの状況を確認する。刑事になって3年経つが、爆弾騒動は意外と多い。大抵は愉快犯、つまり周囲の人間を騒がせ、楽しんでいる性質の悪い悪戯がほとんどだった。実際に爆弾が起爆し、周囲の人間を巻き込む事件となることは稀だ。

 爆弾のタイマーは残り17分10秒を示していた。

 時間がない・・・・・・篠崎正志は少し焦る。間に合うだろうか?

 パトカーにはもう一人、爆弾処理の斉藤という男が乗っている。もう50歳を過ぎる初老だ。

「斉藤さん、時間がない。早くしてくれ!」

 パトカーの中に向かって声を掛けるが、ゆっくりと、というよりのろのろと、という表現が似合いそうなほど、斉藤の動きは鈍かった。篠崎の口調も自然ときついものになってしまう。

「なんだ、まだ17分もあるじゃないか。・・・・・・この大学で、一番広い場所は?」斉藤が口を開く。

 自然爆破だな、と篠崎は解釈する。計画通りだ。

 自然爆破とは、広い場所に爆弾をもっていき、爆弾の周りを超強化プラスチックで囲う。あとは起爆を待つだけだ。広い場所で起爆させれば周囲に被害は及ばないし、何より爆弾処理の人間が危険に晒されずに済む。このケースのように、タイマーが設置されていて起爆までの時間が明らかな場合や、広い場所が近くにあるようなときはよく選択される。この場合、爆弾処理班の主な仕事は爆弾解体ではなく、爆破後の仕掛け解析となる。つまりどんな仕組みで爆弾が作られていたか、を解析し、その特徴から犯人を捕らえる手掛かりを得るわけだ。

「あちらに校庭が。十分な広さです」篠崎は答える。この大学のことならよく知っている。

「よし、フェンスをセットだ」フェンスとは強化プラスチックの囲いのことで、斉藤はそう呼んでいる。実際は大して重くもないし、たいそうな代物ではないのだが、斉藤は絶対に自分でそれを運ぼうとしない。

「爆弾処理と、正門の出入り規制をお願いします」

 篠崎は待機していた警官二人に向かって声を掛ける。そして簡潔に、今回の爆弾騒ぎの発端について話を聞く。

 警官の話によれば、第一発見者は二神という物理工学科の学生、8時過ぎ頃に発見したという。その後数分して、別の生徒から通報があった。二神がすぐ警察に電話しなかったのは、どうしていいのかわからなかった、という理由らしい。

 二神が言うには、理系の大学だから、少し勉強しているものなら誰でも爆弾を作ることは可能だという話だ。劇薬、危険物の管理については、助手の市倉という男に聞くといいです、と警官は言った。まだ他の教員は来ていないようなので、そのことで一番詳しいのは今のところ市倉だろうと。そして集まってきた学生は大学の外へ避難させた、と続けた。

「わかりました。じゃあ私は生徒達と、その市倉という助手からもう少し事情を聞いてみます。爆弾処理と、周囲の安全確認は頼みました」篠崎は警官達にそう言い、校門の方へ歩く。

 

 校門へ向かう途中に、細い分かれ道がある。研究棟の裏口に続く道だ。真っ直ぐ進めば校門に、右に曲がれば裏口に着く。校門付近にはまだ学生がたむろしているかもしれないが。

 篠崎は校門へは向かわず、ためらうことなく右に曲がった。残りはあと20分無いか・・・・・・。自然と足を速める。失敗するわけにはいかない。




               5(市倉壮介)


 校門を出ると、意外にも生徒達はバラバラに散っていった後だった。爆弾騒ぎが収まるまではまだしばらく時間がかかるだろう。どこか喫茶店にでも入って時間を潰したいところだが、この後自分は警官からいろいろと事情聴取されるだろうから、あまり遠くに行かない方が賢明に思えた。

 さて、どうやって時間を潰そうか・・・・・・。そう思案していた時だ。生徒と思われる人影が、この先の裏口から中に入っていくのが見えた。爆弾騒ぎを知らないのだろうか? 教えなければ。最初はそう思った。だが違った。そいつは、二神だった。

(何をしているんだ?)

 市倉は不審に思った。爆弾らしき不審物は警察が対処しているとは言え、大学内に入ることはまだ危険だ。それに裏口からこっそり入るなど、明らかに怪しい。市倉は二神についての嫌な噂を思い出した。成績は工学科の学年でトップクラス、表立って非行にはしっているわけではないのだが、彼には黒い噂がある。爆弾を作っているのではないか、というものだ。実際爆破させたこともある、ということも聞いた。無論、二神の仕業とはっきりしたわけではないが、事実この大学では爆弾騒ぎが何回かあるのだ。

 そして半年前。この学校で爆破による死亡者が出た。女子ロッカーに爆弾と共に閉じ込められ、脇腹のあたりを大きく抉られて女生徒が死んだ。

その犯人が、二神慎治――こんな噂まであるのだ。彼は警察から何回か事情を聞かれたらしい。しかし証拠らしい証拠はなく、結局事件は靄の中だ。


 市倉は腕時計に目をやる。爆破まで、おそらくあと15分ちょっとだ。少し思案した後、市倉は二神の後を追った。




                6(二神慎治)


 研究棟裏口に着いた。あの時のことを思い出し、二神は複雑な心境になる。無論、反省していないわけではない。しかし、もう一度あの動躍感、スリルを味わいたいと思っているのも事実だ。いや、そちらの方が気持ちとしては強い。

 3年生になり、二神は爆弾作りに興味を持った。意外と簡単に作れるんだな、そんな発見がきっかけで、はじめはおもしろ半分だった。すぐに作れる自信もあった。爆薬は始め、ニトロ製剤を用いた。既成のものでは面白味も半減する。最低限の材料を研究室で調達し、爆薬は自宅で生成した。大掛かりな装置は不要だ。加熱する機器と、精製のためのエーテル、反応のための濃硫酸などがあれば良かった。一回の生成で出来るのは、フラスコの底にほんのわずかだったが、それでも爆破力はあるはずだ。実際作ってみると量の調節が難しく、何度か川原で試した。

 やがて爆薬の調節が理解できると、時限装置に興味が移った。時限爆弾、というやつだ。起爆のための仕掛けを考えるのにさほど時間はかからなかった。それを作るのも。

 第一回の実験は、ごみ焼却炉の近くで行なった。騒ぎが大きくならないよう、ゴミを全て吹っ飛ばす程度の爆薬を用いた。実験は成功だった。こんなに簡単にいくものなのか。二神はその日、笑いを抑えるのに苦労した。

 次の実験は、1ヵ月後にした。卓球場の入り口だ。今は卓球部は廃部しており、卓球場を使うものはいない。廃屋のようになっていたのだ。二神はそこで、前回より多めの爆薬を用い、朝の8時半にタイマーをセットした。見事成功、というわけではなかった。意外と爆発は小規模で、入り口のドアが少し焦げ、欠けた程度だった。天候や気温が関係しているのかもしれない。もしくは生成段階で不純物の割合が多すぎるのかもしれない。

 三回目の爆破は基礎実習棟に決めた。二神は毎日、8時過ぎには登校する。その日も同じくらいの時間に学校へ行き、カセットテープ程度の大きさの爆弾を持って設置場所を考えていた。

「何、してるの?」

 ふいに後ろから声を掛けられた。女だった。顔を見たことはある。違うクラスの女子生徒だ。女は二神の持っているものに目をやり、すぐに事態を飲み込んだ。卓球場での爆弾騒ぎがあったばかりだ。「あなた・・!」女はそういうと鋭い目で睨んできた。二神は慌てた。まずい、そう思った。

「頼む、すぐに処分するから、もう二度としないから、誰にも言わないでくれ」

 二神はそういうと、爆弾に設置したコードを引き抜き、タイマーを止めた。

「あなただったのね・・。こないだの、爆弾騒ぎも・・」

「お願いだ、つい魔が差したんだ。もうしないから」

 あんなに懇願をしたのは今まで生きてきて始めてだっただろう。しかし、いくら謝っても女には通用しなかった。

「先生に言うわ」

 どす黒い考えが浮かんだのはこの時だ。人間に向かって爆薬を仕掛けたことは今までなかった。

 女は時計を見た。8時10分。あと10分15分も待てば教員が来るだろう。

 二神はうな垂れ、観念した。正確には、観念したような表情を装った。

「もう大学にはいられないわね」

 女は返事を聞かず、女子ロッカーへ向かう。なぜすぐに誰かに知らせなかったのか、二神には未だにわからない。よく考えれば、宿直室には守衛もいたのではないか。8時過ぎだ、まだ寝ているということはさすがに無いだろう。

 女はなぜロッカーへ向かったのか?なぜ真っ先に誰かに知らせようとしなかったのか?


 迷っていたのではないか、というのがわからないなりの二神の答えだった。女は口ではああ言いながらも、爆弾騒ぎの張本人を公にすることを躊躇っていたのではないか。公になれば、自分のせいで退学になるだろう。女にはそこまでの覚悟が出来ていなかった・・・。

 今となってはどうでもいい、と思う。とにかく、自分にとってはラッキーだった。女の姿が見えなくなってから、二神も女子ロッカーへ向かう。あたりにまだ誰もいないことを確認して。


 爆弾は再度セットした。

 装置は単純だ。赤のコードを引き抜けば止まる。両方差し込めばまたタイマーは起動するし、青のコードを抜いたり、両方引き抜いたりすると起爆する。

 ロッカールームのドアを空ける。女は二神が入ってくるのを見ると、声にならない悲鳴を上げた。女は白衣を着ている最中だった。二神は無言で、女をロッカーに押し込んだ。爆弾と一緒に。女とはいえ、小さいロッカーに押し込むにはそれなりの力が必要だった。

 ロッカーの鍵穴にはカギが掛かったままだった。二神はカギを閉めると、泣き叫ぶ女に声を掛けた。

「うるせえ!よく聞け、爆弾の解除法を教えてやる。その代わり、俺のしたこと、絶対に他のやつに言うな。いいか」

 女の泣き声が少し静まる。荒い息遣いが耳障りだ。

「それには二本のコードが付いてる。赤と青だ。どっちかを抜けば爆弾は止まる。さっき、俺がタイマーを止めたのを見てれば、どっちの色が正解かはわかるだろ?」

 呻き声が聞こえる。「見えない!」泣き声に混ざって女が言うのが聞こえる。そうか、ロッカーの中はほとんど明かりが差し込まないから、コードの色がわからないのか。その方がいいだろうな。二神はロッカーに背を向ける。「あと5分も無いぞ」そういい残す。

 ものすごい怒声が聞こえた。怒声と泣き声が入り混じって悲痛な叫びとなっている。ドンドン、と狂ったようにロッカーを叩く音が聞こえる。二神はそれを聞きながら女子ロッカーを後にする。


 およそ1分後、爆破音が響いた。あの女、失敗したか、二神はそう思う。さっき、二神が引き抜いたコードは赤だった。女はそれを見ていた。赤を抜けばいい、わかっているはずだった。あの暗く狭いロッカーでも、体をうまく動かすことが出来れば携帯の液晶画面などで明かりはどうにか確保できたかもしれない。しかし例えそれができても、頼りない明かりで女が見たのは絶望だけだったはずだ。二神はバッグに入れていたガムテープで、2本のコードを爆弾ごとグルグルに巻いていたのだ。無理に剥がせばコードが抜け、爆破する。1分間の女の苦悩を思い、二神は笑みを浮かべた。自業自得だ、そう思う。二神は誰にも見られないよう、裏口からそっと大学を後にした。その後、警察に事情聴取されることは何回かあったが、それだけだ。それがおよそ半年前のことだった。



 冬のこの時間はまだ気温が上がらない。二神はコートのポケットに手を突っ込み、研究棟の裏口を目指して歩く。もうすぐそこだ。

と、手に何か当たる感触があった。爆弾を見つけたときに、張り付いているこの紙を剥がして、自分のポケットに入れたのだ。

 ・・・・・・それにしても、一体誰がこんなものを?

 周りを見渡す。校庭にさっきの警官が一人、あとは私服の50代か60代の男がいるのが見えた。おそらく爆弾処理をしているのだろう。

 研究棟の裏口を見やる。何か、黒い箱が置いてあるのが見えた。まさか、と思いしゃがみ込んで手に取る。

 それはさっき見つけた爆弾と、同じ形をしていた。タイマーが19分42秒を示している。




               7(市倉壮介)


 市倉は、二神の後ろ20mほどを付けて歩いていた。研究棟の裏口に向かっているのは間違いない。しかし何のために? 裏口を使う学生などほとんどいない。いるとすれば、夜遅く帰るときや、早朝、守衛が起きる前に校内に入るときぐらいだ。

 裏口に着くと、二神はしゃがみ込んだ。何かを調べているようにも見えるが、こちらに背を向けているためわからない。早足で追いつき、声を掛ける。

「おい、何してる」

 市倉が声を掛けると、二神はビクッと肩を震わせて振り返る。目には怯えの色が見えた。二神は手に・・・・・・

 爆弾を持っていた。さっき見たのと、同じ形だ。

「それはなんだ」自然と鋭い口調になる。やはり噂通り、爆弾騒ぎはこいつの仕業だったのか。

「し・・知らねえよ。ここに置いてあったんだ。俺じゃねえよ」

 反抗期の中学生のような口調で二神は言う。最近はこういう学生が増えてきた。

「知らないというなら説明しろ。どうしてここに来た?学校から外に出るように警察から言われたはずだ」

「関係ねえだろ」

 これだ。何か困ると、『関係ないだろ』。市倉はため息を付くと冷ややかに言う。

「とにかく、それを警察に渡せ。話はそれからだ」

「その必要はありません」

 ふいに後ろから声が聞こえた。市倉は驚いて振り返る。刑事だろうか、鋭い目が印象的だ。年は同じくらいだろうか。

「失礼。私は篠崎といいます」そして警察手帳を見せる。

 肩の力を抜く。校内に残っている学生がいないか、見回りをしていたんだろう。

「警察ですか。見てください、ここにも爆弾らしきものがあります。さっき発見されたのと同じですよ。私が二神・・・・・・この生徒ですが、彼の後を付けていったら、ここに・・」

 とにかく早く処理を、市倉はそう言った。普段感情を表に出さないと言われるが、この状況ではさすがに焦る。説明も言葉に詰まって思うようにいかない。

「ええ、ここは任せて先生は校外へお願いします。ここには近づかない方がいい」

“先生”ではないのだが、と言おうとして止める。今はそんなことを言っている場合じゃない。

「じゃあ、後はお願いします。おい、二神・・・・・・」

 早く行くぞ、と言おうとして市倉は絶句した。

 二神が青い顔をして篠崎刑事の方をじっと見ていたからだ。

 あんたが・・二神の唇がそう動いたように見えた。

 「二神、はやくしろ。それを刑事さんに渡して、早く外に出るんだ」

 そう言っても、二神は視線を刑事から外そうとしない。

「いいんですよ、彼は」篠崎刑事は続けて言う。

「彼・・・・・・二神には、半年前の爆弾騒ぎのことを喋ってもらわなければいけない。どうか、先生、先に行って下さい」

「それは後でも出来るでしょう!のんびりしてる間に時間が無くなっていきますよ!」

「今しか、出来ないんだ」

 鋭い口調で篠崎が答える。

 刑事の真剣な顔をみて、市倉は何も言い返せなかった。この、篠崎という刑事は、半年前の事件も知っているようだ。そしてこの二神という生徒のことも。おそらく、女生徒を爆死させたのは二神ではないかと疑っているんだろう。しかし、こんな局面で問い詰めなくても・・・・・・。

 先に行くべきか、悩んだ。しかし市倉は、自分でも驚くセリフを口にしていた。

「わかりました・・。邪魔はしません。その代わり、自分もここに居させてもらいます」

 自分でもどうしてそんなことを言ったのかわからない。強いて言えば、二神の異常とも言える怯えが気になったからだ。この刑事は何かを企んでいるのではないか、とても危険なことを・・・・・・そう直感が働きかける。

 しばらく篠崎は考えていたが、わかりました、そう呟いた。




                 8(篠崎正志)


 ここに、二神以外の、部外者がいるとは思わなかった。どうやらここから出て行くように言っても無駄なようだ。しかしそれ以外は計算通りだ。二神の怯えようからすると、かなり効果はあっただろう。

 「あんたが・・・・・・どうして?」

 聞き取れないくらい掠れた声で二神が言う。以前しつこい取調べをした刑事のことを覚えていたのだろう。結局、こいつから犯人である証拠を掴むことはできなかったが。

 二神は口の渇きがひどいのか、しきりに唾を飲み込んでいる。

「あんたが、まさか、爆弾を?」二神がそう言った。後ろで、男が息を呑むのがわかった。彼がおそらく市倉というのだろう。助手をしているとさっきの警官が言っていた。

「ああ、そうさ」篠崎は落ち着き払った声で答える。

「く・・・・・・狂ってる!俺が・・・・・・俺が何をしたっていうんだ?あの時だって、あんた、俺のことをしつこく付いてまわしたじゃないか!それでも何の証拠も出なかったんだろ!」

「家宅捜索の許可がどうしても降りなかった。警察の限界だな、世間体ばかり気にして。誤逮捕を極度に恐れるあまり、ろくな捜査ができない。おまけに他の事件のせいで数ヶ月で本部は解散だ。結局、通り魔的犯行ということで片付けられた」篠崎はそう言うと、二神を睨んだ。

「こっちは妹を殺されてるんだ、お前にな。何でも喋ってもらうからな。どんな手をつかっても、だ」

「篠崎って・・そうか」後ろで立っていた市倉が声を上げる。死んだ女生徒――篠崎杏子の名前を思い出したのだろう。いや、忘れていたわけではないだろうが、名字が篠崎という共通点に気付いたのかもしれない。

「お前がやったということはわかっている。お前の家から、半年前に使われたのと同じ爆薬を見つけた」

「あんた・・・・・・俺んちに勝手に・・・・・・?」

「仕方ないだろ?捜査令状が出ないんだから。でもこれでお前が犯人だと確信したけどな」

「そんなの・・・・・・そんなの、証拠になるものか!」

 二神が冷や汗すら浮かべて篠崎を見る。篠崎は唇の端に笑みを浮かべ、こう言い放つ。

「ああ、わかってる。不正に侵入して得た情報など何の証拠能力もない。しかし、俺があの紙に書いた内容を忘れたか?」

 二神は震える手でポケットから紙を取り出す。

「これも・・・・・・あんたが・・・・・・」


【二神慎治、半年前の証拠を握っている。嘘だと思うなら研究棟の裏口へ来い。来ない場合はその証拠を警察に提出する】


 紙にはそう書き、爆弾に貼り付け、研究棟の入り口においたのだ。

「嘘、だったのか、証拠があるなんて」

「お前こそ、心当たりがあるからのこのこやってきた、そうだろう?何も関係ない奴なら知らん顔をすれば済むことだ。それに、本当に証拠はある。正確には、これからできる」

 篠崎は爆弾を見る。残り時間――12分32秒


 「これから、お前が半年前の事件を自白するんだ。俺がそれをテープに取る。それが証拠だ」

「俺が自白する?たとえ俺がやってたって、自分から喋ると思うか?」言葉の節々が震えている。もう一息だ。

 次の瞬間、篠崎は素早く動いた。二神に向かって体当たりし、上に圧し掛かる形となった。そのまま裏口のドア付近の電灯まで二神を引きずっていくと、縄でぐるぐるに巻いた。手は後ろに組ませて縛る。

「なにすんだよてめえ!」

「取引しよう」篠崎はさっきより落ち着いた声で言った。息一つ乱れていない。

「お前がおとなしく自白すれば、この爆弾の解除方法を教えてやる」




                 9(市倉壮介)


 市倉はその場から一歩も動かなかった。いや、動けなかった。半年前の事件の被害者が、この篠崎という刑事の妹だった。そして今、彼はその復讐のために行動している。

 止めるべきだろうか、と市倉は考える。しかし妹を殺され、十分な捜査を出来ずに犯人を見逃す篠崎の心境を考えると、止めることは出来なかった。彼は刑事としてこういうことをしているのではない。殺された篠崎杏子の兄として、しているのだ。それを止める権利は自分には無いように思えた。もし、本当に二神が命の危険に晒されることになったら止めよう。市倉はそう決める。


 篠崎が取引を持ちかけてから、二神は黙ったままだった。じっと下を見つめて動かない。残り時間は7分4秒。

「時間がないぞ」篠崎が言う。二神は顔を上げず、下を向いたままだ。ぶつぶつ何かを呟いているのが市倉には聞こえた。

「どうして俺が・・・・・・ふざけんな・・・・・・どうして俺が・・・・・・」

 この期に及んでこいつは反省すらしていないのか。怒りが込み上げる。

「そろそろだ」篠崎が腕時計に目をやり、呟く。タイマーは5分4秒を示している。


 バンッというものすごい音が響いた。腹の底から響くような、爆音だ。突然のことだったからわけがわからず呆然とした。やがて、爆音は校庭の方から聞こえてきたことに気付く。最初に発見された爆弾が爆破したのだろう。

 動悸がする。まさか本当に爆弾だったとは。二神の方を見ると、目で見てわかるほどに震えていた。顔を校庭の方に向けているが、目は焦点を結んでいない。口を開け、ハッハッ、という荒い息遣いをしている。

 この時市倉は、篠崎が爆弾を設置した真の意味を理解した。どうもやり方が回りくどいと思っていたのだ。二神に白状させたいなら、始めからこうやって脅しをかけてやればよかった。何もわざわざ別の場所に爆弾を設置し、警察沙汰にすることもなかっただろうに。そう思っていた。しかし篠崎の思惑は違った。恐ろしく頭のいい男だ、そう思う。

 篠崎は深夜か早朝か、とにかく人目の付かない時間に爆弾を研究棟入り口と、裏口の二箇所に設置した。裏口の方が5分遅く爆破するようにタイマーをセットして。二神が朝一番に登校することは知っていたのだろう、さっきのメモを爆弾に貼り付けて、二神に発見させる。そして裏口の爆弾へと誘導する。あとは自分が見てきたとおりだ。爆弾の解除法を教える代わりに自白しろ――そう取引する。


 しかし、二神は心のどこかで思っていたはずだ。これは単なる脅しだ、本当に爆破することなどあり得ない――と。自分が命の危険に晒されることなど絶対にない、と。しかし一つ目の爆弾がタイマー通りに爆破した。これは二神にとって、想像以上の恐怖となったはずだ。この恐怖を植え付けることこそが、一つ目の爆弾設置の本当の目的だったのだ。


「たすけて・・・・・・ください」

 焦点の定まっていない目で二神は篠崎を見る。残り4分32秒――。

「自白しろ」

 汚いものをみるような冷淡な目で篠崎は二神を見下ろす。手にはレコーダーを持って。

 しばらくの沈黙のあと、震える声で二神は言った。

「俺が・・・・・・やりました・・・・・・」

「もっとはっきり言え」

「俺が、篠崎杏子さんを・・・・・・ロッカーに閉じ込めて、ば・・・・・・爆破させました」

 残り3分58秒。

「言うことはそれだけか。ほかに言うことがあるだろう」

「もうし・・・・・・わけなかったと思っています。すいませんでした。反省しています・・・・・・だから・・・・・・お願いします、助けて」

 篠崎がレコーダーのスイッチを切る。ここで市倉は、猛烈な違和感を覚えた。果たしてこれが証拠となるのだろうか?

 ここで得られた自白は、いわば脅迫のようなものだ。言わされている、と解釈されても仕方ない。それに、テープでの自白というのは合成が可能だと聞いたことがある。たった今録音したテープを元に二神を逮捕するのは厳しいのではないか。しかし現役の刑事である篠崎がそのことを考えないはずがない。だとしたらなぜ録音など・・・・・・。

 ふとある考えに思い至って、市倉は寒気を覚えた。録音はフェイクではないのか。本当の目的は証拠を押さえて二神を逮捕することではない。妹を殺された復讐――。

 残り3分22秒。

 篠崎が肩の力を抜く。

「解除方法を教える。タイマーと箱の間に、二本のコードがある。右が赤、左が青だ」

 篠崎は爆弾を二神の手元に置く。二神の手は後ろ手に縛られているが、コードを探り当てることは簡単だろう。

「どちらかのコードを抜けば、タイマーは止まる。あとはお前次第だ」

「!」

 二神が目を大きく見開く。きたねえぞ、そう喚く口を、篠崎がガムテープで縛る。

 残り2分42秒。

 二神は喚き続ける。言葉になっていないが、ひたすら声を上げ続ける。篠崎は背を向けて歩き出す。「時間がないぞ」最後にそういい残す。

 残り2分11秒。

 二神が、こちらを見たのがわかった。涙を流している。

 ――助けて、先生――。そういっているように見える。

 市倉は目を瞑り、その光景をみないようにした。『関係ねえだろ』二神がさっき自分に向けて言った言葉を思い出す。関係ない、か・・・・・・。

 残り1分17秒。

 市倉は二神に背を向けた。正門の方に向かったのだろう、篠崎の姿はすでに見えない。

 二神の喚き声がいっそう激しくなった。しかし正門までその声が聞こえることはあるまい。途中に一度、振り返る。タイマーは、1分を切っていた。その後は振り返らず、歩き出す。




                10(二神慎治)


 こんなに自分の行ないを反省したことなどなかった。もう、誰もいない。刑事も、研究室の背の高い助手も。猛烈に孤独が押し寄せてくる。呪いの言葉はもう出てこない。代わりに、今になって反省の気持ちが湧いて止まらなくなった。

 残り時間はどのくらいだろう? 1分か、2分か。

 あの刑事が自分のことを許してくれるとは思えなかった。きっと助かる道などないのだ。赤を抜いても、青を抜いても。自業自得だな、二神はそう思う。あの日、ガムテープで爆弾をコードごとぐるぐる巻きにしたのに比べれば、今の状況はまだ慈悲深いのかもしれない。


 指先に爆弾が触れた。手探りで、コードが二本あるのがわかる。どっちが赤だっけ? 二神は考えて、結局やめた。半ば無意識に、先に手にあたった方のコードに決める。

 最後に何を考えようか、二神は思った。だが、自分には何もなかった。大切な人も、大事な約束も、大きな目標も。ちょうどいいや、と二神は思う。どうせ死ぬなら、身軽なままで死にたい。未練や遣り残しなんてまっぴらだ。

 残り時間を考えるのが馬鹿らしくなった。

 コードを握った方の手に力を入れる。一気に、引っ張った。

 その時になぜか、篠崎杏子の顔が浮かんだ。「先生に言うからね」そういいつつ、彼女は二神に背を向けて誰もいない空へと浮かんでいった。




               11(篠崎正志)


 あの爆弾騒ぎから3日が経った。篠崎は今、大学のラウンジに来ている。市倉にはさっき電話した。今日は実験に忙しいようだが、なんとか時間を作ってくれるようだ。

 コーヒーを飲みながら周りを見渡す。杏子も、こうしてラウンジでゆったりと飲み物を飲んだりしていたのだろうか。こんな穏やかな気分になることは、篠崎にとって半年以上無いことだった。全てが、終わったのだ。

 10分ほどすると、市倉が現れた。白衣姿がなかなか似合う。女性からは人気があるだろうな、そう思う。

「申し訳ない。なかなか手が離せなくて」市倉はそう言った。

「いえ、こちらこそ急に電話したりしてすいません。あまり時間は取らせませんので」

「その後、どうですか?」

 市倉は自販機でコーヒーを買い、椅子に座るとまずそう聞いてきた。

「二神は、全て喋りましたよ。何もかも、ね」

 あの後、篠崎に連れられて二神は警察に行き、今までとは別人のようにおとなしく自供を始めた。

 市倉は息をひとつ付く。

「いえ、私が聞きたかったのは、あなたの方ですよ、刑事さん。気持ちの整理は付きましたか?」

 篠崎は少し意外な気持ちで市倉を見返す。この男は、他人には無関心なように見えるが、結構周りに気を使うタイプなのかもしれない。

「そうですね・・・・・・。後悔はしていません。もっとも、これが一番良い方法だったかと訊かれると返答に困りますが」篠崎は答える。本心だった。

「最良の選択肢なんて、無いんでしょうね」市倉が言う。もっともだ、篠崎もそう思う。結局一つしか道を選べないのならば、その道が正しいなんてどうしてわかるのだろう? 二神を殺す、という選択肢もあったが、篠崎はそれを選ばなかった。代わりに篠崎が選んだのは、二神の謝罪だった。謝罪の言葉を聞きたかった、それだけと言えば終わりだが、それを聞かない限りは心の平穏が訪れる日はない、そう思っていた。

「で、聞きたいことというのは?」市倉が聞く。

 市倉には、いくつか聞きたいことがあってこうして会っている。

「私事ですがね、結果的には二神を逮捕できたとはいえ、あれだけの騒ぎを起こした私が責任を何も問われないというのは不思議でならないんですよ。正直、辞職も考えていました。当然ですがね。そこで私は考えたんです。もしかして、あの場にいたあなたが、警察で何か私を庇うような証言をしたんじゃないかと・・・・・・」

 市倉は穏やかに笑う。

「自分は、見たものをそのまま警察に言っただけですよ。裏口から入っていく二神を見た。付いていくと、彼は爆弾を持っていた。今までも、彼によるものと噂される爆弾騒ぎがあった・・・・・・ってね。その後の事は知りません。あなたと、二神がどんなやり取りをしたのか、そんな事聞かれなかったから話さなかった、それだけです」

 やはりこの男だったか、と得心する。この証言で、3日前の爆弾騒ぎも二神の仕業と判断されたわけだ。

「あと一つ」篠崎は人差し指を立てる。

「あの時、先生はどうして、二神を助けなかったんですか?」

「二神を助ける?」オウム返しに市倉が言う。

「ええ、犯罪者とはいえ、この学校の生徒でしょう? 命の危険があるなら、先生としては助けるのが普通じゃないでしょうか」

「私のしたことは普通じゃなかったと?」

「いえ、私は正直、あなたがこの計画を台無しにするんじゃないかと、それだけが心配だったんですがね。でもあなたは黙ってみているだけだった。私があの場を去ってからも、先生は何もしなかったでしょう?」

 あの日、篠崎は立ち去ってから10分ほどして、二神の元へ戻った。ガムテープを剥がした形跡も、ロープを解こうとした形跡もなかったし、爆弾を遠くに投げられるようなこともなかった。つまり、市倉は何もせずその場から立ち去ったということだ。

 市倉はこう答えた。

「邪魔はしないと最初に言いましたから。それに、何もしなかった、というよりは何もする必要がなかった、ということでしょうか。それは刑事さんが一番わかっていることだと思いますが」

「何のことです?」篠崎は敢えて聞く。

「刑事さんが言ったじゃないですか、『どちらかのコードを抜けば、タイマーは止まる。』って。あれはつまり、どちらのコードを抜いてもタイマーは止まるって意味でしょう? 私もそれを聞くまでは、本気で止めようかと考えていましたよ。あなたは二神を殺して、復讐を果たすつもりじゃないかと思ってましたから」

 篠崎は笑う。

「やっぱり、解除法の本当の意味をわかってたんですか。さすが理系の先生だけあって頭がいい」

「先生というのは止めてください。市倉、でいいですよ」

 

 ここで、市倉の持っていたタイマーが鳴る。軽い舌打ちの後、「もう時間か」と市倉が呟く。

「篠崎さん、申し訳ない。実験の途中でして、そろそろ戻らないと・・・・・・」

「お時間取らせてすみません」

 篠崎は立ち上がり、深々と頭を下げる。市倉は何かを思いついた顔になり、「今度、時間のあるときに飯でもどうです?」と言った。

「ここらは学生が多いでしょう?安くて旨い店なら結構知ってます。食べ放題なんてのもたくさんありますよ」

 篠崎は苦笑いを浮かべる。

「食べ放題は止めておきましょう。制限時間に縛られるのはもう、まっぴらだ」

市倉もつられて笑う。

「こっちはいつでもタイマーとの格闘なんですがね。じゃあ、ゆっくり食事できるところ、探しておきます」そういうと市倉はラウンジを後にした。残された篠崎もコートを手に立ち上がる。

 校内を一回りしてみるか、そう思った。妹の通っていた大学を、ゆっくり見て回るのも悪くない。




                 12(市倉壮介)


「あ、先生!タイマー鳴ってたんで、遠心分離入れときましたよ」

 二階の渡り廊下から生徒が言った。同じテーマを研究している生徒だ。

「ありがとう」市倉はそう返す。

 市倉の研究は、タンパク質の異化に関するものだった。生体内でタンパク質は非常に重要な役割を持っている。そもそもDNAから得られる情報の本質は、タンパク質と言ってもいい。最近の研究ではその合成に関するものがクローズアップされているが、市倉は異化――つまり分解に関することも非常に重要だと考えている。いかに効率よく異化をさせるか、どのように分解をコントロールするか。その条件や酵素を調べ、また生成されるATPの無駄をなくす――これが成功すれば、栄養学に大きな変化をもたらすはずだ。糖質や脂質制限、蛋白制限のある病気の患者への栄養管理の向上、タンパク製剤医薬品の経口投与。もしかしたら、必須アミノ酸の概念すら変わるかもしれない。


 しかし、と市倉は思う。二神のしたことと、俺のしていることは、もしかしたら一緒なのではないか。二神は爆弾という手段を用いて、発生する破壊力に興味を持った。自分はさまざまな酵素、条件下でタンパク質を破壊し、その破壊から得られるアミノ酸やエネルギーを調べて一喜一憂している。

 自分も、何かを破壊することに快感を覚えているだけかもしれない。いや、自分だけではない。おそらく誰でもそうなのだ。その対象と手段が異なるだけで。

 

「先生――、どうしたの?」さっきの生徒がまだ二階の渡り廊下にいた。自分はどうやら立ち止まって考え事をしていたらしい。

「早く早く」生徒が手招きする。つい3日前に起きた騒動が嘘のように明るい。


『最良の選択肢なんて、ない』

 市倉は篠崎にそう言った。人生とは、後ろ向きに歩いているようなものだ、と誰かが言っていたのを思い出す。後ろを向いて歩いているから、分かれ道の存在に気付くのはいつだって分岐点を通り過ぎた後だ。だとしたら、別の道の行く末を考えるなんて馬鹿馬鹿しい。仮に分かれ道の存在に気付いたところで、選ばなかった道がどこに続いていたのか、知る術はない。

自分の選んだ道が正しかったかどうか、それは自分にはわからない。それを判断するのは周りの人間なのだろう。篠崎は二神を殺さない道を選んだ。もしその道でよかったのか、篠崎が悩むようなことがあれば言ってやろう。――きっとそれは最良の道だったはずだ、と。


「わかった、すぐ行く」

 市倉は右手を上げて学生に答えた。  

                               


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