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第7話 赤く、白く

 時間は不平等だと思う。楽しく充実している時間はあっという間に過ぎ去っていく。

 高校から駅までの道のりを、約1時間ほど普段の6倍くらいの時間をかけて過ごしたデートは早々に終わりの時を迎えている。

 私とたーさんは、改札口の前でお別れの言葉を交わす。

「ほんじゃーの。気ぃつけて帰りんさい」

「うん。たーさんこそ自転車なんよ。気をつけんさいよー」

 今までも似たような会話を2人で繰り返してきた。文字にしてしまえば、情緒も何もないあっさりとした言葉に過ぎないけれど、いつまでたっても慣れたりなんてしそうにない。

 けれど、きっと、もっと。そして、ずっと。同じ会話を積み重ねていきたいなって、私はこんな風に駅での別れがおとずれるたびに思う。

 8月の、終わりかけの、夜の7時ちょっと前の駅前は、どことなく少し疲れたような喧噪音が支配している。人影はまばらで、街路や駅の電灯の灯りがたーさんを照らしている。

 改札を通って後ろを振り返り、手を胸のあたりで小さく振る。私とは対照的に手の先を頭の上にまで持っていき大きく振り返してくれる、いつものたーさんが目に映る。

 やがて、自転車に乗って去っていく彼の後ろ姿を、私はじっと見送る。視界から完全に消えてしまうまで。ふぅーと声にならない小さなため息をつく。回れ右をして、通路を歩きホームへの階段を登っていく。

 少し暗い照明の下で左腕を少し上げて腕時計を確認してみたところ、次の電車が来るまでにはまだ5分少々あることが判明する。こんなことなら……もう少し2人でゆっくりしておけば良かった! とがっかりな反省すべき点を心に書きとめる。たーさんも疲れているんだししょうがないんだよ、とも同時に心へ刻む。


 ガタンゴトンガタンゴトン。おなじみの慣れ親しんだリズムを響かせながら電車は進む。ひたすらに暑かっただけの外とは違い心地よい冷房が効いている電車内は、実はとても危険に満ちあふれている。帰りは特に。痴漢がどうこうというような気持ち悪い話ではなく、別の危険が潜んでいる。

 部活仲間の友人達と座席に座って話をしていても、いつの間にか、けっこうな高確率で誰かがうとうとと寝入ってしまいそうになる。というか、眠りに落ちてしまう人が珍しくない。

 複数人でもそんな状況になってしまうというのに、私は今1人で電車に乗っている。要特別警戒! とでかでかと書かれたステッカーを、顔に3枚くらいは貼り付けておくくらいでちょうど良い程度の危険性をはらんでいる。

 さすがにこの状態では椅子になんて座れそうにない。せっかく座席は空いているのだけれど、と思いながらドア付近にたたずんで、電車の揺れに身を任せている。

 それでも、ガタンゴトンの単調なリズムは、少しでも油断すれば私のまぶたを押し下げようとする試みを繰り返してくる。この音の組み合わせを作った人は、きっと悪い人に違いない、と言わざるを得ない。もしも、わざわざ音だけを作った人がいるのであれば、の話だけれど。

 左手で通学鞄を持って、右手は手近なポールを掴む。ひんやりとした感触が右手へと伝わってきて、少しだけ気持ちがいい。窓の外より次から次へと流れこんでくる町の薄暗い景色を、なんとはなしに目で追い続けていく。

 そうでもしなければ、まぶたが閉じかけるのはともかく、あくびが出てしまいそうになっている。見ず知らずの人がたくさん存在する電車内で、しかも両手が塞がったままの状態で、口を開いたあくび顔をさらけ出してしまうくらいなら、額を電車の窓にゴンと音が鳴るほどの勢いをつけてぶつけてしまう方が随分とマシなんじゃないかな、とそう考えている。


 ようやく、といった態で家から一番近い駅へと電車が滑り込んでいく。とても長い時間をかけて乗っていたような、反対にあっという間に着いたような、高校の最寄り駅から3つ先の駅に、電車がゆっくりと停まる。


 電車を降りホームの階段を下って駅の出口へと向かう。改札口の後方に見えてくる外の風景は、たーさんと別れた時とは違い、もはや完全に夜の町へと変化している。

 半分眠っていたかのような無意識で過ごしていた電車内とは異なり、意識がだんだんと冴えてくる。理由はしごく単純で分かりやすい。8月のよく晴れた日の夜7時半過ぎは、日中よりかはいくらか過ごしやすいとはいえ、まだまだ充分に蒸し蒸しとした暑さを保っている。風も生暖かい。改札を通り抜ける頃には、早くもうっすらとした汗が額をにじませつつあった。


 家まではあと10分くらい。私は駅を後にすると、街路灯や家々の灯りを頼りにゆっくりと歩き始める。

 ……何か見たような。私は立ち止まって、今通り過ぎたばかりの駅の方を振り返る。

 思わず、少し間の抜けたトーンを帯びた声が口から飛び出していた。

「たーさん!」

「おー、偶然じゃのー。どうしたんねー」

 自転車にまたがったままの姿勢で、靴を地面につけて、ハンドルへ覆いかぶさるように上体を預けている。額と鼻先にぽつりぽつりと浮かんでいる汗が、テカテカと電灯に照らされて薄く光っている。上2つのボタンを外しているカッターシャツは、身体に一部貼り付いているかのようにところどころ、汗で濡れている。

 前カゴ置いてあるバックの上には、半分くらい減っている状態のたーさんが大好きな無糖コーヒーのペットボトルがあった。少し揺れたハンドルの影響を受けたのか、ポコっと小さな音を立てて倒れていくのが目に映った。

 これを偶然というのなら! 世の中は偶然に満ち満ちている! 必然なんて全てが偶然になる!


「ほうよねー」

 あまりにも予想外のサプライズな出来事に、私の全身は、湯気でもぼわーっと立ちのぼりそうなくらいに発汗している。耳たぶが熱くなっているのも分かる。顔なんて、きっとよく熟れたトマトのように赤く染まっていることだろう。……もう人目もはばからず飛びこんで、ギュッと抱きついてしまいたくなる。

 視界の片隅に、子供の頃から見慣れているお店の看板が、映る。今、私がいるのは地元の駅前だという、どうしようもない動かしがたい現実を否応なしに見せつけてくる。心が少し冷静になってしまう。1歩踏み出していた足が止まる。

 それでも、言葉を発すれば、声が絞るような震えを帯びたものになっていた「偶然よねー」

 大丈夫だろうか? 私の上機嫌さは、全身からあふれださんばかりだ。もはやそれは隠しようがない。おまけに目元も頬も、口元も筋肉がいうことをまるで聞いてくれない。バレバレだ。けれども、ほんの、ほんの少しでも冷静な声色を帯びていて欲しい。自分の発したばかりの声の音が頭の中にこだましている。分からない。脳も興奮しているらしく、全く自信が持てない。額のあたりがジンジンと鳴っている。

「じゃろー。しょうがないのー」私の想いが伝染したかのように、釣られたかのように、顔を随分と赤くしているたーさんが、少し怒ったような、ぶっきらぼうな口調で言う。「夜も遅いことじゃしね。ここで会って送らんゆうんは、ないのー」

 その通りです。神さま、夜の7時半は深夜なのです! 少なくとも今日はそう決まりました!


 私の暮らす家までの道を、2人揃って歩き始める。たーさんの押す自転車のチェーンが、カタタタカタタと控えめで柔らかな音色を立てながら、一定のリズムで鳴り続けている。

「あのねー」私は、なんだかとても大胆になっている。普段なら思っていても言えないような恥ずかしいセリフが、頭を経由せずに心から直接口へ伝わるとそのまま飛び出していく。きっと暑さのせいだ。止まらない。「手、つなごうよー」

 言い終わる前に、返事を聞く前に、既にたーさんの左手の甲へ私の右手の指先がそっと触れていた。


「うおっ」

 全く想像だにしていなかった情緒や雰囲気を壊していく声が、私の耳へと届けられる。

 たーさんの自転車はバランスを崩していた。ハンドルがグラッと揺れ、ガシャンという音を立てて倒れた。

「ご、ごめん。驚かせるつもりはなかったんよ」

 私はけっこう慌てながら、たーさんと一緒になって自転車を起こす。たーさんは「お、すまんの」と短く言った以外は、無言となっていた。

 再び、私たちは歩き始める。一緒の早さで並んで歩く。手はつながっていない。つい先ほどとんでもなく大胆な行動力を発揮した私は、とっくにどこかへ消え去ってしまっていた。とても照れくさくて、ほんの少し怖くて、たーさんの顔をまともには見られずにいる。


「おまえのー」たーさんが歩みを止めると、自転車のサイドブレーキを降ろしていた。右手で首筋を軽く揉みながら、あごをわずかに上げ夜空の方を見上げている。やがて、視線を下げ、私と目が合う。たーさんが、ポツリとぶっきらぼうな口調で言う。「そういうことはのー、男から言うもんじゃろうが。ほれ」

 右手が私に向かってくる。

 身体がふわふわと浮いているかのように、目の前の道路が、視界が揺れる。

 けれど、私の伸ばしかけた腕は何故か止まっていた。寸前で何かが踏ん張っているかのように、伸ばしていた腕が停止している。何の為に踏みとどまっているのか、私自身にも分からない。にもかかわらず、一度止まった腕が動こうとしない。1秒、2秒と時間が過ぎていく。

「ほれってなん言いよるんよ。ほれはないと思うんよ」私の口から無意識に言葉が飛び出ていっていた。

 けれど、はっきりと分かった。これはとてもとても、とても大切な、ことなんだ。手をつなぐことが初めてというわけではない。

 ただ今までは、私もたーさんもはっきりと言葉に出して求めたことなんてなかった。照れくさかったし、恥ずかしさもあって、今日までの私にはとてもじゃないけれど、ハードルが高過ぎて無理だった。たーさんはどんな気持ちだったのか分からないけれど、同じだったと信じたい。


 だから。

 初めて言ってくれた言葉が、「ほれ」では寂し過ぎるよと心が悲鳴をあげて、腕を押し留めたのだろう。心が、そう告げている。

 息を吸う。心臓がドクンドクンと大きな音を盛大に鳴らながら動いている。

 さっきとは違う。心から直な想いということに変わりはないけれど、頭もきちんと経由している。吐き出す空気を音に換える。声が踊り、跳ね回りそうになっている。これはしょうがない。こんな状況で抑えられる方法なんて、私は知らない。

「きちんと言うてーよ」

 たった9文字の、短い言葉を、勇気を奮い起こしつむぎ終える。

 やっぱり声は震えていた。視界が霞んで、時折にじんでいく。吐く息が止まらない。全ての息が一方的に抜けていく。

 声を待っている。息を吸い込めそうにない。肺の中の空気が全てなくなってしまう前に、たーさんの言葉が、私の、心に、頭に、届きますようにと祈りをこめて、見つめる。


「それもそうじゃね」たーさんが、真剣な口調でそう言うと、私の目をじっと見つめ返してくる。そらさない。

 私は、再び息を肺の中へと注ぎ入れられるようになる。視界がはっきりしてくる。ところが先ほどまでとは逆に、息を吸い込むことを止められなくなってしまう。

 次の言葉を、待ち続ける。

 たーさんが私から視線を外さないまま、右手のひらを学生ズボンに2度、3度とこするように撫でつけている。やがて、私の前へゆっくりと差し出してくる。

「手をつなぎましょう」

「……はい」私は、少し間を空けて、小さくそっとこたえた。ためらったわけではない。息がつまってしまい、初めは声がかすれて、音にならなかったのだった。

 心にすうっと届けられた優しい言葉に、想いが満ち足りていく。

 けれども。……ん? 何か、ん? 頭が妙な違和感を訴えてくる。よく分からない。何なのか。分からないことなんてどうでもいい、と思った。

「よろしくお願いいたします」

 きちんと言いきれた。右手を前へと出す。たーさんの右手も伸びてくる。触れたとたん、包まれていく。手のひらに、体温が伝わってくる。


 ……あ……。

 そうか、これは……つい先ほど頭が発していたシグナルの意味を理解出来た瞬間、ぷっと噴いてしまいそうになる。私はそれをありったけの意思の力でヒッシにこらえる。

 原因は変な東京言葉だ。柄じゃないというか、まるで似合っていないというか、らしくなかった。たーさんもだけど、私も。

 トドメノイチゲキとして、私とたーさんはいわゆる握手をしていた。右手と右手をがっちりと握りあっての、握手の教科書に載ってしまいそうなほどの、どこから見ても間違えようのないザ・シェイクハンドだった。

「た、たーさん! うち、これは違う思うんよ!」私は握った手を離さないままで、小さく叫ぶかのようにそう言う。

 多分、たーさんも途中からおかしな状態に陥っていると気がついていたんだろうなって思えるくらいの早さで、返事がかえってくる。

「ほうじゃわ。これは。どこからどう見ても握手じゃ!」

 2人一緒に、夜道の端っこで、街路灯に照らされながら。しばらくの間、お互いの手を握りしめたまま、笑いあいながら、ぶんぶんと上下に振り続けていた。


「あ!」私は思わず声が出る。

 たーさんの自転車が倒れた時なのだろう、それまでは前カゴに確かに置いてあったはずの無糖コーヒーのペットボトルが、道路にぽつんと転がっていたのを私の目が捉えた。たーさんの手を離さないまま、ペットボトルの方へと足を踏み出す。3歩目で手が動かなくなって停止させられる。

 たーさんの、あえていうならちょっとした悲鳴のような色を帯びた声が聞こえてくる。

「そりゃ無茶じゃ。足がもつれて、こけてしまうわー」

「それくらい、辛抱しんさい」と言ってはみたものの、握手をしたままの状態では物理的にも随分と無理があった。

 1歩も進めないでいる。「離すでー」「……好きにしてええよ」

 期せずして、2人の手がゆっくりと離れる。

 私は5歩ほど進んで、夜道に転がっていたペットボトルを拾う。にがにがこうひい、と抑揚をつけた声を出しながら、その音に沿って軽くステップを踏む。い、の場所がちょうどたーさんの目の前になる。

 「はい」と言って手渡す。恐らくは今日一番の穏やかな色を含んだ声で。

 私はまるで、そのペットボトルが宝物であるかのように捧げていた。たーさんは、とても大事そうに優しくそっと受け取ってくれた。




 私の家までの夜の道を、同じ早さでゆっくりと歩いていく。白いカッターシャツと白いブラウス。黒のズボンとグレーのスカートが、時折通り過ぎていく車のヘッドライドで照らされる。

 私の右手とたーさんの左手は、ずっとつながったままだ。

 時折、自転車の前輪がふらふらとぶれて動く。2人も、それに釣られてゆらゆらと揺れる。

 ハンドルの左側だけをたーさんが右手で押さえている状態なのだから、当然といえば当然なのかもしれない。

 でも。

「なんねー。もうちょっとしっかり持っときんさいやー」

「そりゃ無理いうもんじゃわーー。代わってみんさいやー」

「絶対、代わらんもん」

「まあ、うん。それでええわー」

 そう、無茶を言っているのは充分分かっている。

 私は甘えたいだけなのだ。この時間が少しでも長く続きますように、と。

 だから、ゆっくりとしか歩けない今の体勢を変える気はない。

 はしゃいでいたいだけなのだ。今日という日をいつでも思い出せますように、と。


 2人の手は。赤く、白く。しっかりと握りしめられている。

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