第6話 赤く、黄色く
たーさんと一緒に学校から最寄り駅までの道を歩ていく。夏休み終盤の、真夏の、6時を少しばかり過ぎた8月の陽射しは、建物や道路や木々へいまだ強く容赦なく照り続けている。
久しぶりの下校デートは、私のほうが少し遅れてしまうという大失態で幕を開けていた。
1時間以上待つのだから時間調整も兼ねて! という随分と浮ついた理由がメインだった居残り自主練習が、顧問直々の臨時個人レッスンとなったりした為に。
待ち合わせしていた下駄箱前に到着するなり、「ごめん」と両手を顔の前で合わせた私へ、「わしが早う来ただけじゃろー」と言ってやさしくたーさんは微笑んでくれた。
坂道を並んで下っていきながら、私は寄り添うようにたーさんのほうへとそっと身体を傾けてみる。つい先ほどの出来事を思い出したりしている私の顔の筋肉は、勝手にゆるんでしまったままで元に戻る気配もない。
「大会、100m。前より上がったんじゃねー」
「ありがと。まあ、7位言うてものー。1位もじゃけど2位とも記録にえらい差があるんじゃがね」
視界に映るたーさんの横顔は、県で7位という成績にもあまり喜んではいないように見える。照れているだとか謙遜しているだとかではなく、言葉通りに残念さの方がまさっているような口ぶりをしていた。
「でも、5月の総体では8位だったんよね。上がっとるんは立派なもんよね」
「うーん、順位はあまり気にしとらんのんよ。いや、上の大会考えればある程度は大事なんじゃけど、それはおまけみたいなもんなんよ」
上位大会へ進められるか否かがとても重要な吹奏楽コンクールとは、同じ高校生の大会でも随分と違うんだなー、と陸上の大会の話を聞くたびに、毎回のように感じてしまう。50人を超える編成人数で演奏をおこなう団体競技と、同じ高校の人すらライバルとなってしまう個人競技の差なのかなー、とふと思ったりもする。
「でもでも。速うなったゆうことなんじゃろ?」
「まあ、の。公式(記録)で0.08秒ほど縮められたんじゃけえの」
とても嬉しそうな、誇らしそうな表情で私に語りかけてくる。恐らく、今日一番のスマイルなのは間違いない。
中2の春からなので、3年を超えて4年目に突入しているたーさんとの交際期間ではあるものの、1秒の更に10分の1よりも短い時間のことは、私にはいつまでたっても理解し難い別世界の話となっている。よく分からないというべきか、実感がまるで伴わないというべきか。
演奏のタイミングをピタリと合わせるような感覚なのだろうか? ……95%くらい違っているような気がする。
「春までにあと0.2秒。そこから夏までにもう0.1秒。目標にしたんよ」
うん。まったく、すっかり、さっぱり、そのコンマの差は頭ではなんとなく分かるのだけれど、具体的なイメージがまるで湧いてこない。
「目標にしたからには励まんといけんね!」
「そらそうよ!」元気よくそう言っていたものの、たーさんの声は少しだけど沈んでいるように私の耳へと響いてくる。
「ほぃじゃけど、0.3秒縮んでもの。ミーヤンの今のタイムにまだ及ばんのんじゃけどね。今回あいつ2位じゃったんよ」
ミーヤンこと宮嶋君と私は、この高校で1年も2年も同じクラスになっていた。当然ながらたーさんとミーヤンも同学年ということになる。
たーさんは高校1年生の春の時点で、陸上部で100mが3番目に速かった。1番は私と同じクラスの宮嶋って人だと当時聞かされた私は、へーなかなかやるじゃないの、と軽く思っていた。2年生の今、たーさんは2番目に陸上部で速い。1番はミーヤンだ。
中学の頃ののたーさんが学校で何番目に速かったのか、はっきりしたことを本人の口から聞いたことはない。でも多分1番速かっただろうし、それはあながち間違った記憶ではないと思う。
当時別の中学だった宮嶋君のことは、私はたーさんからたまに聞いたことがあるような覚えがあるけれど、気にも留めていなかった。まさか、同じ高校でおまけに同級生になるとは全く想像すらしていなかった。
「順位じゃないんよね! 大事なんはタイムなんよね!」
「ほうよ! わしはわしがどれだけ速う走れるか。挑戦しとるんよ」
陸上の大会がどこかで開かれた後の全校集会では、新人戦の頃からいつもミーヤンのおまけのような扱いで、たーさんは順位と名前を発表されていた。中学の頃、いつも最初に呼ばれていたたーさんしか知らない私にとって、それはとても違和感があった。
もしも、たーさんがもっと遅かったりすれば、そもそも全校集会で呼ばれることもない。だけど、たーさんは速い。ただ、ミーヤンが速過ぎる。だから、まるで添え物のように、たーさんはミーヤンの後から呼ばれ続けている。多分。3年生になっても2人の名前の呼ばれる順番が逆になることはないのだろう。
全校集会での発表はともかくとしても、陸上大会の会場でも同じ光景が繰り広げられているわけで、これはきついと思って心配になってしまう。私だったら、心が堪えられそうにもない。
ミーヤンと同じクラスになって2年目なので、色々なクラスイベントなどを通して性格的になかなかお奨め出来る人だと分かってはいた。例えば友人の誰かがミーヤンのことを好きだったりしたなら心から応援してあげたいと思える。
でも、同時になんで? という思いがある。それほど速いのなら陸上の盛んな強豪私立にでも行けばよかったのに、と私は正直なところミーヤンのことをそういう風な目で時折見ざるを得ないでいたりする。
……陸上部の3番手以下の人からすれば、たーさんも似たような存在なのかもしれないのだけれど……世の中、上には上がいるってことを、何もこれほど間近で、私の大切なたーさんに見せつけてくれなくてもいいのに! とネガティブ思考全開で。いい人なんだけどなー、とは思いつつも。
「ホント言うとね。うちには、コンマ何秒言われても、相変わらずよう分からんのんよ」
「分からんて言う思うとったわー。まあ見ときんさい」たーさんは自転車のハンドルをギコギコと手持ち無沙汰げに左右へ揺らしている。
「えー、見られんの知っとるじゃろ」私はあえて哀しそうな口調で、わざと足を止めて言う。「イジワルなこと言うんは、よーないんよ」
「え?え?何言いよるん。わしゃ、そういう意味で言うたんじゃなーで」
私が急に立ち止まってしまったので自然とちょっと前を進むことになってしまっていたたーさんが、いくらか慌てた様子で後ろを振り返り近づいてくる。自転車の前輪が少しふらふらとしていた。
「ウッソでーす」私は明るい口調で言う「分かっとるよー」
なんのことはない。翻訳すれば、ふと甘えてみたくなっただけだ。
「でもね」私は言葉を続ける。声のトーンが無意識に下がってしまう。「高校になって一度もなんよね。競技場で走っとるとこ見たいんは、ホントにホントなんよねー」
「わしは、この前ちらっと言うとった体育祭の演奏を楽しみにしとるけえね」
「え!」私は少し慌てて訂正する。「えっと、体育祭のは演奏なんじゃけど、ちょっと違うんよ。色々事情があるんよ。無理して聞かんでええんよ」
「よー分からんけど、ほじゃったら文化祭かの」
「そうそう! それが大正解なんよ」
「ホントは、ちゃんとしたホールとかでの演奏を聴いてみたいんじゃけど。難しそうじゃねー」
「ほうじゃねー。うちもその辺はもう諦めとるんよ。体育祭のリレーで我慢することにしとるんよー」
私とたーさんの目が合う。
「部活が悪いんじゃー!」「部活が悪いんよー!」
語尾だけは異なるものの、タイミングとしてはピタリと合っていた。言葉を、同時に口から発していた。2人の、アハハハと笑う声が坂道を下っていく。
朝早くから1日中にわたって強い陽射しを投げかけていた8月の太陽が、ようやく力尽きたかのように沈み始め山の端に達している。
並んで歩く2人の周囲を、赤く、黄色く染め上げていく。