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第4話 ペットボトルとクッキー、そしてタオル

 憂鬱な日が今年も遂にやって来た。私の高校では年に4度ほどスポーツイベントが開催されている。6月と12月の球技大会。9月の体育祭。これら3つはいい。いえ、良かったり悪かったりするのだけれど……問題なのは2月のマラソン大会(3年は不参加。推薦決まってる人達以外は受験でそれどころではない)。

 ちなみに私の運動神経が擦り切れているわけではない。もっとも、十人並みな運動神経なので目立ちようもないけれど。


 ワー。キャー。ワー。ワー。キャー。

 校門からスタートし、学校のある丘を下り、川沿いの土手道を経由して、折り返して、フィニッシュはグラウンドのトラック1周。男子10km、女子4kmでスタートは女子が先。そして開催は2月最初の日曜日。

 もう、思わず笑っちゃうくらいの構成でもって学校公認? なバレンタイン直前男子品評会となっている。

 必然的にマラソン大会でのゴールに設定されているグラウンドは真冬だというのに気合の入った女子達で溢れかえることになる。屋台が出ていないのが不思議なくらいの盛況っぷり……なんて不謹慎なことをちょっとだけ思ってみる。


 交際中の彼がいる女子'sは、タオルを手に握り締めてお目当ての彼氏がゴールを駆け抜ける瞬間を待ち構える。ズバリ言えば、私の高校の掟、多分その8番目くらいな女子だけに代々伝えられてきたルール。男子にタオルを渡す=彼女としての周知という公式が成り立っている。逆に言うとタオル手渡し権は彼女にしか認められてはいない。これは、周囲にさりげなく、かつ堂々と見せつけることで、バレンタインでライバルが現われないように、との牽制の意味合いがとても大きい(とされている)。……恐ろしいことに、この日タオルを渡さない=彼女として周囲から認知されないという裏公式ルールまで存在している。

 意中の男子がいる女子'sにとっても、とても大事なひと時。お目当ての男子に彼女がいるのかいないのか。いたと、いるかもしれないと、いないかもしれない、その差は5000kmくらいはある。更にはライバルの存在の確認などなど。と、このイベントにおける情報の価値はとてつもなく高価で、そして貴重とされている。なお、手に持っているのはペットボトルや紙パックの飲み物。あくまでも完走し終えて疲れきっている男子へ、しょうがないなーというそぶりで飲み物をプレゼントするという行為。バレンタインとは異なり、そのハードルはかなり低い(と言われている)。何せ、周囲は同業者だらけで、しかも盛り上がっているのだから。付け加えれば、飲み物を渡す=意中の男子という公式は成り立っていない。あくまでも完走を祝って渡すだけというコンセプトとされている。要するに保険だ。更に付け加えれば、コップに飲み物を淹れて……という行為は女子申し送り事項によれば11年前から全面的に禁止となっている。なんでも、Uの悲劇という聞く者の涙を誘わずにはいられない哀しい出来事が前年度に起きてしまったらしい(W、X、Y、Zでなくて良かった、なんて初めてその話を聞いた当時は不謹慎にも思ったりした)。

 ちょっと気になる子がいるけれど……的な女子'sにとっても、この行事は無視出来るものではない。この一派には渡す物にこれといった制限などは無い。……タオルと飲み物を除いて、という絶対的な不文律に抵触しなければ、という但し書きは当然のようにある。キャンディーとキャラメルが2大人気で、とにかく多彩、何でもあり(チョコは時期が時期だけに無い)。なお、一部の女子の間ではクッキーを誰彼かまわず配ろうという一見すれば博愛精神に満ちた計画が毎年のように立てられ、そして実行にうつされている。10km走りきった直後にクッキー……ちなみにこの行為は無差別テロ、と上記とは別の一部の女子の間では言われていたりもする。

 特に何もないけれど、という女子'sでも純粋に応援の歓声を上げてイベントそのものを楽しめる。

 全く興味なんて持てないけれど、という女子'sにとっても(ゴール付近の応援に参加しない女子は)登校から下校まで2時間もかからず、それでいて次の日は代休なので大変お得感に溢れている。

 つまりは、私の通う高校の女子'sにとっては、2月の最初の日曜日に開催されるマラソン大会は、(バレンタイン直前の)お祭りとして認識されているのであった。



 平凡な順位でマラソンをゴールし、早々に制服へと着替え終わる。私はこれからのイベントへ臨む気合が随分と欠けていた。同じクラスのタオルを手に持つ彼氏持ちグループの華やかな会話の輪からそっと抜け出すと、教室を飛び出していた。栄えあるタオル持ち女子のかもし出す空気に居たたまれなくなっていたから。

 廊下を速足で通って階段を登る。2階から3階、4階へと。音楽室に一番近い空き教室の手近にあった椅子に腰掛け、手にはタオルを握り締めたままボーっと天井を見上げている。

 うん、だって吹(奏楽)部の練習は今日もあるのだから帰るわけにもいかないし、今外に出ても寒いだけだし。疲れたし。……ネガティブな理由ならいくらでも思いつく。

……イケナイ。なんだ気持ちがやさぐれているような。

 ふるふると首を軽く振って立ち上がり、タオルの両端を掴んで軽く伸びをしてみる。すると、親友のサチが教室の入り口からひょこっと顔をのぞかして、中へ入りながら声をかけてきた。手にはクッキー袋を持っている。……む、今年は本命がいないことを知っていたのだけれど、まさかサチが恐るべきクッキー党に入党していたなんて……。

「何ボーっとしとるんねー。ほら、男子そろそろ帰ってくるよー」

「ほじゃねー。速い人はもうすぐなんじゃろうねー」私は無気力な声で返事をかえしつつ、サチの見ている方、グラウンドへと視線をうつす。

「なんねー、ちーとも気合入っとらんのじゃねー。そんなんで、ええんねー?」

「うー。ほじゃけど、ほら。たーさん、まだまだかかるんじゃろうけんねー」窓辺に立ち外を眺めているサチの横へ私は向かいながら、ポツリとそうこたえる。すると、サチが少しばかり驚いた表情をして言う。

「え? だって、たーさん……陸上部じゃろ。遅いゆうてもあれじゃろ?陸上部の中では少しくらい遅いだけなんじゃろ?」

 ああ、そうだった。うっかりしていた。去年のサチは意中の男子がいたんだった。手渡す飲み物を何にするかで当日までずーっとずーっと悩んだりしていたんだった。他の男子のことなんてまるで眼中に無かったんだった。

 私の簡潔すぎる言い分に納得できない顔をしているサチの方へ、顔を向けながら言う。

「ほんまにけっこう全員の中でも遅いんよ、たーさん」

 去年の光景が頭の中でフラッシュバックされていく。私は待った。とても待った。かなり待った。ゴール付近にいた女子大集団が徐々にパラパラばらけ始めていても。遂には待ち人が両手両足の指で数え切れるくらいの人数にまで減っても。

 手にタオルを握りしめ、冬の曇り空のグラウンドでただ立ちすくんでいた。あまりに遅いのでたーさんがどこかで怪我でもしたのでは? と心配で胸が痛くなったりもした。戻ってきたのは男子を5分割したとすれば5番手グループだった。……正確に言えば10分割したら間違いなくドベグループだった。

「いや、だって……陸上部なのに。あり……」サチは何かを言いかけていた。けれど、眉をぴくりと上げハッとした表情で、口に手を当ててモゴモゴと押し黙る。思ったままを口に乗せることをいつも恐れない大胆なサチだけれど、危険水域を見分ける感覚は人並み以上に鋭い。

 うん、何が言いたいのかは分かる。私も、正直に心のうちをさらけ出してしまえば、サチの言わんとしたことを全て否定なんてとてもしきれやしない。それが分かっているだけに、1%も同意したくなんてない。だから、悪あがきをする。

「なんかねー、ゆっくりでずーっと走るんは苦手なんよー」……まったく言葉が足りていない。それはサチの顔を見なくても分かる。

「えーとね、たーさんはね。200mまでなら速いんよ。体育祭のリレー見たじゃろ。知っとる?100mなら高校の県の大会で決勝じゃったし、200mも準決勝に進んでたりしとるんよー。ほいじゃけど……」何を言っているのだろう、私は。決してのろけているわけではない。自虐趣味もない。頭の中に、もやっと濃い霧がかかっているみたいだ。

「ほうじゃけど、距離がなごうなるほど……」言葉がつまる。出てこない。

 無言のまま聞いてくれていたサチの顔色が変化していた。

「うん、分かった。もう、ゆわんでええんよ。うちも、からこうようなことゆうて悪かった。誰にだって苦手なものはあるんよ。ただ、それだけのことじゃろ」

 サチはそう言うと私に腕を伸ばして、そっとハグをしてきた。されるがままに抱きしめられていた私は、何だかうるっときてサチに自らすがりつく。一瞬そのままぶわっと涙がこぼれてしまいそうになる。だけど、歯を思いっきり食いしばる。手を、ひらに指爪の跡がくっきり残るくらい強く強く握り緊める。ただの、1粒でも溢れさしてはいけない。心がそう告げていた。

 ……泣くことではない。自分の彼氏が、陸上部なのに、ほんの、いやかなりマラソンが苦手なだけだ。それは、恥ずかしく思うようなことでは断じてない。

 だらりと垂れ下がっていたままの両腕を、私は意思の力で持ち上げる。サチの背中に回して、力を込めてハグをし返す。それからパンパンと、サチの背中を柔らかなリズムで叩く。3度目のパンパンでサチが痛い痛いと笑いながら言い、ハグをほどいて私の肩を叩き始める。イタタタタと言って、私は左手で右肩を押さえる。

 え?と驚いた顔をしているサチへ向けてジョーダンと小さく叫び、次いで少し大げさにアハハハと笑う。サチも笑っている。

 気がつけば、近くの机に置きっぱなしとなっていたサチのクッキーを二人して食べていた。教室の窓越しにグラウンドを眺めていた。大きな歓声が、教室の中にまで風に乗って届いて来ていた。最初の男子が学校横の坂道に姿を見せたようで、つまりもうすぐ上位陣にとっては女子生徒の大歓声を浴びつつ走る、栄光に満ちたトラック1周の時間だ。


「なにしてくれよんねー。うちは Cookie Party のメンバーなんよー」クッキーをほおばりながら堂々とそう言い切るサチの声が耳に届く。ステキだと思う。ちょっとむせてもいる。ステキ過ぎると思う。

「まあまあ、これでも飲みんさい」私は、自分のバックからペットボトルを取り出す。多分ありがとうなんだろう、モゴモゴと口から言葉らしきものを発しているサチがキャップをひねり、烏龍茶を一口二口と喉へ流し込んでいく。何故だか、イタズラ好きな猫のような表情をしてニヤニヤと笑っている。クリっとした少し垂れ気味な愛らしい目が、いつもより下がっている。

「な、なんねー。ま、まさか実はうちが本命だったんねー。これは問題じゃねー。大問題じゃねー。二股なんて、いけんのんよー」

 サチがTVなどでよく見かける外国人の oh! no! ゼスチャーで、肩をすくめながらオドケている。

 え? と私はわずかの時間混乱した。次の瞬間、ハッっと重大な事情に気がつく。

 今日は、まさに今は、マラソン大会絶賛開催中で、男子部門のゴールラッシュがその開始の笛を鳴らそうとしている時だった。タオルを手渡すのは彼女の権利で、飲み物を渡すのは意中の子へのアピールで……。

「ま、しょうがないねー。うちの魅力には逆らえんゆうことじゃね。たーさんには黙っといてあげるけえね」そんなことを言いながら、サチは身体をかがめて腕を伸ばしてくる。私にではない。私のバックの方へと。

 その行動の意味する意図を誤解なく見抜く。バックの中に手を入れる。わずかの差でサチより早くタオルを取り出すことに成功する。自然と笑みがこぼれてくる。

「ブッブー。ペットボトルよりタオルの方に優先権があるんよー。ゆうことで、ホント残念なんよー」

 取りとめもない会話が繰り広げられていく。「寄こしんさい」「嫌よー」「ほらタオル。離しんさい」「キャー襲われる~」「ぐへへ、素直になりんさいやー」

 ドタバタと教室内を跳ね、駆け回っていた。1人はタオルを片手に。1人はペットボトルを片手に。空いてる手には2人ともクッキーが1枚。指先で摘み頭上に掲げていた。握るのではなく、そっと摘んでいた。まるでそれがこの場の大切なルールであるかのように。

 2枚の、グレー色したプリーツスカートがふわりと浮き上がるかのように時折めくれていた。物理法則に従い膝の上あたりがちらちらと見え隠れしていた。しかしながら、そこには色気のヒトカケラすら存在してなどいなかった。

 しばらく走っているうちに息があがっていく。隠れ体育会系ではあるものの、あくまでも文化系な吹(奏楽)部の女2人。おまけに4km完走して、まだそれほどの時間も経っていない。走りの限界が訪れるのも早かった。

 ハアハアハア。「うー、これはあいこじゃね」

 ハアハアハア。「ほ、ほうじゃね。これは引き分けでえいよね」

 ハアハアハア。「まあまあ、はい。クッキー食べんさい」

 あまりに自然な動作で手渡されたクッキーを思わず一口かじってしまっていた。口内へ、喉へ粉が張り付いてくる。

 ケホケホケホ。私はサチの手に握られていたままな私所属の烏龍茶を、奪うかのような勢いで取り戻すと、ゴクゴクと飲む。しばらく飲み続け、ようやく人心地着いた私は言う。

「走った直後になんてクッキーはないわー。これはホンマ鬼じゃね。ほら、あんたも食べてみんさい」

「うちは、クッキー党なんよ。自分で食べたらいけんのんよ」

 さっきまで食べていた事実は全く無視して、サチが堂々と言い切ってくる。

「まーえーよー」

「細かいことは気にせんのんよー」

 こうして、そもそも何の勝負をしていたのかすら分からない競技が、あっけなく終わりを迎えた。


 窓の外から、グラウンドのトラックの方から、一発の号砲が響いてくる。それは男子の1位さんがゴールした合図以外には考えられなかった。私とサチは顔を見合す。2人揃って教室の入り口に走り……出来る限りの早さで歩き始める。サチは、クッキー党としての使命感に溢れているようだ。

 私は、私の権利を、胸を張って行使する為に、向かう。



 上位でゴールした彼氏にタオルを手渡していく女子はみんなどこか誇らしげな表情をしていた。飲み物隊もお目当ての男子がグラウンドへ姿を見せるたびにそわそわとし、見ている方が照れてしまうような空気をかもし出していた。キャン(ディー)キャラ(メル)派も賑わいを見せていた。クッキー党も元気に行動を起こしていた。時間が、1分、30秒、20秒、10秒、5秒、秒刻みで早まっていた。本当の意味でのゴールラッシュが始まっていた。歓声がそこら中でわき上がっていた。


 10分、いや15分ほどのゴール前女子大集団のピークタイムが終わろうとしている。男子の、少なく見積もってもおよそ3分の1くらいの人数は既にゴールし終えている。

 2月の屋外。そうそう長時間立ったままで、目的もなくただ待っていられるものではない。あらゆる意味で関係者以外は、ポツポツと櫛の歯が欠けるようにグラウンドを去って校舎内へと戻っていく。

 いまだ居残っている中で、特にタオル組の構成員は悪い意味で表情に落ち着きがなくなってくる。まるで去年の私が、ここにはたくさんいる。

 今年の私は冷静であり平静だ。何せ2年目のベテラン。おまけに、まだ待ち時間に余裕があることすら分かっている。校舎内に戻り長廊下を渡り体育館横の自販機まで行きドリンクを飲み干して戻ってきても平気なくらい、待つ時間が長いことを知っている。けれど、この場から動く考えなんて、心にヒトカケラも無い。


 クッキー党が暴れて続けている、冬の寒空の下で。

 よくよく見れば、タオルにも、ペットボトルにも、紙パックにも、キャンディーにも、キャラメルにも、飴玉にも、ガムにも無縁な男子を目ざとく見つけては、クッキーを手渡している。……もちろんというべきか、当然のような勢いでペットボトル&飴玉にクッキーが割りこんだりし、わざとかき乱しているようにも見える光景も目に映る。近い将来の、バレンタインにおけるちょっとした修羅場を予感させたりもしている。

 しかしながら、何も貰えていない男子は皆無だ。少なくとも私が見ている限りでは、今のところ0人。恐らく、最後の1人がゴールするまで、冬の風に吹かれながら政党活動を継続し続けるのだろう。

 無差別テロと一部では言われているものの長年に渡って一向に撲滅されず、それどころか代々受け継がれている理由が、今年になってようやく理解出来る。去年は周りを見ている余裕なんてなかった。私の視界の中に現れては消えるように動き回っているクッキー党党員のサチが、なんだか大きく見える。私よりほんの少しだけど背の低いサチが、今はとても大きく見える。


 ゴール付近のざわめきを見つめながら、女子中集団のかなり後方で、私は待機している。

 と、そんな時。視線の端に何かデジャブー感をともなうものを捉えた……ような気がした。それは校門付近にちらっと存在していたように感じたものの、すぐに消える。もう一度見たいと強く願い、見つめる。

 息を吸って吐く。5回ほど繰り返す。分かっている、見えない。元々、そう、存在し得ないものは見えたりなんてしない。

 グラウンドへ目線を戻す。

 ぴくり、と首が跳ねる。心臓がリンゴンリンゴンと早鐘を鳴らす。とてもよく見知った顔が、何故か最後のトラック1周コースに入ろうとしていた。

 歓声のような悲鳴が漏れそうになる。喉を通過していく。私は、左手に握りしめていたタオルを口へ、勢いをつけ強く押し付け、更に右手をその上へしっかりと重ねる。

 中集団の最後方は、少なくとも今、まだ約半数くらいしかゴールし終えていない状況下で、歓喜の声をあげてもいい場所ではない。これはマナーですらなく、女子にも仁義というものがある。

 私はそっと、ゆっくりとした足取りで、一歩一歩じりじりと、靴の中の指先に力を入れながら前へと歩む。

 大きく見開いた瞳で、グラウンドのトラックをひた走る1人の男をただただ追い求め続けている。膝が震えているのか頭が、身体が少し上下に揺れている。残り半周。あと少し。 呪文のような祈りが唇から漏れていく。

 私はゴール後方へと躍るかのような勢いで飛び出す。バランスを崩していた。片膝をつきそうになる。視線はずっと前方を見据えている。一度でも見失えば、それが幻と化すかのように。起き上がる。声が出ない。喉が張り付いている。口をパクパクさせる。最後の直線。駆けている。目が合う。笑っている。笑い返す。けれど、きっと、私は。泣きかける。声が音となる。はじける。近づいてくる。1呼吸するごとに。

 視界へ広がっていく。

「たーさん!」


 ゴールした彼を追いかける。しばらく先でようやく立ち止まる。倒れそうによろめく。駆け寄り、支える。荒い息が、熱い。

「たーさん!」他の言葉なんて知らない。覚えたてのおさなごのように、たった1つの言葉だけを絞り出す。「たーさん!」


 突然、頭をポフポフとはたかれた。随分とのんびりした声が耳へと届く。

「疲れたわー。はよう、タオルくれぇやー」

「うん」握りしめ続けていたせいなのだろう。タオルの先がグチャグチャに歪んでいた。2人してくすっと笑う。

「わしの走りを見てくれとったんじゃねー。目が合ってちょっと照れて笑うてしもうたわー」

「うん」少し背伸びして頭をポンポンと、そっと叩く。あたたかな汗が手のひらへ直に熱を伝えてくる。

「なんしよんねー。待ちんさいやー、せっかくの髪のセットがバラバラするじゃろうがー」

「うん」短く刈られている髪に指を這わせ、くしゃくしゃと動かす。突風が吹いても乱れそうにもない、分かっている。

「まあの」たーさんがぽつりとつぶやく。「去年ののー、アキの顔が忘れられんかったんよ」

「うん」心配させてしまっていたのだ。ばれていたのだ。心が痛い。

「わしゃあ、そんなあ、はようないんよ。長い距離は」

「うん」知っている。1500mとか学年男子平均くらいだってこと。

「好きでもないんじゃ」

「うん」分かっている。全力で駆け抜けられない距離は、あなたにとって面白さの欠片もないってこと。

「おまけにのう、去年は朝から腹がぶり(とても)痛うてのー」

「うん」……ん? んん? それ、聞いたこと、全然、ない。くらくらしてくる。

「アキは去年なんも言わんかったじゃろ。何か言うてくれたんなら、わしも言うたんよ。ほぃじゃけど、あん時も後からでもなんも言わんかったじゃろう」

「うん」ええー……。私の、このあしかけ1年の、今日の憂鬱は……。

 ああ、そういうことだったのか。たーさんの、私が好きな部分が、今日の私にとっては最悪な形で1年間まるまるっと放置されていたのか……。不言実行。言い訳の類は基本しない。でも、聞かれればこたえる。逆に言うと聞かれなければ話さない。

「ほじゃけん、今年は、のー」何故だろう、後に続くセリフを私はきっと、既に知っている。外れようがない。

 手で頬を撫で回したいような、額にデコピンでも打ちたいような。

「今年は、のー。ちゃんと走ったんじゃ。遅いゆうてもこれくらいは、の」キラッキラな笑顔が私の目の前に存在している。

 理不尽なのは分かっている、だけど。

 思わず。力を込め、はたく。たーさんの背中は、それはそれはとても良い音で鳴った。

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