第1話 おっはよーとおはようございます
6月を少し過ぎた、7月にはまだ遠い頃。
高校の2年生になってからは、月に2日も朝から彼と待ち合わせをして登校している。
うん、分かっている。多分、きっと、どこかの感覚がおかしいのだろう。だからその辺りについては、あえて気にしないようにしている。
ん~、今日はいい天気だ~。
駅を出て少し歩いたところにある自販機の横で、私は彼を待っている。ポツポツと改札から出てくる同じ学校の子達を、見送るようにぼんやりと眺めていた。
夏服と冬服が混在しているその集団は、みんな同じ高校なのだけれど、違う学校の生徒みたいにも見える。ほんの少しだけど、不思議な感じがする。
やがて、彼が改札口に姿をみせる。
うん、時間通り。私との朝のデートで、遅れたことはなんと素晴らしいことにただの一度もない。約束したことはきちんと守ってくれる。私が彼のことを好きな点の1つだ。……今日を含めてすら朝の待ち合わせはまだ5回目という事情はこの際無視している。
私が早く来ただけ。待ってもらうより、彼を待っているアンニュイな時間が好きなだけ。
すぐに私を見つけたたーさんがいう。
「おっはよー」
朝一で、笑顔成分をゲットすることに成功する。ちょっと照れてしまう。
私は、にこにこしながら「おはよー」と返した。
「なんねぇ、いいことあったん?」
「うーん、内緒」
「なん言うよるん、教えてくれえやー」
たわいもない会話を続けながら、学校までの道を2人一緒に歩を進めていく。私より頭1つ分くらい背の高いたーさんを軽く上目遣いで眺めたりしながら。「雨が降らんかったら、デートにはいい季節よねー」なんて言いながら。
そんな2人をびゅんびゅんと追い越していくのは、いわゆるチャリ通のみなさん。
私の高校は、小高い丘の途中にある。他校の友達が言うには、ちょっとした山の中腹にある。
自転車だと最後の上り坂はきつそうだよねーって話をしていたら、彼が深刻そうな顔をして、じっと私の顔を見つめてくる。
「聞いて欲しい話があるんじゃ。これからは、一緒に登校できそうにないんじゃ」
いやいやいや! ちょっと待って! 油断していた! 朝からはやめて! 心の準備が~と心の声が訴えてくる。
まさか? 別れようなの……という悲しい予感は、実は5%も無い。
分かっている。だてに、長く付き合ってはいない。95%の予感が当たる。
それにしても、月2回というただでさえ寂しい数字が0になる未来というのは、想像するまでもなく哀しくなっていく。
「自転車ってええじゃろ! わしも、チャリ通にしようと考えちょるんよ!」
……きた。オモイコミ。
たーさんの瞳がランランと輝いている。そのつぶらな瞳が大好きな私は、想いとは裏腹ににやにやと口元がゆるんでしまう。
いけない。理由を聞いて、がんばって撤回させないと! 私の朝の、月にわずか2日のささやかな幸せを守る為にも!
「ともだ……友達が言うんよ。自転車で朝の爽やかな風を感じるひと時。最後の上り坂を征する達成感。この感覚を知らん奴らは、うちの高校を満喫できとらんって。そんなことを言われたら、のう。経験してみとうなるもんじゃろ。トレーニングにもなるし、チャリ通にしよう思うとるんじゃ」
……予想通りではある。意味が分からない。
「えーっと。朝が爽やかとゆうんは、なんとな~く少~しは分かるんよ。けど、そんなのいつでも一緒じゃろ? 上り坂の達成感なんて、そもそも部活でいっつも走っとるよね? 吹部(吹奏楽部)のうちでも週1で学校外周を走っとるもん。だいいち、うちと一緒に過ごせるこの貴重な時間より、惹かれてるってことなんね?」
うーん、それもそうじゃのーとたーさんがつぶやく。悩んでいるかのようにみえる表情を浮かべている。
ひょっとして、説得が成功したのかもしれない。
と、たーさんが突然立ち止まって上を向いて空を眺めている。……む。これは危険なサイン。
そんなたーさんの横を「たーさん、おっはー」と言いながら一陣の風が吹き抜けた。
最悪のタイミングだった! 自転車を発明した人を呪いたくなる。
「ほじゃったら駅からはわしが自転車を降りりゃあええが。ほいで、一緒に歩けばええんじゃないんかの?」
ん、んぅー。これは。
シチュエーションを想像してみると、満更悪い気もしない。いや、むしろ、ちょっと憧れる情景に思えてくる。
つまり、アリ……なのかな。自転車を押して坂道を登っても達成感は一欠けらも無いと思うのだけれど。まあ、それは月に2日だからokなのかな? 妙にこじれて0回になる悲劇は絶対に避けたい。うん、ここは妥協すべき!
「がんばりんさい! 応援するけんね!」
と口には出して言ったものの、その日の1限目の授業中にふと致命的な事実に気がつく。朝の登校はともかくとして、帰りのデートの時間と距離が減らざるを得ない。 今までは、学校から駅までの道に加えて、そこから私の家の最寄り駅の3駅先までの電車内もあったのに……学校を出て最寄り駅に着いたらデートがお終いということになってしまう。
下校デートの機会なんて朝デートよりも少ない事実はこの際置いておいて……何かいいアイデアが浮かばないかなと悩んだ。良い考えは5限目終了のチャイムが鳴っても、HRが終わっても、部活の間も、家に戻ってからも、全くこれっぽっちも浮かんでくれなどしなかった。少しばかり憂鬱な気持ちになる。
けれど、自転車を押すたーさんの横を一緒に歩いている光景。これは、抗しがたい魅力を秘めているというのも、確かだった。
なんだか複雑。
翌日の水曜日の朝、少しだけ曇り空の下、私は学校への坂を幼稚園からの親友兼部活仲間でもあるサチと並んで登っている。いつもの登校時間に比べれば人影は少しばかり多い。
丘の上の校舎から、風に乗ってかTpの音が坂まで届いてくる。音色から察するに4人で合わせをやっている。早いなー、朝練の更に早い版。ただ、まるでバラバラ。合奏ではなく分奏に聞こえる。否、分奏ですらなくラッパ4本が自己主張をぶつけあっているだけなような。
隣を歩くサチと顔を見合わせて思わず苦笑いしてしまう。
「あ、あれはどうなん。喧嘩でもしよるん?」
「そ、そうじゃねー。あれはそう」1音1音をゆっくりと噛み締めながら笑い以外を含まない4音がサチの口から飛び出てきた。「き、ん、か、ん」
なんて大胆な! サチの声が風とともに坂道を駆け下りている。
とっさに私は後ろを振り返り、先輩方(特に金管の)が視界にはいないことを確認して、ホッと胸をなでおろす。
吹奏楽部内における木管vs金管、時々打楽器も参加ないざこざは、中学でもあったし高校でも不変の真理のように存在している。仲が悪いというわけではない。けれど、紅茶と緑茶、烏龍茶くらいの差はある。
続いて、Tubの音色が風に揺られて私達のもとにまでやって来る。安定感のあるピッチに加えて、渋みすら感じられる音の集合体が耳へ心地よく響く。自然とほっこりしてしまう。
「金管もいいよねー」
隣からそんな声が聞こえる。さっきとは異なり、笑いの要素はかけらも含まれてはいない。うん、サチは率直であり大胆なのだ。おまけにたいがいの場合は運もいい。
「そうそう」私は言う。「たーさんが言うとったんじゃけれど、陸上部も中で3グループに分かれとるんらしいんよ」
「え?だって陸上はみんな走るんじゃろ?」
「なんでも、短距離と長距離、それと投擲で練習メニューからけっこう違うんじゃって」
「ふーん、どこも色々と大変なんじゃねー」と言いながらサチが、うんうんとうなずいている。
「カレーにシチュー、ハヤシくらいの差があるんだって」
「……ごめん。たーさんの例えはうちにはよう分からんよ。言いにくいんじゃけど、不思議さん成分多目よね」
言いにくいなら言わなければ良いのに、とは思わない。なにせもうサチとは幼稚園以来の付き合いだ。慣れてしまったというか、言いたいことを言ってこそサチだ。それにいくらかはサチのたーさん評に同意してしまっている私もいる。
「うん、うちもたまによう分からん時があるんよ」
そんな私の返事を聞いたサチが幾分呆れ顔をしている。
「へーい、かーのじょー。分からん思うても分かったふりくらいは、してあげんさいよー」
「あはははは」私は笑いつつも言葉をつむぎかける。「でもね」
とその時、後方から「おっはよー」という、耳になじんだ、聞き間違いようのない、はっきりした声が耳へと届く。
風はずっと向かい風のままだ。丘の上からふもとに向けて吹いている。
振り向いた私の目に、思っていたより随分と近くに自転車をこいでいるたーさんの姿が、映る。
速い。なんだか笑えるくらいのスピードで坂道を登っている。理由はすぐに分かった。今日の陸上部の朝練の開始時間には既に遅刻しているのだろう。
それにしてもさっきの「おっはよー」には、焦りめいた音が含まれているようには聞こえなかった。先輩に怒られたりしないのかな? とちょっと心配になる。もっとも、猛スピードで坂を登っているわけだから、少しばかりは焦っているのかもしれないのだけれど。まあ、想像に想像を重ねてもしょうがない。部の事情は部によって違うしね、と私はあっさりそう結論付ける。
白いカッターシャツの襟元が風をはらんでパタパタと揺らめいている。黒い学生ズボンは脚に張り付いて太もものラインを浮かび上がらせている。裾はペダルが1回転するたびに自転車とぶつかりパッパッと小気味良い音を立てている。
……油で裾が黒くなりそうだな、と心配になる。うーん元々黒ズボンなので気にならないのかも? でも、汚れは汚れだし。そうだ、自転車のあれ。名前は分からないけれどズボンの裾にまくやつを買って、プレゼントしようと思いつく。
そんなことをとっさに頭へ浮かべていた私は、少し照れながら、ちょっとだけ冷静な風で、顔は笑いながら、90%の嬉しさを帯びた声色で「おはよ~」と朝の挨拶をたーさんへと返す。
すれ違いざまに「急いどるけん、じゃあの」というセリフが返ってくる。うん、遅刻だもんね。急がないとね。
あっという間に近くなっていたたーさんが、一呼吸する間に遠ざかってしまう。
たーさんに合わせて後ろを振り向いていた姿勢が自然と前を向いていく。その途中で何かをみつけていた。
……私の笑顔が凍りつく。
間の悪い情景を認識してしていた。記憶が勢いよく頭の中で再生されていく。先ほど、たーさんがかなりのスピードで飛び出てきた曲がり角のすぐ後方には吹奏楽部の先輩が確かにいた。それも金管の、おまけにTbのパーリー(パートリーダー)が操る自転車がひょっこりと姿を現していた、はずだった。
私は息を吐く音よりも小さな声を出す。「後ろっ」と発しながら、サチの肘をポンと肘でつつく。
とももに、素早く身体全体で背後へと向き直る。直立不動なのはもちろん言うまでもない。ほんの少し遅れたものの、サチも素早く身体の向きをそれまでとは180度回転させていた。
「おはようございます!」
うん、私とサチの息はぴたりと合いアンサンブルとしては満点……だった。先輩の表情は……分かるはずもない。お辞儀をしている私達には見えるわけもない。
分類的には文化系部活ゆえか、一応はまったりとした雰囲気を持つ吹奏楽部ではあるものの、隠れ体育会系筆頭なのも吹奏楽部である。いくつかの約束事はあり、それは鉄の掟として存在している。中でも、挨拶に関してはそんじょそこらの体育会系より気合が入っている、間違いない。
何せ、毎日の練習に含まれている。姿勢を正しく保ち、正しい発声をすることは演奏にも良い影響を与えるものらしい。ということで楽器を扱う上で大切な呼吸法の訓練の一要素として、挨拶は単なる挨拶ではなく練習の一部とされている。
理屈は分かるのだけれども、挨拶は挨拶でよくない? と私なんかは思っていたりする。
そういったことはともかくとして……。
今回は少しばかりマズイ状況になっている。さっきの私の「おはよ~」は決して先輩へ向けた挨拶ではないということを分かってもらえているのであろうか。
不安が頭をかすめる。
横に並んでお辞儀をしたままのサチの全身も幾分緊張しているのが分かる。見なくてもはっきりと、気配がそうだと伝えてくる。
ふむ、冤罪はこのようにして生まれるわけなのね。なんて私は考えてみる。随分と余裕がある。いやいや……現実逃避してはいけない。落ち着こう。まずは、有罪の場合。
私達のパーリーから注意は確定で、学年長からも何かを言わそうだし、それからえっとえっとコンマスからも何かありそう。それも木管&金管のダブルで。あと副部長もありそう……うん、誤解されたままだと大反省コース一直線なのは間違いない。
次に冤罪の場合。……あ! 疑いが晴れなければ有罪と同じだ。
この間、わずか0.1秒。私の思考は加速度を上げていく。成果はまるでないけれど。
ここから逆転無罪を勝ち取るにはどうすればいいのだろうか。言い訳なんてものは、お話にならない。脳内弁護士は、既にとっくにさっさと白旗を挙げている。もはや、興味があるのはどれほどの量刑なのか、というくらいなようである。全くもって頼りにならない。
朝早くから緊張感を多分にともなうこんなひと時は、出来れば遠慮したい。きっと、この間1秒も経っていない。とても長い1秒が積み重なっていく。
傾けていた身体をゆっくりと持ち上げる。判決を聞く時間になっていた。
「おはようございます」という1音1音をゆっくりと噛んで含めるかのように発せられた9文字が耳へと流れ込む。季節は6月だというのに3月、いや2月の大雪くらいな寒気成分で構成されている。恐ろしい。
「あなた達ねー……」
……そこで止めるのは無しなのではないでしょうか! 何か言ってください。お願いですから。
無言が学校へと続く坂道を支配している。この場で発言権を有しているのは……少なくとも私ではないし、サチでもない。
間の抜けたトランペットのロングトーンが聞こえてくる。パァパァーパープップヘッ。あ、ミスった。
などと現実逃避しかけている私の耳に慣れ親しんだ声が聞こてくる。悪い意味で自由過ぎるラッパ音に覆いかぶさっていく、たーさんの声が。
「どしたん?なにかしこまっとるんよ?」
のんき成分を多量に含んだたーさんの声が、風上の方から耳へと届く。その声色を聞いただけで、たーさんが今どんな表情をしているのか容易にイメージ出来てしまう。場違いすぎて何だか笑ってしまいそうになる。私は頬の筋肉を押さえ込む為に、舌を歯で噛み締める。
先輩の自転車は相変わらず坂道で止まったまま動こうともしない。
と、坂の上からギュンと駆け下りてきた自転車が急停止する。私とサチを追い越して1m先くらいの距離で。
素早く自転車を降り、サイドストッパーをかけたたーさんがそこにいた。その横顔が私の網膜の片隅に飛び込んでくる。8割くらい真剣な顔つきをしている。
小学生のお手本として採用されそうな左向け左でパシッと姿勢を変え後方に向くやいないや、たーさんは声を発していた。「おはようございます」と。背筋がピンと伸びた見事なお辞儀もセットになっていた。
「突然失礼します。自分、この」そういって私達を軽く振り返り、再び前を向いて言葉を続けている。「この2人とは同学年で、かつ友人でもあります。先ほどの彼女のおはよ~は決して先輩へ向けての挨拶ではないのではないでしょうか」
再び、無言が学校へと続く坂道を支配している。この場で発言権を有している裁判長兼裁判官兼陪審員兼検事からのお言葉がどのようなものとなるのか……固唾を呑む……。1秒、2秒、3秒。
「あー、なるほどね」謎は全て解けた! というタイトルがよく似合いそうな表情をした先輩の姿が目に映る。「ほうじゃよねー、この子達が、そんなんねー。うんうん」題して、春爛漫、とでもいうかのような爽やかな笑顔を先輩が私達に向けてくる。
「ごめんねー。誤解しとったみたいなんだわー」
先輩! さっきまでのブリザードのようお姿は忘れる事にします、はい。
「いえ! 全ては田原先輩の誤解を招くようなことをしでかした私の不注意です!」「すみません!」
そう言って再び頭を下げている私とサチwithたーさんの横を、先輩が自転車に乗って坂道を「あんたらーも、はよ来んさいよー」と言って登っていく。
こうして事態はまさかの逆転全面勝訴で、ではなく元々の冤罪が無事に晴れて、結局の所は裁判なんて始めからなかったこととなって、幕を降ろした。
チューバの穏やかな音色が風に乗って耳に伝わっている。「ほんじゃーの、急いどるけえ」妙な勘の良さ? を発揮してゆえか、わざわざ戻って来てくれて、スパっと解決し、去り際にはにっこり微笑みかけてくれたたーさんの笑顔は、とてもとても普段の150%増しくらいにはまぶしく目に焼きついた。
学校に着き上履きへと履き替え音楽準備室へ向かう階段を登っていく。ニヤニヤとしながらサチが私の肩をこづいてくる。
「なかなかじゃったわー。とっさにあれは出来んよぉ。うち見直したーわー」
「じゃろ、じゃろ」私の目じりがもうずっと下がりっぱなしなのは、必然ともいうべきでどうしようもない。
「さっきからグラんグラんじゃねっ」
「な、なぜ分かるんよ!?」私の口元がさっきからゆるみっぱなしなのは、不可抗力なのでやっぱりどうしようもない。
「分からんほおがおかしいじゃろー」
と、その時。そこの2人、廊下で私語禁止じゃろ! という副部長の声が響いてきた。
思わず足が止まる。もちろん口も。……副部長の叱咤が更に続いて聞こえてくる。つまり私達ではない別の誰かが無謀にも廊下で立ち話をしていたらしい。な、なんて無謀な……。
私とサチはホッとした表情でつかの間お互いを見つめ、再び階段を登る。早朝の、6月の、心地よい風が上の階から下の階へと吹き抜けている。
うん、サチは率直であり大胆なのだ。おまけにたいがいの場合は運もいい。