第九話 開戦の号砲
「始まったか……」
夜天を切り裂く閃光を見ながら熊谷八郎は呟いた。
既に凶との開戦の号砲は放たれた。となれば、己がすべき事はただひとつ。
町の皆の様に、嵐が過ぎ去るのをただ待つのではない。自分は、今闘いへと向かった少女と同じ場所に立っているのだ。
八郎は茜へと目配せする。何も言わずとも、妻は自分の意思を汲み取り、直ぐ様動いた。
二人は向かう。店奥の暖簾をくぐった先にある、地下へと続くエレベーターへ。
そのエレベーターを使ってのみ行く事の出来る場所こそが自分達の戦場だ。
凶対策機動特課《DRAFT》。
日本の警察機関が政府機関《神祇省》と連携し、人に仇なす化物を狩るため組織した部署。
その鳴海町における対策室がここ、熊八堂の地下にはある。
熊谷八郎は、その《DRAFT》鳴海町支部の司令官だ。そして妻である茜も同様に《DRAFT》の構成員の一人である。
エレベーターは緩やかな加重と共に停止する。
大型モニターの他に、大小様々なモニターがそこにはあった。町中に設置されたカメラが四六時中映像を捉えているのだ。
茜はそのモニターを操作するための機器へと駆け寄ると、一番大きなモニターに商店街大通りで始まった戦闘の様子を写し出す。
八郎はそれを横目で見つつ、もう一人の仲間である男の元へと足を向けた。
まるで死体のように動かない、人。
椅子を並べ、それを簡易ベットとして横になっている男が一人。
八郎は頭を掻きつつ――、
「起きろっ中村ぁぁぁあッ――!!」
思いきりその男を椅子ごと蹴っ飛ばした。
ガタゴトグシャッ!! と、人が椅子に潰されたような嫌な音が響く。
八郎はその揉みくちゃになった者へと声を掛けた。
「中村っ、状況報告!!」
「ハイッ!!」
威勢の良い返事と共に、その男は立ち上がった。
ボサボサの髪とヨレヨレの制服。ずり落ちた眼鏡と半開きの眼。明らかな半覚醒。
「自分はさっきまで女の子とたちに囲まれながらお酒を飲んで、刺身に付いてる大葉で遊んで――って、いないっす!! 女の子達が消えましたっすよ司令!? まさか、凶が……!?」
「当たらずも遠からずだ中村。見てみろ」
男――中村は眼鏡を直し、大型モニターを注視した。
「凶――!? やっぱりっ!?」
「そうだ、戦闘は始まっている――」
モニターに写るのは少女と怪物。鳴海町が有する唯一の戦力である、神との契約を果たした者――人柱たる麻雛美朝と、忌むべき者、凶。
そして、今まさにその少女は神から授かりし力を解放しようとしていた。
人を越えた力。それはずばり、美朝がただの少女ではないということを意味している。
闘いの度、八郎と茜は共に噛み締める。大人がすべき事をたった十五の少女に託さなければならない無力感を。 そして、美朝が何故戦うのかを知りながらも止める事の出来ない不甲斐なさを。
けれど少女は自ら望んで行くと言う。
そうして悩んだ結果が今だ。
少女は英雄となり、この町を守る者となった。
喩えそれが、あくまで偶像に過ぎなくとも、自分達だけは彼女の味方でありたいという勝手な想いだけを持って、少女を見守ってきた。
それが正しいと。
彼女の姉との約束を守れているだろうかと。
ただ、それだけの事を信じて。
「――来ますッ!!」
茜が言った。
状況が動く。少女の全力は、この瞬間にも爆発寸前だった。
●
神威――それは文字通り、神が持つ力の事を言う。
美朝が紡いだ祝詞は即ち、その力を解放するための鍵だった。
美朝を覆う空気の圧が変わる。それは最早、人界ではない。その瞬間から神域へと舞台は移行する。
瞬間的な莫大量の閃光が生まれ、その中心で美朝は弓を引き絞る。
髪がたなびき、弦が軋む。歯を喰い縛り、目標を据える。
そして――行った。
瞬間、莫大量の閃光は瞬く間に収束し弾けた。
生まれたのは無数の矢である。雷を帯びた剛の矢が、化け物どもへと殺到する。
矢一本一本に込められた霊気は破魔矢の比ではない。
たとえ獅子であろうともただでは済まない。
自分の持てる最高の技を出し惜しみせずにぶつける事での最速の勝利。
それは、美朝自身が凶を嫌悪し、闘いを望まぬが故の行動だ。
受けられるものならば、受けてみればいい。
また立ち上がるのならば、何度だって撃ってやる。この世から消える、その時まで。
そして――無数の矢は、命中する。
乱れとび、大気に舞うは、霊気の残滓。
象の化物はその巨体ゆえ、避けることは叶わない。獅子の怪物はどうか知らないが、恐らく無傷では済むまい。
やがて、《鳴神之雷切》が撃ち尽くされた時。
美朝は光の中の影を探した。
「……ッ!?」
そして見た。
その影が、全くの無傷のまま、そこに屹立しているのを。
――なんで……!? 《鳴神之雷切》を受けきったというの!?
困惑、そしてそれと等量の焦慮が美朝の裡で膨れ上がる。
美朝の全力は確かに命中したはず。あの無数の矢を受け、立っている事など出来る訳がない。
しかし、あの獅子は口許の笑みをより深くしこちらを見ているではないか。
まるで、自分の焦りすらを嘲笑うかのように。
「チッ……!!」
美朝は舌打ちする。自身が最も忌み嫌う存在に馬鹿にされるこの恥辱。
「ナメんじゃ……ないわよッ!!」
言うが早いか集束した光はやがて雷の轟きとなって弾けた。
それは美朝の猛る怒りを具現した雷光一閃。
――しかし。
『バカな……』
次に声を挙げたのは相棒だった。
またもその一矢は獅子を葬るには至らない。
それどころか、
「当たっていない……!?」
影がゆらゆらと蠢きながら像を結ぶ。それはまるで陽炎の揺らぎのような空虚さだった。
「まさか……偽物?」
『分からん。だが、奴から感じる霊力は本物だ。アレが偽物だとは思えん……』
美朝にだってそんな事は分かっている。自分を納得させるだけの言葉が見つからず、聞いてみただけ。
だが、それも仕方ないではないか。自身が持つ最高の技が当たりもしないのだから。
苛立ちが強くなるのが分かる。燻った、行き場の無い想いが今にも沸騰しそうなくらいの熱を持つ。それは地獄の業火にも似た憤怒だ。
『冷静になれ美朝……』
その美朝の心中とは真逆の、底冷えする静かな声が耳朶を打つ。
神と人。タケミカヅチと美朝は、相互に深い同調を果たしている。その為、美朝にはタケミカヅチの、タケミカヅチには美朝の感情が流れ込んでくる。
ゆえにタケミカヅチは、美朝が抱く感情が戦闘において益を生まぬ事を感じたのだろう。
怒りは何も生まない。戦闘では重しになる。タケミカヅチは幾戦もの闘いを経てそれを知っている。
怒りや憎しみは、己を鍛える活力とはなる。だが、ひと度戦場に繰り出せば、それは敵に対する深い思い入れとなる。
敵はあくまでも敵。そこに感情はあってはいけないというのがタケミカヅチの考え方だった。
――五月蝿い。
声には出さず、美朝の言葉が届く。
お互いの思考が筒抜けであるからこそ、美朝は声を発しない。
それすらも億劫なのだ。
美朝の視線は凶から切れることはない。相棒の声すらも邪魔だとばかりに。
再び弓を掲げ、弦を引き絞る。
『美朝ッ……!?』
制止の声は遥か意識の片隅へ。
「何度でも、ぶちこんでやるわよッ!!」
一瞬で練り上げた気を矢へと変換し美朝は二度目となる《鳴神之雷切》を撃った。
雷の大瀑布が天上で弾け、獅子と魔象へ降り注ぐ。
全方位から襲い掛かるそれはさながら雷の牢獄。
これならば――避けられるはずは無い。
「それが全力だと? 巫山戯ているのか」
轟音入り交じる中、小さく嘆息する様な声音が確かに届いた。
それはこの状況にあって生まれた諦めの言葉などではなく。
心よりの、落胆を現していた。
そして――雷の矢が打ち尽くされた時。
その場所には先程と変わらぬ二つの影があった――。