第八話 神威
それは唐突な終わり。
流れていく平穏な時間が、いつまでもそこにあるとは限らない。
――否、そんなモノはとうの昔に消えている。
今のこの場所は、怪物達が跳梁跋扈する異界の地なのだから。
闇夜に浮かぶ月が、怪しげな青色を映す時それは起こった。
轟音。激しく打ち付けられたような音が、町中を駆け巡った。
それはちょうど、渋谷が風呂から上がった時だった。
それはちょうど、美朝が好物であるバニラバーを頬張っていた時だった。
その時、相沢琴音は今日のこの日を日記帳へとしたためていた。
誰よりも焦がれた想い人の帰還。一度だって思わぬ日はなかったその人が、ようやく高校生になろうというその時、琴音の前に現れた。
予感など何もなく、けれどこうしてまた出会えた事に、何やら運命的なモノを感じてしまう。
そう、まるで琴音が愛して止まないラブロマンス小説の様な運命的な出会いだ。
渋谷が守ってくれた愛犬メンチは、小学生の時二人で拾った子犬だ。
公園に捨てられていた犬を渋谷が見つけ、放課後は給食の残りを持ち帰って密かに面倒を見ていた。
だが、このままではいけないと思った渋谷が、自分で飼うと言い出したのだが、親の反対を受けそれは叶わず、かといって琴音の親も難色を示した。
けれど二人で土下座し、これでもかとお願いしてようやく飼う事を認められた。そんな時、程なくして渋谷の転校が決まったのだ。
両親が死に、失意のどん底へと落ちたであろう渋谷の様子は、まだ幼かった琴音でも容易に見てとれた。
祖父の元へと行く渋谷を引き留めることなど出来ない。それは琴音の別れたくないという、ワガママだからだ。
だからといって、あの様子の渋谷が、新たな地で立ち直る事が出来るとは思えない。それが出来るのは自分しかいないとさえ思っていた。
恋する乙女の妄想に違いないと、今の琴音は思う。
あの時の自分は何も出来ないくせに、傲慢にも自分といる事が渋谷にとって一番だと考えていたのだ。
恥ずかしい。再会した渋谷を見て、改めてそれが間違いであったと思える。
再開した彼は、まさしく琴音が知るままの彼だった。
……いや、琴音が最初そうだと気付かないまでに渋谷は格好良く、男性的に成長していたのだ。
それは、恋心を持つが故の贔屓目に違いなかったが、琴音はそんな渋谷の事を思う度、顔に熱が集まってくるのだった。
「早く……会いたいなぁ……」
知らず、心の声が顔を出す。それは幾度も想い続けた願い。
けれど、今日からはその意味も違う。願いは現実のモノとして琴音の前で成されるのだから。
いつだって会える距離にいる。毎日顔を会わせる事が出来る。
それが、堪らなく嬉しい。
気持ちが溢れ、琴音の筆が乗る。それも仕様のないことなのかもしれない。
だから、この気持ちを書ききるにはまだまだ時間が掛かりそうだった――が、
「――?」
唐突に琴音の意識は切り取られた様に別のモノへと向けられた。
それは音だ。ズシン、ズシン、と連続した重い音が琴音の耳を叩く。
これでは集中が乱されて書けない。せっかくの幸福な時間が失われる事に耐えられない。
たまらず琴音は立ち上がると、やや苛立ち混じりにカーテンを開け、窓の外を見やった。
闇の中、うっすらと街灯の光に映し出されたのは巨大な影だ。
重い音を響かせながら、影は商店街の通りを窮屈そうに進んでいた。
何も、窓の外から顔を出したのは琴音だけではなかった。
誰もが同じ様に不思議そうな顔をしながら、町の人々は影を注視した。
「――えっ……!?」
琴音は我が眼を疑った。
「何……あれ……?」
超巨大。まさしく見上げんばかりの巨影は琴音の知る限り、ある動物を想い起こさせた。
ウネウネとくねる長い鼻、大きな蹄で踏み締める丸太のように太い脚。そして、羽の様に広がった両耳と鋼の様に堅牢そうな肌。
まさしくそれは、象に違いなかった。
一目見て分かる異質な存在は、この鳴海町を悠然と闊歩している。最近、怪物が現れる頻度は徐々に短くなってきてはいたが、同じ日に二度も現れるなどということは今までに無いことだった。
琴音はのしり、のしり、と一歩づつ進む象の化物の背に、別の影を見た。
昼間、現れた獅子である。
威厳に満ちたその眼光はまさしく百獣の王のそれ。。
腕を組み、視線は真正面へと向けられている。口許にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
琴音はその様子を見てこう思った。
まるで――誰かを待っているようだ、と。
それは獲物が現れるのを待つ、狩人の眼差しだ。あの獅子の怪物は、仕留めるべき獲物が来るのを待っているのだ。
――この町の、英雄を。
琴音が知る限り、怪物と闘う力を持った者。
彼女のことを、琴音は知っている。クラスは違ったが、同じ中学校で過ごしたのだから。
いつからか怪物が現れるようになり、それと同じ様に闘う者が現れる。あたかも最初から意図されていた様なこの状況は違和感そのもの。
怪物が現れるという異常と、倒す力を持つ少女という異常。そのなかで暮らす自分達は、あくまで正常で有らんとするならば知らなくても良い事というのは必ずあるのだ。
自分達は守られていればいい。そう思っているからこそ、琴音や町の人々は、こうして暮らす事が出来ている。それを余計な事をしてまで壊す事はない。
変わった非日常も、慣れてしまえばその瞬間から日常へと変わる。そうして人々は思考を放棄し、順応したのだ。
そのなかで唯一人々は願い、思う。
英雄がまた、自分達を平和な日常を取り戻してくれるだろうと。
そして、その願いが今この瞬間に英雄を呼んだ。
「――っ!?」
バッと、闇夜を切り裂く一陣の閃光。
真っ直ぐに商店街の大通りを駆け抜け、獅子の怪物へと向けられた閃光は狙い過たずに照準されていた。
しかし、口を弓なりに歪ませた獅子は、まるで意に介した様子もなく、片手で払い除ける。
その動作だけで、昼間の一つ眼の怪人とは別の次元にいるのだということが分かる。
あれは以前、この町を襲った蜥蜴の化物と同じ類いだろう。いわゆる親玉という奴か。
確かに、危険な相手というのには代わりない。しかしながら、この町の英雄はそれを討伐しているのだ。
だからきっと大丈夫。琴音はそう思いながら、いつもの様にその戦いが終わるのをじっと待つことにした。
●
「やっぱり効かない、か」
先制の一矢。それをいとも容易く弾かれた美朝は、落胆する事なく次の手を考えた。
「あのクラスになるとただの破魔矢の効果は薄いのよね」
以前の闘いで、それは嫌というほど知った。あの時の美朝はまだまだ未熟。相棒である、神――タケミカヅチの力を半分も引き出せていなかった。
出来る事は、己の持つ神気を乗せて放つ基礎とも言うべき破魔矢のみ。
だが、今の美朝は違う。あの闘いの中で成長し、タケミカヅチとの親和性を高め、まさしく相棒とお互いが認め合える力を手にいれた。
タケミカヅチは、雷の神。矢の扱いに長け、まさしく軍神とまで呼ばれた戦場の花。
凶という、人に害をなす敵を刈るのにこれ以上ない力を持った神だ。
凶を根絶やしにする。
美朝が求めたその為の力の象徴こそが、この神器《梓弓》を介して美朝に神の力を与える、神――タケミカヅチなのだ。
「あのライオン、さっきからにやにやしてムカツクのよ。いい気になるんじゃないわよ」
巨象の背で、ニヤリと笑みを浮かべる獅子。目算五十メートルの距離からも分かるその人を小馬鹿にしたようなその態度は、ひどく人間らしく、ともすれば美朝の琴線に激しく引っ掛かる。
「化物なら、化物らしくしてなさいよ……ッ!」
凶にも思考レベルというものが存在するらしく、いわゆる一つ眼の化物どもは眷属と呼ばれ、感情を持たない傀儡のようなモノだ。
対して、神格級と呼ばれるモノ達は人の言語を理解し会話できる。個として感情というものを持っているようだ。
『奴等もあれで神格。国津罪、天津罪を犯した荒御霊とはいえ、一応は我等と同じなのだ』
低い男の声が帳の中に木霊する。
声の主は美朝の掲げる弓から意思を天上――高天原から、現世――葦原中国へと表出させる神、《タケミカヅチ》だ。
神器を介して、契約を結ぶ美朝の意識は常にタケミカヅチと同調している。云えに先の言葉に、タケミカヅチは思わず反応せずにはいられなかった。
「分かってるわよそんなこと。貴方が同胞を殺す事に、ある種の使命感を感じている事はね。だから私は貴方と契約をする気になったのだし、貴方も私を選んだ。けれどね、タケミカヅチ。奴等は私が憎むべき敵であり、化物以上のモノではないのよ。いくら貴方と同じ神様であっても、それは変わらないわ」
だから、と美朝は言う。
「力を貸しなさいタケミカヅチ。同胞殺しが貴方の使命なら、私のこの闘いはただの復讐劇。奴等を根絶やしにするまで、終わらないのよ」
そう、美朝は奴等を許さない。
いくら人間に近く、感情を持ったモノであろうとも分かり合えるとは思わない。
奴らは劣等にして害悪。ゆえに死すべし。そのすべてが美朝の怒りに触れるのだ。
「行くわよタケミカヅチ――」
視界に納めた敵を睨み付け、美朝は掲げた弓に力を込めた。
相棒の力を引き出し、現世にその権能を具現する。
自身その物を媒介として練り上げた力は、現世の物理法則を完全に逸脱した神の力その物だ。
美朝は呟く。その力を解放するための最後の鍵を。
――祝詞。
「御刀の手上に集まれる血、手俣より漏き出でて、成れる神。我が名は――建御雷ッ!!」
迸る閃光。轟く雷鳴。即ちそれは雷神。
「神威――《鳴神之雷切》――ッッッ!!」
叫びと同時、神の権能がここに顕現した。