第七話 浴場にて
ちゃぷんと、小さな音と共にわずかな波紋が浴槽に広がった。
「ふぅ……」
身体の芯にまで染み渡っていく熱が心地よく、美朝は思わず息を吐いた。
ん~、と伸びをして身体中の凝りをほぐす。目一杯伸ばしてもなお、あと二人は余裕で入ることが出来るであろうこの浴槽があるのが朝日荘の浴場である。
母屋で過ごすことが主な美朝も、入浴の際にはここを使う。
大浴場とまではいかないにしても、二、三人が同時に使うことが想定されているこの浴場は職人の技が散見されるオール桧だ。
全部、木という事もあって手入れが大変だと思われがちだが、美朝が生まれてこのかた一度も故障したことが無い事もあって、かなり丈夫な造りのようだ。
それもこれも、この朝日荘の元々の経営者であった祖母がこだわり抜いた故のモノだろう。と言っても流石に薪で炊く様な事まではしていないのだが。
美朝は壁に寄り掛かると、目を瞑った。
今日はいつもより疲れた様な気がする。思った以上に今日の凶との一戦が堪えたのだろうか。
いや、それはないだろう。霊獣級――いわゆる神格クラス――が出てきたとはいえ、美朝が相手取ったのはただの使い魔のみ。
奴等は数が多いだけが取り柄の知能の低い雑兵に過ぎず、死線を潜ってきた美朝にとってあの程度の数は全く苦にはならない。
――どうせなら、あのライオンとやっても良かったのに。
美朝は不満気に心中で溢す。
ともすれば、奴等が纏めて襲って来ればいいのにと不吉な事を思うほどに。
けれど、それは叶わない。奴等がこの町に来る周期はランダムだ。それは奴等を倒滅すべく結成された組織『DRAFT』でも分かっていない。
それに、奴等は個人主義を主としている。徒党を組み、ある種のコミュニティを形成しているというのは今までの事例からも観測されていない。
もっとも、これから先無いとは言えないのも事実ではあるのだが。
それほどまでに、奴等――凶についての情報は無いという事を意味している。
美朝はそもそも『DRAFT』の末端に近い。あの獅子は美朝の事を『紫電の巫女』などと仰々しく呼んでいたが、とんでもない話だ。ただ偶然、神と呼ばれる存在と適合出来ただけの事。
そして美朝はそれでいいと思っている。
自分が必要とされているのならば。自分が望む事をさせて貰えている現状に、不満など無いのだ。
奴等をこの手で根絶やしにするという、ただその目的を果たす事が出来るのであれば、それでいい。
そんな自分は異常だろうか。
――そうね。異常なのよね。
けれど、それは自分だけではないだろう。この世界はそもそもからして狂っているのだ。
この町も。人も。この場所が世界の中に存在している事が異常なのである。
普通ならその事に気付かない。それはコインの裏表の様なモノだ。
お互いがすぐ近くに存在しているというのに、その事に気付く事が出来ない。
だが、この町は出来る。いや……そういう風になっているのだ。
異端で異常なあの怪物達がこぞって襲い来る鳴海町。そこで過ごす人々の順応の早さ。そして、怪物の存在がごく閉塞的な状態でしか認知されていないこの世界。
だからこそ。組織はこの町を特異点と呼ぶのかもしれない。
そして、今日。
また一人、この町にやって来た者がいる。
――渡会君……か。
美朝は出会った少年の事を思う。
彼もまた、異常に近い所にいる。来て早々にして凶の襲撃に出会し、それでいてなお、彼はこの町から出ていこうとはしない。
やらなければならないことがある、と彼は言っていたが、この異常と秤にかけてもそのやらなければならないことの方が重いというのか。
彼は怪物達の存在に最初は驚きを見せていた。
それは常人ならば当然取る反応である。怪物が出るなどという情報は外部には殆ど流布されていないし、ましてや彼はこの町から程遠い田舎で暮らしていたというのだから無理はない。
もっとも、彼とて今の様な反応は徐々に失われていくだろう。それがこの町の異常の一つなのだから。
おそらく、彼とは友人にはなれない。
渋谷は気付くだろう。麻雛美朝が自分とは違うという事を。
美朝は別にその事を悲しく思う事はない。それは今までの生活の中で嫌という程分かっている。
町の人々が描く、偶像の英雄。自分はその役割を演じていればいいのだ。
それ以上は必要ない。自分の目的さえ見失いさえしなければ。
美朝は立ち上がり、浴槽を出る。
ノブを捻り、シャワーで身体を流す。
少しぬるめのお湯がいい。今の自分は火照り過ぎている。
この胸につかえるモヤモヤも、シャワーと一緒に流れ落ちればいい。美朝はそう思ってお湯を浴びていると、
「――ッ!?」
ガタッ、という物音が脱衣場の方から聞こえてきた。
誰かが入ってきたのか? いつもならこの時間は誰も入らない。だが、今日に限っては違うのだと、美朝は遅まきに気が付いた。
――渡会君っ!?
そうだった。今日からは新しい入居者がいるのだ。
現在、朝日荘に住むのは三人。めったに部屋から出てこない一人を除いて、そのいずれもが女性なのだ。
ともすれば、今彼がこの浴場を使おうとしているのは現在時刻が男性の使用時間になっているということ。
どうやら思いの外、長風呂だったらしい。
美朝はどうすることも出来ず、焦りだけが増していく。
このままでは渋谷が入ってくる。自分の着替えがあることに気付いて引き返してくれれば御の字だが……いや、やっぱりだめだ。異性に脱いだ下着を見られるなんてそんなの無理。
けれど、今はそれを遥かに上回る切迫した状況だ。
下着なんてとんでもない。裸を見られるかもしれないのだ。
――ラッキースケベ? 冗談じゃないわよっ!!
美朝は舌打ちし、どうすべきかを考える。
すりガラスの向こうで、人が動くのが見える。もうすぐこちらへ向かってくる。
幸いというべきか、こちらの様子は湯気で曇っており、あちらからは見えていないようだ。
いや、待て。ここはあえて声を出して自分の存在をアピールした方が良いのでは?
そうすれば彼も誰か入っているだろうと分かるし、最悪の場面は免れる。
――よしっ、これだ。
思うが早いか、美朝は声を出そうとして、それが無駄だと気付いた。
――だ、ダメっ! もう入ってきちゃう!!
すりガラスの向こうに浮かび上がるシルエットは、紛れもない男性のモノ。
思いの外広い肩幅と、逆三角形の肢体は、ガラス越しであってもくっきりと分かる。
間に合わない。美朝は自分の身体が見られる事を覚悟する。それでもなお、最低限隠すべく、その場にしゃがみこみ、背を向いた。
瞳に涙が浮かぶ。もう嫌だ。なんでこんな事に。
お姉ちゃんごめんなさい。私、もうお嫁に行けません。
美朝は顔を真っ赤にし、半ば泣き顔でその身を震わせた。
ガラス戸がキュッという音を立てる。そして――、
「あっ、シャンプー忘れた」
バタン、と戸が閉まった。
遠ざかっていく足音。そして人の気配が消えいていく。
美朝は恐る恐る振り向き、ガラス戸のそばまで歩くと、隙間から僅かに顔を覗かせた。
――だれも、いない……。
安堵。へなへなっと身体から力が抜けていく。
一瞬の緊張が嘘のようだ。
しかし、それは束の間の安息。彼はまたすぐに戻ってくる。
美朝はすぐさま浴室から飛び出し、濡れた髪をそのままに、慌てて服を着る。
そして美朝は自室へと向け走ろうとした時、その目の端にちらと映るモノを見た。
「~~~~っ!?」
美朝は顔を真っ赤にして走った。
今日はもう寝よう。そして忘れてしまうのだ。
だけど、これだけは忘れない。
――渡会君、覚えてなさいっ!!
●
渋谷は、わざとゆっくり歩いて自室と風呂場を往復した。
――マジで危なかったぜ……。
渋谷は本当にシャンプーを忘れたわけではない。
脱衣所にあった服に気付かなかった自分が悪いのだが、風呂場にまだ人がいたのだ。
すりガラスを少しだけ開けた一瞬、見えたのは紛れもない女性の肢体。
滑らかそうな白磁のように白い素肌。女性特有のなだらかな腰付き。
背中側しか見えなかったが、あの青みがかった髪色は、麻雛美朝――この朝日荘の大家で間違いないだろう。
我ながら、なかなかの機転の効かし方だったと思う。あのまま風呂場に直行していたら、何処かの漫画の主人公らしく、ラッキースケベの後の顔面グーパンチだったろう。
いや、それでは済まないかもしれないのだ。何せ、美朝はあの怪物を一人で一網打尽出来てしまう能力の持ち主だ。渋谷など、苦もなく絶命させられるだろう。
首の皮一枚で繋がるというのはこういう事なのだ、と渋谷はふぅと息を吐く。
さて、と戻ってきた渋谷は再び服を脱ごうとする。
流石に、風呂場に人はいない。これでまだ居たとあってはもうどうしていいか分からない。
だが、
――あれっ……。
渋谷は固まった。
シャンプーが、脱衣籠の中に置いてある。
これは渋谷の物で間違いない。渋谷はシャンプーを忘れたわけではないのだから、今手元に無くて当然だ。
だからこそ、今ここにあるのは渋谷のミスに他ならない。
渋谷は、シャンプーを忘れたと言って、一度脱衣所から出たのだから。
渋谷の頬に嫌な汗が伝う。ガクガクと身体が震えてきた。
明日がこれ程怖いことはない。
まさしく水に流してほしいと、渋谷は切に願うのだった。