第四十七話 恐怖を超えて
間髪入れず、英雄が来る。
振るった軌跡は縦一文字。大上段からの一振りは英雄が持てる最速の一撃に違いない。その名は雲耀。示現の型の一つである。
あわや一撃。気を抜けばそこで終わりという太刀を九重は紙一重で避け続ける。
しかしそれも時間の問題。その実力の均衡は崩れ始めているのだから。
単純に速い。刹那を感じる間もなく、その姿は眼前にまで迫り、かと思えば遅いとばかりに背後へと回り込まれる。おまけに風刃まで叩き込まれたとあってはその力を認めざるを得ない。辛うじて炎孤を身代わりにすることで致命傷にはなっていないが、それはいつまでもは続かないだろう。
間合いが遠すぎる、などという疑問さえ浮かばない。遮二無二になって体を横に捌けば、すぐ傍らを死の風が通り抜けていく。英雄はその間隙に乗じて、ここぞとばかりに肉薄するのだ。
いったいその太刀筋はどこで仕込まれたものなのか。示現流。現代でもその源流は途絶える一方であるというのに、相手を斬るという真の意味を体現するものなど更に稀だ。
この者の出生を知ればそれも分かるのだろうか、などという、ふとした疑問の答えは、
「疾ッ――」
神速の疾風となって返ってきた。
研ぎ澄まされた剣閃は揺るがない。確固たる意志が英雄となった少年を動かす。そこに付け入る隙など、もう無かった。
そう、これが人だ。儚さと強靱さとを併せ持つ矛盾存在。
ゆえに九重はそれを尊く思うのだ。
ああ、そうだとも。自分は人を好んでいる。愛しているのだ、その輝きを。
触れれば消え去ってしまうような微かな輝きを守りたいと感じるし、その揺るぎない強さに憧れるのだ。
だがけっして汚れてくれるな。そんなものは見とうない。
ゆえに問いかけ続けよう、その価値を。
儂の想いを価値あるモノへと変えてくれ――。
「雄ぉぉおおおおおッ!!」
「ココッ、良い、良いぞ!! 英雄よ!!」
英雄が応えてくれる。己が持てる力を絞り出し、粋を尽くして自分へと、向かってくる。
それが堪らない。嬉しいのだ。
そうだ、それでいい。その全てが愛おしいのだ。
「神威――『布津之太刀・天地常世』ッ!!」
ここぞとばかり、極大まで高まった神気が一斉に弾ける。
剣光を迸らせ権能によって生まれし風は、白刃の後押しを受けて数えるのも馬鹿らしい幾億の斬撃へと変じ、九重へと殺到した。
さながら嵐。神の威光の体現。天地常世、全てを切り刻む剣技の極致がその爪牙を突き立てる。
――避けること叶わず。
九重もまた限界だった。幾ら莫大な神気を内包しようとも、いずれは底をつくのは道理というもの。ましてや九重は凶としての性質上、人々の信仰を得られない。
ゆえに望んだ最後の一戦。ここで使い果たして構わぬと決めた戦で思い通りのことが起こったのだ。満足以外の何も無し。
消えていく。生への渇望すらもその斬撃は無念と切り捨てる。たぐり寄せる為の糸は全て断ち切られる。
そうだ、終わって良い。これこそが九重の望んだ終わりよ。
魂が消失する。魂と魄の乖離。霊気の昇華。この世に存在していた九重という魂が天上へと消えゆき、世界の一部へと還っていくのだ。
最中、最期に九重が思うのは一人の少女の姿だった。
己の後悔と向き合い、彼女は前に進むことが出来ただろうか。
それはただの気まぐれに過ぎない出会い。かつての少女にそうしたように、たまたま出会った少女があの者に似ていたがゆえの逢瀬。
だが少女は自分の心を見透かしていた。そんな戯れすらも慈しむように、自分とあなたは同じだからと言葉を重ねて。
そうとも、自分は悔いていたのだ。人の愚かさに失望し、それでもなお人を愛していることを。だから答えが欲しかった。その価値を問いたかったのだ。
そしてそれは叶った。
声を――聞いた。英雄に向けられた想いを。
それは九重が望んだ、人の輝きそのものだ。
だから満足している。後悔など無い。そのはずなのに――。
「っ、九重ぇええええええ――――!!」
聞こえた。名を呼ぶその声が。
――千草。
少女はこちらへと駆け寄っている。今際にある九重に向けて。
その瞳には涙を湛えている。顔を真っ赤にして、必死にこちらの名を呼んでいる。
あぁ、何故だ。主は人の子であろう。その声を届けるのは英雄だろうに。
だが、それでも。逡巡の中にあったとしても、己の想いに明確な形が無くとも。
少女は自分に想いを届けたのだ。
それはまるで、神に祈りを捧げるかのように――。
だから九重は消えなかった。
たった一人でもその信仰は神を象るのには充分だった。まつろわぬ神々である凶。それが信仰を得た時、生まれるのは果たしてなんだ。
かつて同様の現象が起こったことがある。
世を荒らし尽くした神々が、その凶性を封じる、あるいは己から切り捨てることで、善性を獲得するという現象。
九重は間違いなく凶である。信仰を持たない堕ちた神格。しかし彼はかつて真に神格だった存在でもある。
彼は、そもそもの順番が逆なのだ。
己の凶性を封じ、己から切り離すことで獲得した善性。
かつての名は玉藻御前。悪姫に化け悪事の限りを尽くし汚れた魂。
その魂を『殺生石』へと封じ込め、彼は善性を獲得した。
そして九重となった彼は、再びその神格を汚し、凶として再誕した。
それが再び、八神千草という少女によって神格へと成る。
地下から吹き上がる拍動。新たな神の到来を歓迎するかのように、地龍が己の霊気を噴出させる。
至れ、至れ、至れ。
変革せし世界の法。歪めた世界を真実へと化けさせるは、九尾がもたらす神の威光なり。
ゆえ、刮目せよ。
これが、神域なり――。
「神意顕創――篝火狐鳴――」
●
「なっ、――!?」
渋谷が瞠目する。
それは自らの手の内に残った手応えとの齟齬。消えゆくだけとなった九重の息吹が吹き返したのだ。
いや、もはやそれは別物と言っていい。奴はもはや汚れし神格などではない。
祈り、願いを受けて世界に己が法を作り出す、紛れもない神格であるのだから。
かつて、渋谷が辛うじて勝利した凶・ハクオウ。
奴もまた己の求道を貫き通し、世界に亀裂を刻む法へと至った。
そしてまたこの時。
鳴海町が特異点たる所以、『龍穴』が吹き上がる。
渋谷と九重、二つの神気がぶつかり合うそのグラウンドの中央にて空いた大穴が、地の底より霊気を放出している。
神気が文字通り神の持つ気のことであるのなら、霊気はこの世界における根源的な力のことだ。
ならばそれを浴びた神格は、世界からもたらされた祝福を受けて、己の権能を持って世界を創造する。
ゆえに起きた事象。それは世界の意志でもある。
だから誰もが気付かない。気付けない。
なぜならばそれが世界の法であるのなら、そこに生きる者は、ただそういうものであるとしか認識できない。
ここではただ、神の恩恵を得る渋谷だけがその変化に気付くことが出来た。
――世界が闇に包まれる。
全てが呑み込まれる暗黒。五感全てが渋谷の中から消失し、己がどこにいるのかすらも分からなくなる。
色を失った世界はただただ、無。太陽のにおいも、そこに息づく人々の声も、誰かとふれあい感じる温もりもさえもが、彼方へと通り過ぎ、失われていく。
孤独。隔離。孤立。隔絶。絶縁。
世界とのつながりの消失。
寄る辺なき渋谷という人格に残された唯一が、恐怖という感情だった。
「――恐いか」
声、なのか。
失われた世界の中、聞こえたという感覚すらも遠くに感じる渋谷には、それが声だったのかどうかも分からない。だが必死になってその音に縋る。
そうしなければ、己を保てなくなるから。
「畏れよ。そして己に刻み込め。これが全てを覆う無の世界」
その声は、英雄に語りかける。
まるで、諭しているかのように。
「あぁ英雄よ。主は言ったな、全てを救うことが己の望むことであると。ならば今、その恐怖に竦んだ己がいったい何を守るというのか」
これが最期の問答。英雄よ、答えよ。渋谷は急かされている。この終わった世界で、お前に何が出来るのかと。
この世界は、渋谷の恐れそのものだ。体の震えが止まらない。隔絶され奪われた世界にて、
「……俺は、知っている」
渋谷は答えた。
「俺はこの孤独を知っている。終わりを知っている。恐怖を知っている。俺には力なんて無かった。全てが終わっていたとしても、それに気付く事さえ出来ずにただ震えているだけだった」
ここには誰もいない。スサノオも美朝も、みんなも。
だから、吐き出す。渡会渋谷だけが持つ、己の心を。
「俺は望んでいた。もし、誰かを守れる力があるならそれをくれと。もし、誰かを救うことが出来たのなら、俺は俺でいられるんだ」
それは渋谷自身の欲。醜く、汚れた底に溜まった泥。渋谷のもっとも人間の部分。
「そのためなら俺は世界だってなんだって救ってみせる。俺は、一人でいるのはもう、嫌なんだよ」
手を取っていたい。誰かと共にありたい。
渋谷は両親を奪われた。
かつての渋谷は、自分から両親を奪ったのは世界だと思っていた。
理由無き死など認められるものかと。常に自分を納得させる理由を求めていた。
だから渋谷は剣を学んだ。
それは確かにただの代替行為に見えたかもしれない。親の死を忘れる為と思われても仕方がない。
違うのだ。世界が自分から両親を奪ったのは自分が弱かったからかもしれないじゃないか。
渋谷はそして鳴海町に来た。
その理由は両親の死の真相を見つけるためだ。そうしなければ、世界はまた自分から大切なモノを奪うかもしれないじゃないか。
なぜ英雄の少女を救おうと思った。
彼女から大切なモノを奪った奴が許せない。彼女は自分と同じだった。そうしなければ生きていけなかったから、戦いを選んだ。なら彼女を救えるのは自分しかいないじゃないか。
それら全てが繋がっている。
渡会渋谷という個人は、誰よりも世界との繋がりを求めているし、誰よりも世界を憎んでいる。
孤独を恐れ、理不尽を恐れ、全てに恐怖しているから、誰より強くあろうとするのだ。
だから、
「こんな世界は間違ってんだよ、狐野郎」
誰もいない世界なんて認めない。
何も無い世界など、あり得ない。
自分はその孤独を知っているからこそ、そんなものは絶対に許せない。
「俺が望む世界は、みんなが当たり前にいる世界だ。その為なら、俺はなんにだってなってやる!! この世界を創り変えてでも!!」
恐怖しているがゆえの渋谷の答え。
弱さを自覚しているからこそ、渋谷はこの答えを臆面もなく言ってのける。
問答の答え。それが正解かどうかなど知った事じゃない。
ただ、渋谷自身が望むことこそが、これなのだ。
ゆえに、
「この世界、俺が全部叩き斬る。いくぜ――スサノオ」
呼ぶ。無の世界において、存在など感じないはずだったその神の名を。
己がそこにいると信じれば、神はきっと応えてくれるから。
『――はい、渋谷様』
もはやそれが当然とばかりに、声が返る。
人と神。その繋がりは永遠に切れることは無いのだ。
共に手を取り歩む世界。そうして続いていく世界に必要なのは人々の輝きだった。
もう一人の自分が言った。「俺」には心の底から望む欲が足りていないのだと。
だから向き合った。己の言葉と、そして何を望むのかを。
そして抱く世界の形はもう決まっている。
やり方は知っていた。自分は既にそれを成した。だからそれを今一度辿るだけ。
歌え。
「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十」
詠え。
「布留部、由良由良止、布留部」
謳え。
「天清浄、地清浄、内外清浄、六根清浄祓給う」
ありとあらゆる全てを禊ぎ、世界を創れ。
「天の七曜九曜、二十八宿を清め。地の神、三十六神を清め、家内三寳大荒神を清め、其身其體の穢れを祓給ふ、清め給ふ事の由を、八百万の神等諸共に小男鹿の八の御耳を振立て聞こし食せと申す」
一切成就、禊祓え。
至れ神界、その名は――。
「神意顕創――天叢雲――」
やはりそれは変わらない。人々が望む答えを成す世界。
それは渋谷が誰よりも繋がりを求めるがゆえ――。
そして世界は、パリンと砕け散る。
塗り固められた闇に亀裂が疾る。九重がこの世界をそう作り替えたように、渋谷の創界が新たな世界となって流れ出す。
光が世界を包み込み、流れゆく雲は豊穣の雨を降らせ賜う。
その恵みが生の息吹を起こし、そして新たな命へと還っていく。
命の円環。繋ぎ、紡ぎ、形を成す。
そして、想いが渋谷のうちへと流れ込む。
今なら分かる。最初からそこにいたのだから。何も変わってなどいなかった。闇の中から、みんなの姿が浮かび上がる。
自分だけが取り残された世界。渋谷自身が望む究極の恐怖の具現。
それこそが、九重が生み出した世界だったのだ。
まるで、その恐怖を乗り越えてみせよとばかりに。
思えば、最初からそうだった。
奴から感じるのは敵意などではなかった。こちらを試し、導き、望んだ答えを出すまで何度だって問いかけ続ける。
そんなものは九重自身の勝手な裁量で、こちらの想いなどまるで無視。
ああ確かにこいつは神だった。
誰よりも貪欲で、身勝手で、それでいて人間が大好きな、ただの神様だ。
だけど、
「決着を付けるぞ、狐野郎!!」
「応とも!! これが最期よ、英雄。我が全身全霊、その身にとくと受けてみよ。逃げるなどと申してくれるな。主が人の輝きを信じ守るというのならば、この程度のことなど一笑に付して叩ききれぃ!! 英雄のなんたるか、儂に見せてみよッ!!」
分かっている。誰が逃げるか。
みんなが見てる。その想いを背負ってんだよ、こっちは。
だから、
「これが――俺たちが望む、救いの形だ!!」
天上、掲げるは大太刀。
よもや長さなどという尺度は存在しない。
ただ、救いあれと望んだ人々の想いが生みし刃なり。
斬る。滅する。葬る。
言葉はなんだっていい。紡いだ想いが刃の形を取っただけのこと。
「超えてゆけ!! 全ての恐怖を、襲い来る災厄を!! そして人々の輝きを守り、救いとなれ英雄!!」
対する九重は己が周囲に、新たな物体を召還した。
無数の炎。炎狐によく似たそれは、魂が燃えるように蒼く輝く蒼炎。きっとそれは九重自身の魂の色だ。
それが規則正しく九重の周りを揺蕩う。提灯の明かりのように優しい光だ。しかしそれはやがて、激しい明滅を繰り返し、変化した。
朱色の大鳥居。その数は千。
荘厳なる大鳥居は神が通る道筋として不足無し。神界と人界を繋ぐ境界は、九重が繰りし神気の奔流の門となる。
高まりゆく神気は九重の創界が未だ生きていることの証であろう。
いかに渋谷の神気が強大であろうとも、対する相手もまた神だ。
故に鬩ぎ合う。お互いがお互いの神気を塗りつぶし、そして此処に生まれるは最期の神楽。
天地鳴動。世界が震撼する。
大気という大気、空間という空間、全てが捩れ砕けたかのように。
九重が召還せし大鳥居。そこから生まれるのは人々が恐怖する数多の者共。
号令など無し。
虎や獅子といった猛獣や、百足や蛆虫といった害虫。絵巻に記された妖怪変化、その災厄全てが渋谷に対し襲いかかる。
これら全て、払い除けてみせろと九重は不敵に笑ってみせるのだ。
その神格からの言葉は受け取った。もはや渋谷も返す言葉は必要ない。
ただ一振りに己が全てを込めるのみ。
天上より進軍せし百鬼夜行ならぬ千鬼夜行。人々の恐れの具現は、しかし渋谷が恐れを抱くものは無し。渋谷が何より恐怖するのは孤独だけなのだから。
乱流の中を駆ける燕のように、渋谷が真っ向から対峙する。
雲耀使いは初太刀以外の全てが副産物。確かに渋谷のそれは俄覚えの見よう見まねでも、剣術のなんたるかは知っている。
――二の太刀要らず。
だから渋谷は、その全てを受け止めた。
虎が渋谷の肩を食い破り、百足は足に絡みつく。
えいいままよ。そんなモノは効くものか。これら全て、狐が用いし幻覚よ。
邪魔をするな。この一刀を誰よりも望む先達がいるのだ。
獣畜生、虫けら如き。踏み抜き払いのけ、ただ届けるこの一撃は――。
「――良い。天晴れじゃ」
――届く。
リィィィン、と刃が欣悦に打ち震えるが如く。
その涼やかな音を響かせて、終わりを、告げる。
「これぞ、人の輝きよ――」
人々の意思を乗せた刃が断ち切るは、全ての恐怖。
その決着の果てにあるは、希望にあふれた輝きであった――――。




