第四十四話 狂気再び
――渋谷が行く。
「おぉッ!!」
低く声を吐き出して、練った力を開放する。
腹を括った渋谷には出し惜しみという考えは毛頭なかった。
意味無しと使わずにいた風刃をここぞとばかりに渋谷は繰り出す。神気が形を変え、風の刃となって振るった軌跡を辿って炎狐とぶつかり合った。
瞬間、過剰燃焼となって爆発が広がる。灼熱の窯の中にいるような熱波に炙られる渋谷はしかし、
「――――疾ッ!!」
その爆風の中を突っ切る。
彼我の差は明らかなのだ。このまま防戦ではただジリ貧となるだけ。美朝の助けが無い今、その防戦すら難しいというのならば、渋谷が出来ることは捨て身であれ、ここぞと攻めるしか道はない。
まるでハクオウとの戦いのように。
渋谷は己が刀と一体になるかのように、技を繰り出し続ける。
まるで上り詰めるは修羅の道。歩み続けるは刀と己。
遠い。まだ遠いのだ。
この刃を届かせるまで、距離は遥か先にある。
まるでそれこそが力の差。ならばこの踏みしめる一歩で己を先へと押し上げる――。
「ええぃ、気狂いがッ!!」
こちらへと向けて炎狐を放ちながら、九重がそう吐き捨てる。
知ったことではない。己が一刀、歩む道を邪魔するなとばかりに渋谷は風刃で斬り捨てる。
――心は身だろうがよッ!!
心がぶれなければ、それは即ち己が肉体へと返ってくる。
祖父の教えが渋谷を更に戦場へと駆り立てる。もっと、もっとと力を求めて高みへと。
そういうことだろう。心は今、ぶれてなどいない。斬りたいというたったひとつの欲が、渋谷を動かす原動力なのだから。
痛みなどは知ったことか。既に感じてなどいない。最後に立っていさえすればそれで充分だ。
今はこの一刀に己の全てを、込めろ。
手の内に握る鋼に魂を宿せ。
もはや渋谷は炎狐を防ぐことすらやめている。
一歩、肌は焼けただれても。
一歩、血を噛み締めてでも。
「スサノオぉぉぉおおおおおお!!!!」
炎狐を踏みつけ、五臓六腑に染み渡る爆炎さえも乗り越えて、渋谷は己が契約神に力を寄越せと吠えるのだ。
返ってくる声は二つ。
『それでよいのです、渋谷様』
と傍らの女神が微笑み、
『貴方さまがそう望むことこそが我が本懐なれば。史上の歓喜がわたくしを祝福しましょう』
それは一度、渋谷を動かした彼女の心か。
修羅へと誘う女神の蠱惑は、甘く蕩けてしまいそうになる蜜の味だ。
昏い情念に浮かされたような、果てしない闇がこちらへ来いと手招きする。
だが同時に声がする。
『なりません渋谷さまっ!! お気を確かに! 貴方様の誓いは、どうなさるのですか!?』
全くの逆。修羅へと変じる渋谷を、そうはならぬと立てた誓いを語り、こちらを呼び戻さんとする声。
それはまるで光か。沈みゆく渋谷を引き上げるように、道を照らす希望の輝き。
だが何を言っているのか。そうあれかしと語るはお前であろうに。
なれども、その声は未だに渋谷の心を繋ぎ止める最後の言葉でもある。
全く同じ姿をしたスサノオが二人、渋谷の両耳で囁き続ける。それが夢か現か判断する暇が渋谷にはない。
あと一歩だ。九重に届かせる一斬は既に圏内にある。あとはそれを振りぬくだけ。己の一刀を解き放つだけなのだ。
ハクオウとの一戦では至れなかった己の可能性がここに示されている。
それは一つの到達点。剣士として求める己の欲、にどうして逆らうことが出来ようか。
――苦しいのだ。俺を開放してくれ。
二人のスサノオが、今度はもう一人の自分となって語った。
力を求めろ。己の欲に委ねてしまえ。もう、限界なのだとこちらへ訴えかける。
――俺の剣は、救いなんだ。
だがもう一人の自分が、スサノオの声を聞けという。
己の誓い。修羅をも乗り越えるという心の在り方を忘れるなと。お前は英雄で救いなのだから、と。
どちらも己の中に生じた真実の言葉。両天秤の釣り合いは、しかし一方にしか傾かない。
たったひとつ。渋谷が持つ戦いへ掛ける想い。それは救いであるという矜持。そして英雄であることの意味。
――英雄は救いだ。人々にとって無くてはならない。ならば英雄を救うのは誰だ。それは同じ英雄だろう。
だが、この場に、渋谷が救うべき英雄の姿はない。お互いが救いだからと交わした相手がここにはいないのだ。
だったら誰がこの化物を倒すのだ。俺だ。俺だけが救いなのだ。
俺が英雄で修羅ならば、救いは刀にしか無いじゃないか。
だから――、
「――来たぜ、ここまで」
遂には辿り着き、笑みを浮かべた渋谷が告げる。そこにはもう迷いはない。
耳の奥に残る静止を求めた言葉は、雑音へと消え。
ただ、意識は刀の中へと落ちていく。
そして構えるは、一刀を天へと掲げる――蜻蛉。
命を断つ。ここに、この俺が、俺の手でもって。
渋谷の手が震える。それは狂気と狂喜がかち合い生まれる歓喜の歌だ。
魂の底から生まれ出る鼓動の音だ。
「――死ね」
己の眼前に佇む男に渋谷が言う。
だが奴は超然と屹立し、渋谷をしかと見据えていた。それは死を受け入れる覚悟をしたということか。いいさ構わない。そんなものは渋谷には関係ない。
ええいままよと振り切るが如く、渋谷は天よりその剣撃を繰り出した。
――雲耀。
直上、天から地へと落ちるはまるで雷の如く。その速さは疾風なり。
渋谷の神速の必殺は、果たして――。
「――――くだらぬ」
しかし。
渋谷はまるで、時が止まったかのように、その声を聞いた。
感覚神経は全て己の刃にだけ集中していたはずなのに。その割り込んできた声に逆らうことが出来ない。まるでそれが許されていないとばかりに。
「――それが英雄じゃと? それが救いじゃと? ぬかすなよ外道風情が。己の姿も見失った畜生が」
くだらぬと断じられたのはこれで二度目。先の言葉は遥か高みより見下ろした、力の差など埋まらないだろうという嘲りだった。
しかし今度の言葉は違う。
失望し、突き放されたような感情。
侮蔑、あるいは忌避。汚いものでも見るかのように、触れるなという拒絶の意思。
だが意味が分からない。渋谷にはその二つ言葉から感じた意思の意味がわからないのだ。
いや、もはや考えることすら億劫だった。
――速く、この刃を振り下ろさせろ。
「――声も届かぬか。ならばしかと見よ、今の己の姿を」
九重が言い、そして。
「八重九重変化ノ法――玉藻御前・照魔鏡――」
●
「――美朝」
校庭で抱き合う二人。さきに口を開いたのは、千草からだった。
千草はまっすぐに美朝の眼を見る。
宝石のように美しいその瞳は、彼女の心の強さを表すように輝いていた。
それはかつて千草が逃げたモノではない。どこか寂しさを抱えた、弱さを秘めたあの瞳ではない。
――変わったのだ。美朝も。
自分が変わろうとしたように、彼女もまた変わったのだ。
それが分かるから、千草はまた、泣き笑いのように顔を歪めて、
「――ごめんね、美朝」
「――千草っ」
自分の愚かさをここに告白する。
「あたしは、美朝に取り返しの付かないことをしちゃった。美朝をすっごく傷付けた……。美朝を勝手に怖がって、自分と違うかもしれないっていう思い込みだけで美朝を遠ざけた。本当はそんなことないのに。美朝は美朝だったのに」
「千草、でも、それは……」
美朝が千草の肩に手を置く。それは違うと、訴えるように。だがそれを千草は違うと首を振る。
「ううん。あたしだってみんなと同じだったよ。美朝の上辺だけしか見えていなかった。美朝の心を知ろうなんて思いもしなかった。ただ美朝の強さを誤解して、勝手に失望しただけだった。でも――」
今一度、変わりたいと思えた自分自身で、美朝を見て、思った。
「美朝は、美朝なんだよね。弱さも、強さも。全部が美朝自身なんだ」
「弱さも、強さも……」
「あたしは美朝がどういう気持ちだったのかわかったよ。誰も頼る事が出来ない恐怖。自分を見る眼が変わってしまうことがこんなに怖いんだって。でもだからこそ気付けた。美朝が持ってる強さを。あたしは、美朝の弱さと強さを知ったんだ」
九重との出会いがすべてのきっかけだった。
自分が変わることの意味。変わってしまった関係性。そして、己が悔やみ続ける過去。
それと向きあおうと決めた千草の変化は、九重がもたらしたものだ。
「私が、怖くないの、千草?」
どこか震えるように、こちらに問う美朝。
それが彼女が覗かせる弱さだ。だけど、それも自分は知っている。それが、自分と同じものだということも。
「怖くないよっ!! あたしが怖いのは、また美朝と友達でいられなくなることっ!! たとえ美朝があたしの事が許せなくても、あたしは美朝と友だちでいたいっ!!」
だから千草は言う。ここで必要なのは伝えるということだった。遠回りしてようやく辿り着いた答えを届かせるということ。
もう、言わないで後悔するのは嫌だった。何かを成す前に、それを諦める自分はもうやめたのだ。
そして、
「――私だって」
肩を震わせる。声だって、震えている。けれどそれでも彼女は、こちらを見てくれる。まるで自分がそうしているように、彼女もまた想いをこちらへ届かせようと。
「――私だって、同じよ!!」
そう、同じなのだ。
その思いも、言葉も。
弱さも、強さも。
全てが、同じ。ようやく気付いた気持ちの在り方。
「千草がいなくなってショックだったわっ! みんなが私の前からいなくなって、それでも千草だけはって信じていた。でも、あなたが去っていくのは仕方ないことだって分かってたから……。でも、納得なんて出来るわけないじゃない!!」
「――うん」
「心細かった。一人で化物と戦って、誰にも相談なんて出来ない。あなたと話すことも出来ないのがこんなに辛いなんて思わなかったわよ!」
頷いて、千草は美朝の気持ちを受け止める。
彼女が吐き出す言葉はいずれも心の奥で溜まった想い。でもそれこそが美朝の本当の言葉なのだ。自分はもうそれから逃げてはならない。
「……でもね。私の事を強いって言ってくれる人がいた。君は英雄だ、って。それまで、戦うことで自分の気持ちを誤魔化すことした出来なかった私に、救いを教えてくれた人が」
だが、そんな彼女の声が、ひどく優しいものになる。
「最初は笑っちゃったわ。私はそんなこと考えたこともなかったから。でもね、その人は私の事をまっすぐに見て言うの。私の本当の声を言えって」
それは、自分が気づかなければいけないことだった。でもそれがあったから、今の美朝がある。
「彼も怖いはずだった。私はそんな彼を救う存在だったのに。でもね、彼はそんな私を救うって言ってくれたの」
美朝が笑う。心の底からの笑顔。彼女がこうして笑うのを千草は初めて見たかもしれない。
「それが、渡会くんなんだ?」
「――うん。アイツ、馬鹿だもん。何でもかんでも救うって言っちゃう、ただの馬鹿。命知らずで、でも、優しい。私はそんなアイツに救われた。だから私もアイツを救うの、私とアイツは同じだから」
そう言った美朝の顔は晴れやかだった。そして千草もそれは同じだった。
美朝の成すことを自分は見ているだけかもしれない。でも、それでいい。今は確かな繋がりを感じるから。
言葉にして初めてわかることがある。言葉にせずともわかることがある。
「――美朝、渡会くんの事、好きなんだね」
「なっ!? ち、ちがっ、へ、変なこと言わないで!! 私とアイツはそういうのじゃ……」
慌てる美朝もなんだか久しぶりだった。自分は昔、美朝をこうしてからかっていた。お互いで軽口を言い合いながら笑い合う。そしてそれは今もまた。
けれど次に美朝が何をするのか、千草には分かっていた。
だから千草は、
「美朝、頑張れ」
「……うん」
「あたし、ここで見てるから」
「――うん」
それだけで、伝わる。
美朝は千草の肩から手をどけて、そして振り返る。
その背に向けて、千草は言う。
「美朝。無茶なことだってわかってる。でも、聞いて欲しい」
「千草?」
「九重を、殺さないで」
「――っ」
無理な相談だとは分かっている。美朝が化物を狩る存在で、九重がその狩られる側であることは。
でも千草は九重のことを知ってしまった。美朝の心を知るように、彼のことを知って、そしてそれが自分と同じであることだということも。
「あの人もあたしと同じだった。後悔していて、でも諦められない人。やり方は間違っているのかもしれない。だけど……」
「千草、私は――」
美朝は英雄だ。化物は倒さなければならない。だから無茶なお願いなのは重々承知だ。
断られるだろうというのはわかっている。でも、それでも。
「私は、英雄だわ」
「――え?」
「願って、千草。願いはね、神様に祈るものなのよ」
願い。それは彼が叶えるといったモノ。
彼に願ったのは自分を変えるというものだった。そして彼によって自分は変われたのだろう。そして、美朝とこうして話すことが出来た。
「――――」
自分に残った僅かな神気。それが自分を捉えていた膜から開放した。
まるで九重がそうなることを予期していたかのように。
そうだった。彼は千草にとって化物ではない。
願うべき、神だったのだ。
「――っ、九重!?」
「――っ、渋谷!?」
だが、二人は見た。
それぞれが想う者達の、戦いの行方を――。




