第四十話 救う理由
――まったく、気付かなかった……。
渋谷の額に汗が伝う。
眼前、突如として現れた凶――九重の存在に、渋谷はまるで気付くことが出来なかった。
それは傍らの美朝も同じだ。いくら、友人の千草の様子が変化している最中だったとはいえ、英雄である自分達がまるで気付くことが出来ないなんてことがあろうとは。
それは歴然とした力の差か。
現在、ヤツから感じる神気の迸りは、かつて戦ったハクオウにも匹敵する。
恐るべき相手であることに間違いない。
だが、幸いというべきか、千草が放出していた神気は九重の手により止まっている。
何を目的として千草にその力を与えたのか、渋谷には思い至らないが、それでも解決策を探して苦心していた身としてはひとつ喜んで良いだろう。ひとまずどうにかなったか。
「――美朝、行くぞ」
「――うん、わかってる。でも、良いの渋谷? みんなが見てるわ……」
美朝に声をかける渋谷に返ってきたのは、幾度目とも知らないこちらを案ずる言葉。
「今は八神さんを救う。後の事は、後で考えればいい」
覚悟はとうに出来ている。
それに現状、千草は九重の手中にある。渋谷が怖じ気づく暇などない。
美朝はその思いを感じ取ったかのように微笑んだ。
「――ったく。融通が効かないんだから」
「はん、お前がそれを言うかよ」
二人の英雄がお互いの気持ちを確かめ合う。
二人は学生だ。この学校での生活がある。だがそれ以前に英雄でもあるのだ。だから、やらればならない。
すると、
「ば、化物っ!? な、なんで!? なんで学校に!? やっぱりアンタ達のせいなんでしょ!」
「今まで学校に化物が出たことなんて無かったのに……」
「は、はやく行って倒して来いよ! それがお前の仕事だろぉ!?」
この変化した状況に心が追い付いていないのか、狂乱したまま声を発するクラスメイト達。中には、一旦落ち着いていたはずの女生徒達もここぞとばかりに美朝を糾弾する。
――英雄は救いだ。
人々の為に、英雄は存在する。だが、これではあまりにもやるせない。
けれど――、
「渋谷君……麻雛さん…」
こちらを案ずるように琴音が名を呼んだ。琴音も少なからず動揺しているのだろう。両掌を君で祈るように胸の前に合わせている。その手は、僅かに震えていた。
だがそれでも琴音はいつもと変わらない声で、こちらを心配してくれた。そんな琴音の強さのお陰で渋谷は正気でいられるのだ。
だから渋谷はいつものように琴音の頭を撫でる。
そうして大丈夫と眼で伝え――自分達を待つ、相対者に向け言い放つ。
「――俺達は、英雄だッ! 救う価値があるとか無いとかじゃねぇ!! 助けを求められてるのが今なら、俺達は救うんだよッ!! それが……英雄だ!!」
そうした渋谷の言葉に驚きを隠せなかったのは、先程美朝を庇った遠弥達だった。
「渡会君、君は……」
「渋谷、何を……」
「渡会くん……?」
「渡会……さん」
きっと彼らは、渋谷にどいうことかと説明を求めているはずだった。今は少しだけ、彼らの顔を見るのが怖い。自分がもう一度彼らの前に立った時、それは今までとは違った関係になるだろう。
だが、そうだとしても――。
「ごめんな、みんな」
その一言は今まで黙っていた事に対してのものか。
だがそれ以上は何も言わない。そして、彼らが何かをいう前に、渋谷と美朝は勢いよく駆け出した。
そして、窓の縁に脚を掛け、タンッと軽やかに屋上まで駆け上がった。
●
一方、生徒会室には、夜刀守巴の姿があった。
本来であれば生徒会長が座る一番奥の席に腰かけて、彼女は指を絡めながら、その声を聞いたのだった。
人の真価を質す、言葉。
――凶。
世界各地に現れる、堕ちた神格。
それがこの鳴海高校に現れたのだ。
「まさか、結界を内から破ってこようとはね」
声のトーンはどこか愉快げ。まるで自分を楽しませてくれるゲームの相手が見つかったかのようだ。
「八神千草に眼をつけたのは、そういう理由があるとはね」
鳴海高校には凶が発生した同時期から、一般の生徒には見ることも感じることも出来ない結界が張られていた。
協会製の認識阻害の術式と巴オリジナルの対凶用の術式をブレンドした強力な結界である。
これは鳴海町の重要拠点、主に学校や病院といった施設に対して張られているもので、とりわけこの鳴海町に張られた結界は強力なモノであった。
しかし今回、凶がおこなった策は内から破るというもの。
八神千草を鍵として、神気を内から放出し結界を破ったのだ。
当然、普通の生徒である八神千草に結界は効かない。加えて内側からの耐性は想定されておらず結果、結界は破られてしまった。
「当然、ヤツは気付いていた。この学園に『アレ』があることを。まったく、この夜刀守巴を出し抜くかよ、狐風情が」
巴にとってこの状況は最悪に近い。だがそれでも巴の口許に浮かぶのは笑みだった。
「だが、良い気になるなよ。こちらにはまだ手札がある。鳴海の英雄というカードがな――」
そして、巴は感じとる。
今まさに、英雄達の戦いが始まろうとしていることを――。
●
果たして――渋谷の答えはお気に召すモノだったのか。
九重は白面のうちに美貌を隠し、その心中を伺い知ることは出来ない。
ひとつ変わったのは、九重の腕のなかから千草の姿が無いことだ。
見ればどうやら気を失っているらしい彼女は、九重が作り出したのだろうシャボン玉のような神気の膜に覆われ宙に浮かんでいた。
流石の九重と言えども千草を庇いながら戦うつもりは無いらしい。それはこちらにもかえって都合が良い。
そして――、
「――さぁ、ここまで上がって来てやったぜ、狐野郎。八神さんは返してもらうぞ!」
既に臨戦態勢の渋谷は挑発するように言ってのける。
それだけで九重はこれ以上の問答は必要ないと感じたのか、
「ふむ、では遊んでやろうかの――」
手に持つ閉じた扇をバッと振るって見せる。
「――スサノオッ!」
「――タケミカヅチッ!」
二人が契約神の名を口にする。
影から姿を現した二柱の神格。同胞たる堕ちた神格を倒す使命を背負い、人々に力を与える神がここに現出する。
一方、巫女の装束を纏い、鴉の濡れ羽のような黒髪を無垢な白帯で結わえた可憐な乙女。
一方、浅黒く焼けた肌には無数の傷が走り、身に付けた刀剣と鎧はまさしく戦場の中で武のみに生きた歴戦の強者の風格を持った白髪の老兵。
二人の英雄の呼び掛けに応え、今この瞬間に神の力を解放する。
その最後の鍵が――祝詞。
「日はく、伊邪那岐、剣を抜きて迦具土を斬りたまいて三段に為す。其の一段は是、雷神と為る。
復剣の鐔より垂る血、激越きて生まれるは甕速日神、我が祖なり――」
「十四神、父なる神、伊邪那岐と、母なる神、伊邪那美。是、御身を漱ぐに因りて生まれる者なり。
父、伊邪那岐、勅任して曰はく、汝、天下を治すべしとのたもふ。
我、天に昇ります時に溟渤以て鼓き盪ひ、山岳為に鳴りほえき。此則ち、神性雄健きが然らしむるなり」
高らかに謳いあげる神の真名。いざ、ここに降臨せり。
「故に我が名は――武甕槌――ッッ!!」
「故に我が名は――素戔鳴尊――ッッ!!」
同時、渋谷と美朝の身体から神気の奔流が吹き上がる。裡から止めどなく湧き上がるその圧倒的な熱は、まるで血液のように身体中を巡り、力によって満たした。
万象、遍く星々の一つ。神格としての力を有した英雄という名の極点がこの地において顕現した証だ。
渋谷の手には神器――《十束・天之羽々斬》。
美朝の手には神器――《梓弓》。
それぞれ、己の契約神が最も力を扱うに適した武具が握られている。
――これで準備は整った。最初から、全力で行く。
渋谷が狙うのは短期決戦だ。
戦場として、この学校はあまりにも渋谷たちに不利だ。常に人質をとられているようなもの。
九重は見る限り、素直に渋谷との真っ向勝負に応じてくれるような素直な性格ではないだろう。案外、渋谷にとってはかつての強敵、ハクオウの方がかえってやりやすかったかもしれない。
となれば、ここで状況を左右するのは――美朝だ。
「渋谷、やるわよ」
静かに、裡なる激情を抑えつけるかのように美朝が言う。と、同時。そんな声色とは裏腹に美朝の神気が一際膨れ上がる。それはまるで猛り狂う炎のように――。
美朝の怒りは本物だ。大切な友人を弄ばれ、危険へと誘った凶を絶対に許さないという強い意志。美朝は大切な肉親を奪った凶に並々ならぬ感情を抱いているのだ。
そして、今まさに美朝の大切なモノがその危機にある。
故に、美朝もまたここに全力でもって凶を掃討することに躊躇いはなかった。
「神威――《鳴神之雷切・八色》――ッッッ!!」
神威――神格が持つ権能がここに具現する。
それは雷を帯びた八つの剣。それぞれが名を持った雷剣は美朝が持てる必殺に違いなかった。
雷剣は既に九重へと照準され、弓の引き絞りにあわせ、今か今かと開放の時を待ちわびる。
「いきなさい――ッ!!」
そして、美朝の号令と共に雷速で打ち出されたのは、まるで鎌のような内反りの刃達。突如ランダムな起動を描きながら三次元的軌道で九重を撹乱する。
「――ほう……?」
感心したように洩らす九重。
目前に迫る一本の刃を弾かんと、九重は手の中の扇を一閃する。
だが、刃を迎え撃つのはその扇ではない。奴の神気が形をとって凝縮されていくのを渋谷は見る。
そして生み出したのは炎で形作られた小さな狐である。全長六十センチにも満たないであろうそれがあろうことか雷剣と真っ向からぶつかった。
次いで起きるのは爆発である。神気と神気がまるで化学反応を起こしたかのように、ボンッと激しい音と煙、爆風を発生させ、辺り一帯を煙で満たす。
立ち込める煙が視界を狭める中、しかし九重の首を狙って飛び込む影があった――。
「雄々ッッッ――!!」
渋谷がここぞとばかりに疾風となって駆ける。美朝が仕掛けたのと同時、渋谷は神気を自らの脚に集中させていたのだ。自らは美朝が作るであろう好機を逃さず仕留めるために。
ランニングを通じた神気のコントロール。より無駄なく、そして素早く力を流す術を渋谷は日課として積み上げた。そして今その成果の一端がここで現れる。
下肢で神気が爆ぜる。血脈をサーキットに疾走する力の流れが渋谷を一陣の風として前方へと放つ。
狙うは勿論渋谷が放つ最速の一撃、最上段からの面打ちだ。
「落ちろぉぉぉおおおおお――!!」
渋谷の刀が神気によって風を纏う。スサノオが持つ権能が渋谷を媒介として現世に顕現し、強化された一撃が九重に炸裂した。
ドゴォッという鈍い音と共に九重の身体が地面へ急降下。粉塵巻き上げながら地面へ叩き付ける。
そして渋谷は絶妙なバランス感覚で宙で身を捻り難無く校庭に着地する。
「――やったの!?」
と、渋谷を追って美朝も校庭に降り立つ。渋谷は苦い顔をして、
「いや……まだだ」
目線の先、立っているであろう敵に対して厳しい視線を向ける。
「――ココッ。なかなかやるのぉ、えぇ?」
粉塵の中から白い狐の面が顔を出す。その居住まいに変化はなし、塵の一つすら付いていない。
渋谷の手に残る感触は鈍い。剣士はその得物を通じて手応えを感じるものだ。だから、
「テメェ、自分から飛びやがったな……」
九重が意図して渋谷の一撃を受け、校庭へと移動したのだということを渋谷は悟った。だがそれはつまり、渋谷の一撃など受けても問題ないと判断したがゆえ――。
「此方側の方が儂らの舞が観客によく見えるじゃろう?」
「――――ッ」
その言い回しはこちらを馬鹿にしたものか、面の内で浮かべた表情が透けて見えるようだ。
だが確かにこの位置は教室からは丸見えだ。しかも全クラスから見える校庭。
背中に浴びせられているだろう視線が今は怖い。その中にはクラスメイトだけでなく、剣道部の面々や教師陣もいるだろうから。彼らと再び相対した時、浴びせられる糾弾の痛みは渋谷の想像の範疇に無い。けれど、それは今考えるべきことではないはずだ。
だから、深呼吸。
そして――構える。
正眼にとり、次の動きに渋谷は備える。戦いの場が校庭になったことで却って持ち前の本領が発揮できるようになった。さきのような神気にかまけた強引な突貫は二度は通じない。だが地に足が付くこの場所ならば、道場で培った足捌きが披露できる。
「聞いて、渋谷」
と、傍らの美朝が緊張の面持ちで言った。
「さっきの技、アレはマズイわ。私の八色と相打ち出来る威力を持ってる……」
視線だけをやれば、美朝の周囲を漂う雷剣の数が一つ少ない。一本は九重が放った炎の狐にやられたのだ。大した技には見えなかったが、美朝の奥義と相うった以上、認識を改めるしかない。
その忠告をしかと受け止め、今一度渋谷は九重の出方を伺う事を選択する。
焦った特攻は九重相手では致命傷になりかねない。大技を持っているのがわかった以上、下手な動きは愚策だ。
「……なんぞ、こんのか? では、こちらからゆくとしようかのぉ」
と、九重が動きを見せる。閉じた扇をバッと広げてみせると、九重の背後で神気が集まる気配がある。
先ほどの技と同じ――いや、これは……?
「狐軍――炎陣」
なんということか、渋谷の眼前で炎の狐の大群が現れる。
その数は十や二十では効かない。圧倒的な神気の塊が、群れとなってこちらを睨む。
威力の程を知っているだけに、今の状況はマズイとしか言いようがなかった。
「さぁ……これをどう受けきる、英雄よ」




