第三十六話 変化
翌日、放課後のことである。
もはや日課となった剣道部の練習に顔を出したのち、同じように仮入部から本入部となった文芸部員の琴音と帰宅する渋谷は、突如凶の襲撃を受ける女生徒達を見とめた。
五人ほどのグループの中心となるのは、いわゆる今時のギャル系の風貌をした犀川結菜だ。
明るい髪色はほぼ赤に近いが、決して下品ではない。
大きな瞳が印象的な美少女で、ネイルやピアスといった装飾も、彼女の華やかさを増すのに一役買っている。
毅然とした態度で生活指導担当の教師に反発する姿は、褒められたものではないにせよ、いっそ気持ちのよさすら感じたものだ。
そんな彼女が、ひとつ眼の化け物に怯えている。
普段の彼女からは想像も出来ないその様子は、にわかに信じがたい。だがそんな彼女も化物を前にすれば当然、ただの女の子だということだ。
「琴音ッ!」
「渋谷君っ!?」
放り投げるようにして鞄を琴音に預け、渋谷は駆けようとする。
当然だ、渋谷は英雄である。ただの高校生ではあるが、化物と戦う力を持っているのだから。
だがその時一瞬だが、美朝の姿が渋谷の脳裏をよぎった。
英雄として人々を救う存在でありながらもクラスで孤立する彼女の姿が。
しかし、渋谷はそれでもいいと思った。自分がそうなってもいい、と。
この瞬間だけは、自分の弱気や恐れは必要無かった。英雄として求められているのはたった今なのだ。
だが、動くはずの身体は、思いもよらぬ存在の介入で止められてしまうのだった。
「なっ!?」
渋谷の驚嘆。
「ち、千草ちゃん!?」
そして、琴音の声がその人物に向けられた瞬間。
「九重、お願い――」
「ココッ、良かろう」
眼前で――炎が舞った。
乱舞する火の粉。
巻き上がる光の粒子は、凶が空へと解けていくときの現象だった。
渋谷にはそれを千草がやったように見えた。
そうだ。見間違いなどではない。今、千草が放つ『神気』が膨れ上がっているのがその証拠ではないか。
そして、渋谷は見る。
八神千草に訪れた変化を。
「こんな事があるのかよ――――」
彼女の髪が、金色の輝きを放っている。
千草の髪は、伸ばしている最中の中途半端な長さであった。しかし今、神気を吸い込んだその髪が、ゆらゆらという動きを持ちながら、腰の長さまで伸びているのだ。
そして、その髪の上にはピンと天を向いた黄金色の耳があり、衣装もまた制服の上に朧気な法被を、たなびかせるようにして纏っているのである。
加えて、彼女の尾てい骨の辺りから生えているひとつの尾。
この変化。そして、彼女が口にした九重という名は、もしや――。
『あれでは、まるで――』
「……凶とひとつになってるって事なのか!?」
兆候は確かにあった。
千草からは確かにあの狐面の男と同じ気を感じていたのだ。
それでも渋谷は何もしなかった。出来なかった、と言えばそれまでだが、《DRAFT》の熊谷たちに相談するまでもない、としたのは渋谷なのだ。
現状、彼女をどう扱えばいいのか渋谷にはわからなかった。
敵として見ればいいのか。いや、出来るわけがない。八神千草は一般人なのだ。凶ではない。渋谷が知る八神千草であるのなら。
しかし、今の彼女は凶と言っても差し支えない。それだけの変化をしているのだ。
『渋谷さま、お気を確かに。まずは落ち着くのです』
「あ、あぁ。スマン、スサノオ」
困惑する渋谷は相棒の一声で我に返る。
そうだ、冷静になれ。
渋谷は再び考える。
千草が九重によって操られているという可能性は無いか。
九重が扱う技はどちらかと言えば呪術の要素が大きい。ならば人の心を操る術を持っているのかもしれない。
だが――、
「で、できた。私にも……っ!」
彼女のあの反応。
いかにも我を失っているようには見えない。どころか自分の意思であの力を使ったように見える。
そして、千草は怯えた様子の女生徒たちに向き直り
「大丈夫だった?」
と、声をかける。
「い、いやぁ!?」
しかし、女生徒達の怯えは千草に向けられた。
化物に襲われた恐怖が見境なく他の者に向けられている訳ではない。たった今、人を超えた力を奮った千草だから、恐怖している。
「あはは、そっか、これが……」
差し伸べようとさえした手を引っ込め、千草はボソッと呟きながらその掌を見やる。
口許の笑みは寂しさを湛え、しかしそこから生まれた何かに頷きを見せると、
「九重、もういいよ」
何もいないはずのそこに、千草の言葉が溶ける。と同時、千草を纏っていた凶としての神気が一斉に千草の身体から抜けていく。
やがて彼女の隣には、九重の姿があった。
「お前、八神さんに何をしたんだ!」
渋谷は九重に言葉を投げつける。
九重はニタリと笑みを浮かべ、
「ココッ、久しいのぉ人の子よ」
「質問に答えろよ、テメェ……!」
飄々とした男の態度に渋谷は苛立ちを声に滲ませる。渋谷の口調が荒くなるのは本当に怒っている時だけだ。
そんな渋谷の血気に逸る様子に、やれやれという態度で、九重は口を開く。
「そうカッカするでないわ、小童。乱心すれば付け入るのは容易いぞ?」
口調はこちらをからかうもの。しかしその言葉は確かに的を射ている。
傍らのスサノオもこちらの瞳をジッと覗き込んでいた。吸い込まれるような空色の瞳に渋谷はようやく落ち着くだけの心の余裕を得る。
「もう一度聞くぜ、お前八神さんに何をした?」
「ふむ。何を、とは人聞きの悪い。儂は千草の望むことを叶えてやったまで。そうじゃのう、千草よ?」
同意を求められた千草が一歩前に出る。その踏み出した一歩の力強さに、渋谷は彼女の変化をにわかに感じた。
「――渡会君。美朝に伝えて欲しいことがあるんだ」
声は静かなモノだった。異常に対して怯えを覚えていた八神千草はここにはいなかった。
「この街に、英雄は必要ない――って」
「何を言って――?」
「私が美朝の代わりになる。それが私に出来る罪滅ぼしだと思うから」
その決意表明に渋谷は言葉を返す事が出来なかった。
彼女がどうしてその思いを持つに至ったのか、渋谷は知らない。
だが千草が言ったことはずばり、英雄である渋谷も無関係ではなかった。
「その為にソイツに願ったっていうのかよ、八神さん。でもソイツは君が思っているような存在じゃないんだぞ!?」
「関係ないよ。私にはみんな同じだもの。渡会君も美朝も、私も、九重だって同じだよ。きっとみんなそう思ってる」
そして視線は、その場に固まって動けずにいる女生徒たちへと向けられる。怯えきった彼女たちを見て千草は、
「私はもう、こっち側に居たくないんだ。だからごめん。邪魔、しないで」
「待っ――」
「行こう、九重」
千草と九重に間で神気が膨れ上がる。九重の術が発動したのだ。
二人の姿が朧げになり、渋谷の制止の声が届く前にその姿は消えてしまう。
残された渋谷は、千草の言葉を一人噛みしめるのだった――。




