第三十五話 不安と予兆
渋谷が、佐伯に肉体言語による説教を喰らっていたその頃。
「はぁ……」
「琴音、さっきから何度目のため息? しょうがないじゃん」
「そうだけど……」
帰路を行くのは琴音と千草の二人だ。
本来なら体験入部期間のはずの鳴海高校は、先日の事件の影響もあってか、生徒達に速やかな下校を促している。
だからこそ、琴音の溜め息は渋谷を雑用に使うため居残りを命じた佐伯に対して向けられていた。
「何も渋谷君でなくたっていいのに……」
「ゴメンね、一緒に帰る相手があたしでさ」
「え、いや、そういう訳じゃないよ、千草ちゃん!」
「あはは、ジョーダン、ジョーダン」
と、先程から続く琴音の溜め息がいい加減煩わしくなってきた千草は、琴音をからかうことでちょっぴりストレス発散を図ってみる。
「部活、どこ入るか決めた?」
「うん! 私はやっぱり文芸部かな。先輩たちも優しそうだったし。先生も凄い人で、小さな賞も何回か取ったことある人なの。千草ちゃんは決めた?」
「あたし? いや、家の事とかあるし、あんまり負担にならないとこ、かな」
「一年生は部活、強制だもんね……」
「そういうこと。ちょっと先生に相談してみようかなぁ」
そして、
――うん。あたし、琴音となら普通に喋れてる。
千草は今日一日で何度目かの確認を胸の裡で呟く。
それは結局、自分の中で起きた変化を恐れている事の現れでもあった。
千草は九重と出会ってから、加速度的に知らなかった世界に触れた。
そのせいで見えていなかった、あるいは見ないようにしていた景色が見えてきた。
クラス内で蔓延る、麻雛美朝に対する異物感。
そして、日常に平然とある英雄という存在。
それによって、千草は自分もまた、そちら側にいるのではないかと自分の立ち位置が不安になったのだ。
ゆえに、琴音は良い指針となる。
琴音は英雄である渡会渋谷と幼馴染みであり、彼が英雄であることを知っている。
そして、英雄としての麻雛美朝と同じ時を過ごし、その距離感を知っている。
それは、現在の千草と同じ状況そのものだ。
――琴音は渡会君のこと、どう思ってるんだろ。
琴音が幼馴染みの事を強く想っているのは嫌でも伝わってくる。
だが彼はきっと、琴音の知っていた彼とは明確に違った存在であるはずなのだ。
それを琴音はわかっているはずだろうに、その想いに揺らぎは見えない。
その理由を、千草は知りたいと思った。
――知れば何かが変わる気がする。私だって……。
それは、千草が抱える後悔。
自分が裏切ってしまった友人に対する清算を、今成そうと思っているからだ。
「あのさ、突然だけど琴音って渡会君の事どう思ってるの?」
そして、千草は切り出した。
心で思ったことをそのまま声にして。
ただ琴音はその言葉をどう受け取ったのか「え、ええっ!?」と大きなリアクションをとった。
「ち、千草ちゃん、まさか渋谷君の事……っ!?」
「は? い、いや違うってそういう意味じゃないから!」
まるで、恋敵が現れたように、一瞬にして警戒心を露にする琴音に千草は慌てて否定する。
聞き方が悪かったと思いつつ、なんでそうなると突っ込みを入れたくなる千草だ。
というか、琴音のその反応も、なんだか怖い。
「あぁ良かった。ライバルがこれ以上増えるなんて、私、どうにかなっちゃうもん」
「はは、無い無い、絶対無い」
千草は笑って否定するが、琴音の眼鏡の奥のどす黒い眼光に気付いていた。
邪魔者に対する容赦の無い眼差し。
慈悲すらなく、意中の相手を誰にも渡さないという濁った感情が見え隠れしているその瞳に、千草は戦慄を禁じ得ない。
――良かった。琴音の親友で。
と、心の底から思える千草はまだ幸せな方だった。
「そっかぁ。なら、その質問ってどういう意味なの?」
「その……渡会君が化物と戦ったりしてる事に対してどう思ってるかって意味。琴音はなんとも思わないのかなって」
「…………」
琴音の足が止まる。
しばしの思考時間が必要なのか、琴音はその場で眼を瞑る。
そして再び眼を開けると、
「――何も」
驚くほど清々しい表情で琴音はそう言った。
「何、も?」
「うん。……渋谷君ならしょうがないかなって。だから、何も思わないよ」
「――――」
琴音が語るのは、信頼だ。
渡会渋谷という人柄を良く知っている彼女だからこそ、彼が採る選択というのを尊重し受け入れている。たとえそれが、変化を伴っていたとしても。
ゆえに琴音は、そう答えたのだ。
「いや、でも、さ。自分の知っていた渡会君じゃ無くなったとか思わないの? 怖いとか、そういうのって無かったの?」
千草の問いは、琴音の考えに対する無理解から来るもの。
どうしてそう思うのか、自分はそうは思えなかったという経験から来る疑問。
「……もちろん、最初はそう思ったよ。でも、何にも変わる事の無い渋谷君を見て、渋谷君は渋谷君だからって思えた。だから、今はそれを信じてる」
「っ……」
千草の瞳が大きく開かれる。
それはまるで、千草が眼を反らそうとした事実そのものではないか。
自分の知る人物ではなくなってしまったかもしれないという恐怖と、向き合う事が出来ず周囲に流された千草。
対して、それと向き合って自分から近付いた琴音。
より真実に近いのがどちらかなんて、ハッキリしている。
――琴音は、すごい。
千草は素直にそう思う。
その強さに、千草は憧れる。
そうだ、自分はまだ知らない。
確かめてすらいない。
美朝が自分の知る美朝のままかどうかなんて、自分はまだわかっていないのだ。
昨日の事を思い出す。
彼女はあの時、千草を守ろうとしてくれていた。
この町の英雄として、千草を守ろうとしていた。
『ただの人』。
そんな明確な拒絶の言葉を吐き出す美朝の表情は、果たしてどういうものだったか。
自分と同じように、何かに怯えているようではなかったか?
何か、重要な事に千草は気付けた気がする。だがそれが何なのかは、千草にはわからない。
けれどもう少し。
あと少しのきっかけでわかる。そんな気がする。
「琴音……ありがとう」
「ん? どういたしまして」
琴音は何の事かわかっていない様子だったが、それでも千草はもう一度、心のなかでありがとうと呟いた。
●
その日の晩、千草を訪ねる者がいた。
「ココッ、なかなか不自由ない暮らしのようだのぉ、千草」
「な――はぁ!?」
開いた口が塞がらないとはこの事か。
正面玄関から颯爽と登場したのは狐面の青年、九重。
彼はちょっとそこのコンビニにでも寄るような気軽さで、千草の前に現れた。
ちょうど千草は晩飯時だった。
腹を空かせた弟たちをなだめつつ、ようやく食べようという時の訪問だったものだから、千草も自身の空腹から頭が回らない。
「千草、何やら良い匂いがするのぉ。ん?」
クンクン、と匂いを嗅ぐような仕草で、千草の前に九重の顔が近付いた。
「――んっ」
千草が身構えるように顔をこわばらせる。まるで犬にでも迫られたように自分の体臭を嗅がれ、言いようも無い羞恥が千草を襲う。
「ねーちゃ、ごはんまだー!」
と、ひょっこり襖から顔を覗かせた一番下の妹の声で千草は我に返る。
どんっ、と九重を突き放しなんとか距離を取る。
――あ、あぶない……。
危うく、どうにかなるところだった。
嫌な汗がどっと吹き出た。
「ねーちゃ、ねーちゃ!!」
「ほぉ、ヌシの妹か」
「わかったからあっち行ってて!!」
言われ、ぷくぅと頬を膨らませた妹が見知らぬ人物がそこにいるのを見て固まった。
九重は「ん?」と、妹からの視線を受けて優しげに笑った。
――あ、まただ。
彼が見せるその優しげな表情。
千草が彼と出会い何度も見たその笑顔が、千草の胸の奥で膨らんでいく。
――でもこの人は、あの怪物と同じ……。
感情とは別に、千草は彼を警戒しなければいけない。美朝が九重を化物として見ていた。ならそれを無視するわけにはいかなかった。ここには妹たちがいる。何かが起こってからでは遅い。
彼は違うと美朝に言った千草も、根拠があって言った訳ではないのだから。
琴音が言うような、無条件の信頼はここにはない。
だけど。
「な、なんでここにいるんですかあなたは……」
「ヌシの顔が見たくなった、というだけではダメかな?」
「――――」
これだ。
すぐこういう事を言うから、千草はどうしていいかわからなくなる。
気持ちの正体がわかっていないのに、次から次へと押し寄せてくる波に自分のちっぽけなモノが全部流される。
結局残るのは後悔だけなのに。
「何やってんだよねーちゃん、腹へったぁ――あ!?」
中学生の弟までもが顔を出す。やはり兄弟か、同じ反応で固まった。
「ねーちゃん、カレシいたのかよ……」
「なわけないでしょ!」
「だよなぁ」
心外な、と思う千草ではあったがその通りなので何も言えない。
「いい加減腹減ったよ俺。千代だってほら」
「ねーちゃぁ」
「う、うん……」
しょうがないか、と千草は思う。
目の前の彼がすんなり帰るとも思えない。彼も口ではああ言っていたが、本当の目的は別にあるのだろう。自分もこの青年に問わねばならないこともあった。
だから、
「うち、あがりますか……?」
と、口にしてしまうのだった。
「ココッ、なかなか美味であったぞ千草よ」
「それはどうも」
夕食には九重も参加した。
自分の料理が彼の舌を満足させる事が出来たかはわからないが、油揚げをまるごと焼いて大根おろしとしょうが醤油で食べる、八神家では定番のまるごと焼きには大層喜んでいた。
夕食を終え、千草は九重を部屋に招くことにした。
彼に対する警戒心は、夕食時の弟たちのなつきぶりを見てやや薄れてきてもいたし、けれど、いくらこの男が無害そうであったとしても、兄弟たちと同じ空間に居られることの方がよっぽど精神によくない気がしたのだ。
幸い、部屋は掃除していて綺麗だったし、特に見られて困るようなものもない、はずだ。
――あ、卒業アルバムとか見たいって言われたらどうしよう。どこにしまったっけ。
ふとよぎった思考を、
――はっ、いけない。いけないぞ千草。
変な方向を向きそうになるのを頭を振って振り払う。
そんな付き合いたてのカップルがするような事は起こりうるはずがない。
それに九重を部屋に招いたのは、入学式で起きた不可解とも言うべき事件を引き起こしたのは九重ではないか、という千草の推論を確かめる為だった。
実際、千草の頭の中を覗いたようなあの事件の発生は、彼が無関係ではないはずだ。
「兄弟との仲は良いのだな」
「え?」
じっと、睨むように九重の挙動を観察していた千草に、九重がその瞳を覗くように言った。
「良い姉じゃよ、千草は。兄弟たちもヌシを頼りにしとるようだしのう」
「べ、別にそんなこと。どこの家もこんなものですよ?」
これは、褒められているのだろうか。
思わず千草はどもってしまう。
「じゃが――それだけでは寂しさは拭えないのだろう?」
「え?」
いきなり九重の声のトーンが変わり、表情がどこか意地悪げに歪む。
千草は問い返すが、
「弟たちの面倒を押し付けられ、自分は姉だから仕方ないと言い聞かせ、そうして今のヌシは親からも都合良く頼られるだけの便利な道具となった。けれど、それはヌシが望んだモノでは無いはずだのう?」
「何を、言ってるんですか?」
足が震えた。
彼が唐突に語り出した内容は千草の身に覚えが無いモノのはずだった。しかし、その言葉が妙に突き刺さってくる。
今、奥底に眠る何かが、暴かれているような感覚があった。
「ヌシは愛いなぁ。その歳で滅私などとは」
九重が何を言っているのかさっぱりわからない。
けれど、彼がこちらを見やる瞳に千草は吸い込まれるようだった。
「……なにしに来たんですか?」
九重の考えている事がわからなかった。だからもう一度問う。
いや、違う。本当に聞きたいのは、
「どうして、入学式であんなことしたの? あなたは私をどうする気なんですか!?」
声が張る。
その時ばかりは、千草の心の声が顔を出していた。
「言うたじゃろうが。ヌシを貰いうけると」
「え?」
ずいっと一歩、九重が千草に近付いた。
気圧されるようにして千草は一歩下がり、
「あっ」
と、後ろのベッドに倒れこんだ。
そして、九重は千草を馬乗りにして、両手を押さえ込んだ。
「ヌシが気に入った。だからヌシが望むモノを叶えよう。ヌシはあのとき父親が来ることを望んだ。だから儂はそうした。これからだって、どんなことでも叶えてやろう」
「――……痛っ」
組みしかれた手首が痛い。九重の握る手に力が入っていた。
美しい顔がそこにある。触れれば容易く壊れてしまいそうな精緻な造詣をしたこの世のものとは思えないそれ。
彼の表情が蠱惑的に千草を誘っていた。自分の中の本能が、彼が放つ色香を求めている。
九重は、そのまま顔を近付け、耳許で囁く。
「儂に化かされてみんか?」
そして、千草は――。
●
入学式から、一週間が経過した。
「飯だ、メシぃ〜!!」
授業終了のチャイムが鳴ったと同時に、清春の声が響く。
もはや間の抜けたような清春のキャラは、クラス内でもすっかり浸透していた。
またかよと言いつつもクラスメイトたちも鞄から昼食を取り出したり、購買や食堂へと向かっていく姿が見受けられる。
渋谷もまた、その中の一人の高校生として、学校生活を送っている。
登校する時は琴音と共に。
そして今では、クラスメイトたちにそれを茶化される程度には、渋谷もクラスに馴染んでいた。
「キヨっ!! どうかなぁ私のお弁当。おいしい? ね? ね?」
「だぁ! ウマい!! ウマいからゆっくり食べさせろっ!!」
「ふふん? そうかそうかぁ。ほら、ご飯粒付いてるよ? キヨってば慌てん坊なんだからぁ」
ひょい、と清春の頬に付いていたご飯粒をパクリといく渚。
それをまじまじと眺め、「ほぉ……」となにやら意味ありげな声を洩らす女性陣。渚の持つ女子力が、女子一同には尊敬の対象ですらあるようだ。
ゾクゾクッと背中を震わせる清春の背を「まぁまぁ」と撫でてやりながら、その隣に座る遠弥と目線を合わせて渋谷は笑う。
この二人のやり取りも見慣れたものだ。
昼食を取るときのメンバーもほぼ固定されている。
男子は渋谷、清春、遠弥。
女子は琴音、千草、そして遠弥の幼なじみだという東雲愛莉だ。
彼女も鳴海中学出身であり、琴音たちとは既知の間柄になる。
ややタレ目のふわっとした印象を受ける可憐な少女だ。緩くウェーブのかかった茶髪を揺らしながら、清春と渚のやりとりを眺めてはポッと頬を染めている。
彼女の弁当箱は驚くほどに小さい。少量の野菜と小さなおにぎり。そして、食後に服用する薬の類だ。
愛莉は幼い頃から病弱で、遠弥の父が経営する病院で世話になっていたようだ。そのことから彼らは幼少の頃から付き合いがあったのだという。
彼女の虚弱体質は油断するとすぐに悪くなるモノであるらしく、体調が悪い日は学校を休むこともしばしばだ。現に渋谷も彼女を見るのは実に二日ぶりである。
「愛莉、もう食事はいいのかい?」
「はい……」
「無理をしてはダメだけど、しっかり食べないと治るものも治らないよ」
愛莉がほぼ弁当に手を付けることなく箸を置いたのを見て、遠弥が気にかけた。
彼にとってはいつものことらしく、それでも彼女を心配するその態度は、ただの幼なじみという感情を超えたもののように渋谷には思えた。
「大丈夫ですよ遠弥君。お腹いっぱいですから」
そう言って、微笑を浮かべる愛莉の顔色はあまり良くない。もしかしたら今日は調子が悪いのだろうか。
「本当かい? 何かあったら、すぐに僕に言うんだよ?」
「はい、もちろんです」
遠弥はあまり彼女の言葉を信用してはいないらしい。きっと彼女が無理を通す姿を何度も見ているからだろう。
「まぁまぁ。東雲さんだってわかってんだろ自分のことだし。つーか、美少女になんて顔させてんだよ、色男さんよぉ?」
「ふっ、そうだね。ごめんよ愛莉、三國くん」
冗談交じりの清春の言葉に、自分の発言が場の空気を乱していることを悟った遠弥は苦笑して自分の非を詫びる。
「でも苦しくなったらちゃんと言ってね愛莉ちゃん」
「はい、もちろんです」
そんな琴音の一言が区切りとなって、再び和やかな空気が戻ってくる。
「午後の授業日本史だったよね。また前みたいに脱線しないといいけど」
「はは、来栖先生、途中から自分が付き合った相手の話ばっかりだったよな」
「そうそう。あれはあれで色々参考になったけどね」
と、渋谷と千草にも会話が生まれる。
「渡会君って、寮に入ってるんだよね? そのお弁当っていつもどうしてるの?」
「お、そういえばそうだよな。俺も気になってたんだ、やけに手が込んでるしよぉ。流石に自分で作ってるわけじゃねぇよな」
「愛妻弁当ぉ~?」
「むむむ……」
「ふふっ」
ふとした千草の質問に思わぬ食いつきを見せる仲間たち。
渋谷の弁当は美朝が毎朝作ってくれているものだった。彼女いわく一人分も二人分も変わらないというし、京香も美朝に弁当を作ってもらっている。
こうして、突っ込まれるまで渋谷自身深く考えたことはなかったが、確かに邪推されても仕方がない部分ではある。
「ど、どうなの渋谷君!!」
と、食い気味に問い詰めてくる琴音。
「え、えぇっと」
どう言ったものか、と渋谷は頭を悩ませる。
一人だけ事情を知っている遠弥だけが、笑ってこの状況を見守っていた。
「な、なんかマズイこと聞いちゃったかな……?」
と、不安そうに琴音と渋谷に視線を行ったり来たりする千草。
そんな、どこか一線を置かれていた千草にも変化があった。
今ではいくらか態度は柔らかくなり、普通の会話程度なら問題ない。
彼女の中で、なにか心境の変化でもあったのかもしれないが、渋谷が感じる彼女の変化は、別のものも含まれている。
この一週間で、千草から感じる気配に渋谷は嫌な感覚を得るようになった。
――また、強くなってる。
千草から神気が発せられている。
それはスサノオに言われて初めて気付いたほどの微かなモノだったが、まるで残り香のように、彼女に纏わりついているのだ。
一般人は普通、神気を持つことはない。
だから彼女から発せられるその気の正体は、彼女が以前関わりを持っていると思わしき態度を見せた、あの狐面の青年にあるのではないだろうか。
彼女はまた、あの狐面と密かに会っている。
その、可能性がある。
スサノオは言う。
『人と神は本来、別の位階に在るものです。それが近しくなるということは、必然強いものへと惹き寄せられる。境界が曖昧になる』
例えば、鳴海町がそうだ。
鳴海町はかつて凶が現れるような土地では無かったという。しかし今はその頻度が格段に上がっている。
それは一度、凶という別の位階のモノが現れたことで町それ自体が、『神』という存在に惹き寄せられているからだ。
『龍穴』という凶を呼ぶ為の餌もまた、神へと惹き寄せられたことで発生したモノかもしれない、と中村は推論をたてていた。
八神千草はまさに今、その状態なのかもしれない。
一度関わったことで、境界が曖昧になっている。ゆえに、凶を惹き寄せる。
美朝もそのことに気付いていないはずがない。
彼女は相変わらず一人ではあったが、どこか千草を見ていることが多い気がする。
とうの千草は、美朝と視線が合うことを気まずそうにしていたが。
かといって美朝が千草と接触することは無い。やはりきっかけがない今の状態では動くに動けないということなのかもしれない。
渋谷も美朝と同じようなものだ。確信があるわけではなく、かといって何かか起こってからでは遅いとわかっているから、彼も千草をなるべく見張ってはいるつもりだ。
だがそれでも、美朝が英雄として何かをしている一方で、渋谷はより、ただの一般人としての生活が強くなっていた。
この一週間で何度か一つ眼の襲撃はあったのだが、渋谷がその場に行くより先に美朝が片付けているという事が多くなっていた。
剣道部に正式に入部したわけではないが、佐伯に呼ばれ女子部の練習に付き合うこともある。
そこで自分と対等に戦える女子部の部長との練習試合が、密かに楽しみになっている。
それもあって、渋谷は凶と戦闘がめっきり減ってしまっている。
美朝はそれを咎め立てはしない。彼女は渋谷が日常へと戻ることを勧めていたし、今の状態が当然だと思っているのだ。
このままではいけないと思いつつも、今の生活が楽しいと思っている自分がいる。
英雄であるはずの自分がただの人として認めてもらえている。
それが許容されているように思える今の自分の立場が、心地よいと思える一方で、いつか無くなってしまうのではないかという不安が、より一層渋谷を日常へと誘うのだ。
危うい綱渡りだ。
凶が存在し、それが目に見えているのに、それでも今の欺瞞をなんとか成り立たせようとしている現状。
でもいつかは終わりが来る。それがわかっているはずなのに。
そんな不安が現実になるのは、そう遠い未来ではない。
事件が起こったのは、次の日のことであった。
長女・千草(高一)、長男・草太(中二)、次女・千恵(小六)、三女・千代(四歳)。次女、千恵はお友達の家にお泊りでした。




