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現代神話ヒロイズム  作者: 石上士悟朗
第二章 狐の嫁入り
34/49

第三十四話 全力の方向性(とその被害者)

「ぜひ陸上部に!!」

「目指せ、甲子園ッ!!」


 高校生活二日目。

 今朝から既に各部対抗で新入生の奪い合いが行われている。

 本来は入学式のあと各部の紹介オリエンテーションが行われ、午後から部活勧誘という流れがある鳴海高校だが、今年はその入学式で騒動が起きてしまったため翌日に繰り越しとなったのだ。


 校門を潜ると、耳に聞こえてくる吹奏楽部の演奏が寝不足の渋谷を心地よい気分にしてくれる。


『渋谷さまっ、渋谷さまっ! まぁまぁ。本日もお祭りのようでございますね!!』


 そして、スサノオもまた、以前のような明るさを取り戻していた。

 一転して昨日の晩から渋谷に何かと身体を絡めてくるスサノオに、渋谷はヘトヘト。一緒の布団に入ろうとしてみたり、子供扱いで膝枕をして子守唄を歌ってみたり、渋谷がようやく寝付けたかと思えば、夢枕に立っては渋谷とのお喋りを要求してくるのである。

 

 今も彼女は、プカプカと宙に浮きながらも渋谷の首に後ろから手を回し、大きな乳房を押し付けている。渋谷にはその感触があるから、精神を鎮めるのでいっぱいいっぱいだ。


 しかも、今日の彼女の服装はいつもの巫女装束ではない。ブルー系の色で纏められた、鳴海高校のブレザーである。


 昨晩夢の中で、高校についての話題になった際に、彼女が試しに服装を変えようとしてみたところ、なんと見事に成功したのだ。


 神とは本来、人々の祈りが具現した姿だ。

 つまり本質では無形であり、その姿形というのは認識する者によって違うのではないだろうか。よって、望めばその姿も思い通りに変化することだって出来るのかもしれない。

 

 とはいえ、こうしてスサノオが満足そうにスカートを翻してみたりしているところを見て、渋谷もまぁいいかと納得した。難しい理屈はどうでも良い。彼女には制服がよく似合っていた。それで良いのだ。今はミニのスカートからのぞく脚線美が、刺激的すぎるほうが問題だった。


「はぁ、高校の部活勧誘って凄いのな。まるで漫画みたいだ」


 校門前を陣取って、各部のアピールが続いている。垂れ幕や、優勝旗。輝かしい歴史を証明するトロフィーなどを全面に押し出して、どんな些細な事でも興味を引こうと上級生は必死な様子。

 もちろん、鳴海高校の部活動が盛んだからこそ、このような光景が見られるのだ。普通の高校ならここまではしない。"そこそこ"で終わりだろう。


 特色の一つとして、鳴海高校は夜須島市唯一の高校なため、四つの地区の有望な人材が一手に集う。だから、部活勧誘に各部がここまで必死なのだ。


 渋谷もここまでそれなりに声は掛けられた。手当たり次第という流れの中での勧誘なので、渋谷自身を目的としたものではなかったが。

 もし、そんな部活があるのならばそれはひとつだろう。


 『不動心』の文字が縫い付けられた垂れ幕を、並べた机から下げている。

 特有の紺色の道着に身を包んだ上級生だろう男子生徒と、同じように道着を着込んだ女生徒が並んでパイプ椅子に座っていた。

 かたや軍人のような無骨な男と、かたや古風な雰囲気を感じる女生徒である。


 隣にはマネキンに防具を着せ、打ってみませんかとばかりに竹刀が置いてあった。マネキンに着せられた防具はかなりの年季が入っているようで、やや離れたところに立つ渋谷にもわかるほどに、すえた匂いが鼻腔を刺激した。


 ――剣道部、か。


 渋谷は全中二位の経歴を持つ。田舎中学からの個人出場ということもあってか、それなりに注目はされた記憶がある。

 とはいえそれがどこまで広まっているのかは未知数。言っても中学剣道、だ。


 ――ま、もう無理なんだけどな。


 それに、渋谷も今はかつての自分とはまるで違う立ち位置にいる。英雄として力を得て、あまりにも変わってしまった。

 肉体の変化は、常人を遥かに超えた力を渋谷にもたらしている。

 今はそのコントロールも修練の一つとしているが、それでも本気を出さずに皆に混ざって剣道なんて出来るわけがない。真摯に競技に取り組む者達への最大の侮辱となるだろう。


 ふと、渋谷は視線を感じ、脚を止める。

 剣道部の男子生徒と渋谷の眼があった。

 パイプ椅子に座る彼はとにかく縦に長い。横の幅はそうでもないのだが、見るからにしなやかな筋肉が付いており、窮屈そうに腰掛けている。

 となりに座る女生徒もまた、刃物のような鋭さを宿していた。氷の華を思わせる容姿は、触れれば切れる、そんな他者を寄せ付けんとする気配を感じる。黙し、眼すら伏せている。


 剣道部は他の部活のように声を張り上げたりはぜず、寡黙だった。

 しかしその場に留まっていた渋谷へ「どうだ、打ってみては」と男子生徒が言った。


 だが渋谷は遠慮の姿勢を見せ「結構です」と、剣道部の前を通り過ぎる。

 しばらく歩いて、


『……よろしいのですか?』


 と、スサノオが上目遣いで問うてくる。


「ああ」


 渋谷はもう剣道に触れることは無い。そう決めた、だからいいのだ。


 スサノオもそれ以上は何も言ってこない。渋谷にとって、剣道部との関わりはそれで最後のはずだった。


      ●


「どうだ、重いか?」

「え、まぁ………重いです」


 放課後である。

 琴音と共に帰ろうかという時、担任である佐伯舞に渋谷は呼び出された。


 琴音の恨めしそうな視線を背に受けながら、「ちょっと付き合え」と、半ば強引に連れて来られたのは、渋谷がもう関わるまいと思った剣道部の部室であった。


 佐伯は女子剣道部の顧問を受け持っているらしい。渋谷が手伝わされているのは、部室の備品整理だ。


 計十キロほどの重さの、胴が詰められた段ボール箱を渋谷は佐伯の言うとおりに並べていく。

 重いには重いが、渋谷の力はその程度では苦にならない。重い、という発言はあくまで自分の力を悟られないための建前だ。


 ジャージ姿の佐伯は、渋谷の倍の量の防具を担いで運んでいる。

 華奢な見た目のどこにそんな力があるのだろうと渋谷は驚きつつも、渋谷は何故自分がこのような雑用を押し付けられているのか説明を受けていない事に気付いた。

 そんな時だった。


「――お前、剣道やってたろ」

「え……?」


 佐伯が両手に持っていた段ボール箱をその場に下ろし、こちらの顔を見ずにポツリとこぼした。

 疑問が顔に出ていたのだろうか、それが理由だと、佐伯は言う。


「私も全中の審判であの会場に行っていたから、お前のことは見たことがあった。……なんでうちに顔出さない? もう剣道やらないのか」

「…………」


 初めて佐伯を見たときの印象とは違い、彼女が見せるこちらを慮るような態度は、まさしく教師としての顔だった。

 

 どう答えていいか渋谷は迷った。事実をそのまま言うわけにはいかない。さりとて、上手く相手を納得させる言葉を持っているわけでもない。

 しかし、興味が無くなった、と嘘でも口にしたくはなかった。


「まぁ、一度負けてやる気が無くなったなんてよくあることだけどな。お前はそんなタマには見えんが」


 そうだ、渋谷は決勝で負けた。だから、あの時自分はもっと強くなれると思った。でも今は立場もその思いも違う。


「……………っ」


 歯切れの悪い表情を浮かべる渋谷。

 なんだか、息苦しい。言えないというもどかしさが、渋谷の喉奥にこびりついているようだった。


 そんな渋谷に佐伯は、


「おい、渡会。防具着けろ。相手してやるよ」


 さっきまで運んでいた防具を指し、唐突に言った。

 眼差しはこちらを試すように向けられていた。


 「ほら」と、適当に干してあった道着を引っ付かんで、佐伯が放り投げてくる。

 渋谷は逃げられない、とその時悟った。


      ●


 道着に着替え、胴を着けて、二、三その場で跳び跳ねる。アンバランスな荷重が、渋谷に体感として久方ぶりの剣道を思い出させてくれる。

 胴着はやや大きめだが、なんとか動ける。袴の裾が長いのがやや気になるぐらいか。


「はっ、良い顔になってるじゃないか」


 と、佐伯も胴着に着替えていた。

 凛とした居ずまいは、己に対する自身の現れか。

 眼鏡を外し、髪は面に納まるよう纏められている。

 やはり眼鏡が無い方が良い、と渋谷は純粋に思った。


『渋谷さま、本当になさるのですか』


 スサノオが心配して声を掛けてくれる。渋谷が普通とは違うことを一番知っているのは彼女だ。佐伯と試合をすることで渋谷の立場が悪くなることを懸念しているのだろう。


「断れねぇよ。大丈夫だ、手加減はする」


 スサノオを安心させるため、渋谷が言う。佐伯の気が済むならそれでいい。手加減さえすれば問題ないのだ。手加減さえすれば。


「なんで、とかどうして、とか訊かないあたりお前はわかってるよ、渡会。そういうのは"野暮"だよな」


 犬歯を剥き出し、獰猛な笑みを佐伯は向けていた。

 担任の男らしさに渋谷は一瞬気圧されそうになる。

 じわりと手のひらに滲んだ汗は、緊張によるものか、それともこうして再び面を着けられることを心の何処かで望んでいたがゆえの高揚だろうか。


 ――どっちでもいい。渋谷の剣道は、これで本当に終わりなのだ。


「お手柔らかに……頼みます」

「――ぬかせ」



      ●


 防具を着けた二人が相対する。

 面の向こうに見える佐伯の眼光はこちらを試しているようだった。

 

「お前の好きなタイミングで来い」


 言われ、なら、と構えた渋谷は、


「雄ォぉぉぉぉぉぉおおおおおッ!!」


 相手を制す、覇気をぶつける。


 次いで――仕掛けた。


「ふッ――!」


 開始早々、渋谷が打ったのは籠手。

 中段の構えから、竹刀を最小の動きのみで前方に突きだし打ち付ける、出籠手だ。


 渋谷の膂力は常人を超える。

 ゆえに意図的に手を抜いた一撃だが、しかし格下相手ならばこれでほぼ決まりという渋谷の速攻。


「――――!」


 たった数ミリ。正中線にあった竹刀を軽く動かすだけで、渋谷の籠手打ちは、簡単にかわされてしまった。

 

 そうだ、当然この一打は通用しないのはわかっていた。崩しもなく打った籠手打ちは、上位有段者にとっては大きく避けるまでもない。

 だが渋谷はそこに、連撃の活路を見出だす。


「ハァッ!!」


 再度の籠手打ちだ。

 浅い踏み込みから打たれた籠手打ちは、狙いも一目瞭然。素直な打ち筋は、当然竹刀によって防がれてしまい――、


「――っ!?」


 違う。渋谷の籠手打ちは、最初から防ごうとしていた竹刀に向けられている。振り下ろされた竹刀と佐伯の防ごうとした竹刀がかち合い衝撃を生む。

 込められた力は竹刀を伝って、佐伯の手首に伝わったはずだ。僅かな痺れさえ、渋谷にとっての勝機へと変わる。


 二打目――面打ち。

 

「メェエエエンッッッ!!」


 籠手打ちの反動を利用して渋谷は延び上がる。

 倍加した速度は、佐伯の面に最短の距離をとった。

 

 ――決まった!


 渋谷の裡に湧いた歓喜は果たして。


「――そんなもんか?」

「ッ!?」


 ドクン、と跳ねた鼓動は、何の予兆か。

 しかし渋谷がそれを理解するより早くそれは起こる。


「づぅッ!?」


 激痛。渋谷の手首が突如激痛を訴える。そして、視界がぶれ、脳の理解が追い付いた時には、


「ほら、一本だ」


 渋谷は片膝を床に付きながら、上から降るその声を聞いた。

 手にあったはずの竹刀が無い。辺りを見回せば、自分の後ろに転がっていた。

 

「おいおい、肩透かしだなぁ渡会。もっとやるもんだと思ってたんだけどなぁ?」


 佐伯が腰当てに手を当て、飄々と手首を振る。それは渋谷が打った一撃が、まるでその手には効いていないことを示すかのように。

 

 ――おいおい、マジかよ……。


 渋谷は相手の力量を見誤ったことをここで痛感した。

 刀を取り落とすということは、競技においてそれだけで注意が与えられる行為。二回落とせばそれで一本。それ以前に剣士として得物をなくすということがどれだけ屈辱的なことか、佐伯は分かっていてやったのだ。

 剣道をどこかで舐めていた渋谷に対し、見せつけるように。

 その上で手首に感じた痛みは、竹刀の一撃が入った事を示している。審判もなく始めた野試合だが、結果は瞭然、籠手あり一本だ。


「はっ…………ハハッ」


 裡から漏れ出るように、渋谷の口が愉悦に歪む。

 なんだこれは。なんだそれは。

 強い。こんなに強い相手がいるのに、渋谷は手を抜こうなどと馬鹿げた事を考えていたのだ。

 笑えてくる。自分の馬鹿さ加減に。


 ――スサノオ。俺、やってもいいのかな。


『どうぞ。渋谷さまの望むように』


 裡での短いやりとり。スサノオは渋谷の想いを止めはしない。


「どうした、もう止めたくなったか?」

「……先生。スイマセンでした」


 渋谷が立ち上がり、転がっていた竹刀を拾い上げる。


「――もう少し、付き合ってもらえますか?」


      ●


 並んで歩く女生徒がいる。 

 身長差のある二人は、竹刀袋を肩に掛け、武道場に向かっている。彼女たちは剣道部なのだ。


「それで先輩! 勧誘はどうなったんですか!?」


 小さい方。溌剌とした、陽気な少女だ。

 小柄な体躯は小動物を思わせる。彼女の身体付きからして、面や胴があまりにも不釣り合いに思えた。

 跳ねた天辺の髪がピョンピョンと飛び跳ねる。

 ショートカットの髪に付けられた大きな三日月型のヘアピンが特徴的な彼女は、傍らの上級生に向けて問うた。


「芳しくはありません」


 と、端的に答えた上級生の女生徒。

 彼女から発せられる刃のような鋭さは、距離の近い二人の関係性であっても変わらない。

 しかし、彼女が付ける蝶の形を模したかんざしと、それに似合うようセットされた編み込みがされたハーフアップは、後輩の女生徒が毎朝セットしてくれるものであるからして、その親密さはうかがい知れる。

 

 この上級生の女生徒は今朝、男子部の部長と共に部活勧誘の場に参加していた生徒である。

 しかし、男子部の部長共々、どちらも口数が多くない性格であった為、思ったような成果は見られなかったようだ。


「男子部は経験者が何人か入部したようですが」

「はぁ……やっぱりウチにはなかなか入らないですよねぇ。臭いし」

「…………」


 黙すのは肯定と同じ。彼女もその言葉には同感である。

 しかし、それ以上に剣道という武の道に価値を見出だしているから彼女はここにいる。


 小さい頃、いくつかやった習い事の中で今まで続いたのが剣道だけだった。華や琴への興味はまるで湧かないのに、竹刀を振ることにだけは、得も知れぬ高揚が沸き上がるのである。

 しかし彼女は高校三年という現在にあって、相対できる者が顧問の佐伯舞だけということに不満を抱いていた。

 

 佐伯舞の実力は、クイーンと呼ばれる彼女をもってしても遥か上。いつも本気を出させることが出来ず、赤子の手を捻るようにあしらわれる。

 

 なついてくれているこの後輩を鍛え上げようとしてはいるが、それが自分に届くまで至るのは果たしていつ頃になるだろう。

 

 導いてもらえる存在でもなく、導くべき存在でもなく。

 彼女が求めているのは、もっと自分に近い高め合える存在だった。

 

「あれ、武道場、誰か使ってませんか? 男子部は今日は無かったはずですよ、四季(しき)先輩」

「この音――」


 耳に届いた堅音。それだけで、向こうにいる者の力量がわかる。相当の実力者だろう二人が、今そこにいる。

 一人はよく知る相手。女子部の顧問、佐伯舞のモノ。しかし、もうひとつの音は、彼女が知らぬそれ。


「……行きましょう、高槻さん」


 自分の知らない強者の存在が、彼女の鼓動を早くさせる。

 織部四季(おりべ・しき)

 鳴海高校三年、女子剣道部主将の興味は、その主に急激に引き付けられた。


      ●


「そらぁっ!!」


 声を荒らげ、佐伯が渋谷の面を狙い撃つ。

 対する渋谷も、己の膂力に任せ、強引に首を捻ってそれを躱す。間一髪、外れた竹刀が渋谷の肩をしたたかに打ち付ける。

 構わない。痛みなどは無視だった。渋谷の竹刀が佐伯の右脇から胴を狙う。


「疾ッ――」


 密着した姿勢からの胴打ちは引き胴。後方に下がりながら距離を取りつつ打ちこむ。

 しかし佐伯は既に身を引いていた。かろうじて掠らせはしたが明らかに浅い。審判が居たなら誰も旗を渋谷にあげることは無いだろう。


 やはり、佐伯は強い。

 渋谷はもう手加減はしていない。全力で佐伯に向かっていた。

 だというのに、渋谷の攻めは佐伯に通じない。力などでは明らかに渋谷が優っているのに、"読み"という部分において太刀打ち出来ない。

 こちらの次の手を把握しているように、佐伯は立ちまわっているように思えた。


 まるで祖父のようだ。渋谷の祖父も身体は明らかに衰えており、渋谷の方が力では優っていたのに、その技を当てることが叶わない。

 それは剣士として培われた経験によるものなのだろう。

 呼吸や足捌き、僅かな筋肉の伸縮すらも、情報として処理し次の行動を読み解く。

 それは思考に頼った動きではなく、本能によって次の動きへと繋げる無我の境地だ。


「くそっ、当たれよっ!!」

「ははぁっ!! 甘いんだよチャンバラ坊主がぁ!!」


 もはや剣道という競技としての崇高さがこの試合にはなかった。

 まるで遊んでいるかのように、自分の持てる全力を出し合い、尽くしているだけだった。

 息すら切れ切れになりながら、自然と笑いがこぼれてくる。


 そうだ。剣は楽しい。全力を尽くすということは楽しいことだった。

 獅子との一戦でもそれを思った。しかし、渋谷はそれに呑み込まれ、修羅へと至る寸前にまで陥った。

 そして昨日、スサノオと修羅にはならないことを再確認し、強くなることを再び誓った。


 だが渋谷は気付いていなかった。自分の変わってしまった立場から、普通ではなくなってしまった今の自分が、諦めるという選択肢を自然と選んでしまっていたことを。

 

 それは英雄という業に縛られた、かつての美朝のように。いや、今も美朝はそれを悩んでいる。英雄という立場から諦めてしまった事を抱えながら。

 

 だが佐伯はこの剣戟のなかでそれを教えてくれているようだった。

 

「子供が何を悩んでんのか知らねぇけどなっ!! やりたいことやらねぇでどうすんだよ渡会っ!! ガキは夢だけ見てろや!!」


 竹刀をぶつけながら、佐伯が言う。

 彼女は教師として、渋谷に伝えてくれている。大丈夫だ、と子供は好きなことをしろ、と。それを支えるのが大人の役目だから、と。

 

「麻雛も、お前も、変なもん抱えてんじゃねぇよバカヤロー!!」


 口は悪いが、佐伯の思いは渋谷に伝わっていた。

 彼女は入学式で事件が起こった時、ただひとり臆すことなく男に向かって行った。それが自分の役目なのだとばかりに。

 その一方で美朝や、動こうとしていた渋谷に対し、思うところがあったのだろう。

 美朝には口で、渋谷にはこうして剣で、佐伯は説教をしているのだ。


 渋谷は思う、この人なら自分たちのことをまるごと受け止めてくれるだろうと。

 だから、渋谷の全力は、彼女に向け放たれる。


 渋谷の必殺。

 全力での飛び込みは、竹刀を爆発的な加速で射出する。

 

「おぉぉおらあぁあああ!!!」


 突き。喉を狙い穿つ渋谷の乾坤一擲。

 果たして、佐伯に通じるのか――、

 と。


「――あれっ」

「――おぉ!?」


 ――ずるっ。


 ガクンと渋谷の視界が唐突にひっくり返る。

 佐伯に一本取られた時とはまた違う視界の暗転。

 

 渋谷はまるで何かに脚を滑らされたかのようにずっこける。それは長さが気になっていた袴によるものだ。


「おぉぉぉおおおおお!?」

 

 その勢いは止まらず、渋谷は前転したまま、さっと横に避けた佐伯を見る。しかし、その先にいた別の人影に渋谷は突っ込んでしまった。


「――きゃぁ!?」


 甲高い悲鳴のもと、柔らかい感触を巻き込みながら渋谷はようやく止まり――、


「フガ……っ、ンフゥ!?」


 渋谷が気づいた時には視界は再び真っ暗。面はいつの間にかどこかへいってしまい、鼻先に柔らかい感触と甘い匂いがダイレクトに伝わる。

 なんだこれ――?


「ひゃんっ!!」


 ――ひゃんっ?


 可愛らしい悲鳴がすぐ近くで聞こえてくる。

 這うような姿勢となった渋谷は、慌てて身体をひねろうとすると、


「やぁっ……んあっ………!!」


 ぐにぐにと鼻先に何かが押し当てられ、そのたびに甘い声が耳に飛び込んでくる。逃げようとしても、押さえつけられ逃げられない。心なしか、甘い匂いが強くなっていく。


「フグッ、ン?」


 シルクの肌触り。そして頬を挟みこむように圧迫してくるムチムチとした肉感的感触。

 それにどんどんと濃くなっていく匂いに、渋谷はどうにかなりそうだった。


「んっ、ぁ、やめっ……」

「いつまでやっとるか、バカタレがぁ!!」

「――ぐふぉっ!?」


 陶酔しそうなほどの濃厚な匂いにクラクラする渋谷を、腹部に奔った衝撃が現実へと引き戻す。佐伯が渋谷の土手っ腹を思い切り蹴りあげたのだ。


 その勢いのまま、再びぐるぐると回転した渋谷は壁に背中を打ち付けられ、上下逆、頭を下にした状態で止まると、


「はぁ、はぁ…………わ、私は、なにを……っ」

「し、四季センパイ……大丈夫っ!?」


 見知らぬ二人を視界に納める。

 新たに道場に居たのは、スカートを押さえた頬を紅潮させた女生徒。そしてその女生徒に駆け寄る小柄な女生徒の二人。 

 隣には面を取り、鬼の形相でこちらを睨みつける佐伯の姿が。

 渋谷はいったいなにが起こったのか理解が出来ず、


「す、スサノオ…………いったい、なにがおこったんだ?」

『…………もう、渋谷さまなど知りませぬっ』

「お、おい……」

『つーん』 


 腕を組み、そっぽ向くスサノオにもとりあってもらえず、渋谷は何が何やらわからない。

 だがこれだけはわかる。渋谷はこの場の全員に敵意を向けられていた。

 視線が、痛い。


「渡会、お前というやつは、全力を出す方向を間違えちゃいないかぁ、おい?」


 ゴキゴキと指を鳴らして近づいてくる佐伯に、渋谷はもうただの子供でしか無い。英雄としての彼の姿は皆無だった。


      ●


 ドクン、ドクンと早鐘を四季の心臓は打っていた。

 

 ――わ、私はどうしてしまったのでしょうか。


 高揚している。身体が、熱を帯びていた。熱くて熱くて仕方ない。

 彼の頭が自分のスカートの中に潜り込んでから、自分はどうかしていた。

 

「く、ふ、――っ」


 まただ。また声が漏れる。熱によって頭が浮かされていた。自制が効かなくなっているのだ。

 

「こらぁ渡会!! 逃げてんじゃねぇぞぉ!!」

「お、俺が、何をしたっていうんだよセンセぇ!?」


 佐伯に追いかけられている少年は、誰なのだろう。顔立ちは未だ幼さを残しながらも、身体つきはまさしく剣士のそれ。

 彼が、佐伯と先程まで試合をしていたのだ。あの音を響かせていたのだ。それを見てから、四季はもうおかしくなっていた。

 

 彼が自分に与えたのは、女としての羞恥だけではない。股を弄られるよりも先に、彼に植え付けられたこの感情は一体何だというのか。

 

 こんな感情は初めてだった。

 試合の最中、彼の姿を自然と眼で追ってしまっていたのだ。

 胸が一層苦しくなるのがわかるのに、あの少年から眼を離せなかった。

 

 あぁ、今度は自分と試合シテはくれないだろうか。この気持ちも、この熱も、もっと、もっと昂らせてはくれないだろうか、と。

 気持ちが溢れ出るように、下腹部の奥がじゅんと疼くのだ。


 ――あぁ。私は、私は………っ!

 

 織部四季。

 クイーンと呼ばれる彼女はこの日を堺に自らの感情の正体もわからぬまま、渋谷との縁を持つこととなる。

 

「四季先輩っ………。アイツ…………ッ!!」


 そんな彼女を慕う女生徒が、渋谷を敵視するようになるのはこのすぐ後のことであった。

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