第二十八話 救済の不足分
八神千草の朝は慌ただしい。
下の三人の弟と妹の食事と、朝早くには出てしまう両親の弁当を用意するからだ。
弁当は玄関に置いておけば、いつの間にか「行ってきます」という書き置きに代わっている。それは父の仕業だ。
母が出掛けるのはそのすぐ後。この時、母は自分達の顔を一目見て「行ってきます」と言って家を出る。
そして千草は先に出た父の分も込めて、「行ってらっしゃい」と言うのだ。
ただ、今日ばかりは一言、
「入学式、行けなくてごめんね」
という謝罪が付いていて、千草は半ば諦めていたことでもあったから「ううん、大丈夫」と返した。
たぶん、表情には出てはいなかったと思うが、母がこちらを見つめているのが分かってさっと顔を逸らしてしまった。
そうして母を見送ってから、千草はいつものように、ちょっぴりの溜め息と共に後悔する。
――そりゃ、無理ってわかってはいるけどさ。
入学式ぐらいは見に来てくれても良いのではないか。
そんな風に思う自分が子供っぽくて嫌になる。父と母が仕事で忙しいのは自分達の為だという事はわかっている。弟や妹たちも小さいながらそれを理解しているようだが、それでも高校生の自分よりは寂しく思っているに違いないだろう。
だから自分がそう思うことは同じように我慢している弟達の気持ちを無視した自分勝手な思いだ。
けれどまだ、せっかくの新調した制服を着た姿を、見てもらえていない。
それだけが千草の悩みの種で、後悔の原因だった。
「さ、あたしも準備しなきゃ」
声に出して思考を打ち切り、弟達に着替えるよう促して、自分も準備。
一番下の妹を幼稚園に送ってから、学校に向かう。その道中で中学校の同級生と待ち合わせをしているのだ。
「っと、そう言えばこっちに引っ越してきた子も一緒なんだっけ」
名前は聞きそびれたが、その待ち合わせにはもう一人いるらしい。同級生の幼馴染みで、一度は鳴海町を引っ越したが、どうやらこちらの高校に通うために戻ってきたらしい。
その待ち合わせの相手の事を語るとき、心なしか声が弾んでいた様子だったから、男かもしれないなと千草は思った。
まだまだ色恋というモノにはうとい千草だが、他人のそういう話ならば喜んで食い付く今時の女子高生(未入学)の例には漏れない。
ただ自分と比べて同級生は顔も良いし、中々あれでスタイルは抜群だ。性格は少し引っ込み思案で地味なきらいがあるが、中学時代、密かに男子の人気を集めていたのを千草は知っている。
そんな彼女に好きな人がいるという事が、どこか焦りに感じる程には千草は乙女だ。高校生活では絶対に彼氏を作ってやるぞという意気込みはある。実際、髪を伸ばし始めたのだって、そういう心持ちがあるからこそな訳で。
――お主、儂のモノになれ。
ふとよぎったのは、昨日の青年の声だった。
端正な容姿はこの世のモノとは思えぬ美貌。透き通った声は今だ鼓膜の奥にまでこびりついて、思い出すだけで顔が真っ赤になる。
「――っ、無い! 絶対あいつは無いっ!」
いきなり大声を出したからか、歯を磨いていた中学一年の弟が何事かと洗面台から顔を覗かせる。
それを見て千草は、慌ててかぶりを振って「なんでもないっ」と返すと、怪訝な表情を浮かべながらも顔を引っ込めた。
――何やってんだ、あたし。
そう自重して、けれど思考は昨日の事を振り返る。
千草が体験した不可思議な出来事。それは夢などではない。
あの青年が起こした奇跡は偶然か。いいや違う。あれは現実だ。この町にいる限り、あり得ないなんてことは無い。
それを知ったのは中学生の時だ。千草が最も後悔するたった一つの事がそれを教えてくれた。
この町には、化け物が現れる。
そして、それを倒す英雄がいる。
千草はそれを知ってしまったから。
その後悔はもう、取り消せないモノだと千草は諦めているから。
この町は普通じゃない。けれどそれを受け入れて順応しなければならない。
だから千草は親友であった彼女の事も諦めて――何も出来なかった。
「……学校、来るのかな」
ぼんやりと浮かぶ彼女の姿が、千草の身体をこわばらせる。後悔は、後から後から千草を追いかけて、いつだって後ろ向きに心を引っ張っている。
いつまで自分のやってきたことを悔やみ続ければ、終わりは見えるのだろう――。
●
「よし、こんなもんか」
姿見を前に、ネクタイをキュッと絞める。
着慣れないブレザーの制服とネクタイの締め方に悪戦苦闘した渋谷は、ようやく納得のいく形に出来たのか、ひとまずと胸を撫で下ろした。
『よく似合っておいでです、渋谷様』
「ああ、ありがとう」
もう何度目かもわからないスサノオの賛辞である。呉服屋で何回も着直しているので、今更感動も何も無いが、似合っていると言われて嬉しくない事はない。
素直に返して、時計を見る。入学式までは大分時間があるが、琴音との待ち合わせの時刻には少々厳しい。
「そろそろ出るか」
最後に姿見をもう一度確認して、渋谷は鞄を提げる。
部屋を出ると、
「――――」
ばったり鉢合わせたのは美朝だった。
彼女とは少し気まずい時間が続いていた。こうして会うとは思わず、渋谷はなんと声をかけて良いか分からない。
いや――そうじゃない。渋谷は息を飲まされた。
身を包むのは彼女が好むラフな服とは違う、フォーマルな衣装。
鳴海高校の制服はかなり女子人気が高いと聞く。
スリムなシルエットの濃紺色に映えるブルーの装飾は、海の近い鳴海町をイメージ。されど、目を引く大きめなリボンがこれまた少女特有のあどけない可愛さを引き出すワンポイントになっており、ブルーの清涼感と併さって、華美過ぎない印象を与えている様に思う。そして、ひらりとたなびくチェックのスカートが全体の調和を取っていて、すらりと伸びた脚が眩しい。
制服効果だけではない。美朝自身、髪も少々いじっておりツーテールにしている。いや、基本髪は下ろしており、二つ束を作ってアップにしているから、いわゆるツーサイドアップというモノか。
渋谷は、がらりと変わったその印象に、麻雛美朝という少女の魅力を再認識した。
「――渋谷」
少女が声を発する。
それが自分の名前であったことに、渋谷は一寸遅れて気がついた。あとに続く言葉に身構える。
「制服、似合ってるじゃない」
くすり、と笑って美朝が軽い口調で言う。
それが渋谷の気を楽にした。何を身構える必要があったのかと言うぐらいの気安さ。口からすんなり「あんたもな」と返す事が出来た。
それだけのやり取りで二人の空気がいつものように緩やかなモノになる。
そうだ。何を気を張っていたのだろう。この時、自分達はただの学生である。同級生が会話をするのに緊張する必要はないはずだ。
「一人で行くつもりかよ」
「そうよ。そっちは待ち合わせ? 相手は相沢さんでしょ」
「当たり。お前も一緒に行こうぜ」
「私はパス。相沢さんに悪いもの」
渋谷は言葉の意味がわからず首を傾げる。
「一人も二人も変わらないだろ?」
何を遠慮するのか、そんな渋谷の言に、呆れたようにジトッと美朝は睨めつけてくる。
「なんだよ」
「ホンット、そーゆーこと本気で言ってるからタチが悪いわよね」
何を言っているのか渋谷は本当に分からない。なんだか責められている様に感じるのは気のせいか?
「ま、いいけどね。学校でもそうやってむやみやたらと話しかけないでよ?」
美朝は茶化すように昨日と同じ内容を告げる。言葉は拒絶を含んでいた昨日よりはいくらか柔らかいものだったが、それでも依然として主張は変わらない。
「別に俺は気にしてねぇよ。それに、今更だ」
英雄として並び立つ。その覚悟を問われることは今更だ。たとえそれで同級生たちと真っ当な関係を築くことが難しいとしても、それで既に英雄として周知されている美朝をいないものとして、自分だけがこそこそと学校生活を送るなんてことが出来るわけない。
「違うわよ。君には相沢さんがいるじゃない」
「琴音?」
「そう。英雄として皆に知られる事は戦っていく限り避けられないことかもしれない。だけど、相沢さんはどう? 英雄である渋谷と相沢さんが仲良くしているのを見たら、周りはどう思うかってことぐらい、わかるわよね?」
この町には独特の価値観が存在していると渋谷は常々思っていた。
凶という存在と、それを倒す英雄の存在。
二つの非日常を日常とした事で、この町は自分達の生活を保ってきた。
しかし、あくまでもそれは自分達と関わりのないところで繰り広げられる当たり前。
そんなモノが自分の生活領域に入り込んで来たときに思うのは、恐怖という拒絶反応ではないのか。
自分達は英雄である。
神との契約によって化物を倒す力を得た。
心は今までの自分と変わらないと思っている。
そうだ。自分は――人間だろう?
けれど、その問いに答えをくれる者は――いない。
「英雄になるってことは――諦めるってことなのかよ」
ふと、そんな疑問が渋谷の口からこぼれた。
「さぁね。だけど、普通じゃいられないのは確かね」
美朝は、初めて出会った時のようなどこか陰を帯びた表情を浮かべて答えた。
「お前も、そうやって諦めたのか?」
その一言に、美朝は瞠目して、渋谷に背を向ける。
「そうね――友達だと、思ってたんだけどね」
美朝はそう言葉を残し、学校へと向かった。
取り残された渋谷は、美朝の言葉に打ちのめされたように立ち尽くす。
彼女の言葉の意味が渋谷には分からない。
――友達。
それが彼女の諦めの理由だとするのなら、渋谷はまだ本当の意味で彼女の隣に並べていないのかもしれない。
今朝、出会った巫女の少女がくれたアドバイスは放っておけというものだった。
だが渋谷はそれを素直に守る気にはなれなかった。
英雄となることの意味。並び立つだけでは変える事の出来ない、宿命。
英雄を救うにはまだ――足りない。




