第二十七話 運命の出逢い
「おぉッ!」
呼気を鋭く吐き出して、少年は刀を一閃する。
振り抜いた軌跡は風を生み、鉄の刃と風の刃という二つの刃を生み出した。舞い上がる大気に乗って向かうはただ一つ。人にあだなす化物だ。
――この世界には、凶と呼ばれるモノが存在している。それは現世に降り立ち、己の渇望のままに力を求める化生の者共。神格である御霊が罪によって穢れた事で生まれた、まさに災厄の化身だ。
それと対峙するのは、英雄と呼ばれる者達。凶が神が穢れた存在であるというのなら、その力を制するには同じ神格でなければ太刀打ち出来ない。そんな同胞を殺し、人々に力を与える神と契約をした救いの象徴、それこそが英雄である。
少年の眼前に群がる化物共。この狂った現実こそが少年が今立ち向かうべき相手だ。命を刈り取る風の刃に、たまらず絶命する一つ眼の怪物達。一網打尽となったその場所にはもうなにも存在してはいなかった。
ふぅ、と力を抜いて刀を下ろした少年――渋谷に、
「そっちも終わったみたいね」
と声をかけてきたのは。
「美朝」
青みがかった黒の髪を揺らし、彼女もまた自身の神器であるアーチェリーを下ろす。
「まったく。ちょっと落ち着いたと思ったらこれよ。しかもこんな朝早くなんて……」
ふぁ、と可愛らしく欠伸を漏らして、美朝は眠そうに眼を擦る。
渋谷もそれには同感だ。実際、時刻は午前四時を過ぎたところだろう。ようやく朝日が顔を見せ、じわりと広がる光が夜明けを告げる。渋谷は目を細めた。
春先の朝は非常に寒かった。寝る時は軽装なのか、簡単なシャツにショートパンツという格好の美朝も、これにはたまらず肌を擦っている。慌てて飛び出したのもあるのだろう。カーディガンを一枚羽織っているようだが、大胆に露出した太ももが艶かしかった。
朝から刺激の強いその姿に、渋谷はこれ以上見続けたらのぼせそうだと思った。だから美朝に自分のジャージの上着をかけてやった。
「あっ、ありがと……」
躊躇いがちに上着に手を添えた美朝は、一瞬固まったように動きを止めたが、寒さには勝てなかったのだろう、潔くそれを受け入れ、くるまるように上着に収まった。
「それにしても、こうやって不定期で化物退治やってると、自分がただの学生だってこと忘れそうだよなぁ」
まるで深夜に呼び出しがかかるサラリーマンのようだ。
「『ただの』じゃないでしょ」
美朝が呆れたように口にする。
確かにそうだった。
渋谷はもう、ただの学生などではない。
こうして日夜化物を退治する、人々にとっての英雄だ。そしてそれは、並び立つ彼女もまた同じだ。
渋谷は五日ほど前、命を化け物によって奪われる危機に陥った。しかし、そこを間一髪助けてくれたのが美朝だった。
化物との戦いのなかで渋谷もまた英雄として化物と戦う力を手にし、今に至る。その力を与えてくれたのは、
『しかし、渋谷様が学舎の門を叩くのは事実にございましょう? 確かその「にゅーがくしき」とやらが本日催されるとか』
清流が流れ落ちるような、清らかな響きを持って耳朶を叩く声。
鴉の濡れ羽を思わせる艶やかな漆黒の髪を束ね、白と緋の巫女装束を纏った少女。
豊かな胸をつんと張り、腰の前で指を上品に組むのは――渋谷の契約神であるスサノオだった。
英雄の力とは即ち神の力。渋谷は天上の神と契約を交わすことで人々を守る力を手に入れたのだ。
そんな彼女の姿は神気を纏うものにしか映らない。神気を蓄えた空間である《DRAFT》の対策室という例外はあるが、基本的には一般人にその姿は見えないのだ。
「あー……そういえばあったよな入学式」
今ようやく思い出したとばかりに渋谷は苦い顔をする。
というか、それが当初の目的だったはずだ。
渋谷はこの鳴海町には高校進学という目的を持ってやって来た。入学式をすっかり忘れていたのはあまりにも迂闊だった。それだけ今の生活に馴染んでいるのだろうか。
「その事なんだけど」
突然美朝は神妙な面持ちで告げた。
「渋谷はあまり私と知り合いだって思われないようにした方がいいと思う」
「何をいきなり言い出してんだよ?」
渋谷は首を傾げる。美朝の発言の意図が読めない。
「ほら私、この町の人に避けられてるところあるじゃない? だから……」
「それって……」
渋谷が英雄としてこの町の人を守るようになってまだ日は浅い。幸いにして、ここ数日は深夜や早朝に凶が現れるケースが多く、渋谷が化物と戦っているところを見た者というのはあまりいない。
対して美朝はかなりの期間を英雄として戦っている。彼女が化物と戦う力を持っているというのは周知の事実だ。
それゆえに彼女は自らの本心と、英雄という役割の重圧に押し潰されてしまった事もあった。最近は安定したように見えたが、先の言はそれを引き摺っていると思えるような発言だ。
「お前、この期に及んで――!」
だからそんな発言を渋谷は受け入れられない。弱さを見せるのは結構だ。だから二人で戦っている。支えるべくして自分は彼女の隣にいるのだ。
「そういうことだからっ! 先にシャワー浴びるわよ」
これありがとう、とジャージを突っぱねるように返し、渋谷の言葉を遮るように打ち切って、美朝は一足先に朝日荘へと戻っていった。
渋谷はその背を見ながら思う。
確かに自分は誓った。彼女と共に並び立つ英雄になることを。
しかし、今だ根深く張っているであろう美朝を縛り付けるモノ。それは渋谷の力だけでは全てを取り除いてやる事は出来ないのかもしれない。
渋谷は彼女が普通に笑えたらいいと思う。そのためなら自分はどんなことだってやってやる。そう思っているのだ。だが、思っているだけではダメなのかもしれない。渋谷の手の届く範囲は驚くほど狭い。だからこっちから彼女のところへ向かって走るしか無い。そうして今の自分がある。けど、美朝は自分を避けるように走り去る。それが自分の身を案じているとわかるから、なおさら悔しい。
「クソッ」
胸にわだかまる不満は自分だけでは解消出来ない。毒づいて何かが変わらないのはわかっているがそうせずにはいれなかった。
数時間後に始まる学園生活。渋谷はそれに多大な不安を感じるのだった――。
●
渋谷は少しの仮眠を取り、日課であるランニングに出掛けた。
時刻は午前六時と少し。丹念に柔軟を行って、脚を一歩踏み出す。
徐々に上がっていく速度は、自らの力を試すもの。それは数日前の自分とは明らかな変化が見えるものであった。
一歩が軽い、というレベルを遥かに越えた脚力の増加。全身がまるで空気と同化しているかのように、周囲の景色を置き去りにしていく。
その感覚は渋谷が化物と戦っている時の状態に近いモノだった。つまり、身体が神気と馴染んでいるのだ。
その身に起こった変調は英雄として化物と戦う為の代償なのだろうか。人を超え、神に近づくという。
しかし渋谷は、それを受け入れつつある。
己の力が最早人の身に無いということは、凶との死闘が物語っていた。
獅子――ハクオウ。
強敵との死の狂宴はかつてない速度で渋谷の才覚を引き出していた。加速度的に上がる剣速と、それに呼応する様に冴えていく感覚。
あの状態が行き着く先が――修羅。
渋谷はもう二度とあの状態になるまいと密かに誓った。剣の師である祖父の言葉を借りるのであれば『心は身』。渋谷の心が未熟であったが故に、引き起こされた現象だろう、と。
だから今はそれを受け入れ、鍛練をするのみだ。英雄である自分を見失わない為に。迷いを振り切るために。
傍らではスサノオが宙をぷかぷかと浮いて付いてくる。浮遊霊にでも憑かれているかのようだが、彼女は歴とした神格だ。
彼女もまた、密かに誓いを立てている者である。
渋谷が修羅に至らんとした事を未熟と自戒している一方で、彼女は渋谷を修羅へと導かんとした張本人であることを半ば認めている。
それが彼女自身の『誰か』に対する誓いがそうさせたのだろうということに、渋谷は納得していた。渋谷はそんな彼女の在り方を否定する事はなく受け入れた。
再びスサノオが渋谷を修羅へと導かんとしたとしても、それを糾弾することは無い。自らの意思でそれを跳ね返す強さを身に付ければいいだけだ、と渋谷は考えている。それが渡会渋谷の精神性なのだ。
ただ一つ惜しいと思っているのは、もう剣道を競技として楽しむことは出来ないだろうということだった。
渋谷は普段、ランニングコースとしている場所で気に入っている所がいくつかある。
その一つが、美朝の本音を聞き出した高台だ。
単純に鳴海町を見渡す事の出来るその景色は壮観の一言に尽きる。水平線の向こうへと沈んでいく夕陽がキラキラと水面を照り返して綺麗だった。その逆もまたしかりで、朝早く起きすぎてしまった時などは、昇っていく朝陽を眺めるのもまた良いモノだ。
もうひとつが、鳴海町の外れにある神社である。
やや朝日荘から距離のあるそこは、夜須島市の薬師町との境に建造されていて、その風情はかなりの歴史を感じさせるモノだ。
意外だが、歴史・地理を担当している鳴海高校の教諭、来栖京香の話によれば、鳴海、薬師、因幡、霞という四つの地区にはそれぞれ神社が設けられていたのだが、夜須島として吸収合併されてからの神社は残すところ薬師のみとなった。現在の夜須島市の祭事を一手に司っているらしく、夏祭りなどでは毎年神楽を奉納するのが常となっているようだ。
そんな薬師町の神社――名を夜刀守神社という――は、渋谷のランニングコースの折り返し地点だ。
階段ダッシュの後、お参りをして帰る。残念ながら金欠なのでお賽銭は今のところ入れることが出来て無いが、こうして毎日通いつめてる神徒を祀られている神様も怒ったりはしないだろうと渋谷は密かに思ってた。
しかし、神と契約している身でありながら別の神のところへ通いつめるというのも変な話だろう。実際、スサノオはあまりこの場所へ来たがらなかったりする。
「おや?」
と、渋谷はいつもの様に階段を駆け上がった先で、初めて見る少女に出会った。
白く透き通った肌。スサノオにひけを取らない漆黒の艶やかな髪が白い帯で結わえられている。そして、身に纏う巫女装束は紛れもない神職に携わる者だ。美しい面立ちは何処かスサノオに似ている様な気がした。
首を傾げ、こちらを見る彼女の手には竹箒。
「珍しい。こんな朝早くにお客人とは。何か悩みでもあるのかな少年?」
気安く話しかけてきた少女の口調は大仰だ。
「いえ、特にある訳じゃ無いんですが」
「ふむ。そうは言っても、表情は少し硬いな。どれ、神様に言いにくい事なら私に相談してみるといい」
「普通は逆じゃないんですか?」
人に話しづらいから、神に祈る場合のほうが多いと思うが。
「神様は答えをくれないだろう?」
と、巫女らしからぬ事を言う少女に、渋谷は変わった人だなぁという印象を持った。しかし、けっして嫌ではない。寧ろ安心感を得るような気安さがある。
だからだろうか、渋谷は今朝の美朝との一幕を、一部ぼかしてだが、この少女に話していた。
「――という訳なんですが」
「なるほど」
腕を組み、
「まぁ、ほっとけばいいんじゃないだろうか」
とやはり軽い口調で少女は言う。
「真面目に考えてくれてます?」
「いいや、これっぽっちも」
なんという肩透かし。これでは神様に祈る方がマシではないか。
落胆気味の渋谷に少女は言葉を足して、
「だってそうだろう。君は何故彼女がそう言ったのかをまだ理解出来ていない。確かに君は彼女の為に何かをしようと思っているのは分かるが、結局は彼女次第だ」
「彼女次第……」
「そう。支えてやることは出来る。しかし乗り越えるのは自分だ。まぁ、今はどうこう出来ないもどかしさは分かってやれるけれど。今の時点では静観がベターじゃないか?」
確かに、少女の言うことはもっともだった。
渋谷はまだ美朝の事をわかってやれていない部分は多い。あえて口を出すことでお節介になってしまう可能性の方が高いのだ。しばらくは様子を見て、それからどうするかを考えても遅くはない。
「――相談してみて良かったです」
「そうかな? 大したことは言っていないが」
「いえ、ありがとうございました」
渋谷は心から礼を言っていた。
「今度はちゃんとお賽銭持ってきます」
「ふっ、まぁ期待しないでおくよ。ただの寂れた神社だからね。――祀る神もいない」
「え?」
言葉尻が良く聞き取れず、渋谷は問い返したが、少女はもう話題を続ける気は無いらしい。それを察して渋谷もまた踵を返す。時間的にも入学式が控えている身なので多少は余裕をみておきたい。
「それじゃあ、また」
「あぁ、是非ともまた『二人で』来てくれ」
最後ににこりと相好を崩し、少女は笑顔で見送ってくれた。
●
やがて、走り出した渋谷に、傍らのスサノオが声をかける。
『渋谷様、よろしいでしょうか』
「ん、どうした?」
伺うスサノオの表情は険しい。あまり顔色が良くない。
『先程の巫女……どうやらわたくしの姿が見えているようでした』
「っ!?」
途端、驚きをあらわにする渋谷。
『あの巫女はまた二人でとおっしゃっていた。かなりの霊媒に違いありませぬ』
霊媒――霊的素養の高い者。
確かに巫女ともなればそういった者も中にはいるのだろうが、大抵の巫女というのは一般人となんら変わらない者の方が多い。実際の祭事なんかでも、バイトの巫女さんが多かったりするのも、それが理由なのだが。
「夜刀守神社の巫女、か」
呟きが空にとける。
彼女とは再び関わる事になるだろう。そんな予感めいたものを抱いたまま、渋谷は町を駆けていく。
●
「――あれが、鳴海の英雄か」
巫女の少女は誰に言うともなく、ぽつりと漏らした。
「そして、『スサノオ』ね。ふふっ」
少女は上品な笑みを浮かべて見せる。
しかし、一転して怒りの様なものを瞳に湛え、
「――あの女狐の化けの皮はいつ剥がれるのだろうね。この夜刀守の眼は誤魔化せないよ」
高い霊力を持つ者の証明たる蒼眼。
それが移すのは、やはり同じ色をした空であった。




