第二十五話 狐の嫁入り
八神千草は、後悔した。
雨が、降りだしたのだ。
空はあんなに綺麗な青を写していて、雲なんてうっすらとしかかかっていなくて。
予報なんてあてにならないのは知っているけれど、折り畳み傘はやっぱり持っておくべきだったなぁ、なんてそんな風に思ったのは、突然の雨に濡れた前髪が気になり出した後の事だった。
千草は割と、あとから悔やむタイプだ。
自分ではやりたいことが決まっていても、状況を見つつそれをやっていいかを判断する。それで結局自分のやりたいことは後回しになって、最後までそれが叶わないなんてままあることだ。
それもこれも、家庭環境がそうさせたのだろうと千草は思う。
小さい弟や妹が沢山いる。親が朝早くから仕事に行ってしまう。そうなれば、家の仕事をこなすのは必然自分だ。
面倒見が良いなんて言われても嬉しくないし。
我が儘なんて言える立場で無いのは分かっているが、親を責める訳にもいかない。ましてや弟や妹にあたるなんてそんな事は論外だ。
これはこれで楽しい。
けれどやっぱり、後悔はある。
今日だってそう。
千草は町の商店街にある呉服屋(着物以外も扱う)に制服を取りに行く最中だった。
千草は今年、高校生になる。明日がその、入学式だ。
通うのは県立の高校で、市内の人間は大抵、そこに集まる。
女子の制服はブレザーだ。
実は千草は、その制服がちょっぴり気に入ってたりする。なにせ中学の時はセーラー服だったものだから、フリフリのスカートに憧れていたのだ。中学時代はショートカットだったからあまり女の子っぽい格好をしたことはなかった。だけど千草も立派な女の子であるからして、そういったものはちゃんと好きなのだ。今だって髪を伸ばしている最中だし、高校では多少そういう身だしなみにも気を使いたいと思っている。この制服はその第一歩の意味合いを持っていた。
それで少し、浮き足だっていたのかもしれない。
呉服屋のおばちゃんに試着を勧められて、それで可愛い、似合ってるよなんてお世辞に気分を良くして、そのまま着て帰りますと言ってしまって大失敗。
雨は無慈悲に制服と髪を濡らしたのだった。
「はぁ――ツイてないなぁ」
そうやって言葉にしてみても何も変わらない。
雨は止んだりはしない。日差しのなかで雫を乱反射させている。天気雨だ。
別に、幻想的だなぁなんて思う心の余裕は千草にはなかった。
早く雨がやんで、すぐに家に帰って乾かさないと、とそればかり思う。
家に帰ればまた弟と妹の宿題を見てやらないといけないし、夕飯の支度だってある。自分で仕事を増やすなんて最悪じゃん。
そうして忌々しげにお天道様を睨み付けて、はぁ、と溜め息を吐くと、
「――娘。何をそんな浮かない顔をしておる」
返ってきた声があったことに、千草は驚いて、俯きがちだった視線をあげた。
「あ――」
息を呑む。
圧倒的な美しさを持った美丈夫が、降り続く雨の真っ只中で突っ立っていた。しかし、青年はまるで濡れてはいない。彼の立っているその場所を避けて、雨が降っているかのようだ。
太陽の光をキラキラと反射させる黄金の髪が、紅い紐で結わえられている。頭にはずらしてかけられた面がある。狐面だ。
覗いたうなじや、白い着物の隙間から見える胸元。自然と目を引く、どこか魔性のような妖艶さに、思わず千草は釘付けになっていた。
「こら娘、無視をするな。儂の声は届いているのだろう?」
「えっ、あ、はい――」
「ならばよい。では、質問に答えよ」
言われ、青年の言葉を思い出す。
しかし、何をどう説明していいのやら。
「えっと――これ、濡れちゃいまして、あはは……」
目につくところで千草は答えた。千草の目下の悩みはこの濡れた制服だ。自分が今どのような顔をしているかはわからないが、きっと彼の言う浮かない顔の原因の一端は紛れもなくこれにある。浮かべた笑いも空々しい。
「ふむ、なるほどな。なんだ、大した事ではないな」
「大した事ないって……」
聞いといてそれはないのではないか。あんまりな言い種に千草は少しムカッときた。
「どれ、見せてみよ」
「えっ」
しかし、次の瞬間起こった出来事に、すぐさま千草のムカつきはどこかへと飛んでいってしまう。
金髪の青年はただその場から一歩も動かなかった。ただ妙に青年の周りが輝いているように見える。
光が、集まっている。
そして、どこからか聞こえた鈴のような音。それが耳に届く頃には、千草を襲っていた湿気は完全に消え去っていた。
「え、う、嘘!?」
声に出して驚く。両手で確かめると、店を飛び出す前の新品同様の制服へと戻っていた。
なんだこれ。何が起こったのだろう。こんなことって――あるの?
まるで、魔法にでもかけられたようなこと――。
「違うぞ、娘」
そう言って、真顔でこちらを見つめる青年。ドキリと千草の胸が高鳴った。
「――お主は儂に化かされたのだ」
化かす。それはつまり、どういうことか。
「どうだ、気は晴れたか?」
「ま、まぁ、おかげさまで……?」
「そうか。――娘、名はなんという?」
「え、八神……千草、です、はい」
疑問は一向に解消されないまま、青年のペースにすっかり乗せられ、自覚がないままに千草は名乗る。
すると、何が彼の琴線に触れたのだろう。真顔だった青年の表情が柔らかなものへと変わり、綻んだ。
どこか懐かしいモノに出会ったときのような、そんな優しげな瞳で、青年は千草を見つめ、
「千草、か。良い名だ」
「それは……どうも」
名前を褒められたのは初めてでどう返していいかわからず、素っ気ない態度しかとれない。千草自身、自分の名前は嫌いじゃないが。
「決めたぞ、千草」
「な、何を……?」
咄嗟に返した千草に、青年はまるで子供のように嬉しそうに言った。
「お主、儂のモノになれ」
「――――」
絶句。何を言い出すんだこの人。
千草はまだ未成年である。色恋なんて家庭事情もあってか、まるで疎い。芸能人には人並みに憧れるが、それと恋愛関係になる妄想ですらしたことはない。むしろそういったアレコレはこれからだろうと思っていた千草だ。まさかこんなにも早く、叶うとは。
しかし、この人、なんなの?
まるで正体不明の男である。見るからに怪しげだし、いくら顔がカッコいいからと言って、何をしても良いというわけではなかろうに。というか、この人ロリコンじゃないのか。現実にはただしイケメンに限る、なんてことはないはずだ。ロリコンは許されてはならない。
「まぁ、そう焦る事ではないがな。しかし、お主を見て儂は確信したぞ。間違いない、とな」
「だかっ、ちょ、まっ」
話を聞いてよバカタレ。などと言える様な状況ではない。
青年の盲目的な言葉は続き、千草もまた馴れない事の対処に処理落ちぎみ。
「今日は顔を拝みに来ただけよ。次は正式に貰い受けるぞ」
「貰い受けるって――何を!?」
「決まっておる――初物を嫌う雄はおらんよ」
「なっ――!?」
開いた口が塞がらない。
青年は千草に迫り、顔を近付けてくる。
――うわっ、まつ毛長っ。
綺麗な顔が間近にあって、千草はもはやどうしていいかわからず目を閉じる。
あぁもう、なんなのこの人っ――。
顔は真っ赤になっていることだろう。自分でどうしてこんな状況になったのかまるでわからないのだ。彼が一体何者だとか、制服がなんで元通りになったのかとか思うところは沢山あるし、こうなったのは自分のせいだという後悔もやっぱりあった。
けれど、
「いずれまた会おうぞ、千草」
遠ざかっていく声に、どこか寂しさを感じたのは、何故なのだろう。
「あ、あの! 名前! 名前は――!」
そうして口に出したのは問いかけだ。本当はこんなこと聞くつもりはなかったのに。
「――九重」
と、その声だけが空気に溶けた。
あがった雨。指す太陽がまっすぐに千草を照らしていた。
青年の姿は、どこにもない。
ひとときの幻影にでもあったかの様に、千草は呆ける。
それはまるで、旅人が狐にでも化かされたかの様に――。
八神千草は、知らない。俗に天気雨の事を狐の嫁入りということを。
そして、知らなかったことを後でやっぱり悔やむのだ。




