第二十三話 祈り、願い、救い
己の口から洩れ出た笑い。もはやそれすらも当然とばかりに許容する自分の精神性の変化に、渋谷はまるで頓着をしなかった。
楽しいと感じる。
こうして交わす命のやり取りがたまらない。
かつてない高揚に満たされている。それは剣道というスポーツではけっして味わう事は出来なかっただろう類いのモノだった。
斬ろう、という思考に支配されている。
強くなろう、という狂気に満ちている。
己が修羅へと堕ちていく様を実感しながら、それを是として刀を振るう。
もはや周囲を漂うのは気高き神気などではなく、むせかえってしまうような濃密な血霧。たぎる熱血が大気に花を咲かせているのだ。
それは己の血が作り出したモノ。まさに身を削って渋谷はここに刀を振るう。無駄という無駄を削ぎ落とし、自らを研磨していく。
音は何も聞こえない。
無繆の世界に映り込むのは、対峙する獅子の姿だけ。
こいつも自分と同じだ。楽しくて仕方がないのだろう。獰猛な牙を覗かせて、赤い口内をこれでもかと見せつける。そして笑い、拳を振るう。持っていた権能など、はなから不要とばかりに傷を増やす。
思えば、身体に刻み込まれた古傷が最初からそれを物語っていたではないか、ああなるほど、ただの阿呆と。
可能性の操作など、己が求道の副産物。強くなる事だけを追い求め、弱い自分を不要としたからこそ生まれた権能。
故に今、獅子はそれを捨てている。
阿呆となって、戦場に酔っている。
ならいいさ、とことんまで付き合ってやるよ、と渋谷は思う。その阿呆に俺もなろう。
行けるとこまで行ってやる。
辿り着く果てにある景色に、何が見出だせるか。そこに至らねばそれもわからない。
もう誰も渋谷を止める者はいなかった。
世界すらも、修羅へと変じる己を歓迎するかのように邪魔はない。
まるでそれが運命であるかのように。糸引くものが望んだ展開を演じる渋谷は、まさに舞台上の役者にすぎない。
今の自分はこれでいい。
これこそが真の自分だとさえ思えよう。
見えなかった拳が止まって見え、どこを斬れば相手を倒せるかが瞬時に浮かぶ。
ただし、それは相手も同じだから、もう一度渋谷は考え直して再び振るう。
繰り返す事、幾度の交叉。
しかし、それはいつまでも続かない。
永遠とも思える刹那に身を投じた渋谷は、遂にその一歩へと辿り着いた。
「――――」
見えた。
「見事」
獅子が笑う。
よくぞと受け入れる死の予感。
高まり続けた両者の神気が届かせた生死の境界へと、渋谷はあと一歩まで迫ったのだ。
決着する。
人という生すらも超越した存在にこの一刀で至る。
誰かが望んだその境地。渋谷はそこへと辿り着く。
裡で、自分が契りを交わした女神が微笑んでいるのがわかる。
堪えきれない歓喜に身を震わし、背から渋谷を抱き締めて、さぁと促す様に細く白い指先が、刀の柄を握る渋谷の手へと伸びた。
渋谷は導かれるまま、刀を振りかぶる。
同時に、止まった世界が光で埋め尽くされた。
まるで、よくぞ至ったと祝福されたような光が渋谷を包み込んでいた。
それは暖かいモノでは決してなく、狂気と混沌に満ちた熱くたぎった黄昏。渋谷の耳元で誘う、蠱惑のような女神の色香は渋谷がこれまで見てきたスサノオとはまるで違っていた。
彼女は自分が放つこの一太刀を待ちわびている。それは気の遠くなる様な時間を重ねて、そしてようやく至ったモノだと彼女の笑みが告げている。
けれど、それすらどうだっていい。
そんなことはどうだっていいのだ。
構え、上段。天を衝く、刃。
今ここに、俺は修羅へと至らん――。
――ダメ、行かないで、渋谷ァッ!!
そこで。
何かが渋谷の裡で綻びを生んだ。
音無き止まった世界に佇む者がいる。
自分が今、どのような状況にあるのかを俯瞰するもう一人の自分がいる。
滑稽と笑うこともなく。
無様と嘲るでもなく。
ただ無心の許、己を見やるもう一人の俺。
斬撃飛び交うこの死地で、修羅へと変じていく己を見る対極の自分。
それが、口だけの動きで言うのだ。
――お前は英雄なのだろう?
湖面に波紋が生まれるように、それが波及していく。
心の深くにまで浸透していく言葉に、すぅっと思考が冷却されていく。
そして、もう一人の自分が指で示す。
自分が並び立つと決めた英雄の少女が、そこにいるのを。
ダメだと、行かないでと君は言った。
自分の背に感じる熱と声が、止まれと言っていた。
裡から己を抱く女神の声より強く、自分を奮わせるその声に。
何より望んで、並びたいと思ったのは自分だったろう?
「――あ」
場違いな程に呆けた声が出た。
次に、自分は何をやっていたのかと猛省に襲われて、渋谷は振らんとしていた刃をピタリと止めた。
そこで、言わねばと渋谷は自分の後ろで背にしがみつく少女に顔を向け、
「――ごめん、助かった」
恥じるように、はにかんでいた。
●
人が修羅に成る様を、美朝は見た。
自分では到底辿り着けない境地。目で追うことすら叶わない、そういった極致が目前で繰り広げられている。
怖かった。何より、変わっていく渋谷が。
自分がそこにいないという事が彼を変えてしまったとしたら、そんなの認められる訳がない。
けれどまるで仕組まれた様な渋谷の変化。
何者かが手招きした様な祝福。だからこそ、美朝はそれを許容するわけにはいかなかった。
気付いた時には痛みを忘れて走り出していた。
全身を苛む鈍い痛みを振り払い、足に力を込めて立ち上がっていた。
英雄は救いだ。人々にとっての救いでなくてはならない。
それが自分に与えられた役割。そう思っていたけど、今は違う。
行ってはならないところへ彼が行く。
どうしてそうなったのかはわからない。けれど、彼が危うい存在なのは感じていたから、それが今だったのだろうと思う。
けれど、そんなことはどうでもよくて。
並び立つと言ってくれた、君がどこかへ行ってしまう。
そんなの絶対に許さない。
あなたは言ったわ、背中を押すと。支えてくれると言ったのよ。
だから、そこへは行かせない。
あなたは私の英雄だから、どうかお願い行かないで。
一人はもう嫌だから。
一人じゃないと気付けたから。
これ以上間違えたくないと思えるのは君が誓ってくれたから。
だから君がそこへ行くのなら、私が必ず連れ戻す。
私だけの英雄なら、救った責任をとりなさい。
「――ダメ、行かないで、渋谷ァッ!!」
麻雛美麻は、あなたの英雄でいたいから。
必死にしがみついて、引き戻す。
もう、失わせないと、美朝は誓ったから。
役割でなく、自分の意思で――救いたい。
●
失敗した――。
何故だ、という疑問に満たされ、しかし起こった現象が、少年の本質によって引き起こされたモノだと女神は感じ取った。
――何故なのですか。
それは失望。あるいは、裏切り。
約束を果たそうと、女神は世界を越えた。
輪廻の中に身を投じたのは、愛しのあなたを救うためだというのに。
少年の中にいるあなたは、何故自分のなそうとすることを拒絶したのか。
ひとつの要因が有るとすれば、もう一人の英雄の少女の存在。
かつての輪廻の中で、彼女にあたる存在はいなかった。
果てしない記憶の中で、あの少女ほど、円環に近付いた少女はいなかったのだ。
しかし、此度の生で訪れた不確定要素。
今まではたどり着くことさえ難かった、修羅へと至る過程が、たった一度の死合いによってなされようとしたのだ。
それゆえに少女の存在が、齟齬を生んだのかもしれない。
少年の中にいるあなたに触れるという、夢のような出来事。
幾多の転生がもたらした最期の機会だったかもしれないというのに、あぁどうして何故なのですか。
何故、あなたは私の邪魔をするの。
越えねばならない。いずれたどり着く凄惨な結末を。
だから、そのための力が修羅にあるというのに。
何故、何故、何故。
女神の声が小さくなっていく――、しかしそれでも未だ戦いを続けんとする少年を、彼女は静かに見守らんとした。
●
今までの自分は何をしていたのだろう。
力に導かれるまま、それを望むままに振るい、そして引き返す事の出来ない場所にまで行こうとしていた。
美朝が止めてくれなければ、今ごろ……。
戦慄すら覚える。アレは踏み込んではいけない領域だ。
人ではなく、英雄ではない。ただの力に魅せられた修羅の道。
何故自分はそんなところへ行こうとしていたのか……その理由が皆目わからない。
だが、こうして戻ってこれたことを美朝に感謝しつつ、渋谷は視線を獅子に戻す。
屈辱だと言わんばかりに憤慨し、辛辣な視線を渋谷に向けている。鬣がそれを物語るように、いきり立っていた。
「何故だ……! 何故、止まる……!! もうそこまで貴様は来ていたのだ!! 修羅に至る事こそ、戦場に身を置く者が焦がれる至高の頂だろうッ!!」
だからこそ、その糧となれるのならば命すらくれてやると、獅子は言っていた。
「あの一瞬が、我らの決着だったのだ! 貴様が邪魔をしなければ……!! 戦を汚すでないわァッ!!」
吐き捨てる様な怒号。戦を神聖なモノとし、強さだけを求めてきた求道者故の価値観。
その際限無い怒りの矛先は、戦場に横槍を入れた美朝へと向かい――
「知ったことかよ、そんなことは」
「何を……!? 貴様ァ……!!」
渋谷はそれを、くだらないと断じる。
「テメェが何を懸けようがこっちには毛頭関係無いんだよ。勝手にそっちの尺度でモノ語んな」
だってそうだろう。
「決着はまだ着いてねえぞ」
戦いは中断された。しかし、この戦いがそれで終わりではないと両者が知っている。
先ほどまでの自分は己自身ではない。故にここから見せる自分が、真実だ。
修羅ではない自分。英雄である己。
それが自分が並び立つと決め、並び立てると信じる自分自身だから。
「――俺がやる」
傷だらけの美朝に告げる。渋谷自身も大差ない程の傷をその身に受けてなお、気丈であり続ける。
決着を着けるのは自分だ。
この戦いは、自分が英雄であると証明するための戦いだ。
だから英雄の君に見ていて欲しい。君だけの英雄の姿をその目に焼き付けてくれ。
「そこで見ていてくれ、もう大丈夫だから」
「渡合く――」
言わせないように指で遮った。唇を指差し、訂正を求める。
「名前」
眉をしかめて不満げに見せ、
「え?」
「さっき呼んだろ? 名前」
「え――、あ、う……」
咄嗟の声ではなくて、確かな声で呼んで欲しい。それが力をくれるから。
「――大丈夫だから。ちゃんと呼んでくれれば聞こえるから。だから言ってくれよ」
美朝は胸の前で両手をぎゅっと組み、強い眼差しを向ける。
吸い込まれるような宝石の輝き。それは渋谷が憧れた英雄の強い瞳。
すぅ、と息を吸い込んで、囁くようにそれは聞こえた。
「――勝って、渋谷」
もう一度、美朝は言う。今度はより強く。ハッキリと。
「お願いだから、勝って――渋谷っ!!」
届く。胸が熱さで満たされる。
それは先程までの高揚を越えた、感動すら覚えるモノで。
だから、渋谷も応える。
「――任せろよ。美朝」
くれた力で、修羅をも越えてみせる。
「さぁ――続きといこうか、なぁ?」
刀を向け、渋谷は言う。
溢れ出る自信を隠すこともせず、もうあの修羅へは至れないという確信がありながら挑発すらしてみせる。
格段に弱くなっているのがわかる。満たしていた全能感がすっかり抜けていた。
アレが己の才を極めた先ならば、今の自分はどれ程のモノだろうか。
それが獅子にも伝わっているのだろう。明らかに落胆した様子だ。
「終いだ。何もかもが過ぎ去った今、残されたのは決着のみという虚しさよ」
「気ぃ抜いてたらそのまま逝くぜ。――構えろよ」
けれどその隙間を埋めてくれる力を今もらった。それが渋谷の全身全霊。
渋谷も構えた。
――天を衝く刃は先程と同じ、だがこの一刀にて決着を着けるという意思表示は、渋谷に知らずこの型をとらせていた。
蜻蛉。二の太刀要らずの雲耀の構え。
対して獅子は、
「ぬかせ。よもや介錯の余地も無いと知れ。此度の神楽はこれにて終いよ」
腰だめに右拳を添え、左拳を渋谷に向ける。
半身。右半身が左肩の影に隠れ、出所が見えない。まるで陽炎に揺らめく夢幻のような儚さ。
両者、睨み合い――そして、どちらともなく名乗りをあげる。これが最期と、悟るがゆえに。
「我が名は、ハクオウ。戦場の花と散れ、英雄よ!!」
「渡会渋谷。お前はここで、俺が倒す!!」
ここに最後の交叉が生まれた。
最後の奥義。至大至高の一閃。
持てる力の粋を込めた、極致がこの地に顕現する。
「『獅子舞・麒麟獅子』!!」
先手、ハクオウ。
繰り出すは、ありとあらゆる可能性の具現。
己の才が肯定する限りの可能性。
そこに無限という道が示されていた。
果てに見る。獅子は昇華し、麒麟に至る。ゆえに、ここにあるは幻だけ。
当たる、当たらないという次元を越え、持てる限りの技の全てと、放てる限りの幾通りの手順。どんな些細なモノであっても、この奥義は己の持ちうる可能性を全てより生み出した。
無限の夢幻に散れ、英雄よ――。
対する渋谷が打つのは、愚直なまでの一太刀だった。
それは修羅に至る為に繰り出さんとしたそれではない。
今まで、何千何万と愚直に振り続けてきた、己の鍛練の粋をここに込めるだけの事。
それゆえに、何よりもこの一撃こそが己の持てる最大の奥義であると信じられる。
そして、それを後押ししてくれる英雄の少女。
加え、自分に英雄たる神の力をもたらしてくれた女神。
二人が渋谷にくれる力。それが合わさった時、渋谷の奥義がここに放たれた。
「『神威――布津之太刀・天地常世』!!」
斬撃の嵐。四方八方縦横無尽に世界に爪痕を刻み込む、荒ぶ王の必殺。
逃げ場など、はなから存在せず、もはや絶命という選択肢でしか逃れ得ないその斬撃は、あらゆる可能性を世界に押し付ける獅子の奥義に対する最適解であった。
避けられない攻めをすればいい。可能性を越えていけ。
己の語った言葉をここに証明してみせる渋谷。
互いの技と技がぶつかった。
静であり動。
全ての矛盾を内包する奥義と奥義の応酬は、果たしてどちらかが有利という状況にはならなかった。
全くの互角。渋谷の技が、ハクオウの可能性をことごとく潰していくが、それでも際限なく生まれる可能性の前に渋谷が押されていく。かといって、そのまま押し切れる訳もなく、再びそれは拮抗となる。
しかし、両者の神気はお互いの技の冴えに呼応するように高まっていった。お前が行くなら俺もいく。超えていくなら超えてやる。それは男の意地のようなモノで、ゆえに、何よりも純粋な力の比べ合いだった。
「雄々ぉぉぉおおおおお――!!」
「破ぁぁぁあああああ――!!」
疾風怒濤の乱戦。
斬撃飛び交い、拳と蹴りが入り乱れる。
斬撃の檻とも呼ぶべき嵐の中を獅子が躊躇いなく突っ込んでくる。突破出来なかった可能性を全て使い潰し、突破する可能性を引き込んだ。
それでも渋谷の斬撃がそれを阻み続ける。無限とも呼ぶべき獅子の残影全てを斬り払い、生まれる可能性の上を行く。
そうして天井知らずにお互いの才気が引き出され、ここに再び神楽は生まれた。
獅子は感じただろう。修羅でなくとも、ここまで至れる少年の才覚を。
少年は感じただろう。己の絶対的強さと可能性を信じきる、その真っ直ぐな強さを。
お互いがお互いを深く理解し合った事で生まれた歪な信頼。
ここに舞う両者が捧げる舞は、やはり何かを魅了するに足るモノだった。
高まった神気が際限なく膨れ上がる時、それは起こってしまった。
高まる両者の神気に、『龍』が脈を打つ。
目覚めさせてはならぬ存在が、全身全霊がぶつかる死地を歓迎してしまった。
――地震。
不意に起きた、大地の脈動。
町全体が震動し、この地を震源としていたるところを巻き込み瓦礫を生む出す。
この地を満たす霊気の流れ。それが強者の気に刺激され、地に眠る龍を目覚めさせた。
気の流れとは即ち龍である。災厄と繁栄を内包した存在。
鳴海町を守護する龍の血脈。生まれたのは膨大な気を噴き出す穴だ。
凶が求め、この地を目指す到達点。異界よりの来訪者はそれを求めてこの地へ至る。
その名は――龍穴。
意味することはただひとつしかない。
「おお……! ォォォオオオオオ――ッ!!」
呑み込まれた魂は否応なく、世界に己という存在を現出させる力を得る。
その影響をモロに受けたのは獅子――ハクオウだった。
突然、穴から噴き出た霊気をその身に受け、獅子は限界を越える力を生み出した。
可能性の具現。しかしそれは遂に、あまねく世界の垣根を越えた
そこには片腕の無いハクオウがいた。
そこには隻眼のハクオウがいた。
そこには脚の無いハクオウがいた。
そこにはもはや、獅子の姿でないハクオウがいた。
そこには人の姿をしたハクオウがいたし、鳥の姿をしたハクオウがいた。
霊体のハクオウがいて、流体のハクオウがいる。
概念となったハクオウがいて――、
神に至ったハクオウがいた。
平行世界。即ちあり得るかもしれないという可能性が全て、この世を侵食した。
神がもたらす世の理すら塗り替える現象。
世界に流出する神の位相を持ってこう呼んだ。
『神意顕創』。
即ち、神の意思が世界を創る。
獅子は龍穴にてその位階へと己の魂を昇華させた。
それはたとえ罪によって穢れ、堕ちた魂であってもだ。
ゆえに、これは神の持つ根源的欲求が表出したが為の現象。
神であるならば、己が世界を生み出したいという欲求。それを叶える力を求めるのは道理だった。
「『神意顕創――獅子奮迅――』」
神として創造する力を得たハクオウ。
それを倒すという荒唐無稽に、果たして渋谷は感覚だけで何が起きたのかを理解する。
己の技が圧倒的な力に押し潰される。
神と人。英雄のそれとは、人にとっての救いであるから英雄なのだ。神を倒す存在は人に非ず。
ならばそれは、己も神へと至ること。
ここに成すは、神殺し――。
「やるしかねぇ――、やるしかねぇんだ!」
諦めは地平の彼方へと捨て置け。臆す阿呆はここにはいない。
阿呆は阿呆で、ドの付く阿呆。
知っているか、神よ。常に常識の埒外をおこなった者だけが、後に語り継がれる英雄だということを。
それを人は、阿呆と呼ぶのだ。
神様は人の願いによって形を成す。
ならば願え。
「ス、サ、ノオォォォオオオオオ――ッ!!」
一寸、遠くに感じたその女神に叫ぶ。
失望さえ浮かべていた彼女がこちらを向く。
彼女が何かを抱えているのはわかっている。この戦いで自分に何かをさせようとしていたのは何となくわかる。
だが、それが叶わなかったから、諦める?
そうじゃねぇだろ、なぁおい。
望んだ何かを手に入れる為に、全てを擲つ覚悟が有るならば、最後までそれを貫き徹してみせやがれ。
それがどんな結果を生もうとも、それで終わりは無いと知れ。
あぁ、それがどんな事だろうと付き合ってやる。
『約束した』だろう。
また逢える、と。
それが『俺』のした約束ではなくても。
『我』が、『僕』が、『私』が望んだ、たったひとつの確かな願い。
君の笑顔が見たいという、たったひとつの真実にたどり着く為に、今は我が願いを叶え給え、神よ。
『――はい』
声が返る。それは紛れもなく渋谷が知る彼女のモノだった。
果てしない記憶の海が、確かな鼓動を自分に与える。
彼女と過ごした日々。与えてくれた喜びに満たされた記憶が、永遠の絆となって輪廻を超越した。
人と神。一人と一柱。
今ここに至らん。
我が願いを、叶え給え。
その願い、祈り給え。
「一、二、三、四、五、六、七、八、九、十」
祝詞、奉納。
「布留部、由良由良止、布留部」
祓い給え、清め給え。
「天清浄、地清浄、内外清浄、六根清浄祓給う」
ありとあらゆる全てを禊ぎ、世界を創る。
「天の七曜九曜、二十八宿を清め。地の神三十六神を清め、家内三寳大荒神を清め、其身其體の穢れを祓給ふ、清め給ふ事の由を、八百万の神等諸共に小男鹿の八の御耳を振立て聞し食と申す」
この魂、この願い。
一切成就、禊ぎ、祓え。
「『神意顕創――天叢雲――』」
ここに、神の世界を創り出す。
溢れ出した神気が世界を塗り替える。
凪いだ雲が緩やかに広がり、雨を降らす。
雨とは即ち恵みであり、災厄の象徴。ゆえに、人々は願った。
どうか、神よ我らを救い給えと、願い奉った。
そこには純粋で清らかな願いや、我欲に溺れた醜い願いも確かにあったのだろう。
しかし、だからこそ人である。
渋谷が至った世界は、即ち人の願いによって変化する界。
流れ行く雲は人の心の移ろい。ゆえに、それは渋谷の意思には関係しない。
そしてこの時、人々の願いは、ひとつの確かな願いを持って渋谷に届いていた。
救いあれ、英雄よ、神よ、我らを救ってくれ。
たった一人の少女にその役割を押し付け、それに異を唱える事なく、日々を送る。
それが当たり前と日々を享受する人々に、なぜ救いを与えねばならぬのか。
身勝手な主張。我が儘で、己だけが良ければ良いという思い上がり。
それをどうして受け入れようか。
ゆえに、渋谷にとって世界を創造する力は、望まぬ力を渋谷にもたらした。
知らなければ良かったという後悔すら浮かんでくるほどの欲にまみれた、醜悪さ。
何が救いか、何が英雄か。
自らが神によって救われたと知った時、人々が次に思うのは、当たり前だという傲慢さではないのか。
ゆえに、この世界は、ハクオウがもたらした可能性の具現の前に踏破されつつあった。
神と神が世界を塗り替えあう、この超常の異界。
渋谷の創界が屈せんとした、その刹那――
――それでも私は、英雄でありたい。
その願いを、聞いた。
――役割でなく、自分の意思で救いでありたい。
指を組み、目を閉じる少女の願い。
――あなたがそれを私に思わせてくれたのよ、渋谷。
彼女を救うために英雄となった。
その運命に負けそうになる背を支え、並び立ちたいと思った。
彼女の願いはあまりにも清らかな願いだ。己が今まで背負わされてきた全てを超えた純粋な願い。
だから、渋谷の心にかすかな願いたちが集ってくる。
――渋谷君、私達を守って。渋谷君が帰ってくるのを待ってるから。
琴音の声。
――坊主、お前は英雄だ、誰よりも。俺達がそれを信じている。
――渋谷君、君は誰かを守れるの。君のお父さんとお母さんのように。それってすごいことなのよ。
八郎と、茜の声。
――ありがとう。ヒーロー。守ってくれて、ありがとう。
――明日も笑っていたいから、だから助けてお願い。
たくさんの願いたちが集う。
どんなに小さな願いでも、それは純粋な思いだから。
確かに、あったのだろう。
最初はその現実を前に、戦おうとした人もいたはずだ。
だけどあきらめた。立ちはだかる現実を前に、それが悪いと、なぜ言える?
それも人だから。
神のように万能ではないし、諦める事もあるだろう。
目の前の希望にすがり、救いを求めるのは当然だろう。
けれど神ではないから、弱くても強くなろうと人はあがく。
目の前の当たり前に異を唱える者だっているはずなのだ。
それこそ、可能性というもので。
人が人にしかなれないという証。
そんな人の救いでありたいという少女の願いが、力を与える。
――あぁ、そうだ。
この町を守る。
――俺は、この町の英雄だ!!
この力で、人々の願いを守るヒーローに、渋谷はなった。
だから、その願いを脅かすお前を、倒す。
「うぉぉおおおおおおおお――ッ!!」
集うのは願いという光だった。
渋谷の持つ切先から伸びた光。それらは龍穴によって際限なく増幅され、天へと伸びた。
大上段へと掲げたその刃は膨大な光と神気の収束体。
もはや太刀というモノではなく、斬るという概念がここに創造された。
それは人々の願いを乗せた、誰にも防ぐことのできない、意思の刃。
人々の願いによって変化する界。
それが導き出した想いの刃よ、天を裂き、その願いを貫き通せ。
この想い、願い、その全てを受けて逝け――!!
「俺、達のぉぉぉ……、勝ちだぁぁぁああああああああ――ッ!!」
放たれた人々の願いに、神が祝福の言葉を贈った。
「あぁ――やはり、此処は良いな――」
なぁそうだろう友よと、獅子は満足げに、逝った。




