第十九話 心の距離
駅前にある時計台を見上げる少女の顔には、憂慮の色が浮かんでいた。
「渋谷君、まだなのかなぁ……」
いったい、何度目の呟きだろうか。声の調子はどんどん落ち込んでいた。
最初のうちはまだ良かった。待ち合わせをする男女というシチュエーションを夢見ていた琴音にとって、これほど心踊る事はない。ましてやその相手というのが想い人ともなれば尚更だ。
確かに、具体的な時間の指定をしなかったのは琴音である。渋谷も一度寮に戻って着替えてくるだけなのでそう時間はかからないだろうと思ったのだ。本でも読んでいればあっという間だろう、と。
しかし、この場に渋谷の姿は未だ見えない。
琴音はしだいに焦りすら感じるようになる。もしや何か事件に巻き込まれたのかも。
――まさか……。
そんな琴音の心中をよぎったのは昨夜の光景だった。
窓越しに見たそれは、いつだってどこか現実感の伴わないフィクションの様なモノだ。けれどその日、その時、その場所にいたのは自分の想い人である渋谷だったのだ。
彼はなんと、この町を襲う化物と戦っていた。
琴音は怖くなった。もしや彼が自分の知らない存在へとなってしまったかもしれないという恐怖。考えても考えても、結論の出ない答えに、琴音は無理矢理、夢の中へと逃避した。
再び顔をあわせて 彼が変わっていない事を確信できたのはつい先程の事だ。だというのに、渋谷がまたあの化物と戦うなんてことは絶対に嫌だった。
渋谷はまた、あそこへ行ってしまう。自分の手が届かない窓枠の向こうへ。
今は良い。けれどそれがいつしか当たり前となってしまったら、変わらないなどということが、どうして言えよう。
話、というのはつまるところそれだった。
仮に、渋谷が変わらないとして、それを取り巻く環境はどうだ?
琴音は渋谷にこれ以上戦って欲しくない。どうして渋谷があの化物と戦える力を持っているのかは、琴音が考える範疇ではそれに思い至らないけれど、でも渋谷がやらなければならないということにはならない。
だってそれは。
あの化物と戦うのは、ヒーローである彼女の役目ではないのか――。
――あ、れ……?
いつから、そう思うようになったのだったか。
化物が現れて、それと戦う存在が生まれて、さもそれが当然とばかりに受け入れて。
だがそれこそが、おかしな話ではないのか?
戦っているのはいつだって一人の少女。それこそ、彼女と自分の歳はそう変わらないだろう。
そも、そんな些細な事を考えること自体、これが初めてだ。いつも戦っている少女が何者であるかを全く知ろうとはせず、今日まで日々を過ごしてきた。
まるでそれが当然のように。
自分達は平和で、なんてことない日々を過ごしていると言わんばかりに。
その事が突然――怖くなった。
化物という現実離れした存在に、考える事をやめていたのかもしれない。琴音がおかれている現状は、まさしく現実のモノとして存在しているというのに。これは小説の設定などではないのだ。
――もしかして……。
そんなこと、一度だって考えればわかることだというのに、誰一人として、それを疑問に思い、声をあげる者はいなかったのか。
それは途方もない事実。その状況で一人、戦い続けている彼女は――。
「っ――!?」
琴音が何か、大切な事に気付くという瞬間、大気が爆音を伴って大きく震動した。
それは予兆だ。平穏な時間が、恐怖によって埋め尽くされ、過ぎ去るのをただ待ち続けるだけの時間へと変化する。
今や、煌々と照り付けていたはずの陽の光が陰りを帯び、やがてそれは大きな闇へと呑み込まれていく。
そして、月が生まれた。
空寒さすら感じる、無慈悲な夜の主が顔を出す。
蒼く、不気味な色を放ちながら、矮小なる人々を愚かと嘲笑するようである。
魔が、堕ちた。
最早、夜へと変じた空が割れて、ドロリと何かを産み落とす。
汚泥の様にありとあらゆる穢れを集めたそれは、犯してはならぬ罪によって穢れた魂の残りカスだ。
這いずるように蠢いて、形を得る。
大小様々な人形。総じてそれらの顔にあたる部分には、ギョロりと大きく、妖しげな色を放つ一つ眼があった。
徐々にそれらは数を増す。もはや数えきれなくなった人形の化物を見て、誰かが叫んだ。
「で、出たああああああああああ!!」
それが凍り付いていた意識を一斉に動かす合図となる。笑顔の花を咲かせていた人々の顔が恐怖に塗り固められ、皆が一様にどこかへと走り出す。
どこでも良い、助かるところへ逃げなければという生存本能に従った逃走。英雄の存在はこの時、彼らの頭の中にはない。今や、この現状をどうにかやり過ごすために足を動かすだけだ。
阿鼻叫喚となった駅前に、一際大きな影が蠢いた。
琴音はそれが何かを知っている。
それはあの日見た、獅子の化物――。
「――愚か。なんと無様で滑稽か」
開いた口に並んだ鋭い牙。噛まれたらひとたまりも無いのだろうが、この化物はその程度の理性の無い行動はとったりしないと、伺わせる気風。
「まだか、強者よ。我は――此処にいる」
たてがみを揺らし、空を見上げる。
それは誰かを待っているように琴音には見えて……、
――渋谷君を、待ってるんだ……!
直感として、琴音はそれを察する。
この化物は、英雄の存在を待っている。強者とはいわば、戦う相手に向けられた要求値。獅子が求めるに値するのはこの町でただ唯一、化物と戦う力を持った存在である『英雄』しかいない。
何故か、琴音はそこに立ち尽くす。
本当は逃げたいはずなのに、逃げなければならないと頭ではわかっているのに、身体がそれを拒否する。
こいつを、渋谷に遭わせてはならない。
渋谷が戦っては、ならないと琴音は思うから。
「あっ……」
目が合った。
思わず口から出た声はかすれている。喉が無性に乾き、嫌な汗が吹き出る。
獅子がこちらを見据える。同時に、後ろに控えていた一つ目の化物共もまた、琴音を一斉に視界へと入れた。
「キェー」「キェー」「キェー?」
カラスの鳴き声に似た声を発する一つ目たち。それは独自の言葉を話している様にも見えるし、そうではないかもしれない。
また、獅子の化物は一つ目とは違い、黙したまま、じっとこちらを見るだけだ。身体の隅から隅、心の中まで覗かれている様な不快感を琴音は得る。
だが、ぐっと琴音は拳を握る。
眼鏡をカチッと嵌め直して、今一度見る。
その瞳はどうにか作り上げた虚勢の眼差しだ。
「娘よ……貴様は何故、逃げん?」
獅子が言う。
こちらをしかと見て、その向けた敵意を歯牙にも掛けず、ただ琴音の行動の意図がわからぬ問うてくる。
「あ、あなたこそ、どうしてこの町を襲うんですか……」
問いに、問いで返した琴音に別段苛立った様子は見せず、
「我は強者との戦いを求めている。それが我の存在する理由」
「そんなこと……この町でなくたっていいじゃないですか」
「そうだ。だが、もう遅い。我は出会ってしまった」
だから、この場所で獅子は待っている。強者が来るのを。
ならば、
「……私も」
「む……?」
「あなたがそう言うなら、私もここから逃げる事はしません……! あなたと、その人を逢わせる訳にはいかないから」
対した理由は獅子にもない。強い者を求め、それと出会った。だからここから出ていかない。
ならば、琴音も同じだ。
彼がこの化物と戦って欲しくない。だからここから動かない。この化物を渋谷に逢わせない為に。
「くくっ……面白い。面白いぞ、娘よ」
獅子は喉を鳴らし、大きく割けた口を歪めて笑う。
「強く、良い魂だ。やはり……この場所は良い」
何を思ってそう獅子が言ったのか琴音にはわからない。
「魂が、強い輝きを持っている。それは強き者が放つ輝きだ――。此処は強き魂が集まるのだ。故に戦友は此処で死を選んだ。ならば――」
だが、獅子の瞳には、何かが映っている。
そう、熟した果実を己の手で収穫した時のような充足感。待ち望んだ者の姿が。
「――そうだ。強者は此処にいる。この、場所にッ!!」
「――――」
音も無く、それは来た。
駆け抜けた疾風。舞い上がる一つ目の化物が、その身に風の刃を受けて絶命する。
それは死を運ぶ風。呻きをあげて、化物たちが無と消える。
「琴音から離れやがれ、ライオン野郎」
遅れて、声が来る。
安堵が胸一杯に広がるのを琴音は感じる。その一方で、自分は何も出来なかったのだとも。
けれど、琴音は不謹慎にもこの状況を嬉しいと思ってしまった。
獅子と琴音の間に立った彼の声が、怒りを孕んでいる。それはきっと自分を大切に思ってくれているからだ。
その事が堪らなく嬉しくて。
もっと、彼が自分の事だけを考えてくれたらいいな、との打算を込めて。
琴音はその名を呼んだ。
「――渋谷君、遅いよ……」
あぁ、でも。
「スマン、遅れた」
言った彼の隣に立つ少女を、見つけてしまった。
「良かった、間に合って。あなたは早くここから逃げて」
そう言う彼女の瞳が赤い。
それだけで、琴音は何故か理解してしまう。
二人の心が近くなり、自分の心が渋谷から遠く見える。
ほんの手を伸ばせば届く距離。声だって、震えた声で耳には届く。
だけど、心に届く気がしない。
その場所がひどく遠くに見える。そこは昔、自分の場所だったのに――。
――あれっ……。
雫が、こぼれる。
安堵に満たされていたはずの心が、今はとてつもなく苦しい。
彼が来てくれた事が嬉しいのに。
こうして自分の為に声をあげてくれたことが、幸せなのに。
――どう、して……。
琴音は拳を握る事しか、出来ない。




