第十五話 現実への理解
「行くわよ」
そう言って促した美朝の表情は、どこへ行くのかと問うことすら躊躇うほどの、真剣味を帯びたものだった。
パーカーとショートパンツというラフな格好の美朝は大股ですいすいと行ってしまう。
『――渋谷様、いかがされますか』
と、裡に聞こえた声は、傍らに連れ添う契約神スサノオのものだ。
鈴のような声音はこちらを伺うものだが、渋谷の心中は彼女にはお見通しなのだろう。いくら精神が同調しているとは言っても、そこには一定の分別が存在している。完全な思考の読み取りが相互に出来ている訳ではないのだが、何故だか彼女にはこちらの思考が筒抜けのようだった。
だから、これはただの確認。問うスサノオの口許に浮かぶ微笑がその証左だ。
この期に及んで、躊躇う事などあるはずがない。
渋谷が突如として踏み込むこととなった『その場所』。覚悟した『現実』への理解が、この背について行く事で成し得る事が出来るなら、迷うはずもない。
「もちろん行くさ」と答え、渋谷は歩き出す。三歩後ろをついてくる巫女の少女は、その知っていたはずの答えを問うた非礼を詫びるように一礼した。
朝日荘を出てものの五分。着いた場所は――
「――熊八堂っ!?」
昨夜、渋谷を暖かく歓迎してくれたあの二人が営む食堂であった。
何故ここに、という浮かんだ疑問に答えた声は、
「入りましょ」
と、ぶっきらぼうな入れば分かるというもの。
釈然としない気持ちのまま戸を開け、暖簾をくぐる。
「おう、来たか」
「いらっしゃい。美朝ちゃん。それに、渋谷君」
熊谷八郎と、その妻の茜。どこか、ばつが悪げな表情で、渋谷達を出迎えた。
「熊谷さん。茜さん……」
この店の前に立った時、予想は出来ていた。
それでも、暗に示されれば、多少鈍い渋谷でもやはり困惑を避けずにいられない。
――この二人も関係者なのか……。
そんな渋谷に二人は苦笑する。おそらく、二人も同じ気持ちなのだろう。自分ががこうして別の立場で二人の前に立つことがあろうとは思ってもみなかった。
「――よし、まどろっこしいのは無しだ。ちゃんと全部説明してやる」
八郎は拳と掌を打ち付けると快活な笑みを添えてそう言った。
「ただし――その覚悟は済んでいるんだよな?」
が、射抜くような視線が渋谷に向けられる。表情に変わりはないが、奥から迫るような眼光はこちらを試すものだ。
「勿論です。俺はその為に来たんです」
応えた声に恐れや、震えはなかった。覚悟ならとっくのとうに出来ている。
「よし」
八郎はもう一度言うと、
「着いて来い坊主」
「渋谷君、こっちよ」
店の奥へと八郎と茜は入っていく。続いて、美朝と渋谷も行った。
厨房の脇、店奥の暖簾をくぐると、どこかこの店には不釣り合いのエレベーターがあった。どうやら、地下へと続くもののようだが。
緊張した面持ちで渋谷は乗り込むと微かな浮遊感が身を包んだ。
扉が開き、そして一歩。渋谷に先んじて踏み出した少女は、くるりとその場で青みがかった黒の長髪を翻して、
「ようこそ――凶対策機動特課《DRAFT》、その鳴海町支部へ」
開けた視界に、まるで映画のワンシーンを切り取った様な光景が広がった。
渋谷には扱うことの出来なそうな機械ばかりが並び、おそらく鳴海町全域を様々な角度から映しているのであろうモニターが、前面でこれでもかと主張する。
かと思えば、段差となった中央には鈴のようなものが小さな鳥居と共に、高さ一メートル程の台の上に乗っている。神棚に見えなくもないが、おそらくは違うだろう。
よく見れば、壁には掛け軸や刀が掛かっていたりして、どことなしか和のテイストを感じるレイアウトであった。
渋谷は、まるで映画のセットのようだと思った。最もイメージに近いのは戦隊ヒーローモノの秘密基地だろうか。
《DRAFT》。それは渋谷がこの町に来たとき、美朝から聞いた組織の名だった。この町のヒーロー。それがこんな近くに存在するなんて夢にも思わないだろう。
そして、その組織が戦う相手はあの化物で、自分はそれと戦い撃退した。
今更ながらにとんでもない話だな、と思う渋谷である。
『まぁ! まぁまぁ! これはなんでございますか渋谷様!!』
意外にも無邪気な顔で正面のモニターを覗き込むスサノオ。彼女にとって、この空間は珍しいもので溢れているらしい。
『はぁ……不思議でございます。なぜ、箱の中に人が入っているのでしょうか……』
「ハハハ、なかなか元気の良い神様じゃねぇか。どこぞの武神様とはえらい違いだな?」
と、落ち着きのない神を見て八郎は肩をすくめてみせる。
だが、ちょっと待て、
「え、熊谷さんこいつが見えるんですか?」
「ん? あぁ、この部屋は特別製でな。部屋ん中に神気を溜めてんだ。だからそこの嬢ちゃんの姿が俺達にも見えるんだよ」
「な、なるほど……」
「まぁ、そうそう神様が人の前に姿現すなんてことはないんだが。そこ含めて変わってるわなその嬢ちゃんは」
神様を嬢ちゃん呼ばわりする方もなかなか変わっていると思うが、渋谷もコイツと気安く呼んでいるので人の事は言えなかった。
「あ、だからタケ……なんでしたっけ?」
「タケミカヅチか?」
「そう、そのタケミカヅチは姿を見せないんですね」
麻雛美朝の相棒たる契約神タケミカヅチはこの場に姿を現していない。寡黙な武神という印象通り、必要無い場面では姿を現さないのだろうか。
「ん? タケミカヅチはおじいちゃんだから、神気使ってると疲れちゃうの」
「…………」
スサノオといい、タケミカヅチといい、なんとも神様というのは難儀なものだな、と思う渋谷である。どうにも威厳というものに欠けているような気がする。
「まぁ、そういうのも含めて、あいつに聞いた方が早いか」
言い、八郎は、視線を机にうつ伏せになった男へと向けた。
渋谷もそこでこの部屋にいるもう一人に気が付いた。
ぐぉぉという、盛大ないびきをかきながら、まるで起きる様子の無いその男に八郎は近付き、
「おい、起きろっ中村!」
ガツンと拳骨を叩き落とした。
「あひんっ!?」
犬が尻尾を踏まれた時のような声をあげ、飛び起きた中村と呼ばれた男は、意識を一瞬で覚醒させ、
「凶ですか!? くっそ、僕の眠りを妨げるとは、やはり許してはおけない……!」
「ちげぇよ。取り合えずその寝癖なんとかしろ」
現代アート風の髪型となった中村へ呆れた様に嘆息する八郎。毎度のやり取りなのか、他の二人も突っ込む気配は無い。
適当に手櫛で髪を押さえ付ける中村は、この部屋の中で見慣れない人物である、渋谷を見とめた。
「き、君は――あの時の!!」
「え?」
思わぬ反応を示した中村は、
「僕は中村幸哉。鳴海町支部へはつい最近赴任したばかりだ。君には是非とも会いたいと思っていたんだよ! 昨夜はお手柄だったね! それにしても凄いよ、君はあの魔象に立ち向かっていき神と契約して、それを撃退した。うーん凄い! 凄すぎる! 君はイレギュラーの塊だよ! 本来なら《降神の儀》を行わなければ現世にその意思を降ろす事の出来ない神が、ましてや一般人である君と契約するなんて!! 《DRAFT》の中での常識が変わる一大発見だ!! いやぁ本当についてるなぁ! まさか本部から左遷されて飛ばされた先が比較的緩やかな龍脈のこの町なんてと思ってたら、こうまで頻繁に凶の襲撃に遭い、そして、君みたいなのと出会えるなんて! 本当に僕はツイてるよ!! さぁ渡会くん、昨夜の状況を詳しく聞かせてぐべしっ!?」
捲し立てる様な語り口から一転、舌を噛んで悶絶した。
やはりそれを止めたのは八郎であった。
「てめぇはすぐそうやって調子に乗りやがる。見ろ、坊主が引いてんだろ」
見ろと言われても無理そうな中村からやや距離を取りながら渋谷は戸惑いの表情を浮かべた。
「八郎さん。中村さんはしばらく無理よ」
「そうねぇ。でも自業自得よね中村君」
ぐでっと伸びてしまった中村を冷ややかに見る女性陣二人は落ち着いたものだ。美朝は腕を組み、茜は頬に手を添えている。
「中村さんの代わりに私が説明します。それで良いですよね」
「チッ、しゃあねぇか。美朝、頼む」
言われるまでもなくそのつもりだったのだろう。美朝は一歩渋谷に近付いて、
「たぶん一から説明しても分からないだろうから、君の疑問点に答える形で説明するわ。なんでも質問していいわよ」
いよいよだった。渋谷が待ち望んだ疑問の答えがついに明らかになるのだ。
しかしなんでもと言われてもとっさには言葉は出ないものだ。しかし、聞くとしたらやはりこれしかない。
「あの化物はいったいなんなんだよ?」
その異常の最たるモノ。渋谷にとっての非現実の象徴こそがこれだ。
「動物、に見えなくもないけど、やっぱり違うよな? あいつらは何の目的でこの町を襲ってるんだ?」
そんな疑問に対する美朝の答えは、初めから用意されていた様な滑らかな語り口からもたらされた。
「奴らの名は凶。奴らはこの世界に存在する八百万の神の荒御霊が天津罪、国津罪を犯した事によって穢れた存在よ」
「ちょ、ちょっとタンマ! いきなり荒御魂とか言われてもさっぱりだって!」
「何よこれぐらいで」と美朝がまゆをひそめる。
「仕方ないわね。ざっくり言うわ」
「お、お願いします……」
「――この世界には神様がいる。そのうちの神様たちが犯してはならない罪を犯してしまった。すると、その神様は、罪によって穢れ、化け物になってしまった。それが奴らよ」
「神……って事は、あいつらもスサノオと同じ神様だって言うのか?」
「神格、というならそれはあの獅子だけよ。魔象や使い魔みたいなのは奴の眷属で神格ではないわね。と言っても、その神格にも差異はあるから厳密に同じとは言えないけど。特にそこのスサノオの神格は次元が違うわ」
渋谷は横目でそうなのか、とスサノオに問うと、豊満な乳房を大きく反らしながら、彼女はえっへんとばかりに自信げに笑んで見せる。
『ふふっ、お恥ずかしいかぎり。私の全ては渋谷様のモノです。この身の神格など渋谷様にお仕えするうえではなんの意味も持ちませぬ』
少しも恥らんでいない気がするが、彼女が自分になんとなくアピールしている事は伝わってきた。とはいえ、今朝の様子などと照らし合わせてもその凄さが微妙に測りがたいのが今の渋谷の心境だった。
「スサノオ。日本書紀なんかでも出てくる英雄神ね。アマテラス、ツクヨミと並んで三貴子なんて呼ばれる様な神格が、なんで君の事をそこまで慕ってるのかホントに謎ね」
「た、確かに……」
思えば、スサノオと渋谷の出会いは唐突だ。彼女がなぜそこまで自分に、言ってしまえば心酔しているのか気になるところではある。
だが、ここではそれは置いておき。
「その……化物、えぇっと凶だっけ? 神様がなんでそんな化物になんてなっちまったんだよ? 罪を犯したって言ったよな?」
「神様にも感情があってそれぞれに個性がある。人間と同じ様にね。けれど神様はやっぱり神様なのよ。その力は津波を起こし、嵐を呼ぶ。果てには祟りや病を引き起こし戦へと駆り立てる。その神様にとっての荒々しい側面を荒御霊と呼ぶの。反面、人々に恵みを与え、雨を降らし病を祓う、そういった静の側面は和御霊と呼ばれるわ。神社とかで見たこと無い? 同じ神様でも社が二つあって、別々に祀られているの」
言われてみれば確かにそうだ。
渋谷がついこの間まで住んでいた山奥の村にも社がある。それはとある神様を祀っているらしいが、その神様というのが、かつてその地を荒らした神様だったらしい。だが、同時にその地に人が住むまでに栄える事が出来たのもその神様の恵みがあればこそで、だからこそ村には社が二つあって、定期的にその神様に捧げる神楽祭りが年二回開かれていた。確か鎮魂祭と、奉納祭だ。道場の兄弟子の少女がその巫女に選ばれ、神楽を踊ったのが去年の事であったか。
「なんか、神様って子供みたいだな」
渋谷はそう言って思わず笑ってしまう。なかなか手の付けられない、気難しいところなんかが子供のようだと感じたのだ。隣のスサノオがまさしく美朝の言う通りの両側面を持っているからか、自然と彼女を見てしまう。
「子供、ね。そんな可愛げなんて無いわよ」
と、美朝は強い口調で断じる。
「いい? 好き勝手やってたら何も無くなってしまうの。それぐらい神格というのは強大な力を持っている存在よ。子供だなんてそんなに甘いもんじゃない」
だからこそ、と美朝は言う。
「彼らにも破ってはいけないルールが存在するの」
「強すぎる力を正しく使うための法律、みたいなものか?」
例えるなら国の持つ軍事力も同じだ。法律というルールがあって初めてその力は正しくふるわれる。仮にそのルールが無かったとしたら、この世界はあっという間に滅んでしまう。
「そう。それが国津罪と天津罪という犯してはいけない罪よ」




