第十四話 団欒
朝日荘にはまとまって食事を取るスペースが存在する。そこで見られるのは、暖かな団欒の風景だ。
「ムフフ、う〜ん、やっぱり美朝ちゃんのお味噌汁は絶品だね〜。ぜひとも、私の為に毎日お味噌汁を作って欲しいモノだねっ!!」
「ん、毎日作ってますよ……?」
「や〜ん、冗談が通じなーい!!」
と、ダシの効いたかぐわしい香りをたてる味噌汁をすすり、頬を綻ばせたのは朝日荘の数少ない在寮者。
来栖鏡花。ほんわかと、和やかな雰囲気を持つ女性だ。
茜の成熟した色香とはまた別の方向性。寝癖の残るダークブラウンの髪とダボダボの気崩した寝間着は、ともすれば生活感のあるだらしなさであり、これもまたある種のフェチシズムを刺激される姿だ。
実は彼女、渋谷と美朝が四月より通うこととなる、鳴海高校の教員なのである。
朝日荘は鳴海高校へ地元以外から受験してきた生徒達の住居として、受け入れを行っているところでもある。
ただし卒業などで退寮し、年々在寮者が減っていっている朝日荘は、生徒だけでなく教員も受け入れるようになったのだ。
とはいえ、教員で朝日荘を利用しているのはこの来栖鏡花だけであるのだが。
そんな彼女と美朝の微笑ましいやり取りを眺めながら、渋谷はちょうど掌形に痕が残った頬をさすった。
理不尽とも呼べる暴力にさらされ、その痛みに渋谷は喘ぐ。
しかし思い返せば、自分自身楽しんでいた部分もあり、その理不尽へ声を大にして反論する事は出来ないだろうと思うのだ。平手打ち一発で無しになっただけまだ儲けものだ、と納得するしかない。
ただ、問題として残っているのは、その状況を『見られた』という事だ。
簡単な自己紹介を終え、聞けば、美朝が昨夜寝床としていたのは鏡花の部屋だったようだ。だが、鏡花が気付いた時には、部屋に美朝の姿はなく、部屋に戻ったのかと思い見に来てみたところ、
――あの状況を見られたって訳か……。
薄着で馬乗りとなり、抱き付く格好となった美朝と、その下敷きとなっている渋谷。
はたから見れば、誤解を招くこと必至のその状況を、鏡花はバッチリ目にしているのだ。
――たぶん、あの人は、こういうことを絶対忘れない人だ。
思い、頭が痛くなる。
今は美朝と他愛ない会話をしているように見えるが、いつ、あの状況に対して言及されるか渋谷は怯えている。
和やかな雰囲気の中に渋谷は直感として見ていたのだ、鏡花が持つ悪戯好きの顔を。
――麻雛はもう気にしてないのか……。
ちらっと美朝に視線をやる渋谷。寝惚けた状態からは想像も出来ないが、起きてから朝食を作るまでの時間はとても早かった。
まるで起きた事を少しでも早く忘れてしまいたいと、一心不乱に打ち込んでいるように見えたのは気のせいではないだろう。
そしてその朝食は、鏡花が言うように絶品だった。
ラインナップは純和風。卵焼き、鮭の塩焼き、ひじきの炒り煮にほうれん草のおひたし、ワカメに豆腐の味噌汁……。
そのどれもが高い水準でまとまっており、誰がどう見ても美朝が料理上手であることを否定する者はいないだろう。
祖父との暮らしでは、料理担当だった渋谷ではあるが、正直に言って勝てる気がしない。味噌汁の出汁はしっかり煮干しからとっているし、玉子焼きの焼き目はムラがない。
丁寧な仕上がりに、感嘆すら覚えそうなこの品々へ、ケチを付けてはバチが当たるというものだ。
今朝の一件のせいでこの朝食を抜きにされたりなんてしたら、渋谷は一時の迷いを振りきれない己を悔やんでも悔やみ切れないことだろう。
だが、素直に食事を楽しむ事が出来ないのが渋谷の現状である。
そして、
「ところでなんだけど――」
――来た。
もはや時間の問題であろうというその言葉を鏡花は、玉子焼きに箸をたてながら何気無く口にする。
「渡会君と美朝ちゃんて付き合ってるの?」
「「!?」」
二人、味噌汁に口を付けた瞬間である。
ぶふっ、と同時に吹き出した渋谷と美朝は、お互い目線を合わせること無く、
「「付き合ってません!」」
またも同時で返答した。
「こんなに息ぴったりなのに?」
といぶかしむ鏡花に、
「俺はここに来たばかりなんですよ? 麻雛とは昨日が初対面だっていうのに」
「そうですよ鏡花さん! だいたい、私と渡会くんが付き合ってるなんてどうしてそう思うんですか?」
その返しはマズイ、と渋谷は思った。
返した美朝は口にしてから自分の失言に気付く。
決まっているではないか、その鏡花の根拠は――
「だって美朝ちゃん、ガッツリ渋谷くんを食べちゃってたじゃない」
そうだ。言い方はアレだが、鏡花はその光景を目撃している。
だからこそ、二人はこうして詰問される展開を恐れていた。
「〜〜〜〜〜」
顔が一気に真っ赤に染まる。視線は下を向き、美朝は声にならない羞恥で悶えた。
こうなったら、しばらく美朝の言語機能はまともに作動しない。
と、来れば鏡花の矛先は自然、渋谷へ。
「ふぅん、改めて見ると顔はまぁまぁだけどね〜。お姉さんの好みじゃあないな〜」
「何を言ってるんですか!? 仮にも教師ですよね?」
目を凝らし、こちらの顔を見てくる鏡花に渋谷は冷や汗。
「いやいや、侮るなかれ、男子三日会わざれば刮目して見よだよ〜? 男子高校生だって男だからね〜」
「なに、危険なこと言ってんだこの人!? 教師が手を出したら犯罪だぞ!!」
「むむ? そういう意味なら君も案外化けるかもね、渡会くん」
鏡花の這うような視線に、完全に萎縮してしまう渋谷。
何やら思っていた会話の流れとは違う方向へと向き始めている。これはこれで困るのだが。
『なんという事でしょうか。教鞭を振る者の言葉とは思えませぬっ!』
「うわっ!?」
と、突然耳元で聞こえた声に、渋谷は頓狂な声をあげた。
何故ならば、その声の主は、
――す、スサノオ!?
どこへ行ったのかと、渋谷が心配していたスサノオであった。
そう。今朝の一幕での登場人物の一人であるスサノオは、どこかへと姿を消していた。
彼女の姿はどうやら、鏡花には見えていないらしい。こうして声を聞くことが出来るのは神の権能を行使する英雄にのみ出来る事だ。
今また姿を見せたスサノオは、再び怒りをその身に宿して震えていた。
それは大気に神の気を交ぜ、揺らぎを起こすほど。茶碗がひとりでにカタカタと揺れ、鏡花が首をかしげる。
――お、落ち着けスサノオ! お前どこへ行ってたんだよ!?
胸中で渋谷は言葉を作る。今や渋谷とスサノオは契約を結んだ身。同調した意識は会話をするのに声を必要とはしない。
『申し訳ありません渋谷さま。今朝は取り乱してしまい、見苦しい姿をお見せいたしました。わたくし、反省しております』
妙に殊勝な態度で頭を垂れるスサノオ。そこまで改まって言われるほど、彼女が何かをしただろうか。
――別に気にすんなよ。ところでそれは……?
だが、渋谷は気になるモノを見つけていた。
『はい。神器――十束・天之羽々切でございます』
刃に波紋を乗せた刀身を持つその刀は渋谷が振るったモノ。敵を屠るのにこれほどの業物は無い。
――うん、知ってる。で、それなんで持ってんの?
『お言葉ですが渋谷さま。刀とは斬る為の武具でございます。もちろん、その女郎を斬る為に使うのです』
――お願いだから! 絶対やめてくれ!!
物騒な事を言い出すスサノオの目は本気だ。
今朝、美朝もろとも渋谷を叩き切ろうとした時と同じ、光が消えたその瞳。理性のタガが外れている。
あまりにも危険なその言動に渋谷は頭を抱えたくなる。何故だ、渋谷が信じたスサノオはこんなシリアルキラーでは無いはずだ。
――げっ!?
渋谷は凄まじい視線を感じた。
どうやら正常に戻ったらしい美朝が、こちらを見ている。
スサノオの声は美朝にも聞こえているはず。ならば、今の渋谷の気持ちも分かるはずだ。
とはいえ、美朝はスサノオとの会話は無理のようだ。やはり、契約した神としか思念会話は出来ないのだろう。
それでも、なんとかしなさいよ、と美朝は眼で言っている。まるでペットの世話は自分でしろと言われている気分だ。
――神様をペット扱いとか罰当たりどころの話じゃないよなぁ。
だが、渋谷もここに来て鍛えられている。彼の心胆も並ではない。
――スサノオ、こら、落ち着け。
静かに、荒ぶる魂を鎮めるが如く、渋谷はそう胸中で呟いた。
『!? ……かしこまりました。申し訳ございません』
ハッと、己の立場を思い返したスサノオの動きは早かった。主従。それが渋谷とスサノオの関係だ。主人の願いを聞き入れられないほど、スサノオも錯乱はしていない。スサノオは頭を垂れ、居ずまいを正して一歩下がった。
――よし、大丈夫そうだ。
美朝の要望通り、渋谷はなんとかしてみせた。とはいえ、目下の状況は好転していない。
目の前の来栖鏡花は鳴海高校の教師でもある。これから学校へと通う身として何かと世話にもなるだろう。
幸い、害のある人物という印象は受けない。やや癖が強い事は認めるが、今朝のあれは彼女にとって体の言い話のタネに過ぎないのだろう。今はもう、その事に触れる気は無さそうであり、食事を続けている。
渋谷も、食事を再開する。
このあとに控える、今までと変わった現実を受け入れる為の準備だ。
美朝には聞かなければならないことがある。そして、彼女もそれは承知だろう。
――もう、戻れないんだ。
引き返せない。だから、進むしかない。
渋谷はもう、英雄だから。
それでも、美味しい物を食べて、美味しいと思うことは変わらないんだなと渋谷は思った。
「うん、美味い」
素直にそうこぼした渋谷に、美朝はピクリと耳を動かして再びうつむく。
徐々に耳が赤く染まっていく。渋谷はそれに気づかず、黙々と口に箸を動かしては「美味い」と呟いた。
そのたびにピクリと美朝が身体を揺らしていることに気付いていたのは、
「うーん、本当に付き合ってないんだよねぇー?」
『ぐぬぬぬ』
それを眺める二人だけであった。




