第十三話 一夜明けて
その時、自分の視界は真紅に染まっていた。
辺り一面が帯びたただしい量の鮮血に塗られており、そこらじゅうを満たす臭気の正体は、それが元はなんであったか判別する事が叶わないほどにばらばらになった骸によるものだ。
戦いの爪痕。戦禍の後。
地は抉れ、木々は焼け焦げたその場所で、闘いが行われたのだ。
そして、それを物語るように自身の身体を苛め続ける果てしない痛みは、死闘を繰り広げたことによる呪いであった。
終わりを直感する。
この身体は既に終末へと舵を切っている。
あぁ、確かに相応しい終わりだ。
父、母に見捨てられ、姉や兄に畜生と蔑まれた自分にとってこれほど相応しい結末など無い。
死に方を選ぶことが出来ない者がいるこの地で、こうして死に場所を選ぶことが出来ている自分は幸せだと言えるのではないか。
そう自覚した瞬間、痛みは感じなくなっていた。
なるほど、死する時は己の持つ感覚は次第に消えていくものなのか。
今消えたのは痛覚なのだ。終わりに向かって準備を整えている段階。
――いや、そうではない。これは……。
「死なせはしませぬ、決して」
得たのは心地よい暖かさだった。
感じるはずの無いその熱は安らぎとなって自分を満たしていく。
「あなた様と共に在ること。わたくしの願いをあなた様は叶えてくださるとおっしゃったではありませぬか」
強く、強く。
離れそうになる意識をこの地へ縫い付ける様に、その言葉は、自分を強く抱き締める。
失われていくはずだった感覚のひとつひとつが確かなモノを自分に伝えている。
熱の正体、それは自分の手に触れた何か――。
ぼやけそうになる視界をゆっくりと傾ける。
――あぁ、そうだった。私の闘いはこの者の為にあったのだ。
瞳に涙を溜める少女。弱々しく震える肩を、歯を食い縛り必至に押し止めている。
そうだ、その小さな手を、守りたいと思ったのだ。
泣く姿など見たくはなかったから――。
「決して離したりはしませぬ。絶対にあなた様を一人になどさせはしない。……誓い。そう、これはわたくしの誓いにございます」
だから、こうしてまた泣かせてしなったことをすまないと思う。だが、もうこの手には少女の涙を拭ってやる力も無いのだ。
近づきつつある終わりは、たとえ神であっても覆す事など出来ない。これで良いとは思わないが、先に逝った母にそこでなら会うことも出来ようか。
すまない。
約束を破ってしまうことを、どうか許してほしい。
だが、次が在るとするならば必ずや共に在らんことを、自分も誓おう。
あぁ、だから――泣かないでくれ。
「嫌……嫌でございますっ! わたくしはまだあなた様に何も返せていないというのにっ! 認めないっ!! こんな終わりなど、わたくしは決して認めないっ!!」
声は遠い。意識も遠く。魂も。
「……あなた様を必ずや取り戻す。誓いは果たさなければなりませぬ。そうでしょう、――様」
だから、少女がどんな顔をしていたのかも、わからない。
●
そして意識は微睡みの中から浮上する。
「あ……」
見知らぬ天井だ。
年期の入ったそれは、染みのひとつひとつに全く覚えがない。
それもそのはずだ。渋谷がここに来て、一夜を明かしたのはこれが最初なのだから。
いや、一夜はとっくのとうにすぎていて、渋谷が眠りについたのは朝方の事だった。
昨夜の一件。とんでもない事になったと渋谷は自覚している。
当然の事として、渋谷が体験した全てが非現実的であり、超常の類い。これまでの人生で、これから先きっと出会う事の無いであろうその体験は、確かに昨夜あったことなのだ。
「っ……」
頭痛が酷い。寝不足が原因という訳ではないだろう。
今しがた見ていた夢のようなもの。まるで追体験するかのように、痛みや匂いまでもがあの時あの場所で行われた全てを渋谷へと伝えているようだった。
とはいえ、その正体がなんであったかまでは思い至らない。
ただ、自分が化物との闘いの中で、彼女――スサノオと契約を交わした時に見たビジョンと似ていたような気がする。
いや、あそこにいたのはもしや彼女ではないのか。となれば、あの記憶は彼女のモノなのだろうか。神と意識を同調させたことによる副作用とも言うべきものが、彼女の記憶と渋谷の意識とを混合させたのかもしれない。
現に、渋谷はスサノオの気配を感じない。彼女もまた夢を見ていて、その夢を自分にも見せていたのか。
あの夢の登場人物は二人。一人は少女。こちらがスサノオだとするならばもう一方の地に伏せていた者は――?
「……駄目だな。思い出せない」
これ以上は無理だった。どうにも思考がうまく纏まりを得ずに散らばっている。
渋谷は潔く諦め、昨夜の事に思考を向けることにした。
「あの後は……」
渋谷が覚えている限り、あの化物を倒したあと、美朝が直ぐ様駆け寄り問い詰めて来た。
だが、混乱している様子の美朝は支離滅裂で、言いたいことがまるでわからなかった。
そうこうしているうちに、身体を鈍い痛みと倦怠感が襲い、気が付けば気を失ってしまっていた。
無事、自室にたどり着けているあたり、途中で目を覚まして自力で歩いたのだろう。しっかりと布団まで敷かれ、毛布が羽織られているとは無意識の事とはいえ、我ながら驚きである。
「ん? いや、ちょっと待て……?」
違和感だ。やっぱりそうじゃない。
渋谷の自室はもっと雑多としていたはずだ。
ほとんど手付かずのまま放置していた段ボール群。それらがこの部屋には見当たらない。
どころか、ここは少々綺麗すぎる。
何故か首がうまく回らないが、綺麗に整えられたインテリアは花柄や、レースがあしらってあったり、並べられたぬいぐるみはやや少女趣味のけがある。
というかここは、どこからどう見ても、この部屋で生活している主のものだ。
そして、先程からまとわりつく体温と、倦怠感の正体は渋谷に身を預けたまま寝息を立てる少女のものであった。
「すぅ……ふぅ………」
渋谷の耳許へ吹き掛ける様に溢れる吐息はくすぐったいなんてものじゃない。
大の字で寝そべる渋谷に身を絡ませる少女の名は、
「あ、麻雛っ……!?」
なんと、麻雛美朝ではないか。
どうやらここは彼女の部屋らしい
だが、何故?
「もしかして……」
渋谷は自分のポケットをまさぐった。
そこには自室の鍵が入っていた。
「なるほど、そういうことか……」
自分の部屋に自力でたどり着いた訳ではないらしい。
おそらく、美朝の肩を借りるなどして朝日荘へ戻ってきた際、渋谷は気を失ったのだ。
だが、渋谷は自室に鍵を掛けていた為、美朝はやむなく自室へと招き入れたのか。
「はぁ、あんた管理人なんだろ……? マスターキーぐらいあるだろ、普通。布団まで敷いちゃってまぁ……」
ご丁寧に敷かれた布団。
だが、ベットはシーツに乱れひとつ無いことから、美朝は当初別の部屋で寝ていたのかもしれない。
「たぶん……トイレ行ったあと寝惚けて自分の部屋に……」
――油断しすぎだろ、お前。
全くもって隙が大きい。美朝も当然、思春期の少女なのだ。
いくら英雄であろうともそこに変わりがあるわけではなく、つまり何を言いたいのかと言えば、
――めちゃくちゃやわらけぇ……!!
これが少女の肢体というものなのか。
感覚という感覚がフル稼働している。
絡み付くその柔肌は渋谷を抱き枕かなにかのようにぎゅっと抱きしめ、まるで離す気配がない。
どころか、胸や太股、触れる寸前まで迫った唇と、渋谷の理性のタガを外さんとする要素は十二分に揃っている。
それは苦行と同じだ。
煩悩という煩悩を滅却し、堪え忍ぶことが今の渋谷に課せられた試練。
おそらく、彼女が目を覚ましたとき待ち受けるのは渋谷の二度目の死。
彼女を犯罪者にしないためにも渋谷は今は耐える。
だが、ややこぶりとはいえ、しっかりと実を蓄えたその果実は渋谷の感覚をダイレクトに揺さぶってくる。
薄着しているのも悪い。タンクトップにショーツというあまりにも人前でする格好としては不釣り合いなそれは、この状況においてとてつもない劇薬である。
――あぁっ、見えそうなんだよ馬鹿っ!!
何が、とはもはや言うまい。チラリズムの頂点に位置するそれは男の夢の具現だ。
あぁ、自他共に認めよう。渋谷は女性の身体の中で、胸が一番好きだった。
硬派を気取っているつもりではないが、シリアスな場面においてはその煩悩を滅却もしよう。
だが、この場面においては話も別だった。
それは甘い蜜に誘われた虫のように、待ち受ける先に毒があったとしても行かずにはいられない男の性。
申し訳ないことに、渋谷の愚息は充血を始めていて、こんなに美味しい場面で何故手を出さないのかと訴えてもいる。
だが、分かって欲しい。
渋谷にもまた、堪え忍ぶだけの理性があるのだということを。
ここで手を出し、一瞬の欲望に実を委ねる事は簡単なのだ。
けれども、それでは畜生と同じ。
渋谷は人間でありたい。獣ではなく、理性を伴って生きる人として。
故に、渋谷は手を出さない。肌でこの美味しい場面を味わうだけにとどめるのだ。
それに、彼女の気持ちを蔑ろには出来ない。
善意によって渋谷を部屋に招き入れた美朝の気持ちを嘲るような行動などどうしてとれようというのか。
ここでヘタレと罵る奴が居たとしたら、それは紛れもなく人間の最下層にいる存在だ。
自分の欲望に忠実になるだけの刹那的思考動物。あとに起こる事もまるで考えずに、その場かぎりの行動で悦に入る。
そんなことがあって良いはずもない。
故にここで渋谷が取るべき行動はひとつしかない。
「麻雛を起こさないようにして、この部屋から出る……!」
愚息の欲望が破裂する前に渋谷はこの状況を打開する。
名残おしさなど残すな。あとが辛くなるだけだ。今は集中するのだ。
まずは美朝の身体を自分から離さなければならない。
首に回した腕。足に絡み付く、太股。
渋谷はそこにメスを入れる。
長期戦などと言ってはられない。患者の命が掛かっているのだ。
まずは状況を分析する。
渋谷の左腕は美朝によって沈黙している。
動かす事ができるのは右腕のみ。
けれど怖じ気付いてなどいられるか。名医と呼ばれる者達はどんな場面であってもそのオペを成功させる。
ならばここにおいて渋谷が右腕のみでそれを成功させたとしたら。
渋谷の右腕は神の手へと昇華する。
――ぬぉおおおおおおっ!!
気勢は胸中で済ませる。ただし動きは迅速だ。
まずは首の動きを確保する。
美朝の左腕をゆっくりと剥がしにかかる。
これはそれほど難もなくうまくいった。
ここで美朝の姿勢を変えるようなことはしない。
どんな些細な事であっても、美朝が起きる要素は極力排さなければ。
そして、美朝の右腕。
枕と首の間に差し込まれ、ガッチリ渋谷の頭をホールドするその右腕をなんとかする。
先に左腕を剥がしたことで、首は少しだけ楽になっている。
指の一本一本をゆっくり丁寧に剥がした所で、首を持ち上げ、その隙に美朝の右腕を抜く。
だが、この時の渋谷に自覚の無い焦りがあった。
美朝の体位は横向きだ。
左腕を剥がし、そして右腕を剥がそうとしたことで、首の位置がより、胸に近くなっていたのだ。
これがいけない。
渋谷のボルテージを大きく引き上げる要素はここにおいてはマイナスポイントだ。
自然、先ほどまでの丁寧な所作に粗が混じった。
「ん……」
吐息と共に、眉がひそめられる。
美朝の不快感が上昇したのだ。
渋谷は動きを止めてその成り行きを見守る。
「う、んっ……」
再び悩ましげな吐息をひとつこぼすにとどまり、美朝は動く事はなかった。
――危ない……助かった。
一瞬のミスが命取りとなるところだった。
これだから欲望というのは侮れない。
どんなに抑制したとしてもすぐに顔を覗かせる。
だから速度が必要なのだ。渋谷がミスをやらかす前にここから脱出しなければ。
渋谷は再び挑む。ミスを修正し、集中した結果、今度は無事に右腕を攻略する。
これにより、美朝の両腕は胸の前で抱くような形で落ち着く。
残すところは絡み付く太股だ。
これもまた両腕のように渋谷の左足をガッチリホールドしていた。
しかし、今度は渋谷も両腕を使える上に、上半身もある程度なら融通がきく。
状況は圧倒的に好転しているのだ。
このまま事なきを得ることが出来る。
渋谷はそう思い、次の動きへと移行しようとした時……。
『渋谷さま、何をなさっているのですか?』
「うわっ!?」
突然語りかけられた声に渋谷は上擦った声をあげた。
そこにいたのは本来あり得ない、神と呼ばれる存在だった。
渋谷の契約神、スサノオ。
清廉な美貌と、鈴のような声音を持つ少女である。
昨夜の一件における象徴とも言うべき彼女は、渋谷の前から姿を消していたはずだ。
しかし今こうして、光の失われた瞳を向ける彼女が目の前にいる。
何をしているのかと言われれば、
「こ、これは……」
『浮気などと申しませんよね?』
「断じて違う!! というか浮気って!?」
『わたくしをあんなにも激しく求めておきながら、意識の無い少女に情欲を吐き出そうなどと、あぁなんと嘆かわしい……』
「誤解を招くようなこと言うなっ!」
『望むならばわたくしはどんな事でもするというのに、およよ……』
などと、目尻を拭うように袖を動かすスサノオ。
そんなスサノオの様子が渋谷の思い描いていた彼女とあまりにもかけ離れすぎていて、
「お前、本当にスサノオか……!?」
『まぁ!? 渋谷さま酷いではありませんか。一夜を共に過ごし、身も心もひとつになり、あなた様に奉公したわたくしを偽者だとおっしゃるのですか!?』
「いや、だって……」
『だっても何もありませぬ! ハッ!? もしや渋谷さまは、わたくしでは満足できなかったと? 故にそこの小娘を貪り、寝屋を共にして……ぐぬぬ』
「いや、これには訳があってだなぁ!」
『男の言い訳など聞きとうありませぬっ! それでも渋谷さまは日ノ本の益荒男でございますか!? 問答無用っ、この小娘、もはや生かしてはおきますまいっ、呪い殺して差し上げます!』
「呪い殺すって、お前本当に神様かよ!? こえぇよ!」
昨夜のスサノオとの齟齬を違和感として残しながら渋谷は、
「いいから話聞けってっ!! まずはこの部屋から出るのが先だろっ!」
『ふふふ、渋谷さまを寝取ろうなどと、なんと狡い女狐でございましょうか。許しませぬ。断じて許しませぬ』
と、髪を逆立て、何やらぶつぶつと呟いていたスサノオ。まさか本当に呪い殺すつもりじゃなかろうか。
だが、渋谷の言葉を受け、スサノオは
『では昨夜の続きは渋谷さまのお部屋でございますねっ! あっ、わたくし思い出しただけで……っ』
びくんと肩を震わせ、瞳を潤ませている。
なんというか、ついていけない。
儚げな印象の彼女はもういないのだ。
渋谷は、はぁと溜め息をつくと、
「んっ……うる、さぁい……」
「!?」
今だ微睡みの中にあるその声は、渋谷の傍らで横になる美朝のモノだ。
マズイ、やはり声が大きかったのだろうか。
なんたる失態。ここまではうまくいっていたというのに、突然の不確定要素があまりにも大きすぎた。
身をよじり、モジモジとさせた美朝は大きく身体を動かすと、
「むぅ、寒い……」
あろうことか、渋谷を馬乗りにし、先程よりも深く密着してきたのである。
際どい姿勢は言わずもがな。腰の辺りがひどく、気になってしょうがない。
『あわわわわわわわ、ゆゆゆゆゆ許しませぬうううううううう渋谷さまぁぁあああああっ!!!』
震えすら通り越し、怒りと悲哀を同時に表情に浮かべたスサノオ。
「違うって、ちが、違うからな!!」
もはや渋谷もなりふり構うことすら出来ない。
何が違うのかも分からずに違う違うと連呼。
『この世界も、わたくしを邪魔するのでございますねっ!! えぇ、いいでしょう何度だってわたくしはっ!!』
「おまっ、そんな意味深な台詞、この場面で言うんじゃねぇよっ!?」
果てには神器すら取り出したスサノオは渋谷共々美朝を貫かんと、刃を振りかざす。
『渋谷さま、今すぐその女狐を黄泉へと送って差し上げますからね……? そこを動かないでくださいまし』
「動きたくても動けねぇんだよ!!」
というか、スサノオに実体は無いはずである。神器とはいえ、美朝を刺し殺す事など出来ないだろう。
おそらく、だが。
しかし今まさに、振り下ろさんとする姿は鬼気迫るモノがあり、命が刈り取られる悪寒を感じさせる。
「やめっ、やめろっておい!!」
光の失われた瞳が、笑みを添えて、
『いずれまた逢いましょう渋谷さま……愛して……おりましたっ……!!』
スサノオは刃を振り下ろし――
「もうっ美朝ちゃん!! どこ行っちゃったのよ、朝だってば!! お姉さんお腹空いちゃったぞ……お……?」
バァン! と大きく音を立てドアが開かれた。
そこに居たのは、よれよれのスーツを更に着崩した、寝癖が残るセミロングの女性だった。
突然の邂逅。
目と目が合う瞬間。
「――」
「――」
『――』
気まずい沈黙が部屋を満たす。
そこを崩すのは、
「んっ……はぁ……ん〜!!」
何が起こっているのかも知らず、心地よい夢に浸っていた眠り姫は、伸びをして意識を目覚めさせた。
けれど、彼女も気付いた。
この状況、この沈黙を。
「はい……? 鏡花、さん……? え、と……渡、会、君?」
ぎこちない笑みを浮かべた二人は、
「よ、よう……麻雛……おはよう……?」
「み、美朝ちゃん……なんか、ごめん、ね……?」
一瞬で覚醒する美朝の意識。
そして響き渡るのは、
「い、いやぁああああああああああああっ!?」
羞恥の色に染まった大絶叫であった。
こうして、彼ら彼女らの朝は、騒々しくも一日の始まりを告げた。




