第十二話 荒の王
「俺が、この町の英雄だ」
英雄とはなんだ。
そんなモノ、渋谷には分かろうはずもないというのに。
彼が脳裏に思い描くのは初めて見た、『本物』の姿だけだ。
渋谷がこの町に来て、最初に出会った少女――美朝も同じことを言った。
死を覚悟したあの瞬間、渋谷を窮地より救い出した彼女はまさに、英雄だった。
今、その言葉が、声が渋谷の背を押す。
リフレインするその光景が像を結び、ぼやけていた物を鮮明にする。
――あぁ、なるほど、これがあんたの見ていた景色なのか。
渋谷が前にする魔象は、この世に在らぬもの。
それこそ、生きてきた世界の中で、異常とはこの事だと、本能に刻まれた恐怖が即座に顔を覗かせるほどの。
そうだ。当然、恐怖する。
どんな力が有ろうとも、そこに存在する異常を前にして、己の心がすくむのを止める事など出来ようか。
だが、その少女は戦っていた。
ならば、そこに並び立つと決めた渋谷が、恐怖していてどうするというのか。
恐怖など、忘却の彼方へと置いてこい。
自身の内で流れる力こそが、英雄たる証明であると理解しろ。
その熱は、眠る赤子を抱く母の暖かさのように、渋谷を微睡みへと誘おうとする。
心と心。魂と魂が、同調していく感覚。
深いところで繋がっているという確信。
己に唐突な変化をもたらした彼女――スサノオが、力を与えてくれる。
英雄である彼女のように戦うだけの力を。
それは降って湧いた様な、なんの脈絡もない力だ。渋谷が普通に生きていれば関わる事の決して無かったそういう類の現象。
けれどこの巡り合わせには何らかの意味がある。
それは、この戦いを終わらせる為の力。理由はただそれだけで十分だ。
だから、渋谷は戦うことを選ぶ。
前に進む事を――選ぶのだ。
「――ねぇ、渡会くん」
と、渋谷が遂に踏み出そうとした一歩に先んじて、横から英雄の声がする。
いや、今はただの弱さが覗く少女でしかない美朝の声が。
「君は今、自分が危険な事に首を突っ込んでるっていう自覚がないの!? 引き返せるのは今しかない。神との契約なんて君には必要ない事だって分かるでしょ……!?」
その言葉が何を想っての事なのか、分からない渋谷ではない。
怨嗟の声を吐き、化物へと向かっていく彼女の姿を思えば、『戦う』ということが、決して生ぬるいモノではないことが嫌でも伝わってくる。
「命知らずどころか、今度は英雄気取りなの? お願いだから今すぐにやめて! これは遊びなんかじゃない!!」
美朝の切実な思いが渋谷にはちゃんと届いている。
会ったばかりの渋谷を、こんなにも心配してくれる。いくら戦場での彼女が、身を削るように怨恨を吐き出そうとも、根の彼女はこんなにも優しいのだ。
だからこそ、言わねばならない。今にも泣きそうな君に。
「恐い、よな」
「え…………?」
言葉の意味が分からず、ポカンと口を開ける美朝に渋谷は続けて、
「俺は確かに一度死んだ。本当なら昼間のあの時、既に死んでいたかもしれない。何度だって死は身近にあって、俺はそこに片足を突っ込んでたんだ。笑えるよ、こうしてあんたと同じになれたのに、気付けば足がすくんで前に進むのを躊躇いそうになる」
「なら、やめればいいじゃない! 君がする必要ない!」
「でも、あんたはそうしなかっただろ? あんただって俺と同じように恐い筈なんだ。……いや、女の子なんだから俺以上かもしれない。でも――逃げない。それってすげぇ事だと思うよ」
「わ、私は……」
揺れる瞳。小さく震えている肩は、気丈に振る舞うがゆえのものか。
そんな美朝に渋谷は、告げる。
「あんたは強い。自分の恐怖を殺せる強さがある」
英雄である君の姿を渋谷は知った。
初めて見たその背中を、渋谷は知ってしまったから。
だからこそ、英雄である君の姿を、君自身の言葉で否定などさせはしない。
「あんたが救った命が、あんたのその強さを証明する! その為に俺は、この町で英雄になるよ。だから、見ていてくれ麻雛」
「渡会君……、私は……」
「すぐ、終わらせる」
二度は言わない。
もう、向き直って言ってなどやらない。
これから先、渋谷が向ける意識はあの化物だけだ。
美朝の言葉はもう耳に入らない。
これが渋谷のエゴ。貫き通す矜持をここに持って、渋谷は意識をゆっくり集中させた。
●
強い――そんな事は決してないと美朝は思う。
自分は手にした力に振り回されて、その力の意味をもっともらしい型に嵌めているだけ。
恨み。それが美朝を動かすたったひとつの原動力。
凶は倒さねばならない。それが美朝が美朝でいるために必要なこと。
――英雄? 笑っちゃう。
そんなの口からでまかせでしかない。まるでテレビで見る特撮番組の様に、端から眺めているだけの存在だから、自分はそう名乗ったのだ。
こうして戦う自分に現実感が無い。いつまでも夢から覚めること無く、眠り続けているんじゃないかとそう思う。
この町に住む人だって同じだ。
こうして起きている現実に、どこかリアリティを得られずにいるはずだ。
そんな曖昧なモノが自分の寄る辺だというのに、それが、彼の戦う理由だという。
美朝が思う自分の姿が、彼には違って見えている。それが酷く不安だった。
お願いだからやめてほしい。そんな事の為に戦わないで。美朝は『本物』などではない。矮小で、今にも押し潰されそうな存在だ。
そこに意味など無い。置かれた現状をただ享受し、造り上げた幻想をただ守るだけが英雄である己の価値。
なのに何故君は――
「渡会君……、私は……」
美朝は動くことができない。ただ、行くという少年の背を見ているだけ。
「すぐ、終わらせる」
その言葉が、美朝の胸の奥に小さな火種を作っていた。
●
星が見える。
恐怖に塗り固められた視界から解放され、渋谷の意識はその景色を鮮明に映している。
妖しく輝く星々。瘴気に歪められた夜空に輝く蒼の月が見下ろすこの場所で、何故自分達はこんな事をしているのかと冷静に思う。
「スサノオ……俺はどうすればいい?」
問う相手は、渋谷と共に並び立つ、人に在らざる者。
神の意思の答えは、
『渋谷さまが望む事こそが答えでありましょう。わたくしはそれを叶える為に力添えをするだけにございます』
迷い無きその言葉が真っ直ぐに渋谷へ届く。それは渋谷への心からの信頼。いや、心酔と言っても良かった。
「……あんたも変わってるなぁ。どうしてそんなに俺を信じられる?」
『あなた様があなた様で有る限り、わたくしは信じる事をやめたりはしませぬ。それがわたくしの誓いにございます』
誓い。その言葉の重さは渋谷が生きてきた年月の何倍もの積み重なりだ。
彼女は何かに誓いを立てている。それは自分かもしれないし、渋谷以外の誰かにかもしれない。
理解が到底及ばないその言葉の意味を、何も考えずに問うことなど出来ない。
けれど、その誓いが自分を信じる理由だと言うなら、
「なら……俺も誓うよスサノオ。あんたのその言葉を俺は信じる。あんたがあんたで有る限り、俺はあんたを信じ続けよう」
自分も、ここに誓いを立てる事は出来る。
スサノオが交わした誓いと同じモノを今ここで自分は誓おう。
スサノオは驚きで目をぱちくりとさせる。直ぐ様その表情は恍惚とした笑みを添えて、
『ふふっ。渋谷さま、やはりあなたさまは素敵でございます。えぇ誓い合いましょう。わたくしとあなたさまのこの誓い、決して破られる事の無い絆となりますように』
――絆。
そうだ、絆だ。
己の身に宿るその力が不気味だと思うことはない。彼女とは、生まれた時、いやそれよりもずっと昔から共にあったという確信が渋谷にはあった。
それを絆と呼ばずして、なんと呼ぶのか。
『神は人の信じる心によって存在を得るのです。渋谷さまのその御心がわたくしの力となり、あなたさまへと還っていく……。これ以上の悦びがありましょうか』
「――スサノオ、教えてくれ、俺が英雄になる術を」
『紡いでくださいませ。あなたさまの裡にある、その祝詞を。それがわたくしとあなたさまを至高へと誘う鍵となりましょう』
祝詞――。
それは美朝も口にしていた、神の力を引き出す言の葉。
『呼んでください、その名を。あなたさまの総てを。わたくしの持つ総てを持ってあなたさまに捧げましょう――』
「――ああ!!」
高まっていく神気が、変革していく世界の中心に立つ極点から広がっていく。
それは森羅万象、総体の中に一つ輝きを放つその光星。
総てが渋谷を分解し、再構成して一つの星として渋谷を変革する。
何千、何億と過ぎていく世界に刻み込まれた記憶の断片が、この時、言の葉となって渋谷の中に流れ込んだ。
「十四神、父なる神、伊邪那岐と、母なる神、伊邪那美。是、御身を漱ぐに因りて生まれる者なり」
神代創世。生まれ出る中に我はいた。
禊ぎ、穢れを落とし、生を持って生まれた我。
「父、伊邪那岐、勅任して曰はく、汝、天下を治すべしとのたもふ」
その身に宿った力はまさしく強大にして、荒れ狂う嵐のように。
「我、天に昇ります時に溟渤以て鼓き盪ひ、山岳為に鳴りほえき。
此則ち、神性雄健きが然らしむるなり。
ゆえに、我が名は――素戔鳴尊――ッッ!!」
穢れより生まれ落ちたその神は、何よりも荒々しく猛り狂った荒御霊。
ゆえに、禊ぎを経て、その魂は昇華した。かの、八叉の大蛇をも葬った英雄神として。
何者にも手をつけられる事の無い唯一無二。それはこの宇宙に置けるたったひとつの極点だ。
その権能、今ここに顕現せり。
「神器――《十束・天之羽々斬》」
スサノオと完全同調した渋谷が呟いたのは、大蛇を切り刻んだ神剣の銘。
次の瞬間、膨れ上がった神気と共に、虚空より出でたのは一振りの刃だ。
波打つ刀身が連想させるのは龍。天へと昇るその龍は、大蛇が刃に宿ったかのように、息吹を放っている。
「そんな……あり得ない! 神器を生みだすなんて……!?」
神器とは神の意志、権能をそのまま現世へと召喚する為の器。
故に、それは神が最も好んだ武具を象った物が多い。
しかし、それは既に失われてしまった遺物でもある。その為、美朝は《梓弓》という名を与えた洋弓を神器として代替しているのだ。
だが今、渋谷が行ったのはその神器を虚空より生み出す事。
そんなモノ、鍛冶の神でなければ出来ない芸当だというのに。
美朝の驚きを他所に、全長百二十センチほどの片刃の真剣は、うっすらと青の光を持ちながら、その身に神気を蓄え出していた。
大気が震え、その刃に集う。
刮目せよ。それが解放されるのは一瞬だ。
放たれる至大至高の斬戟は、たったひとつの結果を手繰り寄せる。
最早そこに言葉など要らない。
それは何よりも美しく、何よりもまっすぐで、何よりも荒々しく、何よりも速かった。
形という概念の垣根をあっさりと崩壊させ、駆け抜ける。
それは大自然の猛威であり、神々が降した人々への試練の具現であった。
「神威――《布津之太刀・天地常世》ッッッ!!」
布津――。
それは、何かが斬れて落ちる音。
一瞬の間に駆け抜けた嵐の奔流が、世界の変革においてけぼりにされた哀れなものを黄泉へと誘った。
嵐。生み出された無数の風の太刀は、幾億の斬撃となって魔象の身体を切り刻んだのだ。
かつて、魔象と呼ばれていたそれは既にこの世から存在していなかった。
天地常世、ありとあらゆる存在を切り刻む、荒の王が繰り出した斬戟に耐えることの出来る御霊は存在しない。
魔象のなれの果ては、光の粒子へと姿を変え、天へと昇って消えた。
此処に、戦闘は終結する。
その力は、手にした少年にはあまりにも大きすぎる荷物。
世界を終わらせることも出来る強大な力を手にして、少年は一体何を思うのか――。
「あぁ……朝だ」
間の抜けた、緊張感の何もない、自然体のその言葉が出た。
星が霞み、夜が明ける。昇った光の粒子は瘴気に満ちた空を霧散させた。
長かった夜がそっと去っていく。白んだ空にはもう、日が昇っていた。
その朝日は祝福の曙光。世界が動き出した事も知らず、人々はなおも眠リ続ける。
これが新たな英雄の誕生した日。なんてことのない一日の始まりに生まれたその少年は、今待ち受ける運命も知らず欠伸をひとつこぼし、
「ふぁ……あ〜あ。さぁて、寝るか」
ピークとなった疲労で、ぶっ倒れたのだった。




