魂揺の鈴・止の音
「彼女」を縛るのは、小さな鈴一つ。
始まりのための終わりに、『彼女』は立ち会う。
それはあまりにも一瞬で突然の事だった。
『え……っ、これは……何!?』
スクリーンで見ているかのような視界。
響く声は反響し、だがすぐに消える。
しかしそれ以上に驚くべきは。
「……あ、あなたは、……一体誰……!?」
この声の主の中に、自分の意識があったということ。
例えるなら、一つの体に二つの意識があると言うべきか。
まるで現代における精神医学に出てきそうな状態だと伽南は思った。
しかしさすがに、そういうレベルの話ではなさそうでもある。
ひとまず誰何されていたので、その問いに答えると。
『えっと、私は秋鳴 伽南。あなたは?』
「…………わたくしは、白咲 伽耶と申します。……どうなってるんですの、一体……」
誰かにぶつかった直後らしい少女――伽耶は立ち上がって自分も名乗った。しかしそれは他人からしたら、独り言で自己紹介をしているようにしか見えないに違いない。
それを察した伽南は、この場から動くよう促した。
『うん、分かった。で、急いでたから誰かにぶつかったんじゃないの? ここに居て大丈夫?』
途端にはっとした伽耶がすぐさま走り出しながら肯定する。
「そうでしたわ……! 一刻も早く、この地から逃げ出さなくてはなりませんの!」
『……どうして? 何から?』
「……夫からです」
虐待でも受けていたのだろうか、と思ったが、ビジョンから見える彼女に暴力の痕は見えない。服がほとんど肌を覆っているせいもあるが、少なくとも元気に走れるくらいには健康なようだ。
『命を狙われてるとか?』
「それならばわたくしも勇敢に立ち向かいましてよ! そうでないからこそ、逃げるしかないのですわ!」
立ち向かうのか、と伽南は少なからず驚いた。言葉遣いと身なりからして、そんな事が出来そうにはないのだが。
しかし実際こうして逃げているということは、彼女は大人しい性格ではないということだろう。
だとしたら夫となる人物の詳細も知りたいところではある。
とはいえ他人の夫婦関係に首を突っ込むような野暮な真似はいくらなんでもしたくない。
好奇心をよそに置いて、伽南は現状について尋ねることにした。
『……逃げる先のあてはあるの?』
「港へ向かってますわ。船に乗れば、少しは距離も稼げるでしょう」
『それって、チケットとか無いと乗れないんじゃ……』
「うまく乗り込むんですのよ!」
……絶対無理がある、としか言えない。
そんなあっさりと船の添乗員からつまみ出されそうな方法など賛成出来るものか。
『それ以外には? 失敗したらどうするか、とか……』
「ありませんわ!」
一応他の策を尋ねてもこの回答。完全にこの少女は現実を甘く見ている。
おいおい、と思いつつも伽南は口添えした。
『それだと本当にまずいから、仮に船に間に合わなかった時の事を考えてみよう? ……えっと、伽耶さん、年はいくつ?』
「……十八ですわ」
何と、同い年とは。
伽南も今年十八になったばかりだ。これは何かの偶然なのだろうか。
ともかく、未成年では保護してもらったとしても、自宅に連絡が行き、連れ戻されておしまいだろう。
『……うーん、警察は無理みたいだね……』
「何故警察に頼るのです? 彼らはわたくし達の為に働いてはおりませんわよ?」
む? と伽南はいぶかしんだ。今と昔では警察の立場は違うのだろうか。
『まああんまり役に立つ事は多くないと思うけど……ちゃんと事情を説明したら、力になってくれるんじゃないかな?』
「ですから、おかしいのはそこなんですのよ! 彼らが、わたくしのような立場の人間に同情を寄せて助けて下さるのでしたら、とうにそうしてますわ!」
きいきいと怒る伽耶だが、ビジョンからはそんな彼女を奇異の目で見ながら避ける人々がすれ違っているという光景が映し出されている。
『……分かったから落ち着いて。……あなた今、周りから結構やばい目で見られてるよ』
「んもう、分かってます! わたくしだって何とかしたいですわ!」
確かに現状では別な意味で危険だろう。
「……あなたとわたくしに、一体何の関係があるというのでしょう?」
ふと気になったのか、今度は小声で呟くように伽耶が問い出した。
『うーん、それは私も分かんないよ。だって気が付いたらこうなってたんだもん。それに、何だか変な感じ……』
「そうですわね……わたくしからはあなたの姿が見えませんもの」
『何て言うのかな……私も、私自身の姿が分からないんだよね』
伽南は困惑気味に返した。何しろ自分に触れようと思ってもそれが出来ない、といった感覚なのである。
記憶としてはもちろん覚えているが、今現在どうなっているかというのはさっぱりだ。
『まるで私が幽霊になって乗り移ったみたいだよね……』
「そんな恐ろしい事をおっしゃらないで下さいまし!」
ぞっとする、と伽耶が悲鳴のような声を上げた。
当然それで周囲の人間はまた驚いたように伽耶を見て、すぐに目を逸らす。
『……うん、ごめん』
自分のせいで伽耶が変質者扱いされているのは、さすがに申し訳ない。
『でも私は生きてたはずだから、多分違うと思う。こんな状態で言うのもなんだけどね……』
「……まあ、よろしいですわ。こうなったら、あなたもわたくしの逃避行にお付き合いくださいまし!」
走りながらも元気に伽耶はきっぱり言い放つ。
『……はい』
苦笑いと共に、伽南もそれを承諾した。
伽南が生きているのは、平成の時代だ。
それこそ普通に電車も車も走り、何でもかんでも機械に頼るような時代である。
そんな世界で普通に大学受験の為にそろそろ準備を……と考えていた伽南は、大学資料を探しに本屋へ行ったはずだった。
だが、何故かそこから先の記憶が無い。
もしかしたら運悪く事故にでも遭って生死の境を彷徨っているのではなかろうか、とさえ思えてくるほどに、すっぽりと抜けてしまっているのだ。
それを口にしたら伽耶にまた怖がられて悲鳴を上げられるので、黙っておくことにする。
その伽耶だが、正直現代には居ないであろう服装と髪型をしていた。
おまけに地面は見る限りアスファルトではないし、道行く人々も和洋折衷のような格好をしていた。
『……で、ここって何時代のどこ?』
「今は明治の時代ですわ。ここは……神奈川県ですの」
『へっ? 明治なのに、神奈川?』
廃藩置県はいつだっただろうか、と伽南は記憶を掘り起こすが、出てこない。どうやら忘れてしまったようだ。
『私、てっきりまだ古い呼び方してるとばかり。……そっかあ、この時はもう神奈川県なんだ……』
感心したように頷く伽南に、伽耶は呆れたように声を掛ける。
「わたくしにはあなたが何故そこまで他人事のように仰れるのか不思議でしてよ。あなたこそ、どちらから?」
『……平成の時代。えっと、今は西暦何年?』
伽南の問いに1800年代後半だと伽耶が答えると、「100年以上前じゃん」と伽南に返された。
「んまあ、そんな世界からいらしたなんて……こんな時でなければお話をぜひ伺いたいものですわ」
『……そういえば、旦那さんがから逃げてるって言ってたけど……いつ結婚したの?』
ふと逃げてる事情を思い出した伽南が疑問を口にすると、彼女はあっさり答える。
「……三ヶ月ほど前からですわ」
『……ちょっと待って。三ヶ月で逃げ出したの?』
夫婦仲は三年で冷めるとか聞いた事はあるものの、さすがに短くないだろうか、と思っていると。
「わたくし、耐えられませんでしたの! ただでさえこの結婚はお父様とあの方が勝手に決めた事ですのに!」
非常に不本意だったのだと伽耶が口調と態度で示した。
『あ、そうだったんだ……』
当時はよくあったと言われる政略結婚だろう。伽耶の性格からして、素直に受け入れられるわけもない。
それでも逆らえないのだ。どれほど嫌だったとしても。
「もうわたくし、嫌だという意思表示の為にあれやこれやと手を尽くしましたわ……。逃げてみたり、悪戯をしかけたり、脅してなだめてすかしてみたり!」
『…………すごいね』
必死だったのは分かった。しかし後半のやり方は、年頃の女性がする内容ではない。
「……ですが、初夜まで逃げようとしても、無駄でしたわ。儀式を終えて、家宝との繋がりを確かにされてしまいましたの……」
『家宝なんてあったんだ』
夫婦関係については、あまり深く関わるのはよそう、と決めた伽南は、そちらについて尋ねる事にした。
「ええ。……魂揺の鈴、というものですわ」
こくりと頷き、伽耶は言う。
『たまゆらのすず?』
名前だけ聞いてもさっぱりだ。しかし、伽耶が続けた説明で一気に見た事もない代物への嫌悪が募る。
「鈴とは言っても、西洋にある鈴の形でしたわ。……何でも、古くから我が家に伝わるとか。その鈴は婿として家に入った夫に受け継がれ、妻となった女性を永続的に、死ぬまで束縛出来るというものです。先ほど儀式と言いましたけれど、その鈴に妻となる女性の血を与えて、鈴の力を呼び起こすのだとか……。もうわたくし、あの瞬間は気が狂うかと思いましたわ!」
ゾッとする程の悪寒と嫌悪が、鈴と夫に湧き上がったのだという。
『……自分で壊せなかったの?』
そんなにも恐ろしいのなら、いっそ壊してしまうべきだろう、と思った伽南だが。
「壊せるものなら、とうにしていますわ! あれは叩きつけても踏みつけても、火にくべても壊れない上に、どれだけ遠くに捨てても、元の姿で戻ってくるんですのよ! あんな物を家宝だなんて!」
と、想像以上の答えが返ってきた。
どう聞いても呪いのアイテムである。何故家宝とされているのかがさっぱりだ。
そんな物が傍にあるとなれば、やはり逃げるしかないだろう。
しかし、ふと思った伽南は尋ねた。
『あれ? でもそれ置いてきちゃったんだよね。触れるんだったら持って来れば良かったじゃん』
「んまあ! あんな物を持ち歩けるわけがありませんわ! 触れるのも嫌です、わたくし!」
しかしあっさりと拒否を返される。そんなにか、と伽南は怪訝になった。
『何で? ただの鈴でしょ……?』
「触れた途端に、気絶しそうな程の悪寒が走るんですのよ? 魂が吸い取られるかと思うくらいの感覚を堪えて捨てに行きましたのに、何食わぬような状態で元の置き場に戻っていたのを見た時は、二度と見たくもありませんでしたわ!」
さすがに伽南もそれ以上は言えなくなってしまった。立派かつ正当な理由である。
『うん、私が悪かったよ……』
とりあえず謝っておこうと思った伽南はそう告げた。
と、ようやく海が見え始める。
「ありましたわ……! あれが、船ですの!」
ぱっと声を明るくして伽耶が言う。指さす先にはそれらしき、黒い大きなものが浮かんでいた。
これでひとまずは逃げ切れるはず。そう期待した二人に、突如。
――キィィィィィィン!!
「きゃああ!」
『いっ、痛っ……!?』
耳の奥に直接響くような、凄まじい音が襲ってきた。
塞ぐ耳も無いはずなのに、痛くて苦しい。
音は、他の人間には聞こえてすらいないようだった。ビジョンからは、一人苦しむ伽耶の姿しか見えない。
「……く……あぁ……っ!」
『かや、さ……!』
彼女は足腰から力が抜け、立ってもいられなくなったらしい。
地面に膝をついて音に耐える姿は、強気な彼女の性格とは真逆のものだった。
だが、ややしてようやく耳鳴りが遠ざかり、伽耶は荒い息をついて小さく言う。
「……今のが、鈴の音でしてよ。……いかが?」
いかがも何も、あんな音が鈴だとは認めない。
伽南はきっぱりそう返した。
「……ふ、当然ですわ。わたくしとて認めません」
ふらりとよろけながらも、伽耶は立ち上がる。
「……今の、うちに……船へ……」
『でも、そんなふらふらじゃ……!』
「逃げるんですのよ……自由になるんですの……!」
またあの音が近づく前に。見つかる前に。
聞こえなくなった音に怯えるかのように耳を塞いだままの伽耶は、必死で足を動かした。
しかし。
――ポ――――――ッ!
汽笛の音がし、次いで船は動き出してしまった。
「……そ、そんな!?」
ゆっくりと、煙突から黒煙を上げて海の向こうへと遠ざかる船。
それを見送るように、呆然と伽耶は立ち尽くした。
「…………そんな、……わたくしは……どうしたら」
絶望の色濃く呟く声は、ともすれば今にも死にそうで。
『だ、大丈夫だよ! 他にも手はあるって! とにかく今は、別の道へ行こう? ここで止まってても、きっと見つかっちゃうだけだよ……』
必死で伽南は彼女を励ました。諦めきるには、まだ早すぎるはずだからと。
「……そう、そう、ですわね……まだ手だてはあるはずですわ……」
涙のにじんだ目をこすり、伽耶も頷くと走り出す。
リン、と、わずかに鈴の音がしたような気がした――。
森の中へ来た伽耶は、走りにくさに辟易しながらも先へ進もうと躍起になっていた。
「……っ、はあ、はあ……!」
伽耶の髪はある程度三つ編みでまとめているものの、服は和洋折衷なのか、女学生のような格好だった。
一番動きのとれる服を選んだと彼女は言うが、伽南にしてみたら十分山道には不適切だと思える。
『……大丈夫? どこかで少しだけでも休んだ方が……』
「日暮れが迫っているのに、休んでなどいられませんわ! それでなくとも、こんな所では休めませんもの……!」
確かに木が生い茂り、何が出て来るか分からないけもの道で休める場所などあるわけもない。
そしてそれは当分続きそうだった。
「それに……わたくしは何故か、恐ろしくてなりませんのよ……」
ふと伽耶が呟いた。
『え?』
「さっきからあの耳障りな音が聞こえないんですの。……あの鈴は、家から一歩でも出ると途端に鳴り出して、更に家から遠ざかると消えたのですわ。……だとしたら、おかしいと思いません?」
彼女の言葉を伽南は考えてみる。
家にあった鈴は、彼女が家から出たと同時に鳴り、遠ざかる事で消えた。
今度はそれを持った夫らしき人物が、先刻伽耶に近付き、鈴でそれを伝えた。
しかしああして黙ってうずくまっていた時に、音は遠ざかり、消えている。
それはつまり、男の方が移動したからに過ぎないわけで。
『じゃあ、もしかして伽耶さんを探してる旦那さんは……』
まさか、の答えに行き着いた伽南は焦る。そして伽耶も同じ結論だったらしく、頷いた。
「……わたくしを既に見つけ、罠にかけたと、そう考えた方が……恐ろしくも、自然なのですわ」
その瞬間、リン、と高らかに鈴の音が響いた。
山や森で使うような熊よけの鈴とは違う音に、二人は結論の確信を理解する。
伽耶はそれからなおも逃れようと足を速め――木の根に躓き、転んだ。
「きゃあ!」
『伽耶さんっ!』
自分は助け起こす事すら出来ない。そして彼女の手を引いて逃げる事も、彼女をかばってやることさえもできないのだ。
ここまでくれば、さすがに伽南でも伽耶がどれだけ必死だったかが分かる。
「……お前にしては、よく頑張った方じゃないか、伽耶」
優しくも冷たくも聞こえる声。映るビジョンには、同じくらい判断の付かない表情をした、まだ若い青年の姿。
その手には、恐らく伽耶が言っていた家宝――魂揺の鈴と思われる、ベルの形をしている、半透明のもの。
「あ……あぁ…………っ……葎樹、さん…………」
それを見て、伽耶はすっかり震えあがっていた。
かちかちと歯の根が合わない音が聞こえる。強い恐怖が伝わってきて、伽南は焦燥感をおぼえた。
「迎えに来た。おいで、伽耶」
手を差し出す彼の姿は、こんな状況でなければ自然な振る舞いで。
「こ、こないで……!」
その手から遠ざかるように、伽耶は立ち上がって身をひるがえした。
「……ずいぶん嫌われたものだな。……それほどにこの鈴を恐れても、逃れられはしないぞ」
さく、と土を踏む音すら、彼女には死神の足音なのかもしれない。
結局足がもつれてまた転んだ伽耶は、あっけなく彼に距離を詰められてしまった。
『……伽耶さん。もう今回は諦めた方がいいよ……。きっと次があるから、それまで、今度は慎重に計画を立てて、行動に移そう? その方がきっと……』
「……いいえ。……いいえ。もう、二度目はありませんのよ……伽南さん」
何とかなだめようとした伽南だが、彼女はゆっくりと首を横に振ると、懐から小刀を取り出した。
「伽耶? お前は何を……」
鞘を躊躇いなく抜き捨てると、刃を首元に当てる。
夫である彼が戸惑う間に、彼女は微笑みを浮かべて言った。
「わたくし、決めておりましたの。……失敗したら、こうするしかないのだと。さようなら、永遠に」
寸分の狂いも迷いも無かった。
『伽耶さんっ……!?』
「やめろ……っ!!」
止める声も、伸ばす手も間に合わない。
――ざくっ。
まるでケーキのように簡単に、伽耶の首筋に刃が深く食い込んだ。
「………………ッッ!!」
そして最後の力を振り絞って刃を引き抜いた彼女の首からは、血が噴き出した。赤の噴水で、伽南のビジョンはどんどん緋色に染まっていく。
『いっ……いやああああああああああっっっ!!!!??』
伽南は悲鳴を上げた。ドラマでも見た事のないような、だけど作り物めいて現実味のないシーンは、そうでもしなければ正気を保てない。
血の噴水は弱まり、伽耶の視界は傾いて衝撃と共に回転する。
もう見たくない、聞きたくない。そう思ったせいかは分からないが、伽南の意識もゆっくりとブラックアウトしていった。
その直前に聞こえたのは、伽耶の夫の声。
――何故だ……こんな事を望んだわけではないのに……!
もしかしたら、もっといい解決方法はあったのかもしれない。
どうにもならなかった結末の後では、そんな考えも無意味でしかなかったのだけれど。




