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婚約破棄されたので、これからは好きなものを仕立てて生きていきます

作者: 入多麗夜
掲載日:2026/11/02

気合い入れて書きました。良かったら

「リディア、君との婚約を解消したい」


 フェリクス・ヴァルテンベルクから婚約破棄を告げられたのは、秋の気配が漂い始めた午後のことだった。エーレンベルク子爵家の応接室には、つい先ほど侍女が運んできた紅茶の香りが残っている。窓の向こうでは庭師が薔薇の枝を整えており、時折、鋏の小気味よい音が聞こえてきた。そんな穏やかな日常の中で、リディア・エーレンベルクは五年間続いた婚約関係が終わりを迎えようとしていることを知らされたのである。


 今年二十歳になるリディアにとって、フェリクスは人生の四分の一を婚約者として過ごしてきた相手だった。初めて顔を合わせたのは十五歳の春。父親同士の親交から持ち上がった縁談であり、当時の彼女は結婚というものを漠然としか理解していなかった。それでも、初対面の席で緊張していた自分に優しく話しかけてくれた青年のことを、好ましく思ったのは確かだった。


「……理由を伺ってもよろしいでしょうか」


 リディアが尋ねると、フェリクスは困ったように眉を寄せた。整えられた栗色の髪に、端正な顔立ち。二十三歳になった彼は、伯爵家の嫡男として父親の仕事を手伝うようになり、社交界でも将来を期待される青年として知られている。婚約したばかりの頃は、何かにつけてリディアを気遣ってくれる優しい人だった。


「君には、伯爵夫人になるという自覚が足りないんだ」

「自覚、ですか?」

「ああ。以前から何度も言っているだろう。君は裁縫に夢中になりすぎている。婚約者として訪ねても、いつも布や糸の話ばかりだ。将来、我が家を支える妻になるというのに、そんなことでいいと思っているのか?」


 リディアは膝の上で重ねていた手を見下ろした。指先には、昨夜うっかり針を刺してしまった小さな傷がある。新しい刺繍の図案を試している最中、考え事をしていて手元を誤ったのだ。普段なら気にも留めない程度の傷だったが、今は妙に目についた。


「裁縫は、あくまで趣味です。伯爵夫人としての務めを疎かにするつもりはありません」

「君はいつもそう言う。だが、趣味に費やす時間があるなら、もっと社交や領地経営について学ぶべきだろう。母上も心配しているんだ」

「ご紹介いただいた先生には、今も週に二度、教えを受けています。領地の収支についても、先月から帳簿を見せていただいておりますが……」

「そういう話をしているんじゃない」


 フェリクスは苛立たしげに言葉を遮った。リディアは口を閉じ、彼の顔を見つめた。何を答えれば納得してもらえるのか、以前から分からなくなることがあった。彼が求めるのは具体的な努力の報告ではなく、裁縫という趣味そのものを手放すことなのかもしれない。そう考えると、これまでの五年間で自分が積み重ねてきた努力まで否定されたように感じられた。


 リディアが裁縫を始めたのは、まだ七歳の頃だった。幼い彼女は身体があまり丈夫ではなく、季節の変わり目になると熱を出して寝込むことが多かった。同じ年頃の子供たちが庭で遊んでいる間、部屋で過ごさなければならない日も珍しくなかった。そんな娘を気遣って、母親が教えてくれたのが針仕事だったのである。


 最初に作ったのは、人形に着せる小さな服だった。布の端は曲がり、縫い目も不揃いで、袖の長さまで左右で違っていた。それでも、完成した服を人形に着せたときの喜びは、今でもよく覚えている。母親は出来栄えを笑うことなく、次はどんな服を作りたいのかと尋ねてくれた。自分の手で何かを作り、それを誰かに見てもらえることが、幼いリディアには何よりも嬉しかった。


 それからリディアは、少しずつ難しいものに挑戦するようになった。刺繍入りのハンカチ、母親のための室内履き、侍女に贈る髪飾り。十二歳になる頃には、自分の普段着の寸法を直せるようになっていた。十五歳の誕生日には、母親の助けを借りながら初めて一着のドレスを完成させた。淡い青色の生地を使った、飾り気の少ないものだったが、鏡の前で何度も裾を広げたことを覚えている。フェリクスとの婚約が決まったのは、その少し後のことだった。


 婚約したばかりの頃、リディアは彼にも自分の趣味を知ってほしかった。初めて贈った刺繍入りのハンカチを、フェリクスは笑顔で受け取ってくれた。彼の名前の頭文字を小さく縫い込んだもので、完成までに何日もかかった品だった。彼が礼を言ってくれたときには、次は何を贈ろうかと考えるほど嬉しかった。


 けれど、二年ほど経った頃から、彼は裁縫の話をすると露骨に退屈そうな顔をするようになった。伯爵家の嫡男としての責任が増え、婚約者にも相応の振る舞いを求めるようになったのだろう。リディアも彼の立場を理解しようと努めた。茶会の席では趣味の話を控え、裁縫に使う時間を減らし、社交界で必要とされる知識を身につけようとした。それでも、針を持つ時間だけは手放せなかった。幼い頃から続けてきた裁縫は、彼女にとって日々の暮らしを彩る大切な楽しみだったからだ。


「君のことを嫌いになったわけじゃない。ただ、僕が望む妻にはなれないと分かったんだ」


 フェリクスの言葉によって、リディアは現在へと意識を戻した。目の前にいる青年は、五年間の婚約を終わらせることについて、すでに決心しているようだった。彼の表情を見れば、これ以上話し合ったところで考えが変わるとは思えなかった。


「……そうですか」

「父上には僕から説明する。君の家に不利益が生じないよう、できる限り配慮するつもりだ」


 五年間の婚約が終わるというのに、最後に交わす言葉がこれほど事務的なものになるとは思っていなかった。フェリクスは彼女の返事を聞いて安心したのか、用意していた書類を卓上に置いた。婚約解消に関する両家の取り決めが記されているらしい。


 リディアは書類を受け取ったが、その場で署名することはしなかった。父親と確認してから返事をすると伝えると、フェリクスも異論を唱えずに立ち上がった。彼を見送った後、リディアはしばらく応接室に残っていた。紅茶はすっかり冷めており、窓の外では庭師が作業を終え、切り落とした枝を籠に集めている。いつもと変わらない光景を眺めているうちに、胸の奥がじわじわと痛み始めた。


 フェリクスを愛していなかったわけではない。彼と結婚する未来を、何度も思い描いていた。伯爵家へ嫁ぎ、義父母を支え、やがて子供が生まれたら、小さな服を自分の手で作ってあげたいと思っていた。幼い頃に母親がしてくれたように、子供にも針仕事を教えられたら、どれほど楽しいだろう。そんな未来は、もう訪れないのだと考えると、胸が締めつけられるようだった。


 リディアは目元を押さえた。涙がこぼれたのは、フェリクスを引き留めたいからではなかった。長い年月をかけて思い描いてきた暮らしが、突然なくなってしまったことが悲しかったのである。彼と過ごした時間がすべて無意味だったとは思わない。それでも、これまでの努力や思い出をどのように受け止めればよいのか、今のリディアには分からなかった。


 その日の夕食後、父親から正式に婚約解消を受け入れる方針だと告げられた。母親は娘の手を握り、無理に明るく振る舞う必要はないと言ってくれた。父親も、当面は新しい縁談を考えなくていいと約束してくれた。リディアは両親の気遣いに感謝し、自室へ戻ったものの、何かをする気にはなれず、しばらく窓辺に立って庭を眺めていた。


 机の上には、途中まで縫い進めた刺繍が置かれていた。数日前から取りかかっていたもので、白い布地に小さな野花を散らした図案である。フェリクスとの茶会に持参する予定だったが、彼が嫌がるだろうと思い直し、結局そのままにしていた。リディアは椅子に腰を下ろし、久しぶりに針を手に取った。


 時間を気にせず縫い進めるのは、随分と久しぶりのことだった。誰かに見せるためでも、褒めてもらうためでもない。自分が好きな花を、自分が好きな色の糸で縫っていく。気づけば、窓の外はすっかり暗くなっていたが、不思議と気持ちは落ち着いていた。


「……そうだわ」


 リディアは針を置き、机の上に広がる布を見つめた。婚約者としての務めから解放された今、自分には以前よりも多くの時間がある。伯爵夫人になるために費やしていた勉強も、定期的な茶会も、これからは必要なくなるのだろう。もちろん、悲しくないわけではない。明日になれば、また涙が出るかもしれない。それでも、せっかく自由になったのだから、自分の好きなことに時間を使ってみたいと思った。


「これからは、好きなことをして暮らしましょう」


 そう決めたリディアは、翌朝、両親に小さな仕立て屋を始めたいと相談した。以前から興味はあったものの、伯爵夫人になることを考えれば実現できないと思っていた夢だった。今なら、その夢に挑戦することができる。婚約破棄によって失ったものは大きかったが、これからの人生をどのように過ごすかは、自分で決めてもよいのだと思えた。




 ◇




 エーレンベルク子爵家の屋敷には、長年使われていない離れがあった。かつては祖母が趣味の絵画を楽しむために使っていた建物で、庭の東側にひっそりと建っている。祖母が亡くなってからは物置同然になっていたが、南向きの大きな窓があり、昼間は十分な光が差し込む。作業台を置くにも、布を広げるにも都合のよい場所だったため、リディアはここを仕立て屋として使いたいと考えた。


 リディアが仕立て屋を始めたいと申し出たとき、父親は少し驚いたものの、反対はしなかった。娘が幼い頃から裁縫を好んでいたことは知っていたし、婚約破棄によって落ち込んでいた彼女が、自分から何かを始めたいと言い出したことを嬉しく思ったのだろう。ただし、商売をする以上は趣味とは異なる責任が生じることも、父親はきちんと説明した。


「お前が本当にやりたいことなら、やってみるといい。ただし、商売をする以上は責任を持ちなさい」

「もちろんです、お父様」

「それから、最初から無理に利益を出そうとしなくてもいい。お前にはまだ学ぶことも多いだろうからな」


 母親も賛成してくれた。幼い頃から娘の針仕事を見守ってきた彼女にとって、リディアが自分の技術を誰かのために役立てようとしていることは、喜ばしいことだったらしい。必要な道具について相談すると、母親は昔使っていた裁縫道具を譲ってくれた。長年大切にしてきた品であり、リディアも幼い頃から何度も借りていたものだった。


 もっとも、リディア自身は最初から立派な仕立て屋になれると思っていたわけではなかった。これまで自分や家族の衣服を作った経験はあっても、見知らぬ人から注文を受けたことはない。生地の仕入れ方や代金の決め方についても、知らないことばかりだった。そこで彼女は、王都で長年仕立て屋を営んでいる職人のもとを訪ね、仕事について教えを請うことにした。


 母親が以前から贔屓にしている店の主人で、リディアが幼い頃から何度も顔を合わせてきた人物だった。年配の職人は、リディアが持参した作品を一つずつ確かめ、縫い目や仕上がりを丁寧に調べてくれた。彼女の技術を褒めながらも、客から注文を受ける仕事には別の難しさがあることを教えてくれた。


「お嬢様、腕は悪くありませんな。特に細かな手仕事は、よく練習なさっている。ただ、商売となれば話は別です。自分の好きなものを作るのと、お客様が望むものを作るのとでは、考え方を変えなければなりません」

「はい。ぜひ、教えていただきたいです」

「それなら、まずは修繕から始めてみなさい。新しい服を一から作るより、古い服を直す方が難しいこともあります。生地の状態を見極め、元の仕立てを理解し、持ち主が何を大切にしているのかを知る必要がありますからな」


 リディアはその言葉を胸に刻んだ。自分が作りたいものを作ることと、誰かが望むものを形にすることは違う。これまでは完成した作品を家族や友人に贈ることが多かったが、これからは依頼した人の希望を聞き、その人に満足してもらえるものを作らなければならない。難しいことも多いだろうが、それ以上に楽しみでもあった。


 それから一か月ほど、彼女は離れの改装と仕事の準備に明け暮れた。床を磨き、壁を塗り直し、作業台や棚を運び込む。布や糸を種類ごとに整理し、採寸のための小部屋には大きな姿見を置いた。窓辺には母親が育てた花を飾り、客がゆっくり相談できるよう、小さな卓と椅子も用意した。自分の店が少しずつ形になっていく様子を見るのは、何とも楽しいものだった。


 店の名前は、特につけなかった。門の近くに掲げた看板には、ただ「仕立て・修繕承ります」と記した。貴族令嬢が趣味で始めた小さな店であり、最初から大勢の客が来るとは考えていなかったからだ。実際、開店してしばらくは暇な日が続いたが、リディアはその時間を使って新しい図案を考えたり、古い衣服の修繕方法を勉強したりして過ごした。


 最初の客は屋敷で働く侍女だった。長年愛用している外套の袖口が擦り切れてしまい、捨てるには惜しいので直してほしいという依頼だった。リディアは傷んだ部分を丁寧に補強し、目立たないように同系色の布を当てた。完成した外套を受け取った侍女は、何度も袖口を確かめて喜んでくれた。その姿を見て、リディアは自分の仕事が誰かの役に立つことを実感した。


 次に訪れたのは、近所に住む商家の娘だった。母親から譲り受けたドレスの丈を直してほしいという。リディアは裾の刺繍を残しながら丈を調整し、余った生地で小さな髪飾りを作った。娘は大層喜び、後日、友人にも店のことを紹介してくれた。それから少しずつ依頼が増えていき、リディアの店にも客が訪れるようになった。


 もっとも、一日に何人もの客が訪れるような繁盛店ではない。注文が一件も入らない日もあれば、朝から夕方まで修繕に追われる日もある。それでも、リディアにとっては充実した毎日だった。以前は針を持っているところをフェリクスに見られないよう気を遣っていたが、今では誰に遠慮することもなく好きなだけ仕事ができる。生地の色を選び、図案を考え、針を進める時間が楽しくて仕方がなかった。


 婚約破棄から二か月が過ぎた頃には、フェリクスのことを思い出さずに一日を終える日も増えていた。もちろん、彼と過ごした五年間を完全に忘れたわけではない。時折、昔の思い出が浮かんで寂しくなることもあった。それでも、仕事に取り組む時間が増えるにつれて、リディアは少しずつ前を向けるようになっていた。そんなある日の午後、一人の女性が店を訪れた。




 ◇




「ごめんください。こちらで、古い衣服の仕立て直しをお願いできると伺ったのだけれど」


 扉を開けて入ってきたのは、五十代半ばほどの女性だった。落ち着いた深緑色のドレスに、上質な灰色のショールを羽織っている。銀色の糸が混じり始めた栗色の髪は、後ろで上品にまとめられていた。華美な宝飾品は身につけていなかったが、立ち居振る舞いには長年貴族社会で暮らしてきた人特有の気品が感じられる。


 女性は両手で小さな包みを抱えていた。丁寧に畳まれた布で包まれており、持ち運ぶ際に傷つかないよう気を配っていることが分かる。リディアは彼女を迎え入れると、窓際に用意した席へ案内した。女性は店の中を興味深そうに見回し、整然と並べられた布や糸を眺めてから、穏やかに微笑んだ。


「いらっしゃいませ。はい、修繕も仕立て直しも承っております」

「そう。それなら、少し相談に乗っていただけるかしら」

「もちろんです。どうぞ、こちらへ」


 リディアは女性を窓際の席へ案内し、紅茶を用意した。女性は礼を述べて椅子に腰を下ろすと、膝の上に置いた包みをゆっくりと開いた。中から現れたのは、淡い藤色のドレスだった。古い意匠のものだったが、生地には上品な光沢が残っている。胸元には繊細な刺繍が施され、袖口には小さな真珠が縫い込まれていた。流行の移り変わりを考えれば、二十年以上前に仕立てられたものだろう。それでも、丁寧に保管されてきたことが一目で分かった。


 ただし、傷みも少なくなかった。肩の縫い目が緩み、脇の部分には生地の薄くなった箇所がある。裾の裏地も擦り切れかけていた。さらに、長い年月の間に持ち主の体形が変わったのだろう。現在の女性が着るには、寸法を調整する必要がありそうだった。リディアは修繕に必要な作業を頭の中で整理しながら、女性の希望を尋ねた。


「こちらのドレスを、もう一度着られるようにしていただきたいの」

「拝見してもよろしいでしょうか」

「ええ、お願いするわ」


 リディアは手を洗ってからドレスを受け取り、作業台の上に広げた。生地を傷めないよう注意しながら縫い目を確かめ、傷みの程度を調べていく。元の形を保ったまま修復することは、不可能ではなさそうだった。ただし、傷んだ箇所を補強するだけでは十分ではない。現在の持ち主の身体に合わせて寸法を調整し、必要に応じて裏地も交換することになるだろう。


「とても大切にされていたのですね」


 リディアが言うと、女性は少し驚いたように目を上げた。長い年月を経た衣服には、持ち主がどのように扱ってきたのかが表れることがある。今回のドレスも、古いものではあったが、保管状態は良好だった。リディアはそのことを伝えながら、胸元の刺繍をそっと指し示した。


「分かるものなの?」

「はい。長い年月が経っている割に、生地の状態が良いんです。保管する前にきちんと手入れをなさっていたのでしょう。それに、こちらの刺繍も、ほとんど傷んでいません」

「そう……。実はね、主人が贈ってくれたものなのよ」


 女性は懐かしそうにドレスを見つめた。淡い藤色の生地に指を添える仕草は、とても優しかった。リディアは、彼女がこのドレスをどれほど大切にしているのかを感じ取り、自然と話の続きを待っていた。


「結婚して初めての記念日に、あの人が用意してくれたの。もう三十年近く前になるかしら」

「ご主人様からの贈り物だったのですね」

「ええ。あの頃の私は、こういう華やかな色の服を着るのが苦手でね。自分には似合わないと思っていたのよ。でも主人は、どうしても私に着てほしかったみたい」


 女性は小さく笑った。昔の出来事を思い出しているのだろう。その表情には、長い年月を経ても色褪せない親しみが感じられた。リディアはドレスを傷つけないよう丁寧に畳み直し、彼女の話に耳を傾けた。


「仕立て屋まで自分で出向いて、布の色から刺繍の図案まで選んだそうなの。出来上がったドレスを見せられたときは、本当に驚いたわ。あの人、普段は衣装になんて興味を示さない人だったのに」


 女性の名前は、マルグリット・ローゼンタールといった。ローゼンタール伯爵家の夫人で、今年五十四歳になる。リディアもその家名には聞き覚えがあった。王都から少し離れた地方に領地を持つ由緒ある家柄で、先代伯爵夫妻は仲睦まじいことで知られていたという。もっとも、リディア自身が直接顔を合わせたことはなく、今回が初めての出会いだった。


 マルグリットが夫のエドムントと出会ったのは、彼女が十八歳の頃だった。当時のマルグリットは、地方の男爵家に生まれた三人姉妹の長女だった。家は裕福とはいえず、社交界に出る機会も限られていた。初めて王都の夜会に招かれたときには、慣れない場所で緊張し、壁際に立ったままほとんど動けなかったという。


 そんな彼女に話しかけてきたのが、若き日のエドムントだった。彼は伯爵家の嫡男でありながら、気取ったところのない青年だった。マルグリットが緊張していることに気づくと、無理に踊りへ誘うのではなく、まずは飲み物を勧めてくれた。彼女が落ち着くまで他愛のない話に付き合い、その夜は最後まで親切に接してくれたらしい。


 その後、二人は何度か顔を合わせるようになった。エドムントは読書が好きで、特に歴史書を好んでいた。マルグリットも本を読むことが好きだったため、二人の会話は自然と弾んだ。やがて彼から手紙が届くようになり、季節が変わる頃には正式な求婚を受けた。家柄の違いを心配する声もあったが、エドムントは彼女を妻に迎えたいという意思を変えなかったという。


「主人はね、あまり器用な人ではなかったのよ」


 マルグリットは紅茶を一口飲んでから、楽しそうに続けた。リディアはその表情を見て、彼女にとって夫との思い出が今も大切なものであることを感じた。長く連れ添った夫婦の話を聞く機会はあまりなかったため、自然と興味が湧いていた。


「私の誕生日を間違えたこともあったし、結婚記念日を忘れて仕事に出かけてしまったこともあったわ。あのときは本当に腹が立って、夕食の席でも口を利かなかったの」

「まあ……」

「翌日になって、庭いっぱいの花を摘んできたのよ。花屋で買えばいいものを、自分で選んだ方が気持ちが伝わると思ったらしくてね。おかげで庭師が随分と怒っていたわ」


 リディアは思わず笑ってしまった。マルグリットもつられるように笑い、しばらく二人の間には穏やかな時間が流れた。夫婦として長く暮らしていれば、楽しいことばかりではなかったのだろう。それでも、こうして笑いながら思い出を語れることが、リディアには素敵なことのように思えた。


「でも、優しい人だったわ。私が病気になったときには、仕事を早く切り上げて帰ってきてくれたし、娘が生まれたときなんて、嬉しくて何日も落ち着かなかったみたい」

「お嬢様がいらっしゃるのですね」

「ええ。セシリアというの。今年で二十二歳になるわ」


 マルグリットの表情が柔らかくなった。セシリアは夫婦にとって、結婚して十年以上が経ってから授かった一人娘だった。幼い頃から活発な少女で、父親の書斎に忍び込んでは本を散らかし、母親の化粧台にある装飾品を勝手に身につけて叱られていたという。マルグリットは娘の幼い頃の出来事を楽しそうに語り、リディアも自然と笑顔になった。


 エドムントは娘を溺愛していた。セシリアが初めて歩いた日には、仕事中だったにもかかわらず使用人に呼ばれて駆けつけた。娘が熱を出せば、医師の診察が終わるまで寝室から離れようとしなかった。五歳の誕生日には、彼女が欲しがっていた木馬を自ら組み立てようとして、途中で部品を壊してしまったこともあったらしい。そんな父親を、セシリアも心から慕っていたという。


「主人は、娘の結婚式を楽しみにしていたのよ」


 そこまで話したところで、マルグリットの表情が少し曇った。先ほどまで楽しそうに語っていた思い出が、急に遠いものになってしまったようだった。リディアは彼女の変化に気づいたが、何も言わずに話の続きを待った。


「……でも、残念ながら、それは叶わなかったわ」


 マルグリットは膝の上で手を重ねた。リディアは静かに顔を上げ、彼女の表情を見つめた。どこか寂しそうな微笑みを浮かべていることから、これから語られる話が明るいものではないことを察した。


「主人は三年前に亡くなったの。病気だったわ」


 エドムントが体調を崩し始めたのは、亡くなる一年ほど前のことだった。最初は疲れが溜まっているのだろうと考えていた。領地経営に熱心な人だったため、多少の無理をすることも珍しくなかったからだ。けれど、休養を取っても体調は戻らず、やがて王都から医師を呼ぶことになった。診察の結果、長くは生きられないかもしれないと告げられたという。


 マルグリットは、その日のことを今でも覚えていた。医師が帰った後、夫はいつもと変わらない顔で夕食を取ろうとした。彼女が泣き出すと、困ったように笑いながら手を握ってくれたという。エドムント自身も不安だったはずだが、妻を安心させようとしていたのだろう。マルグリットはその優しさが嬉しくもあり、同時に悲しくもあったと話した。


 それからの一年間、マルグリットはできる限り夫のそばで過ごした。領地の仕事を手伝い、体調の良い日には庭を散歩し、夜には昔の思い出を語り合った。エドムントは病状が進んでも、妻と娘のことを気にかけていた。自分が亡くなった後の暮らしについて、何度も話し合おうとしたという。マルグリットはそのたびに話題を変えようとしたが、夫は最後まで家族の将来を案じていた。


「私はね、主人がいなくなるなんて、どうしても考えたくなかったの」


 マルグリットは静かに続けた。彼女の表情には、夫を失った悲しみだけでなく、長い年月を共に過ごした人への深い愛情が感じられた。リディアは何も言わずに聞いていた。


「何十年も一緒に暮らしてきたのよ。朝起きれば隣にいて、食事の席でも顔を合わせて、夜になれば今日あったことを話す。それが私にとっては当たり前だったわ」


 マルグリットは窓の外へ目を向けた。庭には秋の花が咲いており、柔らかな日差しが葉の上に落ちている。彼女はしばらくその景色を眺めてから、再びリディアへ向き直った。


「亡くなった後もしばらくは、つい主人の分までお茶を用意するように頼んでしまったり、庭で綺麗な花を見つけると、あの人にも見せようと思ってしまったりしたの。もういないと分かっているのに、不思議なものね」


 マルグリットは寂しそうに微笑んだ。リディアは作業台の上に広げられたドレスを見つめた。淡い藤色の生地には、三十年近い年月が刻まれている。初めて袖を通した日の喜びも、夫と出席した夜会の思い出も、きっとこの一着に詰まっているのだろう。


「このドレスも、ずっとしまったままだったわ。主人が亡くなってから、一度も袖を通していなかったの」

「今回、仕立て直そうと思われたのは、何かきっかけがあったのですか?」

「ええ。娘がね、来年結婚することになったのよ」

「まあ!おめでとうございます」


「ありがとう。お相手は昔から親しくしている家の青年でね。主人もよく知っている子なの。生きていたら、きっと大喜びしたでしょうね」


 マルグリットはドレスの袖口に指を添えた。娘の結婚を喜ぶ気持ちと、夫がその晴れ姿を見られない寂しさが、彼女の中には同時にあるのだろう。リディアはその複雑な思いを想像しながら、静かに話を聞いていた。


「それで、娘の結婚式にこのドレスを着ていこうと思ったの。主人が選んでくれたものを身につけて、あの子の晴れ姿を見届けたいのよ」


 リディアは胸の奥が温かくなるのを感じた。亡き夫が贈ったドレスを着て、娘の結婚式に出席する。それは、マルグリットにとって大切な意味を持つことなのだろう。長年しまわれていたドレスが、もう一度特別な日に着られるようになる。そんな仕事を任せてもらえることが、リディアには嬉しかった。


「ぜひ、お手伝いさせてください」


 リディアが答えると、マルグリットは嬉しそうに目を細めた。彼女は何軒か仕立て屋を訪ねたものの、古いドレスを直すよりも新しいものを作った方がよいと言われてしまったらしい。確かに、新しく仕立てる方が簡単な場合もある。けれど、マルグリットが求めているのは新しいドレスではなく、夫との思い出が詰まった一着をもう一度着ることだった。


「ありがとう。実は、何軒か仕立て屋を訪ねたのだけれど、どこでも新しいドレスを作った方がいいと言われてしまってね」

「確かに、新しく仕立てた方が簡単な場合もあります。でも、こちらのドレスなら、まだ直せると思います」

「本当に?」

「はい。元の意匠をできるだけ残しながら、今の奥様に合うように調整いたします。ただ、傷みのある部分は補強が必要ですし、裏地も一部交換した方がよさそうです」

「構わないわ。昔とまったく同じでなくてもいいの。もう一度着られるようになれば、それで十分よ」


 リディアは頷き、修繕に必要な箇所を説明した。それから採寸を行い、仕上がりの希望について細かく相談する。マルグリットは何度もドレスを眺めながら、若い頃の思い出を楽しそうに話してくれた。リディアも彼女の話を聞きながら、できる限り元の姿を残せるよう、修繕の方法を考えていった。


 やがて相談が一段落した頃、マルグリットがふと尋ねた。リディアは採寸の記録をまとめていたが、その言葉を聞いて顔を上げた。マルグリットは店の中を見回しながら、興味深そうに微笑んでいた。


「ところで、貴方はどうして仕立て屋を始めたの?」

「え?」

「こんなに若いお嬢さんが、一人でお店を開いているなんて珍しいでしょう。何か理由があるのかしらと思って」


 リディアは少し迷った。婚約破棄のことは、できればあまり人に話したくなかった。社交界ではすでに噂になっているだろうが、初対面の客にわざわざ打ち明ける必要もない。それでも、マルグリットが自分の人生を丁寧に話してくれたことを思い出すと、不思議と隠す気にはなれなかった。


「……実は私も、少し前に大切な人との縁が切れてしまったんです」


 マルグリットは静かにリディアを見つめた。彼女の表情には驚きが浮かんでいたが、話を遮ることはなかった。リディアは少し緊張しながらも、これまで誰にも詳しく話してこなかった婚約破棄のことを打ち明けた。


「婚約者がいたのですが、二か月ほど前に婚約を破棄されまして」

「あら……。そうだったのね」

「はい。五年間の婚約でした。結婚するものだとばかり思っていたので、最初はどうしていいか分からなくて」


 リディアは少し照れくさそうに笑った。婚約破棄された当初は、何もする気になれない日もあった。けれど、裁縫をしている時間だけは気持ちが落ち着いた。好きなことに没頭するうちに、少しずつ前を向けるようになったのである。


「でも、以前から裁縫が好きだったんです。婚約中はあまり自由にできなかったので、せっかくなら好きなことをしてみようと思いまして。それで、この店を始めました」


 マルグリットはしばらく黙っていた。それから、穏やかな表情で口を開いた。彼女はリディアの話を聞き、若い頃の自分を少し思い出していたのかもしれない。大切な人と共に歩む未来を思い描く気持ちは、彼女自身もよく知っていたからだ。


「そう。貴方も、大変だったのね」

「いえ、奥様に比べれば……」

「比べる必要なんてないわ」


 思いがけない言葉に、リディアは顔を上げた。マルグリットは真剣な表情で彼女を見つめていた。夫との死別と婚約破棄では、事情も悲しみの形も違う。それでも、リディアが感じた悲しみを軽く扱う必要はないのだと、彼女は伝えようとしてくれているようだった。


「大切な人を失う悲しみは、人によって違うものよ。私と貴方では事情も違うでしょうけれど、貴方が悲しかったことまで小さく考える必要はないと思うわ」


 リディアは返事を探した。婚約破棄された後、周囲の人々は優しく接してくれた。両親も侍女たちも、彼女を気遣ってくれた。それでも、心のどこかで、自分はいつまでも悲しんでいてはいけないと思っていた。婚約は終わったのだから、早く気持ちを切り替えなければならない。そんなふうに考えていたのである。


「……ありがとうございます」


 リディアは小さく頭を下げた。マルグリットは優しく微笑み、作業台の上に置かれたドレスへ視線を戻した。長い年月を共に過ごした夫を亡くした彼女にも、悲しみを抱えながら暮らしてきた日々があったのだろう。リディアはそのことを思い、静かに話の続きを待った。


「私もね、主人が亡くなってから、何度も考えたことがあるの。あの人がいないのに、これからどうやって暮らしていけばいいのかしらって」


 マルグリットは懐かしそうに目を細めた。夫を亡くした直後は、何をしていても寂しさを感じたという。食事の席に空いた椅子を見るたびに胸が痛み、庭を歩けば夫と過ごした日々を思い出した。それでも、娘の成長を見守り、領地の人々と関わりながら暮らしていくうちに、少しずつ日常を取り戻していったのだと話した。


「でも、娘は成長していくし、季節も変わっていくでしょう。庭の花だって毎年咲くのよ。私だけが昔のままでいるわけにはいかないと思うようになったの」


 リディアはその言葉を静かに聞いていた。マルグリットは夫との思い出を忘れようとしているわけではない。大切な思い出を胸に抱きながら、これからも自分の人生を歩んでいこうとしているのだろう。その姿は、リディアにとってとても眩しく感じられた。


「だから、今回このドレスを直してもらおうと思ったの。昔の私に戻りたいわけじゃないのよ。今の私が、主人との思い出を身につけて、娘の結婚式に出席したいの」


 マルグリットはそう言って、柔らかく微笑んだ。リディアは、彼女の依頼を引き受けられたことが嬉しかった。古いドレスを直すという仕事には、彼女が想像していた以上に大切な意味があるのかもしれない。マルグリットの思い出を守りながら、これからの人生にも寄り添える一着に仕上げたいと、リディアは心から思った。




 ◇




 マルグリットが帰った後、リディアは改めてドレスを広げた。窓から差し込む午後の日差しが、淡い藤色の生地を照らしている。古いドレスには、長い年月を経た衣服特有の柔らかさがあった。何度も袖を通し、大切に手入れされてきたものなのだろう。リディアは作業台の前に立ち、どこから修繕を始めるべきか慎重に考えた。


 まず、傷んでいる箇所を細かく記録することにした。肩の縫い目は糸が弱くなっていたため、一度解いて縫い直す必要がある。脇の部分は生地そのものが薄くなっており、内側から補強しなければならない。裾の裏地も交換が必要だったが、表地には大きな傷みがないため、元の意匠を残せそうだった。リディアは修繕箇所を紙に書き出し、一つずつ確認していった。


 最も難しいのは寸法の調整だった。三十年近く前に仕立てられたドレスは、現在のマルグリットには少し窮屈になっている。特に胸元と腰回りは余裕が足りず、そのままでは着心地が悪いだろう。元の形を大きく変えずに調整するには、脇の縫い代を利用し、必要な部分に新しい生地を足す必要があった。


 リディアは生地見本を取り出し、色や質感を比較した。同じ藤色でも、青みの強いものや赤みの強いものがある。古い生地に合わせるには、色だけでなく光沢や厚みも考えなければならない。何枚もの見本を並べ、窓際で確かめ、ようやく近いものを見つけた。できる限り元の生地になじむものを選びたいという思いから、彼女は何度も見本を見比べた。


 その日の夕方、リディアは王都の生地商を訪ねた。店主は彼女が幼い頃から世話になっている人物で、今回の依頼について説明すると、古い生地に合うものを一緒に探してくれた。新しい生地はどうしても光沢が強くなるため、目立たない箇所に使うことを勧められた。リディアは必要な材料を購入し、翌日から本格的に作業を始めた。


 最初に行ったのは、傷んだ縫い目を解くことだった。古い糸は慎重に取り除かなければ、生地まで傷つけてしまう。リディアは細い道具を使い、少しずつ縫い目を解いていった。時間のかかる作業だったが、焦ることはなかった。マルグリットが長年大切にしてきたドレスなのだから、どれほど時間がかかっても丁寧に仕上げたいと思っていた。


 布を広げるたびに、マルグリットが語ってくれた思い出が浮かんだ。結婚記念日にドレスを贈ってくれた夫。娘が生まれたときに喜んでくれた父親。病に倒れた後も、家族のことを気にかけていた男性。リディアはエドムントに会ったことがないが、マルグリットの話を聞いたことで、彼がどのような人物だったのか、少しだけ想像できるようになっていた。


 もちろん、夫婦の暮らしがいつも幸せなことばかりだったわけではないだろう。喧嘩もあっただろうし、互いに不満を抱く日もあったはずだ。それでも、マルグリットが夫のことを語るときの表情には、長い年月を共に過ごした人にしか持ち得ない親しみがあった。リディアは、そんな二人の思い出が詰まったドレスを預かっているのだと思った。


 修繕を始めて三日目、彼女は胸元の刺繍に取りかかった。細い銀糸で描かれた花模様は、ところどころ糸が緩んでいた。元の図案を崩さないように慎重に補修し、傷んだ糸だけを新しいものに交換する。細かな作業が続いたが、リディアは集中して針を進めていた。少しずつ刺繍が元の美しさを取り戻していく様子を見るのは、何とも嬉しいものだった。


 その作業をしているうちに、リディアはふと、自分が十五歳の頃に作ったドレスを思い出した。初めて一着を完成させたとき、母親は本当に喜んでくれた。フェリクスとの婚約が決まった後も、いつか彼に自分の作った服を見てもらいたいと思っていた。けれど、彼は次第に裁縫を嫌がるようになり、リディアも彼の期待に応えようとして、趣味に費やす時間を減らしていった。


 今になって考えれば、二人は最初から少しずつ違う方向を向いていたのかもしれない。フェリクスが望んでいたのは、伯爵夫人としての務めを何よりも優先する妻だった。一方のリディアは、結婚しても好きなことを大切にしたかった。どちらかが一方的に我慢し続けなければ成り立たない関係だったのだろうか。その答えは、今でも分からない。ただ、フェリクスとの婚約が終わったことで、自分が何を大切にしたいのかを改めて考えるようになったのは確かだった。


 リディアは針を持ち直し、刺繍の続きを縫い進めた。マルグリットがこのドレスを着て、娘の結婚式に出席する。その日のことを想像すると、自然と手元に力が入った。自分の好きなことが、誰かの大切な思い出を守ることにつながっている。そう考えると、仕立ての仕事がますます好きになった。


 五日目には、傷んだ部分の補修がほぼ終わった。六日目には、寸法を調整した仮縫いを行い、マルグリットに一度店を訪ねてもらった。着心地を確かめながら細かな修正を加え、七日目には裏地を新しく縫いつけた。作業は順調に進んでいたが、最後まで気を抜くことはできなかった。古い生地は扱いが難しく、少しの油断で傷つけてしまうこともあるからだ。


 そして八日目の夕方、ようやく仕立て直しが完成した。リディアはドレスを人台に着せ、少し離れた場所から眺めた。淡い藤色の生地は、以前と変わらない上品な光沢を保っている。胸元の刺繍も丁寧に修復され、袖口の真珠も一つずつ縫い直してあった。寸法を調整した部分は、元の意匠に自然になじんでいる。新しいドレスになったわけではないが、これからも長く着られる一着になった。


 リディアは満足そうに微笑み、マルグリットへ完成を知らせる手紙を書いた。彼女が喜んでくれるかどうか、少し不安もあった。けれど、自分にできる限りのことはしたつもりだった。あとは実際に袖を通してもらい、仕上がりを確かめてもらうだけである。




 ◇




 マルグリットが再び店を訪れたのは、それから二日後のことだった。前回と同じように落ち着いた装いをしていたが、今日はどこか楽しそうだった。扉を開けるなり、リディアに向かって微笑みかける。リディアも彼女を迎え入れ、完成したドレスを用意している奥の部屋へ案内した。


「こんにちは。ドレスが完成したと伺って、楽しみにしていたのよ」

「いらっしゃいませ、ローゼンタール様。はい、無事に仕上がりました。どうぞ、こちらへ」


 奥の部屋には、仕立て直した藤色のドレスが用意されていた。マルグリットは一目見るなり足を止め、しばらく言葉を失ったように見つめていた。リディアは少し緊張しながら、その反応を待った。彼女にとって大切なドレスだからこそ、気に入ってもらえるかどうかが気になっていた。


「……まあ」


 マルグリットはゆっくりとドレスへ近づき、胸元の刺繍に手を伸ばした。指先で花模様を確かめるように触れ、それから袖口の真珠へ視線を移した。昔の面影が残っていることを確かめるように、彼女は一つずつ丁寧に眺めていた。


「本当に、綺麗になったのね」

「できるだけ元の形を残して仕立て直しました。傷んでいた部分は補強してありますので、これからも長くお召しいただけると思います」

「そう……。ありがとう」


 マルグリットはしばらくドレスを眺めていた。リディアは急かすことなく、その様子を見守った。やがてマルグリットは、試着してもよいかと尋ねた。リディアが頷くと、彼女は小部屋へ入り、侍女の手を借りながらドレスに袖を通した。


 しばらくして、マルグリットが姿見の前に現れた。淡い藤色のドレスは、今の彼女によく似合っていた。若い頃に着ていたものとは、少し印象が違うかもしれない。年月を重ねたことで、髪には銀色が混じり、顔には穏やかな皺が刻まれている。それでも、落ち着いた色合いのドレスは彼女の上品な雰囲気によく合っていた。


 マルグリットは鏡の中の自分を見つめ、ゆっくりと裾を広げた。若い頃に着ていたドレスが、今の自分にも似合うようになっている。そのことが嬉しかったのだろう。彼女は何度も鏡を見つめ、懐かしそうに微笑んでいた。


「……懐かしいわ」


 彼女は小さく呟いた。リディアはその表情を見ながら、マルグリットがどのような思いで鏡の前に立っているのかを想像した。三十年近く前、夫から初めてこのドレスを贈られた日のことを思い出しているのかもしれない。


「初めてこのドレスを着た日のことを思い出すわ。主人がね、私の姿を見て、何度も綺麗だと言ってくれたのよ」


 リディアは微笑みながら聞いていた。マルグリットは鏡に映る自分を見つめ続け、若い頃の思い出を語った。その表情には、懐かしさと喜びが入り混じっていた。


「私は恥ずかしくて、そんなに褒めなくてもいいでしょうって言ったの。でも、あの人は嬉しそうに笑っていたわ」


 マルグリットは鏡に映る自分を見つめ続けた。しばらくして、彼女の目元が少し潤んだ。リディアは何も言わず、その様子を見守った。長い年月を経て、もう一度このドレスに袖を通せたことが、彼女にとってどれほど大切なことなのか、少しだけ分かったような気がした。


「……あの人にも、見せてあげたかったわね」


 マルグリットはそっと目元を押さえ、それから照れくさそうに笑った。リディアは彼女の涙を見て、胸の奥が温かくなるのを感じた。悲しみだけではなく、夫との思い出を大切にしているからこその涙なのだろう。


「ごめんなさいね。せっかく綺麗にしていただいたのに、泣いてしまって」

「いえ……。大切なドレスですから」

「ええ。本当に、大切なものなの」


 マルグリットはもう一度、鏡の中の自分を見つめた。夫から贈られたドレスを、今の自分がもう一度着られるようになった。その喜びは、リディアが想像していた以上に大きかったのかもしれない。彼女はしばらく鏡の前に立ち、満足そうに微笑んでいた。


「でも、これで娘の結婚式に着ていけるわ。あの子、きっと喜ぶでしょうね」

「はい。きっと、とてもお似合いだと思います」

「ありがとう。貴方にお願いして良かったわ」


 その言葉を聞いた瞬間、リディアは胸の奥が温かくなるのを感じた。これまでにも、修繕した衣服を受け取って喜んでくれた客はいた。けれど、今回の依頼には、今までとは少し違う思いがあった。マルグリットが大切にしてきた年月を、ほんの少しでも支えることができたのだろうか。そう考えると、何日もかけて針を進めた時間が、何よりも嬉しく感じられた。


 試着を終えたマルグリットは、丁寧に畳まれたドレスを受け取った。リディアが代金について説明すると、彼女は快く支払いを済ませ、もう一度店の中を見回した。窓際に並べられた布や糸、作業台の上に置かれた裁縫道具を眺めながら、満足そうに微笑んでいた。


「えぇ、素晴らしいわ。ここは初めてだけど、とても良かったわ」

「ありがとうございます。そう言っていただけて嬉しいです」

「また何かあったら、お願いしてもいいかしら」

「もちろんです。いつでもお待ちしております」


 マルグリットは満足そうに頷いた。それから、ふと思い出したようにリディアを見つめた。先日、彼女が婚約を破棄されたばかりだと話していたことを覚えていたのだろう。マルグリットは少しだけ表情を和らげ、優しく問いかけた。


「そういえば、貴方は婚約を解消したばかりだと言っていたわね」

「はい」

「今はお仕事が楽しいのでしょう?」

「ええ、とても。毎日、時間が足りないくらいです」


 リディアが答えると、マルグリットは嬉しそうに笑った。彼女自身も、夫を亡くしてから少しずつ日常を取り戻してきたのだろう。好きなことに打ち込める時間があることの大切さを、よく知っているようだった。


「それは良かったわ。好きなことがあるのは、素敵なことよ。これからも大切になさいね」

「はい。ありがとうございます」


 マルグリットは包みを抱え直し、扉へ向かった。そして帰り際、リディアを振り返った。穏やかな微笑みを浮かべた彼女は、まるで娘に話しかけるような優しい口調で言った。


「貴方も良い人を見つけてね」


 リディアは少し驚いた。マルグリットは穏やかに微笑んでいた。彼女が夫と過ごした年月をどれほど大切に思っているのか、リディアは今日までの話を通じて知っていた。だからこそ、その言葉には温かな願いが込められているように感じられた。


「私ね、主人と出会えて本当に幸せだったの。もちろん、喧嘩もしたし、腹が立つこともあったわ。でも、あの人と一緒に過ごした年月を、後悔したことはないのよ」


 彼女は少しだけ目を細めた。リディアはその表情を見つめながら、マルグリットが語ってくれた夫婦の思い出を振り返った。何十年もの年月を共に過ごし、嬉しいことも悲しいことも分かち合ってきた二人の姿が、自然と思い浮かんだ。


「だから、貴方にも、いつかそんな人と出会ってほしいわ。貴方の好きなことを、一緒に喜んでくれる人とね」


 リディアはしばらく言葉を失っていた。婚約破棄されてから、恋愛について考えることを避けていた。もう一度誰かを好きになることがあるのか、自分でも分からなかったからだ。けれど、マルグリットの言葉を聞いていると、いつかそんな日が来てもいいのかもしれないと思えた。


「……はい。ありがとうございます」


 リディアは微笑んだ。マルグリットの言葉は、彼女の胸に静かに残った。今すぐ新しい恋愛を始めたいわけではない。それでも、いつか自分の好きなことを理解してくれる人と出会えたら、きっと幸せなのだろうと思えた。


「いつか、そんな方と出会えたら嬉しいです」

「ええ。きっと、素敵な出会いがあるわ」


 マルグリットはそう言って、店を後にした。リディアは扉の前に立ち、彼女の姿が庭の向こうへ消えるまで見送っていた。大切そうにドレスを抱えて歩く姿を眺めながら、リディアは今回の依頼を引き受けて本当に良かったと思った。




 ◇




 その日の夕方、リディアは一人で作業台に向かっていた。窓から差し込む夕日が、机の上に置かれた布や糸を柔らかく照らしている。マルグリットのドレスを仕立て直したことで、作業台の上には少し余裕ができていた。リディアは椅子に腰を下ろし、今日の出来事を思い返した。


 婚約破棄された日のことは、今でも覚えている。フェリクスから告げられた言葉も、冷めてしまった紅茶の香りも、窓の外で庭師が薔薇を剪定していた光景も、鮮明に思い出せた。あの日、自分の人生は大きく変わった。五年間思い描いてきた未来がなくなり、これからどうすればいいのか分からなくなった。


 けれど、その後に始めた仕立ての仕事は、リディアに思いがけない喜びを与えてくれた。最初は、自分が好きなことをして暮らしたかっただけだった。誰にも遠慮せず、好きな布を選び、好きな図案を考え、時間を忘れて針を進める。そんな毎日を過ごせることが嬉しくて、仕立て屋を始めたのである。


 ところが、実際に店を始めてみると、仕立ての仕事には自分が知らなかった一面があることに気づいた。長年愛用してきた外套を直してほしいと頼む侍女。母親から譲り受けたドレスを着たいと願う商家の娘。そして、亡き夫との思い出が詰まったドレスを、娘の結婚式に着ていきたいと願ったマルグリット。誰もが、それぞれの人生を歩んでいるのだと、リディアは感じるようになった。


 服には、持ち主の思い出が刻まれていた。楽しかった日も、悲しかった日も、大切な人と過ごした時間も、その一着と共にあったのだろう。リディアは、マルグリットが鏡の前で微笑んでいた姿を思い出した。あのドレスは、三十年近く前に仕立てられたものだった。生地は傷み、縫い目は緩み、昔のままでは着られなくなっていたが、丁寧に手を加えることで、もう一度着られるようになった。


 昔とまったく同じ姿に戻ったわけではない。今のマルグリットに似合うように、少しずつ形を変えたのである。リディアは自分の手を見つめた。この手で、誰かの大切なものを直すことができた。その人がこれから歩んでいく人生に、ほんの少しだけ関わることができた。そう思うと、仕立ての仕事が以前よりもずっと好きになったのだ。


 机の上には、次の依頼品が置かれていた。近所に住む老婦人から預かった、小さな子供用の上着だった。孫が生まれたので、昔、自分の息子に着せていた服を直して贈りたいという依頼である。リディアは上着を手に取り、生地の状態を確かめた。袖口には小さな染みがあり、襟元の縫い目も少し緩んでいる。けれど、丁寧に直せば、まだ十分に着られるだろう。


 彼女は針に糸を通し、ゆっくりと縫い始めた。窓の外では、夕暮れの空が少しずつ茜色に染まっていた。いつか、自分にも新しい出会いがあるかもしれない。それがいつになるのか、どんな相手なのかは分からない。今はまだ、誰かと結婚する未来を具体的に思い描くこともできなかったが、焦る必要はないのだろう。


 マルグリットが言ってくれたように、自分の好きなことを大切にしながら、これからの人生を歩んでいけばいい。


 リディアは今日も、誰かのために針を持つ。大切な思い出を紡いでいくために。そして、自分自身の人生もまた、少しずつ仕立て直していくために。仕立てるのは、服だけではない。時には、人の人生をも仕立てるのだから。

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