記憶を失った夫に、妻の私は「初めまして」と名乗りました
夫は、落馬の事故でここ数年の記憶を失った。
正確には、すべて消えたわけではないらしい。
古い記憶は残っている。
ここ数年の出来事だけが、ところどころ大きく抜け落ちている。
そして私たちが見合いで出会ったのは、三年前だった。
「……あなたが、俺の妻なのか?」
寝台の上から、アルベルトが私を見る。
その顔も、声も、何も変わっていない。
でも彼は、私と出会ったことを覚えていなかった。
婚約したことも。
結婚したことも。
一緒に暮らしたことも。
私を好きになってくれたことも。
私たち夫婦の思い出は、ほとんどすべて、彼が失った数年間の中にあった。
「はい。エレノアと申します」
私は、自分の夫にもう一度名乗った。
アルベルトは少し困ったように私を見る。
「俺たちは……どんな夫婦だった?」
「仲の良い夫婦でした」
「政略結婚だったと聞いた」
「始まりはそうです」
「その後は?」
私は少しだけ迷った。
「私は、あなたを愛しています」
アルベルトの表情が固まる。
「そしてあなたも、私を愛してくれていました」
「……そうか」
「でも、それは記憶を失う前のあなたの気持ちです」
「俺たちは今も夫婦だろう?」
「はい」
「なら、俺には夫としての責任がある」
「あります。でも、愛することは責任ではありません」
アルベルトは黙った。
責任感の強い人だ。
私が望めば、きっと以前と同じ夫であろうとしてくれる。
だからこそ、それは嫌だった。
「あなたが覚えていない気持ちを、今のあなたに要求するつもりはありません」
「では、俺はどうすればいい?」
「まずは怪我を治してください」
「その後は?」
私は笑った。
「初めまして、からでいいのではないでしょうか」
◇
怪我が治ると、アルベルトは少しずつ以前の生活へ戻っていった。
ある日の夕食で、彼が尋ねた。
「以前の俺は、いつも君と夕食を?」
「はい。仕事が忙しくても、八時には戻ってきてくれました」
「そうか」
翌日。
八時前に、アルベルトが食堂へ現れた。
「今日は早いですね」
「ああ」
「無理に以前と同じことをしなくてもいいのですよ?」
「違う」
アルベルトは私の向かいに座った。
「君と食べたほうが楽しい」
あまりに自然に言うので、返事が遅れた。
「……そうですか」
「おかしいか?」
「いいえ」
それから、夕食はまた二人で食べるようになった。
昔と同じだからではない。
今のアルベルトが、そうしたいと言ったから。
それが私は嬉しかった。
◇
数日後。
庭を歩いていると、庭師たちが新しい花壇を作っていた。
植えられているのは、白いリナリアだった。
私の好きな花だ。
「奥様」
侍女長が声をかけてきた。
「旦那様からのご指示でございます」
「アルベルトが?」
「はい。奥様のお好きな花を尋ねられましたので、お答えいたしました」
私はそのまま書斎へ向かった。
「庭の花壇は、あなたが?」
「ああ」
「ありがとうございます。でも、どうして?」
アルベルトは不思議そうな顔をした。
「君が好きな花だと聞いた」
「それは分かっています」
私は少し笑った。
「どうして、私の好きな花を植えようと思ったのです?」
「好きなものが庭にあったら、君が喜ぶだろう?」
あまりにも簡単に言われて、今度は私が黙った。
「……そうですね」
「嫌だったか?」
「いいえ」
私は首を振った。
「とても嬉しいです」
「そうか」
アルベルトが笑った。
その顔を見て、気づく。
この花壇は、昔の彼が作ったものではない。
失った記憶の中にあったものでもない。
今のアルベルトが、私の好きなものを尋ねて。
私が喜ぶだろうと考えて。
私のために作ってくれた。
それだけのことが、たまらなく嬉しかった。
◇
ある日の午後。
私は居間の窓辺で本を読んでいた。
入ってきたアルベルトが、不意に足を止める。
「エレノア。そのままでいてくれ」
「……はい?」
彼は私と、その後ろにある窓を見つめていた。
「君がそこで笑っているのを、見たことがある」
胸が鳴った。
「覚えているのですか?」
「分からない」
アルベルトは眉を寄せた。
「いつだったのかも、何を話していたのかも分からない。ただ――」
彼が自分の胸に手を置く。
「君が笑っていて、それを見た俺が嬉しかったことだけは分かる」
私には、その日の記憶があった。
二年前の春。
妹に子供が生まれたという手紙を、この窓辺で読んでいた。
嬉しくて。
帰ってきたアルベルトに、すぐその話をした。
でも、私は教えなかった。
これは私の記憶だ。
彼が思い出しかけているものを、私の言葉で作り変えたくなかった。
「なら、きっと良い思い出だったのでしょうね」
私は笑った。
アルベルトが目を見開く。
「……今の顔だ」
「え?」
「たぶん、今みたいに笑っていた」
胸の奥が熱くなった。
失われた三年間は、完全に消えてしまったわけではないらしい。
それでも、私は何も尋ねなかった。
いつ思い出すのか。
全部戻るのか。
まだ私を愛しているのか。
それは、今の彼に答えられることではない。
だから私は、ただ笑った。
「いつか思い出したら、答え合わせをしましょう」
「ああ」
アルベルトも笑った。
「そうしよう」
◇
それからしばらくして。
夕食を終えた私を、アルベルトが呼び止めた。
「エレノア。少し話がある」
いつもより硬い声だった。
私は彼について書斎へ向かった。
アルベルトは私に椅子を勧めたが、自分は座らなかった。
しばらく黙ったあと、私を見る。
「一度、俺の妻ではないと思って聞いてほしい」
「……はい」
「俺には、君を愛していた記憶がない」
分かっていた。
それでも、その言葉は少しだけ痛かった。
「窓辺のように、欠片が戻ることはある。だが、今から言うことは、それとは関係ない」
私は彼を見た。
「君と食事をすると楽しい」
アルベルトが言う。
「君が喜ぶと、俺も嬉しい」
白いリナリアが頭に浮かんだ。
「仕事をしていても、今日は君と何を話そうかと考える。帰ってくれば、君がどこにいるのか気になる」
胸が鳴った。
「最初は、以前の俺が君を愛していたからなのかと思った」
アルベルトは首を振った。
「違った」
そして、まっすぐ私を見る。
「昔の俺がどうだったかは関係ない」
一歩、私へ近づく。
「今の俺が、君を好きになった」
涙が一つ落ちた。
「……ずるいです」
「何がだ?」
「以前も、あなたからだったんですよ」
アルベルトが目を見開く。
「そうなのか?」
「はい」
私は泣きながら笑った。
「二回とも、あなたの勝ちです」
「勝ち負けなのか?」
「今、決めました」
アルベルトも笑った。
それから、私の前に膝をついた。
「俺たちは、もう結婚している」
「はい」
「だから、おかしなことをしているのは分かっている」
差し出された手を見た。
三年前。
私は一度、この人の手を取った。
その日のことを、彼はもう覚えていない。
それでも。
「もう一度、俺と結婚してくれないか」
今度も同じ人が、私に手を差し出してくれた。
私はその手を取った。
「はい。喜んで」
◇
春になって、私たちはもう一度、結婚式を挙げた。
家族と親しい友人、それに屋敷の使用人たちだけの小さな式だった。
三年前の結婚式を再現したわけではない。
衣装も、花も、料理も。
すべて今の私たちが選んだ。
これは失った結婚式の代わりではない。
今のアルベルトと、今の私の結婚式だ。
誓いを交わし、指輪を交換する。
三年前にもしたはずなのに、ひどく緊張した。
式が終わると、アルベルトが笑った。
「これでようやく、君と結婚した記憶ができた」
「そうですね」
「今度は忘れない」
「お願いします」
私も笑った。
◇
式のあと、二人で庭を歩いた。
春の庭には、白いリナリアが咲いている。
アルベルトが作ってくれた花壇だ。
その前を通り過ぎ、庭の奥へ向かう。
やがて、小さな東屋が見えてきた。
三年前。
最初の結婚式の日にも、私たちはここへ来た。
あの日の私は、今よりずっとアルベルトに慣れていなくて。
二人きりになっただけで緊張していた。
でも、もういい。
あの日のことを、アルベルトが思い出さなくても。
昔のアルベルトとの思い出は、私が覚えている。
今のアルベルトとは、これから新しい思い出を作っていけばいい。
この人はもう一度、私を好きになってくれた。
もう一度、私を選んでくれた。
それだけで十分だった。
「アルベルト」
私は彼の腕を引き、少し背伸びをして口づけた。
唇が離れる。
アルベルトは何も言わなかった。
ただ、私を見つめている。
「……アルベルト?」
「ここだ」
彼が呟いた。
「ここだった」
その目が、東屋へ向く。
「君と初めてキスをしたのも、ここだった」
息が止まった。
「君が、花が綺麗だと言った」
三年前の春。
確かに私はそう言った。
「俺は、花なんて見ていなかった」
アルベルトの声が震える。
「君を見ていた」
あの日の光景が、私の中にも蘇る。
「それで、俺からキスをした」
「……はい」
「君に怒られた」
涙が滲んだのに、笑ってしまった。
「当然です。突然だったんですから」
アルベルトも笑った。
そして、その目から涙が落ちた。
「思い出した」
彼が私を見る。
「全部、思い出した」
出会った日のこと。
初めて二人で食事をした日のこと。
少しずつ話すことが増えて、いつの間にか会える日を楽しみにするようになったこと。
結婚式。
この東屋。
一緒に暮らした日々。
私が窓辺で笑っていた日のことも。
失われていた三年間が、彼の中へ戻ってきた。
「エレノア」
名前を呼ばれた。
同じ声なのに。
三年前から私を呼び続けてくれた声が、帰ってきた。
私はもう、泣いていた。
「おかえりなさい」
アルベルトが私を抱きしめる。
「ただいま」
それだけで、十分だった。
十分だったはずなのに。
しばらくして、アルベルトが私を抱いたまま呟いた。
「……困ったことになった」
「何がですか?」
「昔の俺も、君を愛していた」
「はい」
「記憶を失った俺も、君を好きになった」
「はい」
アルベルトが少し身体を離し、私を見る。
「どうやら俺は、前よりずっと君を好きになってしまったらしい」
私は泣きながら笑った。
「それは大変ですね」
「ああ。一生かけても足りないかもしれない」
「では、長生きしてください」
「ああ」
アルベルトが笑う。
「この約束は、忘れない」
「はい」
今度は彼から、私に口づけた。
私は同じ人に、二度恋をした。
そして彼も、二度、私を選んでくれた。
失ったはずの思い出まで、全部戻ってきた今。
私はきっと、世界で一番幸せな妻だ。




