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記憶を失った夫に、妻の私は「初めまして」と名乗りました

作者: よみなぎ
掲載日:2026/10/06

夫は、落馬の事故でここ数年の記憶を失った。


正確には、すべて消えたわけではないらしい。


古い記憶は残っている。

ここ数年の出来事だけが、ところどころ大きく抜け落ちている。


そして私たちが見合いで出会ったのは、三年前だった。


「……あなたが、俺の妻なのか?」


寝台の上から、アルベルトが私を見る。


その顔も、声も、何も変わっていない。


でも彼は、私と出会ったことを覚えていなかった。


婚約したことも。


結婚したことも。


一緒に暮らしたことも。


私を好きになってくれたことも。


私たち夫婦の思い出は、ほとんどすべて、彼が失った数年間の中にあった。


「はい。エレノアと申します」


私は、自分の夫にもう一度名乗った。


アルベルトは少し困ったように私を見る。


「俺たちは……どんな夫婦だった?」


「仲の良い夫婦でした」


「政略結婚だったと聞いた」


「始まりはそうです」


「その後は?」


私は少しだけ迷った。


「私は、あなたを愛しています」


アルベルトの表情が固まる。


「そしてあなたも、私を愛してくれていました」


「……そうか」


「でも、それは記憶を失う前のあなたの気持ちです」


「俺たちは今も夫婦だろう?」


「はい」


「なら、俺には夫としての責任がある」


「あります。でも、愛することは責任ではありません」


アルベルトは黙った。


責任感の強い人だ。


私が望めば、きっと以前と同じ夫であろうとしてくれる。


だからこそ、それは嫌だった。


「あなたが覚えていない気持ちを、今のあなたに要求するつもりはありません」


「では、俺はどうすればいい?」


「まずは怪我を治してください」


「その後は?」


私は笑った。


「初めまして、からでいいのではないでしょうか」


◇


怪我が治ると、アルベルトは少しずつ以前の生活へ戻っていった。


ある日の夕食で、彼が尋ねた。


「以前の俺は、いつも君と夕食を?」


「はい。仕事が忙しくても、八時には戻ってきてくれました」


「そうか」


翌日。


八時前に、アルベルトが食堂へ現れた。


「今日は早いですね」


「ああ」


「無理に以前と同じことをしなくてもいいのですよ?」


「違う」


アルベルトは私の向かいに座った。


「君と食べたほうが楽しい」


あまりに自然に言うので、返事が遅れた。


「……そうですか」


「おかしいか?」


「いいえ」


それから、夕食はまた二人で食べるようになった。


昔と同じだからではない。


今のアルベルトが、そうしたいと言ったから。


それが私は嬉しかった。


◇


数日後。


庭を歩いていると、庭師たちが新しい花壇を作っていた。


植えられているのは、白いリナリアだった。


私の好きな花だ。


「奥様」


侍女長が声をかけてきた。


「旦那様からのご指示でございます」


「アルベルトが?」


「はい。奥様のお好きな花を尋ねられましたので、お答えいたしました」


私はそのまま書斎へ向かった。


「庭の花壇は、あなたが?」


「ああ」


「ありがとうございます。でも、どうして?」


アルベルトは不思議そうな顔をした。


「君が好きな花だと聞いた」


「それは分かっています」


私は少し笑った。


「どうして、私の好きな花を植えようと思ったのです?」


「好きなものが庭にあったら、君が喜ぶだろう?」


あまりにも簡単に言われて、今度は私が黙った。


「……そうですね」


「嫌だったか?」


「いいえ」


私は首を振った。


「とても嬉しいです」


「そうか」


アルベルトが笑った。


その顔を見て、気づく。


この花壇は、昔の彼が作ったものではない。


失った記憶の中にあったものでもない。


今のアルベルトが、私の好きなものを尋ねて。


私が喜ぶだろうと考えて。


私のために作ってくれた。


それだけのことが、たまらなく嬉しかった。


◇


ある日の午後。


私は居間の窓辺で本を読んでいた。


入ってきたアルベルトが、不意に足を止める。


「エレノア。そのままでいてくれ」


「……はい?」


彼は私と、その後ろにある窓を見つめていた。


「君がそこで笑っているのを、見たことがある」


胸が鳴った。


「覚えているのですか?」


「分からない」


アルベルトは眉を寄せた。


「いつだったのかも、何を話していたのかも分からない。ただ――」


彼が自分の胸に手を置く。


「君が笑っていて、それを見た俺が嬉しかったことだけは分かる」


私には、その日の記憶があった。


二年前の春。


妹に子供が生まれたという手紙を、この窓辺で読んでいた。


嬉しくて。


帰ってきたアルベルトに、すぐその話をした。


でも、私は教えなかった。


これは私の記憶だ。


彼が思い出しかけているものを、私の言葉で作り変えたくなかった。


「なら、きっと良い思い出だったのでしょうね」


私は笑った。


アルベルトが目を見開く。


「……今の顔だ」


「え?」


「たぶん、今みたいに笑っていた」


胸の奥が熱くなった。


失われた三年間は、完全に消えてしまったわけではないらしい。


それでも、私は何も尋ねなかった。


いつ思い出すのか。


全部戻るのか。


まだ私を愛しているのか。


それは、今の彼に答えられることではない。


だから私は、ただ笑った。


「いつか思い出したら、答え合わせをしましょう」


「ああ」


アルベルトも笑った。


「そうしよう」


◇


それからしばらくして。


夕食を終えた私を、アルベルトが呼び止めた。


「エレノア。少し話がある」


いつもより硬い声だった。


私は彼について書斎へ向かった。


アルベルトは私に椅子を勧めたが、自分は座らなかった。


しばらく黙ったあと、私を見る。


「一度、俺の妻ではないと思って聞いてほしい」


「……はい」


「俺には、君を愛していた記憶がない」


分かっていた。


それでも、その言葉は少しだけ痛かった。


「窓辺のように、欠片が戻ることはある。だが、今から言うことは、それとは関係ない」


私は彼を見た。


「君と食事をすると楽しい」


アルベルトが言う。


「君が喜ぶと、俺も嬉しい」


白いリナリアが頭に浮かんだ。


「仕事をしていても、今日は君と何を話そうかと考える。帰ってくれば、君がどこにいるのか気になる」


胸が鳴った。


「最初は、以前の俺が君を愛していたからなのかと思った」


アルベルトは首を振った。


「違った」


そして、まっすぐ私を見る。


「昔の俺がどうだったかは関係ない」


一歩、私へ近づく。


「今の俺が、君を好きになった」


涙が一つ落ちた。


「……ずるいです」


「何がだ?」


「以前も、あなたからだったんですよ」


アルベルトが目を見開く。


「そうなのか?」


「はい」


私は泣きながら笑った。


「二回とも、あなたの勝ちです」


「勝ち負けなのか?」


「今、決めました」


アルベルトも笑った。


それから、私の前に膝をついた。


「俺たちは、もう結婚している」


「はい」


「だから、おかしなことをしているのは分かっている」


差し出された手を見た。


三年前。


私は一度、この人の手を取った。


その日のことを、彼はもう覚えていない。


それでも。


「もう一度、俺と結婚してくれないか」


今度も同じ人が、私に手を差し出してくれた。


私はその手を取った。


「はい。喜んで」


◇


春になって、私たちはもう一度、結婚式を挙げた。


家族と親しい友人、それに屋敷の使用人たちだけの小さな式だった。


三年前の結婚式を再現したわけではない。


衣装も、花も、料理も。


すべて今の私たちが選んだ。


これは失った結婚式の代わりではない。


今のアルベルトと、今の私の結婚式だ。


誓いを交わし、指輪を交換する。


三年前にもしたはずなのに、ひどく緊張した。


式が終わると、アルベルトが笑った。


「これでようやく、君と結婚した記憶ができた」


「そうですね」


「今度は忘れない」


「お願いします」


私も笑った。


◇


式のあと、二人で庭を歩いた。


春の庭には、白いリナリアが咲いている。


アルベルトが作ってくれた花壇だ。


その前を通り過ぎ、庭の奥へ向かう。


やがて、小さな東屋が見えてきた。


三年前。


最初の結婚式の日にも、私たちはここへ来た。


あの日の私は、今よりずっとアルベルトに慣れていなくて。


二人きりになっただけで緊張していた。


でも、もういい。


あの日のことを、アルベルトが思い出さなくても。


昔のアルベルトとの思い出は、私が覚えている。


今のアルベルトとは、これから新しい思い出を作っていけばいい。


この人はもう一度、私を好きになってくれた。


もう一度、私を選んでくれた。


それだけで十分だった。


「アルベルト」


私は彼の腕を引き、少し背伸びをして口づけた。


唇が離れる。


アルベルトは何も言わなかった。


ただ、私を見つめている。


「……アルベルト?」


「ここだ」


彼が呟いた。


「ここだった」


その目が、東屋へ向く。


「君と初めてキスをしたのも、ここだった」


息が止まった。


「君が、花が綺麗だと言った」


三年前の春。


確かに私はそう言った。


「俺は、花なんて見ていなかった」


アルベルトの声が震える。


「君を見ていた」


あの日の光景が、私の中にも蘇る。


「それで、俺からキスをした」


「……はい」


「君に怒られた」


涙が滲んだのに、笑ってしまった。


「当然です。突然だったんですから」


アルベルトも笑った。


そして、その目から涙が落ちた。


「思い出した」


彼が私を見る。


「全部、思い出した」


出会った日のこと。


初めて二人で食事をした日のこと。


少しずつ話すことが増えて、いつの間にか会える日を楽しみにするようになったこと。


結婚式。


この東屋。


一緒に暮らした日々。


私が窓辺で笑っていた日のことも。


失われていた三年間が、彼の中へ戻ってきた。


「エレノア」


名前を呼ばれた。


同じ声なのに。


三年前から私を呼び続けてくれた声が、帰ってきた。


私はもう、泣いていた。


「おかえりなさい」


アルベルトが私を抱きしめる。


「ただいま」


それだけで、十分だった。


十分だったはずなのに。


しばらくして、アルベルトが私を抱いたまま呟いた。


「……困ったことになった」


「何がですか?」


「昔の俺も、君を愛していた」


「はい」


「記憶を失った俺も、君を好きになった」


「はい」


アルベルトが少し身体を離し、私を見る。


「どうやら俺は、前よりずっと君を好きになってしまったらしい」


私は泣きながら笑った。


「それは大変ですね」


「ああ。一生かけても足りないかもしれない」


「では、長生きしてください」


「ああ」


アルベルトが笑う。


「この約束は、忘れない」


「はい」


今度は彼から、私に口づけた。


私は同じ人に、二度恋をした。


そして彼も、二度、私を選んでくれた。


失ったはずの思い出まで、全部戻ってきた今。


私はきっと、世界で一番幸せな妻だ。


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