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王立諜報局・第二局分析官  作者: どみさん


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第31話 王女の名

 七月の初め、書庫。机の図には、ギルドの枠の外へ出た一本の線が引いてある。その先には、名のための場所だけがあって、名はない。


 局長が上げた、外への請求が、戻ってきた。


 先へは進んでいない。請求の紙の端に、別の役所の受付印が一つ。その下に、差し戻しの一行が添えてある。第二局の名では、ギルドの門の手前までだ。局長の名でも、上で止まる。


 ギルドの外は、別の役所の管轄になる。ギルドを監督する側へ請求を通すには、その役所の上に、名の通る者が要る。第二局には、その名がない。名を入れられるのは、もっと限られた数人だけだ。


 その名を持つ者のほうから、クロイスが呼ばれた。


 扉が叩かれた。ガロウだった。


 「俺は外まで送る。中には入れない」


 左肩を一度だけ回す。旧傷の側だ。今朝は痛んでいない。


 馬車は無紋だった。御者も無言だった。クロイスは手を膝の上で組み、袖口の縫い目に目を落とした。糸の端が、内側へ一本ほつれている。車輪の音だけが、車内に残った。


 ◇


 宮内省の客間は、前と同じ質素さだった。机と椅子の脚だけが王宮級だ。絨毯が、足音を吸い取る。


 銀髪の女が、机の前に立っていた。青い瞳。堅実な装束に、装飾はない。


 机の上に、一枚の図が広げてある。クロイスが描いた図だった。地方の四領地、三つの口座、判の席、止めの朱。そして、枠の外へ出た一本。クロイスの机にあるはずのものが、ここにあった。


 手元のものは、写しだ。クロイスの引いた線を、別の手が引き写している。局長が上へ通した紙が、ここまで渡ったということだった。


 「エレオノーラ・ヴェル・ヴァルハイム」


 クロイスは名を返した。座らない。


 女は、図の線を、端から指でなぞった。一歩の幅が揃うように、指の運びも均されている。地方の領地のあたりは、指が速い。もう知っている線をなぞる速さだ。判の席で、指が一度、遅くなった。そして、枠の外へ出た一本のところで、止まった。


 「ここから先は、ギルドの外」


 抑揚はない。


 「あなたの紙では、もう届かない。第二局の名は、ギルドの門の手前で止まる」


 「はい」


 「私の名なら、届く」


 女の指は、枠の外の、名のための場所に置かれていた。そこへ自分の名を入れる、ということだ。クロイスは、その指の位置を見た。図の上で、いちばん遠い一点に、指が乗っている。


 その一点は、書庫の机では空いたままだった。誰の名も入っていない場所に、ここでは、王女の指だけが先に置かれている。


 「紙は、通る」


 女は指を上げた。図から離す。


 「その代わり、あなたに、頼みたいことがある。ギルドの件とは、別に」


 言葉は、そこで止まった。続きは出てこない。女の視線だけが、図の上を一度、横へずれた。何を頼むのかは、言わなかった。


 別の件だ、と女は言った。だが、視線は図から離れていない。指は動かない。どの線にかかる用なのか、紙の上では決まらなかった。


 クロイスは、左手の親指で、右手の親指の側面をなぞった。ペンの胼胝のある場所だ。固いところを、一度なぞって、答えた。


 「業務上の指示として、受けます」


 女の目尻が、わずかに細くなった。


 「業務上、と」


 繰り返す声に、抑揚はない。


 「ギルドの件は、業務だ。私の名で、外へ請求を通す。それは、王家の指示として下りる」女は、机の縁に指を一度触れた。「だが、もう一つのほうは、業務の紙には載らない」


 「載らない指示は、受けません」


 「知っている」


 女は、それ以上は重ねなかった。ただ、図のいちばん遠い一点に、もう一度、目をやった。そこには、まだ名がない。女の名も、頼みの中身も、その一点には乗っていなかった。王女の名を入れれば、請求は門の先へ通る。だが、その名と一緒に、何が乗ってくるのかは、まだ、机の上に出ていなかった。


 「あなたは、紙に出ないものは、扱わない」


 「紙に出たものだけ、扱えます」


 女は、小さく息を吐いた。咎める色はない。机の上の図を、こちらへ一度だけ押し出した。返す、という所作だった。


 クロイスは、図を受け取った。女の指がなぞった線の上に、跡は残っていない。なぞられても、線は動かなかった。動いたのは、王女のほうだ。一枚の図が、王女を、宮内省のこの机まで来させていた。


 ◇


 書庫に戻った。地下へ降りる階段は、三十六段。一段ごとに、紙とインクの匂いが濃くなる。


 机の上は、出たままだった。押収帳簿の角、指示書の束、ペン。誰も触っていない。ただ、図の脇に、一枚増えていた。


 王女の名の入った紙だ。外への請求に、王家の名を添える許しの一枚。これがあれば、ギルドの門の先へ、紙が通る。


 机の端に、白湯の椀があった。ヴィオラが置いたものだ。クロイスは、一口だけ飲んだ。


 これまで机に積んできたのは、みな、ギルドに出させた紙だった。閲覧の控え、口座の記録、人事の起案。どれも、ギルドの中の紙だ。


 その上に、いま、別の紙が一枚のっている。王女の名の入った紙。ギルドの紙ではない。ギルドの門の、その先へ届く紙だ。


 この一枚があれば、請求は門の先へ通る。


 だが、この一枚には、女が頼みたいと言った用が、まだ乗っていない。


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