勇者はいなかった。魔王はいたけれど。
確かなのはこの世界に勇者はいなかった。
魔王は居たけれど。
その魔王は恐ろしい者だった。
なにせ、討伐に名乗りを上げた英雄たちは皆が凄惨な最期を遂げた上、彼らを徹底的に侮辱するためその骸さえも晒された。
かと言って立ち向かわなければ安全かと言うとそうでもない。
魔王は気まぐれに王城から出ると村へやって来て戯れに命を奪う。
特に逃げ惑う者の命を奪うのが好きだったようで、甚だしい時にはあえて逃がす素振りをした後にあっさりと命を奪うこともあったという。
やがて、英雄たちも、討伐隊も、魔王に歯向かうのはやめた。
精一杯の自衛と、魔王の気配を察知してすぐに逃れることが出来る能力。
それこそが英雄に求められる資質となる時代が随分と長く続いた。
――そんな時代が数百年続いた。
そんなある日、魔王の行動に奇妙な行動が出るようになった。
自身で命じた事を忘れたり、既に粛清した者の名前を呼んだりするようになった事から始まり、それらの事を指摘した配下の者に腹を立て当たり散らすようになった。
魔王は些細なことで怒り狂うようになり、かと思えば不意に静まり泣き出すようになったり、あるいは一日中時を忘れたように王城を徘徊することが増えた。
やがて、魔王は一線を越えた。
「母がいない」
そう呟いたのを皮切りに、奇妙な事を口にする。
「家がない」
「父がいない」
「ここがどこか分からない」
「家に戻りたい」
魔王はいつしか自身の恐ろしさを忘れたかのように、あるいはもっと大切なものがあるかのように、目的地を求めて口にしながら同じ道をぐるぐると歩き出すようになった。
――そのような事をしても目的地にたどり着くはずもないのに。
「家に戻りたい」
そう呟きながら。
魔王は今日も自身の好む残虐な行為を忘れて歩き続ける。
かの者の統治が千年を超えたようとしていた頃に起きた話だ。
*
世界から魔王はいつの間にか消えていた。
現代では魔王の実在を示す逸話や伝説、時には資料すら残っているのに人々はあまりにも荒唐無稽な実力から魔王などいるはずもないと思いながら生きている。
だが。
「認知症にだけはなりたくない」
魔王が患っていたと後年伝えられる病のことだけは知られている。
克明に。




