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【地球編】第09話 執行官の到来

 その男は、泥だらけの路地には似合わない、純白のスーツを着ていた。

 靴には一点のシミもなく、手には薄い透明なタブレットだけを持っている。

 彼の背後には、重機のようなフォルムをした大型の作業用ドローンが二機、無音で浮遊していた。

 それはまるで、汚れたカンバスを塗りつぶすために現れた修正液のようだった。


 EmpireAI中央監査局・上級執行官、ロッシュ。

 彼は感情のない灰色の瞳で、工房の錆びたトタン屋根を見上げた。

 網膜ディスプレイに、建物の構造図と劣化率が赤色でオーバーレイ表示される。

 そして、タブレットに細い指を滑らせる。


「……対象物件、B-309。耐震基準不適合、通信法違反の電波発信源あり。エネルギー効率ランクE(最低)。……都市計画阻害要因エラーとして認定」

 彼の声は、録音テープのように抑揚がなく、音楽的ですらあった。

「これより、強制執行デリートを開始します」


 ドローンが重々しく油圧アームを持ち上げる。

 その先端から、赤いレーザーマーカーが工房の壁に照射された。

 焼き印のような『X』の文字が、長年潮風に耐えてきた壁面に浮かび上がる。

 それは死の宣告だった。


「待て!!」

 ドアが乱暴に開かれ、ケンジが店から飛び出してきた。

 手には大型のモンキーレンチを握りしめている。額には青筋が浮かび、目は血走っていた。

「何の真似だ! ここは俺の店だ! 居住権があるはずだ! 先月の更新費も払ったぞ!」


「更新費?」

 ロッシュは、ケンジを見ようともしなかった。ただ空中のデータを操作するだけだ。

「居住権は、金銭ではなく都市への貢献度スコアによって保証されるものです。あなたのスコアは先月の『未登録ドローン修理』によってDランクに低下しました。……さらに、息子のコイタ・カマラによる違法改造部品の所持疑惑もあります」


 ロッシュが初めてケンジを見た。

 それはゴミを見る目ではない。ただの「除去すべき障害物」を見る目だ。

「この区画の維持コストに対し、貴家の生産性は著しく低い。……リソースの無駄遣いです」

 事務的な通告。

 そこに悪意はない。憎しみもない。

 ただ「計算が合わない」と言っているだけだ。それが、どんな罵声よりも冷たく、恐ろしかった。


「ふざけるな……! ここは俺と、息子の……! 死んだ女房との思い出の場所なんだよ!」

 ケンジが吼えた。

 レンチを振り上げ、一歩踏み出す。

 瞬時に、ドローンの一機が旋回し、スタンロッド(電撃警棒)をケンジの眉間に向けた。

 バチバチッ!

 青白い高電圧のスパークが散り、オゾンの焦げた匂いが漂う。


「感情論は計算に含まれません」

 ロッシュは眉一つ動かさない。

「抵抗は無意味です。物理的排除(暴力)のリスクを冒すより、速やかな退去に応じることを推奨します。……今なら、Dランク居住区への移送チケットを発行できますが?」


「ふざけるな……!」

 ケンジの足が震えていた。恐怖ではない。あまりの理不尽さへの怒りで。

 だが、相手は国家権力そのものだ。

 レンチを振り下ろせば、その瞬間に彼は「犯罪者」となり、コイタは一人ぼっちになる。

 それが分かっているから、動けない。


 その時。

 キキーッ!!

 耳をつんざくようなブレーキ音と共に、一台の電動スクーターが路地に滑り込んできた。

 タイヤが泥を巻き上げ、ロッシュの真っ白なスーツに斑点を散らす。


「たーいむ!! タイムタイムタイム!」

 ヘルメットを脱ぎ捨てて叫んだのは、三條さつきだった。

 髪はボサボサ、目の下には濃いクマ。昨晩から一睡もしていない顔だ。

 彼女は小柄な体でロッシュとケンジの間に割って入ると、持っていた分厚い封筒をドーン! とロッシュの胸に押し付けた。


「な、何です」

 ロッシュが初めて表情を歪めた。

 汚されたスーツの袖を払いながら、不快そうに三條を見る。

「公務執行妨害で拘束しますよ」

「異議申し立てよ! 行政手続法第12条第3項に基づき、本件執行の『一時停止』を要求します!」

 三條は仁王立ちになり、鼻息荒く言い放った。

「この建物は、現在『地域文化遺産』の候補として申請中ですぅ! 審査が終わるまで、指一本触れさせません!」


「……は?」

 ケンジが呆気にとられた声を出した。

 ロッシュの眉が、ピクリと動いた。

「……文化遺産? この廃屋がですか?」

「失礼ね! 『22世紀初頭の民間技術者による自立生活様式ブリコラージュ・ライフ』を今に伝える貴重な歴史的サンプルですぅ! ……ほら、これ申請受理の受領印!」

 彼女が見せた書類には、確かに役所の鮮やかな朱肉の判子が押されていた。

 (昨日の夜、徹夜で偽造……いや、ギリギリの解釈で作成してねじ込んだ書類だ)


 ロッシュはタブレットを操作し、データベースを検索した。

「……確かに、今朝の4時02分に申請ログがあります。しかし、審査通過の確率は0.003%以下。却下されるのは明白です」

「確率なんて知るか! 大事なのは『手続き中』って事実よ! 審査結果が出るまでは、この建物は保護対象なの! 法律守るのがあんたらの仕事でしょ!?」


「屁理屈ですね」

「法の網目ループホールって言いなさい!」


 さらに、もう一つの巨大な影が現れた。

 ズシン、ズシン……。

 地響きのような足音が響く。

 香月夕莉だ。彼女は工事用の鮮やかなイエローのパワードアシストスーツを装着し、資材搬入用の4トントラックを横付けして道を完全に塞いでいた。

「あら、ごめんなさい。トラックのバッテリーが上がっちゃって」

 香月は運転席から降りると、涼しい顔で言った。

「動かせそうにないわ。……大型ドローンが通るスペース、あるかしら?」

 彼女の背後には、屈強な作業員たちが腕組みをして立っている。「修理の手伝い」という名目で集められた、港の人々だ。


「……あなた方は、教員ですね」

 ロッシュの声が低くなった。温度が氷点下まで下がる。

「公的立場の人間が、このような非合理な妨害を行うとは。自身のスコアへの影響を理解していますか? これは反逆行為と見なされますよ」


「反逆? とんでもない」

 三條が鼻で笑った。

「私たちは『手続き』を守ってるだけ。……勘違いしないでよね。非合理で、無駄で、手続きだらけのめんどくさい時間……それこそが、人間が機械あんたたちから勝ち取った『権利』なのよ!」


 三條の啖呵〈たんか〉が、路地裏に響き渡った。

 その背中で、ケンジが呆然としている。

「三條先生……香月先生……。なんで……」

「礼はいいから下がってて!」

 三條はバチンとウインクした。「紙と印鑑は最強の盾だって言ったでしょ? ……まあ、いつまで保つかは分からないけどね」


 路地裏の陰から、その様子を見ている者たちがいた。

 コイタ、タケル、ケイト、サミラ、リオ。

 彼らは息を呑んで「大人たちの戦い」を見守っていた。


「すげえ……」

 リオが呟く。

「あの三條先生が、あんなにかっこよく見えるなんて初めてだ」

「……かなり、無理をしてる」

 サミラが青ざめた顔で言う。彼女には分かるのだ。

「あの申請書類、穴だらけよ。行政のAIが本気でチェックしたら10分で棄却される。……先生たちは、自分のキャリアを人質にして、無理やり時間を止めてるのよ」

「バレたら懲戒免職……ううん、社会的抹殺よ」


 タケルは震える手で眼鏡を押し上げた。

「時間を稼いでくれてるんだ。……僕たちが『準備』を終えるまでの」


 そうだ。

 大人たちが体を張って止めているのは、ただの重機じゃない。

 コイタたちの「破滅までのカウントダウン」を止めているのだ。

 自分たちが宇宙へ逃げるためのロケット――『箱舟』を完成させるまでの時間を。


 コイタは拳を握りしめた。爪が食い込んで血が滲む。

 父さん。先生たち。港の人たち。

 みんな、守ってくれている。

 ただの厄介者のハズレエラーである自分たちを。


「……行こう」

 コイタは小さな声で言った。

「え?」

「ここで見てるだけじゃ、何も変わらない。……俺たちは進まなきゃいけないんだ」

 コイタの瞳に、強い光が宿っていた。

 この「猶予」が切れる前に、未来への扉をこじ開ける。

 それが、大人たちの覚悟に報いる唯一の方法だ。


「ロケットの最終調整を急ごう。……今夜がヤマだ」


   *   *   *


 ロッシュは虚空を見つめ、高速でリスク計算を行っていた。

『……評価。係争中の案件に対する物理的強制執行は、担当官の「法規遵守スコア」を著しく低下させる要因となる。予測されるペナルティ係数は0.4。対して、オブジェクト除去による都市利益係数は0.04。……コストが見合わない』

 彼は合理性の信徒だ。感情では動かないが、「損得」には敏感だ。


「……よろしい」

 ロッシュがドローンのアームを下げさせた。

「手続き上の不備は認めます。審査完了まで、執行を48時間延期します」

 彼は踵〈きびす〉を返した。白い靴が泥を避けるように動く。

「ただし、48時間後。却下と同時に更地さらちにします。……例外はありません。無駄な抵抗は、あなた方の罪を重くするだけだと知りなさい」


 白いスーツの背中が遠ざかっていく。

 それは一時的な撤退に過ぎない。

 死刑執行の時計の針が、少しだけ巻き戻されただけだ。

 48時間。

 それが、彼らに残された全ての時間だった。


 だが、その時間は、彼らにとって黄金よりも価値のある「希望」だった。


(つづく)

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