【地球編】第07話 忍び寄る影
その日の朝、港町には異様な空気が張り詰めていた。
不気味なほど静まり返り、海鳥の声もしない。湿った空気が、鉛のように重く垂れ込めている。まるで世界が息を止めているような、嵐の前の静けさだった。
コイタは作業台で、Rabbitの脚部パーツ(着陸用のショックアブソーバー)の研磨をしていた。
金属を磨くシュリシュリという音だけが、工房に響く。
だが、不意に背筋を這い上がる悪寒を感じて、手を止めた。
空気が、振動している。
耳には聞こえないほどの低周波。超音波洗浄機の前に立った時のような、胃の腑が共振して吐き気を催す感覚だ。
陳列棚の上のナットが、カタカタと小さく震え始めた。
「……なんだ?」
コイタが顔を上げた瞬間。
「来るぞ!」
バンッ! と引き戸が開き、ケンジが工房に飛び込んできた。
いつもは冷静な父の顔色が、紙のように白い。
「とびきりデカいのが来る。……『黒い目』だ!」
「え? 黒い、目……?」
「説明してる暇はない! 今すぐRabbitの電源を落とせ! スリープじゃない、完全シャットダウンだ! バッテリーも抜け!」
父のただならぬ剣幕に押され、コイタは作業台の下に潜り込んだ。
Rabbitの背面パネルをこじ開ける指が震える。
『警告。強制シャットダウンはシステムログにクリティカルな障害を……』
「ごめん、寝ててくれ! 見つかったら終わりなんだ!」
コイタは叫びながら、コネクタを引き抜いた。
プシュン、という音と共に青い瞳がフッと消え、Rabbitはただの冷たい白い球体に戻った。
直後。
工房の窓際が、急激に暗くなった。
雲が太陽を覆ったのではない。
巨大な質量が、空を、光を、希望を遮ったのだ。
ブゥゥゥン……!!
腹に響く重低音と共に、窓の外に漆黒の影が浮かび上がった。
帝国監査局の特務自律型ドローン『ブラック・アイ』。
直径2メートルはある巨大な円盤状のボディは、光を吸い込むようなマットブラック塗装が施されている。その中央で、深紅の巨大な真円のカメラアイが、充血した眼球のようにギョロギョロと回転していた。
いつもの白い巡回ドローンとは次元が違う。あれは治安維持のためではなく、「狩る」ために作られた処刑機械だ。
『対象区域スキャン開始。……未登録の違法電波源を捜索中』
あまりにも巨大な合成音声。
壁が震え、窓ガラスがビリビリと悲鳴を上げる。テーブルの上の工具が、ひとりでに踊りだす。
赤いレーザーグリッドが部屋の中に照射された。
無数の赤い網目が、床を、壁を、あちこちに散らばるガラクタを舐めるように走査していく。その光景は、獲物を狙う蜘蛛の巣のようだった。
ケンジは扉を開け放ち、仁王立ちになった。
両足を大きく開き、自身の体で工房の中を隠そうとする。
「何か用か。ここは登録済みの修理工場だ。作業の邪魔だぞ」
声は努めて冷静だが、背中で握りしめた拳には血管が浮き上がり、爪が肉に食い込んでいた。
ドローンの巨大な眼球が、ゆっくりとケンジに向けられた。
フォーカスを合わせる駆動音が、カシャリカシャリと響く。
『……個体識別。ケンジ・カマラ。元NPO職員、現Dランク技術者。……室内に、微弱な残留磁気を検知。AIコアの高出力稼働痕跡と推測されます』
ドローンは感情のない声で告げた。
『所持品の提示を要求します。拒否する場合は、治安維持法第9条およびテロ対策特別措置法に基づき、即時の実力行使による強制検索を行います』
アームが展開し、先端のスタンロッド(高電圧スタンガン)がバチバチと青白い火花を散らす。
まずい。
入られたら終わりだ。床下の隠し場所なんて、ミリ波スキャンを使われれば一発でバレる。
コイタは作業台の下で息を殺し、ポケットの中の通信端末を握りしめた。
脂汗が目に入って痛い。
(タケル、ケイト……頼む! 間に合ってくれ!)
* * *
「合図が来た! ブラック・アイが現れたって!」
管理都市の第一情報工学棟。
その長い廊下の陰で、ケイトが携帯端末を見て叫んだ。
彼女の声は廊下に反響するが、幸い、授業中のため人影はない。
その先にあるサーバー室の前で、タケルは重い防音扉にへばりついていた。
携帯端末から伸びるケーブルを、セキュリティパネルのメンテナンスポートに直結している。
額には玉のような汗が浮かんでいた。
彼らは偶然ここにいたわけではない。
昨日の「決起」を受け、タケルたちは早速行動を開始していた。アークシップ乗っ取り計画の第一歩として、学校のメインサーバーにバックドア(裏口)を仕掛け、外部からアクセスできる経路を確保しようとしていたのだ。
だが、その最中にコイタからのSOSが入った。
「くそっ、タイミングが悪すぎる!」
タケルが焦燥の声を上げる。指先がキーボードの上で踊るが、プログレスバーは遅々として進まない。
「まだバックドアを構築中だぞ。侵入痕跡を消す処理も終わってない。今見つかったら、こっちまで退学どころか……」
「自分の心配してる場合!? コイタ君が見つかったら、Rabbitも没収されて、全部終わりでしょ!」
ケイトがタケルの肩を叩いた。
「やるのよ、プランB! 派手にぶち上げて、あのドローンの目をこっちに向けさせるの!」
「……わかってるよ!」
タケルは覚悟を決め、構築中のステルスプログラムを破棄した。
代わりに呼び出したのは、昨夜、暇つぶしに書いておいた禁断のコード。サーバーの論理回路を焼き切るための特製ウイルスだ。
「『自己言及パラドックス(ロジック・ボム)』だ!」
タケルはメインサーバーのタスクスケジューラーに、『この命令文は偽である。もし真ならば偽とせよ』という無限ループ処理を最高優先度で強制注入する。
0と1の判断がつかない矛盾した命令が、1クロックごとに倍々ゲームで増殖していく。
数兆回の計算エラーが、一瞬にしてCPUを熱暴走させる。
タケルは震える指で、エンターキーを叩き込んだ。
「……食らえ!」
直後。
ズゥゥゥゥン……!!
サーバー室の中から、地鳴りのような振動が伝わってきた。
巨大な冷却ファンが悲鳴を上げ、全力回転を始める音だ。ジェット機の離陸時のような轟音が廊下を揺らす。
排気口から、蜃気楼のような熱風が吹き出した。
パパパパッ!
廊下の全ての警告灯が赤く点滅し始めた。
けたたましいサイレンが鳴り響く。
【警告:中央サーバー温度上昇。臨界点突破。冷却システム応答なし。緊急事態宣言。EmpireAIの直接介入を求めます】
EmpireAIの行動原理はシンプルだ。
「辺境の不審物」より、「中枢システムの保護」が絶対優先される。
都市の機能維持こそが、彼らにとっての至上命題なのだから。
* * *
『……優先指令受信。重要施設キーステーションにて障害発生。これより支援に向かう』
ブラック・アイの赤い目が、フッと明滅した。
殺意の籠もった視線が、ケンジから外れる。
次の瞬間、ドローンは凄まじい風圧を残して急上昇し、管理都市の方角へと矢のように飛び去っていった。
ガシャーン!
衝撃波で、工房の窓ガラスが一枚割れて散らばった。
だが、それだけだった。
「…………」
コイタは全身の力が抜け、その場にへたり込んだ。
心臓が痛いほど早鐘を打っている。酸素が足りなくて、肺が喘いだ。
助かった。
本当に、助かったんだ。首の皮一枚で。
「……おい」
ケンジが低い声で呼んだ。
彼は割れたガラス片を踏み越えて、コイタの元へ歩み寄った。
その背中はまだ震えていた。
「見たか。あれが帝国だ。……奴らは本気だ。Rabbitがいる限り、この家には時限爆弾があるのと同じだ」
その声には、怒りよりも深い恐怖が滲んでいた。かつて母さんを失った時と同じ、無力感と絶望。
「でも……助かったよ」
コイタは顔を上げた。
膝の震えを抑えながら、父の目を見る。
「仲間が助けてくれたんだ。俺一人じゃ無理だった。父さん一人でも、きっと無理だった」
「仲間だと?」
「学校の……友達が。あっちで騒ぎを起こして、ドローンを引きつけてくれたんだ」
ケンジは目を見開いた。
息子の口から「友達」という言葉が出たこと。
そして、その「友達」が、自分の身を危険に晒してまで、スラムの屑鉄屋を助けたこと。
管理都市の人間が、そんな馬鹿げたリスクを冒すとは信じられなかった。
だが、事実は目の前にある。
ドローンは去り、息子は生きている。
かつて自分が孤独に戦い、そして守れなかったものを、息子は仲間と共に守ろうとしているのだ。
ケンジの険しい表情が、ふっと崩れた。
彼はため息をつき、大きな掌〈てのひら〉をコイタの頭に乗せた。
油と泥の匂いがする、ゴツゴツとした温かい手だった。
「……いいチームだな」
ぶっきらぼうに呟いて、ケンジは乱暴に頭を撫でた。
痛いほど強く、でも不思議と心地よかった。
「だが、次はもっとうまく隠せ。……俺も手伝う。床下の遮蔽シールド、鉛の厚さを今の倍にしてやる」
コイタは驚いて父を見上げた。
父さんが、初めて「共犯」になってくれた。
「捨てろ」でも「諦めろ」でもなく、「隠せ」と言った。
それは、コイタの冒険を――危険な綱渡りを、黙認するというサインだった。
まだ完全に認めてくれたわけじゃないかもしれない。
でも、恐怖の中で、確かな親子の絆が、そして未来への共犯関係が生まれた気がした。
コイタは涙をこらえ、ニカっと笑ってみせた。
「うん! 頼むよ、父さん!」
(つづく)




