【地球編】第05話 奇妙な協力者
放課後の第一情報工学実習室には、独特の静寂と、微かなオゾンの匂いが漂っていた。
空調はEmpireAIによって完璧に制御されている。室温24.0度、湿度45.0%。カビ一つ、埃一つ存在しない完全な「白」の世界。
この完璧さが、タケル・フカガワには息苦しかった。
彼は自分の席で、スペクトラム・アナライザ(周波数解析装置)のホログラム・ディスプレイを睨〈にら〉みつけていた。
細長い指が、空中に浮かぶキーボードを叩く。プロ並みのタイピング速度だが、その表情には焦りと微かな苛立ちが滲んでいる。
「……やっぱり、ノイズじゃない」
タケルは無意識に黒縁眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
画面に映る波形は、カオス理論のグラフのように不規則に乱れている。だが、その乱雑さの中に、ある一定の「リズム」が隠されていた。
「この信号波形、B/Sゾーン(貧民街周辺)から出てる。暗号化パターンがEmpireAIの正規プロトコルじゃない。……古いアナログ変調に、独自の圧縮アルゴリズムを噛ませてるのか?」
『JM-034』。
それが信号の発信源IDだった。
データベースによれば、廃棄処分待ちの旧式レール端末のものだ。通常ならスクラップになっているはずの鉄屑が、なぜか最新鋭の軍用回線すら凌駕するスループット(通信効率)を叩き出している。
理論値を20%も上回るオーバークロック。
これはバグではない。
誰かが意図的に、マニュアルを無視して「限界を超えさせた」のだ。
「……コイタ・カマラ」
数日前、この実習室で会った同級生の顔が脳裏に浮かんだ。
手製のポンコツロボット『Rabbit』を持ち歩く、油汚れのついた作業着の少年。
授業では教師の言うことを聞かずに居眠りばかりしているが、実技の時間に見せる手際だけは異常だった。
彼なら、やりかねない。
「タケルー、まだやってんの?」
自動ドアが滑らかな音を立てて開き、能天気な声が空気を揺らした。
リオだ。キャップを後ろ被りにした、ガタイのいい同級生。開いた襟元から、最新型のウェアラブル端末が光っているのが見える。
「ケイトたちが駅前の新しくできたカフェ行くってよ。サミラも『脳への糖分補給が効率低下を防ぐ』とか言って行く気満々だぜ」
「……僕はパスだ。確認したいことがある」
タケルは視線を画面から外さずに答えた。
「確認? また変なバグ見つけたのかよ。お前、ほんと好きだよな、そういうの」
リオは呆れたように肩をすくめ、ガムを噛みながら言った。
「あーあ、優等生サマは大変だねえ。じゃ、先に行ってるぜ」
足音が遠ざかると、タケルは深く息を吐いた。
バグじゃない、と言おうとして飲み込んだ。
彼らには分からないだろう。
この完璧に管理された世界で、「想定外」のものを見つける喜びが。
教科書通りのコードしか書けない優等生たちの中で、この『JM-034』のコードは、泥だらけの野良犬のように奔放で、そして美しかった。
タケルはノートPCを閉じ、慎重に革製のバッグに放り込んだ。
「……現地調査に行くか」
心臓が早鐘を打っていた。
これは、初めての冒険だ。
* * *
ゲートをくぐり、B/Sゾーンに入った瞬間、空気が重くなった。
湿気。機械油のツンとする匂い。何かの香辛料と排気ガスが混ざり合った独特の悪臭。
管理都市の無菌室育ちであるタケルは、思わずハンカチで口元を覆った。
「うげっ……最悪だ」
足元を見る。磨き上げた革靴が、得体の知れない泥にまみれていた。
道は舗装されておらず、あちこちに水たまりがある。
上空には電線が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、違法建築されたバラック小屋が歪に積み重なっている。
タケルは携帯端末のコンパスを見ながら、迷路のような路地を進んだ。
GPSの信号が乱れる。建物が無秩序に増築され、電波を遮っているのだ。
すれ違う人々は、皆疲れた顔をしている。だが、その目は鋭く、異物であるタケルを値踏みするように見つめていた。
怖い。
正直、今すぐ引き返してシャワーを浴びたい。
だが、端末のビーコン音が高まるにつれ、恐怖よりも好奇心が勝った。
「……ここだ」
信号の発信源は、錆びついた巨大な貯水タンクの裏手だった。
夕陽すら差し込まない薄暗い袋小路。
換気扇の回る音だけが響くその場所に、見覚えのあるデザートイエローの背中があった。
コイタだ。
地面に直接座り込み、腰の工具袋から道具を取り出して、何かを必死にいじっている。
その背中は、世界から切り離されたように集中していた。
「……やっぱり、お前か」
タケルが声をかけると、コイタはビクリと肩を跳ねさせ、驚いて振り返った。
その手には、完全に外装を剥がれた古い通信端末と、奇妙な形にねじ曲げられた銅線のアンテナが握られていた。
「タケル!?」
コイタは目を丸くした。黒い瞳が動揺に揺れる。
そしてすぐに、慌てて端末を背中に隠そうとする。
「な、なんでこんな所に……? ていうか、何しに来たんだよ!」
「その信号、拾ったんだよ」
タケルはわざと冷静に、呆れたような口調を作った。
「『JM-034』のログだよ。お前、信号の遅延を削るために、OSのセキュリティレイヤーを全部バイパスしただろ? ……あんな無茶苦茶なコード書くの、お前くらいしかいない」
コイタは観念したように肩を落とした。
「……バレてたか」
彼は端末を前に出し、苦笑いした。
「さすが優等生。耳がいいな」
「当たり前だ。学校のサーバー管理者権限を持ってるんだぞ、僕は。……でも、安心していい。通報しに来たんじゃない」
タケルはポケットからハンカチを取り出し、汚れた地面に躊躇なく膝をついた。
革靴が泥に沈むのも構わない。
今は、その手の中にある「魔法」を見てみたかった。
「見せてくれ。その『実物』を」
コイタはおずおずと端末を差し出した。
「……電圧が不安定なんだ。こっちは送電が安定しないから、正規のドライバだと電圧低下でリセットがかかっちゃう。だから、直結して強制駆動させてる」
「強制駆動? そんなことしたらコンデンサが爆発するぞ」
「だから、これさ」
コイタが指差した先を見て、タケルは絶句した。
「……マジかよ。ヒューズの代わりに髪の毛ほどの細さの銅線? これで過電流を逃がしてるのか?」
「抵抗値を計算して、0.05秒の過負荷なら耐えられるようにした。それ以上なら焼き切れて回路を守る。……まあ、原始的な安全装置だよ」
「0.05秒……アナログなヒューズか」
タケルは思わず唸〈うな〉った。
教科書には『絶対禁止』と書かれている手法だ。リスクが高すぎる。
だが、資源のないこの場所では、これが最も合理的で、なおかつ美しい解決策だった。
理論で武装した自分には決して思いつかない、現場の発想。
「……お前、やっぱり面白いな」
タケルの口元から、自然と笑みがこぼれた。
コイタも、少し照れくさそうに鼻の下をこすった。
「ま、動けば官軍ってね」
その時。
頭上から、不気味な低音が響いてきた。
ブゥゥゥン……。
二人は同時に空を見上げた。狭い路地の隙間を、赤い光が舐めるように横切っていく。
「やばっ……ドローンだ!」
コイタが顔色を変えて身を固くした。
帝国の自律警備ドローン。違法電波を検知して巡回に来たのだ。
違法改造端末の所持が見つかれば、停学どころか、反逆罪で収容所送りもあり得る。
「……逃げるぞ!」
タケルは咄嗟にコイタの腕を引いた。
「どっちだよ! あっちも行き止まりだぞ!」
「こっちだ、このタンクの裏に隙間がある!」
タケルは泥に足を取られながらも、コイタを貯水タンクの裏の狭いスペースに押し込んだ。
湿ったコンクリートと鉄錆の匂いが充満する空間。
二人は息を殺し、体を密着させて身を潜めた。
ヒュン、ヒュン……。
ドローンのサーチライトが、路地を青白く照らす。
光の束が、彼らの足元数センチを通過していく。
タケルの心臓が胸郭を叩く音が、自分でも分かるほどうるさかった。
怖い。
足が震える。
でも、同時に背筋がゾクゾクするような高揚感があった。
これが、生きているということか。
安全な教室で、シミュレーターのパラメータをいじっている時には決して味わえない感覚。
数分後。
ドローンの駆動音が遠ざかると、二人は同時に安堵の息を吐き出し、へなへなと座り込んだ。
顔を見合わせる。
お互い、泥だらけで酷い顔だ。
「……ぷっ」
先に吹き出したのはコイタだった。
「なんだよその顔、優等生が台無しだぞ」
「お前だって……。鼻の下、ススで真っ黒だ」
タケルもつられて笑った。腹の底から笑ったのは、久しぶりだった。
「……助かった。サンキュ、タケル」
コイタが手を差し出した。
「お前がいなきゃ、今頃ブタ箱だった」
「礼には及ばないさ」
タケルはその手をしっかりと握り返した。ザラザラとした、職人の手だった。
「優秀な観察対象を失いたくなかっただけだ。……それに、借りなら返してもらうぞ」
「借り?」
「ああ。その端末のプログラム、もっと効率化できるはずだ。僕なら、その銅線の耐久時間を0.08秒まで伸ばせるコードが書ける」
タケルは眼鏡を直し、ニヤリと笑った。
「次に会う時までに組んでくる。……実験台になれよ、コイタ」
コイタは瞬きして、それから嬉しそうにニカっと笑った。
「望むところだ。……頼むぜ、相棒」
二人は夕暮れの路地裏で、泥だらけの端末を囲んで話し始めた。
それは、ただのクラスメイトが、秘密を共有する「共犯者」へと変わる瞬間だった。
その様子を、コイタのリュックの隙間から、Rabbitのカメラアイが静かに捉えていた。
『……接触者、タケル・フカガワ。関係性更新。「クラスメイト」から「技術的協力者」へ。……信頼度レベル、上昇』
小さなアンテナが、誰にも気づかれないようにピコっと動いた。
運命の歯車が、錆びついた音を立てて確かに回り始めた。
(つづく)




