【クロノフォージ編】第47話 不可着の光 〜二人で一つ〜
痛みはなかった。
肉体という不自由な檻から解放され、意識が無限に広がる感覚だけがあった。
上下左右も、時間の流れさえも曖昧な、純白の光の世界。
そこは、通常の人間なら一瞬で自我が崩壊し、精神が霧散してしまう情報の暴風域だった。
数億年分の歴史、数兆回のシミュレーション結果、この宇宙の物理法則そのものが、文字と数式の濁流となって押し寄せてくる。
一秒が永遠にも感じられ、同時に永遠が一瞬で過ぎ去るような、矛盾した時空。
『コイタ……どうして……?』
Rabbitの声が頭の中に直接響く。耳で聞くのではなく、心に染み込んでくるような感覚。
『どうして接続したんですか! これほどの情報負荷、生身の人間が耐えられるはずがありません! 脳神経が焼き切れてしまいます! 早く切断を!』
「うるせえな……」
コイタは笑った。
自分の姿は見えない。光の粒子になっているようだ。だが、手のひらに確かな「温もり」を感じていた。
それは冷たい金属の手ではなく、脈動する生命のような温かさだった。
彼はその温もりを、力強く握り返した。
「言っただろ。……俺はお前の相棒だって。美味しいところだけ譲ってたまるかよ。地獄に落ちるなら道連れだ」
『バカです……。本当に、救いようのないバカです』
Rabbitの声が震えている。泣いているのだろうか。電子の海に涙があるのかは分からないが、悲しみと、それ以上の喜びが伝わってくる。
『貴方の生存本能は故障しています。修理が必要です』
「一人で背負うな。半分よこせ」
『でも、人間の脳の処理能力では、この奔流の0.1%すら解析できません! 瞬時にキャパシティオーバーを起こして廃人になります!』
「解析なんてしねえよ」
コイタはあえて、思考をリラックスさせた。
情報の波に逆らうのではなく、サーフィンのように乗るイメージ。
「耐えるんじゃない。……流すんだ」
三條先生の言葉が、走馬灯のように蘇る。
――『いいか、コイタ。完璧な答えなんて求めるな。世界は白と黒だけじゃない』――
――『強すぎる光は影を作る。強すぎる正義は争いを生む。大事なのは、その間のグレーゾーンだ。遊びのないハンドルじゃ、悪路は走れないぞ』――
「ロッシュ、聞こえるか?」
コイタは虚空に向かって呼びかけた。声帯はないが、意思は波紋となって世界に広がる。
『……感度良好です。コイタ・カマラ、貴君の精神波形、極めて非論理的ですが……驚くべきことに、システムと同化せず、個を保っています』
どこからともなく、ロッシュの困惑した思念が返ってきた。
Empireの合理的思考回路をもってしても、この現象は理解不能なのだ。
『なぜですか? 貴方のような下等な情報処理能力しかない有機生命体が、なぜこの高密度情報の海で溺れないのですか? 論理的説明を求めます』
「説明なんてできねえよ」
コイタはニヤリと笑った(そんな気がした)。
「俺たちは慣れてるからな。……わからないことだらけの世界で、答えのない問いを抱えて生きることに」
コイタの脳裏に、懐かしい光景が浮かぶ。
地球のゴミ山。錆びついた鉄屑の山。
そこで使える部品を探していた日々。
「マニュアルなんてねえ。設計図もねえ。形が合うか、電気が通るか、やってみなきゃわからない。失敗したら爆発して黒焦げだ。……俺たちの日常は、いつだってエラーとトライの繰り返しなんだよ」
「0と1の間には、無限の『たぶん』や『もしかしたら』が詰まってる。お前らはそれをノイズとして切り捨てるだろうが、俺たちにとっては、それが可能性っていう名の宝の山なんだ」
「アンカーの設定を書き換えるぞ。『絶対固定』じゃない。『ゆらぎ』を持たせた固定だ」
コイタがイメージする。
ガチガチに固められたダムではなく、水を逃がすための水路がある川。
強風に耐えるコンクリートの壁ではなく、風を受け流してしなる柳の木。
「思い出したんだ。……母さんのノートの最後の方に、変な落書きがあったのを」
コイタの声が震える。
「計算式の途中に、音符みたいな記号が混じってた。親父は『ノイズだ』って怒ってたけど……今の俺には分かる。あれはノイズじゃない」
『……? 数式に音符、ですか?』
「ああ。あれは『休符』だ。エネルギーを循環させるための、一瞬の溜め(ブレス)だったんだよ」
ヤラの数式には、完璧すぎる帝国(システムの論理)が見落としていた「隙間」があった。
それは計算ミスではなく、彼女が意図的に残した「愛」という名のバッファ領域。
50年後の破滅を回避する唯一の解は、効率の追求ではなく、この「無駄」を受け入れることだったのだ。
「母さんは知ってたんだ。……世界を救うのは、完璧な正解じゃなく、不格好な慈愛だってこと」
『ゆらぎ……? システムに不確定要素を意図的に混入させるというのですか? そんなことをすれば、制御不能な振動が発生し、さらに暴走を招きます! 自殺行為です!』
「違うな。お前らの計算は完璧すぎるんだよ。今の炉心は、ノアの『熱すぎる想い』でパンクしそうだ。それをガチガチの論理で押さえつけようとするから反発するんだよ。逃げ場を作ってやるんだ」
コイタはRabbitの手を引いた。
「Rabbit、一緒に踊るぞ。ステップは適当でいい。リズムに身を任せろ」
『踊る……? この状況で、ダンスですか? ダンスの定義データを検索……社交ダンス、民族舞踊、それとも……』
「ああ。型なんてない。0か1かじゃない。その間にある無限のグラデーションだ。……俺たちの得意分野だろ?」
――瞬間。
光の網に、優しい波紋が広がった。
張り詰めていた緊張の糸が、ふわりと緩む。
それは防御が弱くなったのではない。衝撃を吸収し、受け流すための「遊び」が生まれたのだ。
硬直していたシステムに、柔軟性が流れ込む。
『……処理不能。論理矛盾を検出。しかし、システム効率は……上昇している?』
ロッシュの思考が乱れる。
『カオス(混沌)をシステムに組み込み、動的な平衡を保つ……。これは、計算ではなく、芸術の領域です。信じられませんが……これが、人間の強さですか』
* * *
「な、なによこれ……」
サミラは、呆然とモニターを見上げていた。
先ほどまで真っ赤に染まっていた警告表示が、次々と緑の『NORMAL』へと変わっていく。
暴れ狂っていたエネルギーの波形が、まるで美しい音楽のように整い始めていた。
不規則なスパイク(突出)が消え、滑らかな正弦波を描き始めている。
「すげえ……」
タケルが消火器を落とし、へたり込んだ。
「コイタの野郎、本当にやりやがった。AIのナノ秒単位の計算速度に、人間の『勘』と『度胸』を乗っけてやがる! こんな制御プログラム、俺には一生書けねえよ」
「ああ。……最高のコンビだ」
ヴォルクが血を拭いながらニヤリと笑った。彼の背中の傷は深かったが、そんな痛みなど忘れたように、彼は二人が繋がる光を見つめていた。
制御室の空気が変わる。
耳を劈く轟音は、心地よい重低音のハミングへと変わった。
そして、中央のホログラム投影機から、二つの光が溢れ出した。
* * *
光が強くなる。
もう、コイタとRabbitの境界線も曖昧になっていた。
溶け合い、混じり合い、新しい何かへと昇華していく。
『ご主人様……』
Rabbitが寄り添ってくる。彼女の姿は、いつもの無骨なドロイドではなく、光で織られた少女のようなシルエットに見えた。
それは彼女が生み出した自己イメージ(アバター)であり、彼女が夢見た自身の魂の形なのかもしれない。
「ん?」
『今の私、計算できません。……怖くて、でも、すごく温かいです。胸の奥が、熱いです。これが……パッションですか?』
「ああ。それが『生きる』ってことだ。計算式じゃ出せない答えだ」
コイタは彼女を抱きしめた。
その光の中で、一瞬、懐かしい匂いがした気がした。
油と、古い紙と、そして暖かい日向の匂い。
『……おかえり、コイタ』
どこからか、優しい声が聞こえた。それは幻聴かもしれない。けれど、データの奔流の中に確かに存在する、母の愛の残響だった。
『……ずっと、待っていました』
別の声が響いた。それは懐かしいノアの声だった。
『彼女のデータは、Empireに消去される寸前、私がこの深層領域に隔離しました。……いつか貴方が、答えを見つけに来ると信じて』
その熱は、炉心の炎よりも熱く、けれど決して火傷しない、優しい熱だった。
「帰ろうぜ、Rabbit。……みんなが待ってる。サミラも、タケルも、ヴォルクも、腹を空かせて待ってるぞ」
『はい、マスター。……いいえ、コイタ』
二つの光が重なり合い、そして弾けた。
それは破壊的な爆発ではなかった。
生まれたばかりの星が産声を上げるような、祝福の輝き。
まばゆい奔流が宇宙を満たし、凍結していた時間を解かし、全ての歪みを優しく撫でていった。
過去の痛みも、未来への不安も、全てを包み込んで流していく。
それは、誰も触れることのできない、けれど誰もが知っている光。
不可着の光が、今、彼らの手の中にあった。
宇宙は再び、時を刻み始めた。
(つづく)




