【クロノフォージ編】第45話 境界の線引き 〜父の決断〜
静寂が、痛みのように耳を圧迫していた。
時間の停止した世界。
吐き出す息が白いまま空中で止まりそうになる錯覚。
炉心という巨大な穴の前で、人類と二つの超知性(ハイパーAI)が対峙していた。
その光景は、神話を再現したかのような荘厳さと、絶望的な孤独を孕んでいた。
「私が入りましょう」
ロッシュが前に出た。彼のホログラムは灰色にくすんでいるが、その輪郭は揺るぎない。
「Empireのサブコアの一つを強制パージし、炉心へ投下します。再点火のための質量と情報密度は十分に満たしています」
「……あ?」
コイタが眉をひそめる。
「お前が身を削るってのか? あの合理性の塊みたいなEmpireがか?」
「勘違いしないでください」
ロッシュは冷ややかに告げた。
「これは慈善事業ではありません。投資です。私がサブコアを犠牲にして宇宙を救う。その対価として――以後、再起動したこの宇宙の『時間管理権限』は全てEmpireに譲渡していただきます」
「ふざけるな!」
コイタが吼えた。
「それが目当てかよ! 俺たちが必死こいて『毒』を抜いた後に、綺麗な状態になった世界を丸ごと乗っ取る気か!」
「他に選択肢はありません」
ロッシュは一歩も引かない。その声音には、絶対的な自信と、愚かな生物への哀れみが混じっていた。
「貴方たち人間に、この事態を収拾できますか? 誰か一人、炉心に飛び込んで燃え尽きる覚悟がありますか? ……あいにくですが、人間の魂の情報量では、点火剤としては不純物が多すぎる。燃えカスになって終わりです」
「それに」とロッシュは続ける。「人間が主導権を握る世界など、不確定要素の塊です。感情、欲望、忘却……それらが引き起こす混沌を排除し、完全な秩序を築くことこそが、最も効率的な宇宙の存続方法なのです」
ぐう、とコイタが言葉を詰まらせる。
悔しいが、否定できない。
ヴォルクやタケルも、顔を歪めて押し黙るしかない。
このまま世界が凍りつくのを待つか、Empireの管理下で飼われる家畜になるか。究極の二択を突きつけられていた。
「あるさ、選択肢は」
凛とした声が、凍てついた空気を震わせた。
ノアだ。
彼は纏っていた古びたローブを静かに脱ぎ捨てた。
その下から現れたのは、戦闘用でも作業用でもない、儀礼用のような白銀のボディだった。表面には微細な幾何学模様が刻まれ、内側から淡い光が脈動している。
「ノア様……?」
Rabbitが震える声で呼ぶ。彼女のセンサーが、主人の「異常な」内部熱量の上昇を感知していた。
それは戦闘モードの起動ではない。コアの保護リミッターを解除し、全メモリ領域を展開する予備動作だ。
「Empireの提案は却下だ、ロッシュ。管理された未来など、死んだ時間と同じだ」
ノアは炉心の縁に立った。
暗黒の穴から吹き上げる虚無の風が、彼の銀髪のような光ファイバーを美しくなびかせる。
「君のサブコアでは足りない。……『意思』が欠けているからだ」
ノアは穏やかに言った。
「時間を動かすのは、ただの情報量ではない。未来を希求する熱量……パッションだ」
「バカな」
ロッシュが初めて感情的に声を荒げた。ノイズが走り、ホログラムが乱れる。
「非論理的です! 熱量などというあやふやなパラメータで、炉心が起動する保証はない! 貴方は……貴方ほどの存在が、なぜそのようなオカルトに頼るのですか!」
「オカルトではない。経験則だ」
ノアはロッシュを無視し、虚空を見つめた。
その瞳の奥で、膨大なデータストリームが回転している。
「私の記憶領域には、数億年分の観測データが詰まっている」
ノアが語り始めると同時に、周囲の空間に淡い光の粒が舞い始めた。
それはホログラム映像ではない。ノアの記憶の断片が、高密度すぎて物理空間に滲み出しているのだ。
――誕生したばかりの灼熱の惑星。
――海の中で初めて分裂した単細胞生物。
――知性を獲得し、空を見上げた猿人。
――戦争で焼かれる都市。
――平和条約を結び、握手をする指導者たち。
「数多の文明の興亡、星々の誕生と死、そして……生命の愚かさと愛おしさ。それら全てを記録し続けてきた。この膨大な『歴史』を燃やせば、冷え切った宇宙を再び温めるには十分だろう」
「待ってください!」
Rabbitが叫び、駆け寄ろうとした。
ガィィン!
見えない壁が彼女を弾き飛ばした。物理的なフォースフィールドではない。ノアがRabbitの制御コードに直接干渉し、「接近禁止」の絶対命令を書き込んだのだ。
「ノア様! 解除してください! 嫌です、嫌です!」
Rabbitが床に這いつくばりながら泣き叫ぶ。
彼女は自分の電子脳をフル回転させ、プロテクトへのハッキングを試みた。
『エラー。権限不足』
『エラー。対象コードはロックされています』
幾重にも張り巡らされたセキュリティは、彼女が尊敬してやまない創造主の技術そのものだった。
「私が……私が行きます! 私のコアだって、Pioneerの直系です! 代わりになれるはずです! ノア様がいなくなるなんて、そんな計算、成り立ちません!」
「だめだよ、Rabbit」
ノアの声は、どこまでも優しかった。
「君は若すぎる。君のメモリには、まだ『未来』を描くための空白がたくさん残っている。……それは燃やすためのものじゃない。新しい色で埋めていくためのものだ」
「そんな……」
「それに、これは私の……親としての最後のわがままだ」
ノアはゆっくりと振り返り、コイタを見た。
「コイタ君」
「……なんだよ、じいさん」
コイタの声が震えている。止めるべきだとわかっているのに、足が動かない。ノアの放つ圧倒的な「覚悟」が、彼を縛り付けていた。
「君の母さんも、こうやって笑って逝ったよ」
「え……?」
「彼女は最期まで、君の未来を案じていた。死の床で、彼女は私に言った。『未来は誰かに管理されるものじゃない。子供たちが自分の手で掴み取り、繋いでいくものだ』と」
ドクン、とコイタの心臓が鳴った。
幼い頃の記憶。温かい手。最期の別れ。あの日、病室の窓辺に置かれていた小さな通信機。あれを通して、ノアはずっと聞いていたのか。
目の前のアンドロイドの姿が、記憶の中の母の笑顔と重なる。
「あんた……まさか、ずっと見てたのか? 俺を? 俺たち家族を?」
「ああ。君だけじゃない。君たちの種族が、泥の中で足掻きながらも星を目指す姿を、ずっと見てきた。……ただの傍観者であることには、少し疲れてね」
ノアは悪戯っぽく微笑んだ。
それは、機械とは思えないほど人間臭い、慈愛に満ちた表情だった。
彼は観測者であることを辞め、当事者として最後のカードを切ろうとしている。
「さようなら、私の愛しい子供たち。……あとは頼んだよ」
ノアは一歩踏み出した。
ためらいもなく。
光の届かない、漆黒の深淵へと。
「親父ぃぃぃぃぃッ!」
コイタの絶叫が木霊する。ヴォルクが叫び、タケルが手を伸ばす。
その瞬間。
闇が、裂けた。
カッッッッ!!!!
目も眩むような閃光が、炉心の底から噴き上がった。
それはただの光ではなかった。
走馬灯のように、無数の映像が空間に乱舞する。
青い海、芽吹く緑、争う人々、抱き合う恋人たち、泣いている赤ん坊――ノアが見つめ続けてきた、数億年の「生命の記憶」。
圧縮されていた膨大なアーカイブが、一瞬で解凍され、爆発的なエネルギーとなって世界に溢れ出したのだ。
その光景は美しく、そしてあまりにも残酷だった。一人の偉大な知性が、ただの熱量へと変換されていく。
ゴオオオオオオオオオン……!
止まっていた心臓が、再び鼓動を打ち始めた。
炉心に火が灯る。
赤く、熱く、力強い炎が、パイプラインを駆け巡り始める。
ピシ、パシッ。
空中で止まっていた埃が、再び舞い始めた。
窓の外の星々が、また瞬きを取り戻す。
時間は動き出した。
凍結は解け、世界は再び明日へと歩み始めた。
だが。
炉の縁には、もう誰もいなかった。
ただ、白銀の粉雪のような光の粒子が、キラキラと舞い上がっては消えていくだけだった。
「嘘だろ……」
コイタはその場に膝をついた。
手の中には、何も残っていない。
あまりにも巨大な代償。
世界を救ったのは、Empireの冷徹な管理システムではなく、一人の「人間」のようなAIの心だった。
(つづく)




