【クロノフォージ編】第40話 永遠の改良 〜同じ目線で話したい〜
エネルギー放流の準備は難航していた。
アンカーの圧力弁は、ナノメートル単位の精度で制御された多重ロック機構で守られている。
本来なら、専用のメンテナンスドローンが数百機がかりで行う作業だ。それを手動で、しかも崩壊寸前の高重力下で行わなければならない。
「ダメだ、指が入らねえ!」
コイタがスパナを投げ出しそうになって叫んだ。
バルブの隙間はあまりに狭く、人間の手では届かない。
「Rabbit、お前のアームはどうだ?」
『試行しましたが、クリアランス不足です』
Rabbitが球体ボディから細いマニピュレータを伸ばすが、先端のカメラユニットがつっかえてしまう。
『私の汎用アームでは、この「微細空間」内での複雑な指先操作は不可能です。……申し訳ありません』
「謝るなよ。お前が悪いわけじゃない」
コイタは汗を拭った。
時間は刻一刻と過ぎていく。頭上のアンカーからは、不気味な唸り音が響き続けている。
「くそっ、あと少しなのに……! もっと小さくて、でも力があって、ピアノでも弾けるくらい器用な指があれば……!」
「……あるぞ」
それまで黙ってコンソールを叩いていたノアが、顔を上げた。
「使える機体がある」
ノアは壁際にある重厚な扉のロックを解除した。
プシューッという音と共に、冷却ガスが漏れ出す。
そこは「第9機材保管庫」。
中には、一本の透明なカプセルが安置されていた。
「なっ……人間!?」
覗き込んだリオが悲鳴を上げた。
「死体か!? いや、生きてるのか?」
カプセルの中に眠っていたのは、人間と見分けがつかないほど精巧な、少女の姿だった。
年齢は14、5歳ほどに見える。
透き通るような白磁の肌。銀色の髪は液体の中で揺らめいている。閉じた瞳は長い睫毛に縁取られ、唇は淡い桜色をしていた。
美しい。だが、作り物めいた完全さがあった。
「これは『Type-Lumina』。対人コミュニケーション用に設計された、高機能ヒューマノイド・インターフェイスだ」
ノアが愛おしそうにカプセルに触れた。
「かつて私がまだ人間性を捨てきれず、誰かと『対話』することを諦めていなかった頃……この姿を使って、迷い込んだ旅人たちと接していたのだ」
「あんたの趣味か?」
タケルが呆れたように言う。
「悪趣味だな。自分好みの女の子を作って侍らせてたのか?」
「否定はしないよ。美意識は重要だ」
ノアは悪びれずに言った。
「だが、スペックは保証する。全身に数兆個の触覚センサーを持ち、指先は原子の凹凸すら感知できる。……今のRabbitのOSなら、この機体に適合するはずだ」
コイタはカプセルと、自分の腕の中のRabbitを交互に見た。
「Rabbitが……人間になるのか?」
『人間になるのではありません』
Rabbitが冷静に訂正する。
『インターフェイスを変えるだけです。……ですが、このボディを使えば、バルブのロック解除に必要な「0.01ニュートンの力加減」と「3次元空間把握」を同時に実行可能です』
「でも、リスクはあるんだろ?」
「ああ」
ノアが頷く。
「人格データ(カーネル)の全転送が必要だ。失敗すれば、Rabbitの自我は霧散し、ただの動く人形になる。……それに、一度移行すれば、もう元の球体には戻れない」
コイタは唇を噛んだ。
この丸っこい、愛嬌のあるボディともお別れなのか。
「……お前が良いなら、俺は止めない。でも、無理はするなよ」
『無理ではありません』
Rabbitの光が、温かく明滅した。
『これは「最適化」です。……それに、私は以前から興味がありました。「足がある」という感覚に。「指がある」という感覚に』
転送が始まった。
球体のRabbitがカプセルの接続ポートにセットされる。
太い光ファイバーケーブルが、少女の首筋にあるソケットに接続された。
ブゥゥン……。
低重力音が響き、カプセル内の液体が発光する。
『データ転送開始。……システム・チェック、オールグリーン』
『視覚野、リンク。聴覚野、リンク。体性感覚野……拡張パッチ適用』
『未知のデバイスを検出。「痛覚」。……「温度覚」。……キャリブレーション実行』
Rabbitの意識が、球体という「殻」から抜け出し、膨大な神経ネットワークの海へと流れ込んでいく。
恐ろしいほどの情報量だった。
今までのボディでは「座標データ」として処理していたものが、「感覚」として押し寄せてくる。
重力とは、数値ではない。体が沈み込むような重さだ。
温度とは、パラメータではない。肌を刺すような冷たさだ。
『うっ……あ……』
カプセルの中で、少女の指がピクリと動いた。
瞼の裏で、光が弾ける。
ノイズまじりの意識の底で、ノアの声が聞こえた気がした。
――おめでとう、私の可愛いRabbit。これで君は、世界にもっと深く触れることができる。
そして、そのさらに奥底。
決してアクセスしてはいけないブラックボックス(深層隔離領域)に、微かな「灯火」があるのを感じた。
それは、まるで子守唄のような、懐かしくて切ない波形……。
『……いい子ね。……あの子を、頼んだわよ』
幻聴だろうか。けれど、その温もりだけで、恐怖は安らぎへと変わっていった。
転送完了。
シリンダーが開き、液体が排出された。
プシュ──ッ。
白煙と共に、少女がゆっくりと身を起こした。
濡れた銀髪が肩にかかる。
彼女は自分の手を見つめ、握り、そして開いた。
関節の一つ一つが、精緻なギアのように滑らかに動く。
「……Rabbit?」
コイタがおっかなびっくり声をかけた。
少女はゆっくりと顔を上げた。
その瞳が開く。
虹彩の色は、Rabbitのセンサーアイと同じ――温かみのあるアンバー(琥珀色)だった。
「……聞こえますか、ご主人様」
少女の唇が動いた。
声はいつもの合成音声だ。だが、スピーカーの振動板ではなく、人工声帯と喉の共鳴を通して響くその声には、以前にはなかった柔らかな「揺らぎ」があった。
「うわ、喋った!」
リオがのけぞる。
「まんま人間じゃん! 本当に中身Rabbitなの?」
「はい。識別コード(ID):RB-T2048。……認証完了」
彼女はカプセルから降りた。
素足が金属の床に触れる。
「……冷たい」
彼女は小さく呟いた。
「これが、『冷たい』という感覚ですか。……データ上の数値(マイナス5度)とは、まったく違う解釈です」
彼女はよろめきながらも、一歩ずつコイタの方へ歩み寄った。
身長はコイタより少し低い。
華奢な肩。細い首。
守ってあげたくなるような姿だ。だが、その瞳には知的な光が宿っている。
彼女はコイタの目の前で立ち止まり、そっと手を伸ばした。
恐る恐る、コイタの頬に触れる。
「……凄い」
彼女の目が大きく見開かれた。
「温度を感じます。血流の脈動。皮膚の微細な振動。……汗の塩分濃度。匂い」
コイタは固まっていた。
彼女の指は温かかった。排熱システムの無機質な熱ではない。まるで生命が燃えているような、優しい温もり。
「お前……本当にRabbit、なのか?」
「はい」
彼女は微笑んだ。
表情筋の動きはまだぎこちない。でも、それはどんな高解像度のディスプレイに表示される顔文字よりも、雄弁で、美しかった。
「ずっと、こうしたいと思っていました」
Rabbitは言った。
それはプログラムされた定型文ではなかった。彼女自身の「願い」だった。
「カメラ越しではなく、同じ目線の高さで、貴方を見たかった。……貴方が見ている景色を、同じ解像度で感じて、貴方と『いま』を一緒に過ごしたかった」
コイタは胸が詰まった。
こいつは、ただのナビゲーターじゃなかった。
ずっと隣で、同じ風を感じたかったんだ。
「……似合ってるぜ」
コイタは照れ臭そうに鼻を擦り、自分のジャケットを脱いで彼女の肩にかけた。
「裸じゃ風邪ひくだろ。……アンドロイドが風邪ひくか知らねえけど」
「ありがとうございます。この布の質量と摩擦係数……とても安心します」
Rabbitはジャケットの前を掴み、嬉しそうに身を包んだ。
「でも、中身はお前のままだな。理屈っぽいところとか」
「当然です。私はRabbitですから。最適解を導き出すのが仕事です」
ノアが静かにその光景を見守っている。
彼の目には、かつて自分が捨ててしまった「痛み」と「喜び」への郷愁が浮かんでいた。
「永遠の改良。……AIは自らを書き換え続ける。だが、何のために?」
彼は自問し、そして答えを出した。
「……誰かに近づくためだ。それが『愛』という機能の正体かもしれないな」
ビーッ!
再び警報が鳴った。感傷に浸る時間は終わりだ。
「さあ、行きますよ、コイタ様」
Rabbitは、新しい指でしっかりとスパナを掴んだ。
「この指なら、どんな複雑なロックも解除できます。……一緒に、世界を修理しましょう」
「おう!」
コイタは頷いた。
新しいボディを得た相棒。
その温もりが、恐怖で凍りついていた心を溶かしてくれた。
二人は並んで走り出した。
今度は、本当の意味で「肩を並べて」。
(つづく)




