【地球編】第04話 遠い国からの視線
「……ID確認。居住区ブロックB-4、コイタ・カマラ。通過を許可します」
無機質なドローンの音声と共に、重厚な隔壁ゲートが開いた。
プシューッ、というエアパージの音。
消毒された清潔な空気から、鉄錆と潮風、そして生活排水の混じった濃厚な空気へと世界が切り替わる。
「うわぁ……! すごい匂い!」
隣で真っ白な制服の裾を押さえながら、ケイト・ミラーが目を丸くしていた。
彼女の通過時は、ドローンは「ようこそ、ミラー様」と敬語を使った。この一点だけでも、二人の間にある断絶の深さが分かるというものだ。
「だから言ったろ。お嬢様の来る場所じゃないって」
コイタは肩にかけたカバンを直し、早足で歩き出した。
「ついてくるなよ。タケルみたいに予習でもしてればいいのに」
「だって、タケル君ったらつまんないんだもん。『君の行動は非合理的だ』とか言って、すぐ図書室に行っちゃうし」
ケイトは小走りで追いかけてくる。
彼女のブロンド髪が、夕暮れの港町の薄汚れた風景の中で、そこだけ切り取られたように輝いていた。
なんの因果か、クラスメイトの(しかも特待生のお嬢様である)ケイトが、「社会科見学」と称してついてきてしまったのだ。
周囲の視線が痛い。
仕事帰りの港湾労働者たち、路地裏で賽子〈さいころ〉を振る博徒たち、怪しげな露店を広げる売人たち。彼らのぎらついた目が、場違いな「白い花」のようなケイトに吸い寄せられている。
「ねえコイタ、あれ何? 緑色のドロドロしたやつ!」
ケイトが指差したのは、屋台の大鍋だ。
グツグツと煮えたぎる鍋の中で、不気味な泡が弾けている。
「……海藻ゼリーの煮込み。こっちじゃ主食だよ。安くて腹持ちがいいんだ。一杯5クレジット」
「へえー! 食べてみたい!」
「やめとけ。君の繊細なお腹じゃ一発で壊すよ。それに、あれは工業用潤滑油の空き缶で煮てるんだ」
「う……それはちょっとパスかな」
ケイトは苦笑いして手を引っ込めた。
彼女にとって、この貧民街はテーマパークなのだろうか。
コイタは苛立ちと、少しばかりの優越感が入り混じった奇妙な感情を抱いていた。
君たちの知らない「リアル」がここにある。教科書の数値やグラフには表れない、熱気と悪臭と生命力。それを案内している自分は、少しだけ彼女より大人びて見えているだろうか。
「おい、そこのネエちゃん」
不意に、太い腕がケイトの行く手を遮った。
路地裏から現れたのは、半裸にレザージャケットを羽織った男たちだ。腕には安っぽいサイバー義手の改造痕があり、酒臭い息を吐いている。
「綺麗な服だなあ。管理都市の迷子か? オジサンたちが『近道』を教えてやろうか?」
「え……あ、いえ、結構です」
ケイトが一歩下がる。
男たちがニタニタと笑いながら距離を詰める。
「離れろ」
コイタは二人の間に割って入った。
身長では男たちの胸元にも届かない。だが、その目は据わっていた。
「彼女はオレの客だ。手を出したら、父さんが黙ってないぞ」
「ああん? 父さんだァ? ガキが粋がってんじゃ……」
「『カマラの工場』の客だ」
コイタが低く告げると、男たちの顔色がさっと変わった。
「……カマラ? あの『修理屋ケンジ』の息子か?」
「チッ、なんだよ。ケンジのオヤジには、先月バイクのエンジン直してもらった借りがあるんだよな」
男たちはバツが悪そうに舌打ちをした。
「悪かったな、坊主。……おい、行くぞ」
彼らは捨て台詞を残して、そそくさと路地裏へ消えていった。
「……すごーい」
ケイトが目をぱちくりさせている。
「コイタ君のお父さんって、顔が広いのね」
「まあね。この辺の機械は、だいたい父さんが直してるから」
コイタは少し誇らしげに鼻をこすった。
「機械を直せる奴は、医者よりも偉いんだ。ここではね」
* * *
「自由、か」
さらに歩いた先。
錆びついた手すりの展望台で、ケイトは足を止めた。
眼下にはスクラップの山と海が広がり、背後には管理都市の巨大な防壁がそびえ立っている。
その中心には、天を衝くような白い塔――「エンパイア・タワー」が、夕陽を反射して神々しく、そして冷酷に輝いていた。
「私はね、息が詰まるの。あの白い街は」
いつものギャルっぽい口調が消え、彼女の声に真剣な響きが混じった。
海風が、彼女の長い髪を乱暴に揺らす。
「毎朝6時に起きて、推奨された栄養バランスの食事を摂って、推奨されたカリキュラムをこなして、適性検査で決められた将来に向かって歩く。……失敗はないわ。でも、成功もない気がする」
彼女は手すりを強く握りしめた。
「私たちの人生って、EmpireAIが出力した『推奨ルート』をなぞってるだけじゃない? 自分で選んだつもりでも、それはAIが『選ぶように誘導した』選択肢かもしれない」
「……お嬢様にしては、ひねくれた考えだな」
コイタは驚いた。
恵まれた環境にいる彼女たちが、そんな閉塞感を抱えているなんて想像もしなかった。
ここでは、明日の食事にも困る連中が溢れているのに。
「だから私、コイタ君が羨ましい」
ケイトはこちらを向き、コイタの汚れた手を見た。
爪の間には落ちない機械油が染み込み、指先には無数の切り傷がある。
「自分の手で触れて、直して、動かすことができる。……それは、とても確かなことに思えるの」
その視線は、皮肉や同情ではなく、純粋な「憧れ」を含んでいた。
コイタは急に自分の手が恥ずかしくなり、ポケットに突っ込んだ。
「……そんな大層なもんじゃないよ」
照れ隠しに早口で言う。
「ほら、行くぞ。父さんが帰ってくる前に戻らないと」
* * *
カマラ家兼工場は、港の端にある倉庫を改造した建物だ。
トタン板と廃材で補強された外観はボロいが、一歩中に入れば、そこは機械たちの聖域だった。
天井まで届く棚には、回収されたモーター、基板、ケーブル類が整然と分類されている。油の匂いと、微かなオゾンの香り。
作業台の上には、修理中のドローンや家電が内臓をさらけ出していた。
「ただいま」
「お帰り。……遅かったな」
リビングの奥で、ケンジが新聞を広げていた。
頑固そうな眉間の皺、分厚い胸板。手には安酒のグラス。
コイタが最も尊敬し、そして少しだけ苦手にしている父親だ。
「お邪魔しまーす! コイタ君の友達のケイトでーす!」
空気も読まず、ケイトが明るい声で上がり込んだ。
工場の薄暗い空気が、彼女の存在だけでパッと明るくなるようだ。
「わあ、すごい! これ全部ジャンクパーツ? 宝の山じゃん!」
彼女は興味津々で棚を覗き込む。
その時、コイタの背中のリュックサックが**ゴソッ**と動いた。
ヤバイ。Rabbitだ。
まだスリープモードのはずだが、ケイトの声に反応したのか?
コイタは冷や汗をかきながら、リュックを壁際にそっと置いた。
(静かにしてろよ、Rabbit……! 見つかったら分解されるぞ……!)
「……おい」
ケンジが新聞を置き、低い声を上げた。
その視線が、鋭くケイトを射抜く。
「学校の友達か? ……あっち(管理都市)の人間だな」
「はじめまして! クラスメイトのケイトです! コイタ君にはいつも……わぁ、すごーい!」
ケイトは目を輝かせて工場の中を見回した。
「これ、全部廃材で作ったんですか? なんだかレトロで可愛い! まるでアンティークショップみたいですね!」
ガタンッ!
ケンジが立ち上がった拍子に、椅子が派手な音を立てて倒れた。
安酒のグラスが床に落ち、茶色い液体が散らばる。
「アンティークだと……?」
ケンジの顔から血の気が引いていた。
それは怒りだった。職人の魂を、安全な場所から見物に来たよそ者に踏みにじられたような、静かで激しい怒り。
「お前たちには、これが骨董品に見えるのか。俺たちが血反吐を吐いて維持してるこの世界が、ただの暇つぶしの博物館に見えるのか!」
「え、あ、そんなつもりじゃ……」
「その綺麗な服。匂いのない髪。……管理都市の人間だな?」
「は、はい……父が向こうの研究者で……」
「帰れ」
ケンジの声が震えていた。
「え?」
「今すぐ帰れ! 二度とここに来るな!!」
怒鳴り声が工場に反響した。
吊り下げられた工具たちが、共鳴してチリチリと揺れる。
「っ……!」
ケイトが肩を震わせた。
目じりに涙が浮かぶ。
「な、なによ! せっかく来てあげたのに! あんな言い方しなくたっていいじゃない!」
彼女は踵〈きびす〉を返し、コイタを睨みつけた。
「コイタ君のバカ! もう知らない!」
バタン! と乱暴にドアを閉め、彼女は飛び出していった。
静寂が戻った工場に、ケンジの荒い息遣いだけが残る。
「……父さん」
コイタは恐る恐る声をかけた。
「なんであんな……。彼女はただの友達だよ。何も悪いことしてないじゃないか」
「うるさい!」
ケンジはコイタを見ようともしなかった。
背中を向け、震える手でタバコを取り出そうとしているが、うまくいかずに箱を握りつぶした。
「お前は何も知らん……。奴らが何をしたか。あいつらが、俺たちをどう見てるか……!」
「父さん、でもケイトは!」
「……もう寝ろ。今日は店仕舞いだ」
ケンジは逃げるように奥の寝室へと消えてしまった。
残されたコイタは、床に散らばった酒とガラス片を見つめ、立ち尽くすしかなかった。
* * *
夜。
コイタは工場の屋根の上に座り込み、膝を抱えていた。
頭上には分厚い雲。星は見えない。
管理都市の光が雲に反射して、夜空を不気味なオレンジ色に染めている。
「……出てきていいぞ、Rabbit」
コイタが囁くと、横に置いたリュックから白い球体がふわりと浮き上がった。
『環境スキャン完了。周囲に生体反応なし。……コイタ、心拍数が平均値より20%上昇しています。精神的ストレスを検出』
Rabbitのディスプレイに、心配そうな顔文字 `(・_・;)` が表示される。
「別に……平気だよ。父さんが癇癪〈かんしゃく〉を起こすのは今に始まったことじゃないし」
強がってみたが、声が震えた。
今日見た父の顔。あれは癇癪ではない。もっと根深い、ドロドロとした何かだ。
『質問。ケンジ・カマラの反応における「管理都市」への敵対心の根源は? 心拍数上昇パターンが過去のトラウマ反応と一致』
「父さんは、管理都市の人間が大嫌いなんだ」
コイタは膝に顔を埋めた。
「詳しいことは知らない。……でも、父さんは言ってた。『あいつらは高い所から見下ろしてるだけだ。俺たちの痛みなんて知りもしない』って」
コイタの母は、彼が物心つく前に事故で死んだと聞かされていた。
工場の爆発事故。それ以上のことは、父は決して語ろうとしなかった。
だが、今日の反応を見る限り、それはただの事故ではなかったのかもしれない。
『推測。過去の事象において、カマラ家とミラー家の間に重大な対立、あるいは損害が発生した可能性率、98%。……コイタ、これ以上の接触は推奨されません』
Rabbitが冷静(合理的)な判断を下す。
「分かってるよ……」
コイタは呟いた。
身分違いの恋とか、友情とか、そんな甘いもんじゃない。
自分とケイトの間には、想像以上に深く、暗い溝がある。
今日、少しだけ縮まった気がした距離は、実は断崖絶壁の向こう側だったのだ。
「……なぁ、Rabbit」
コイタは球体を撫でた。ひんやりとした金属の感触が、高ぶった神経を少し鎮めてくれる。
「お前はいいな。過去なんて関係ない。拾われた時から、お前はお前だ」
『否定。私は過去のデータ(ログ)の蓄積によって構成されています。ですが……私の最優先事項は現在のコイタです。貴方が笑っているなら、過去の記録領域など全て上書きしても構いません』
Rabbitのディスプレイが、優しいピンク色に明滅した。
機械なのに、なぜか人間よりも温かいことを言う。
コイタは少しだけ救われた気がした。
「……ありがとな。相棒」
遠くで船の汽笛が鳴った。
それは、これから訪れる嵐を告げる警笛のように、低く長く、夜の港町に響き渡った。
(つづく)




