【クロノフォージ編】第39話 借りた波 〜年代債務の代償〜
警報音が鳴り止まない。
制御室から動力炉へと続く回廊は、まるで嵐の海の中を進むようだった。
空間が波打っている。
壁の金属板が、飴細工のようにぐにゃりと曲がっては元に戻る。床が液状化して足を取られる。重力のベクトルが定まらず、一歩進むごとに上下左右が入れ替わるような感覚に襲われる。
「うっ……!」
サミラが壁に手をついて嘔吐いた。
彼女のような訓練された兵士でさえ、三半規管への直接攻撃には耐えられない。
「気持ち悪い……。世界が回ってる……」
「見るな! 床だけ見ろ!」
タケルが叫び、サミラの腕を引く。彼の額にも脂汗が浮いていた。
「視覚情報と重力感覚がズレてるんだ。……脳が処理落ちを起こしてる」
「なんだよこれ……!」
コイタは歯を食いしばり、Rabbitを脇に抱えて走った。
目の前の景色が、スライドショーのバグのように明滅する。
走っているはずなのに、数メートル後ろに戻される感覚。
あるいは、まだ数秒先の未来の景色――自分が転んで膝を擦りむく映像――がフラッシュバックのように脳裏に焼き付く。
自分の手を見ると、子供のような小さな手に見えたり、逆に骨だけの老婆の手に見えたりした。
時間の流れそのものが壊れかけ、主観時間を保てなくなっているのだ。
『警告。時空震の震度、上昇中』
Rabbitの声にはノイズが混じっていた。
『このエリアの因果律は著しく乱れています。……過去と未来が混ざり合っています。自身のアイデンティティを強く定義してください。気を抜くと、自我が時間に溶けてしまいます』
ようやく辿り着いた動力炉セクターは、地獄のような有り様だった。
直径数百メートルはある巨大な空洞。
その中央に、光り輝く巨大な柱――メインアンカーが鎮座している。
だが、その輝きは禍々しい赤色に変色していた。
バチバチッ! ズガンッ!!
アンカーの表面から、紫色の雷が奔流となって噴き出している。
それはただの電気ではない。
時空の裂け目から漏れ出した、純粋なエネルギーの暴走だ。
周囲の整備用キャットウォークが、雷に触れた瞬間に「老化」して崩れ去っていく。新品の金属が、一瞬で錆びつき、風化して塵になるのだ。
「これが『歪み』の正体だ」
先行していたノアが、防護フィールドを展開しながら叫んだ。
彼の灰色の髪が、重力風に煽られて激しく舞う。
「君たちが使ってきた『フェーズゲート』や『クロノドライブ』……あれは便利なショートカットだが、タダではない。未来の時間を『前借り』して現在の距離を縮めていたのだ」
「前借り?」
コイタがスパナを握りしめ、強風に耐えながら問う。
「ああ。これを『年代債務』と呼ぶ。……宇宙にフリーランチ(ただ飯)はない。借りたものは返さねばならない。宇宙は常に帳尻を合わせようとする」
ノアがアンカーを指差した。
「君たちが時空を超えて旅をするたびに、その負担はこのクロノフォージに集約されていた。本来なら数億年かけてゆっくり流れるはずの時間を、一瞬で消費した反動……。それが今、利子をつけて襲いかかってきているのだ!」
ドォォォォン……!
アンカーの一部が爆発し、衝撃波がコイタたちを襲った。
ヴォルクからもらっていた「調和結晶」の装甲が輝き、衝撃を中和してくれなければ、全員が分子レベルで分解されていただろう。
「今まで、誰がこの借金を払ってたんだ?」
ケイトが金髪を押さえながら叫ぶ。
「これだけのエネルギー、普通ならとっくに銀河一つ消し飛んでるわよ! なんで今まで保ってたの!?」
「支払い担当者は……彼だ」
ノアが静かに、コイタの腕の中にいるRabbitを指差した。
『……』
Rabbitは何も言わない。
ただ、点滅するその光は、どこか申し訳なさそうだった。
コイタは相棒の球体を見下ろした。
いつもと変わらない、ツルツルした白いボディ。
だが、エンジニアとしての目は誤魔化せなかった。
ノアの言葉を聞いてからよく見ると、Rabbitの表面には無数の微細なクラック(亀裂)が走っていた。
だが、ノアはさらに残酷な事実を告げた。
「物理的な損傷だけではない。……もっと深刻なのは『記憶領域』だ」
ノアがホログラム画面を弾くと、赤い警告ログが滝のように流れ落ちた。
【Memory Sector 04: Damaged / Deleted】
【Log ID: 3390 (Lurdo Lunch Time) - LOST】
【Log ID: 4402 (Formisoria Flower Garden) - LOST】
「Rabbitは、時間の負荷を相殺するために、自分の記憶データを『燃料』として投棄していたのだ。……最も容量が大きく、そして最も大切にしていた『君との旅の記録』から順にな」
「は……?」
コイタの頭が真っ白になった。
ルルドーで食べたおにぎりの味。フォーミソリアの美しい花畑。
あの時間を、Rabbitは忘れてしまったのか?
『……肯定します。私の設計寿命とメモリ領域は、借金の支払いに充てられました』
Rabbitが淡々と報告する。
『ですが、許容範囲内です。ご主人様をここまで運ぶことが、私の最優先ミッションですから。……過去のログが消えても、貴方が未来へ進めるなら、安い代償です』
コイタはRabbitを強く抱きしめた。
冷たい金属の球体。
でも、そこにはどんな生物よりも熱い、愚直な献身があった。
「ふざけんな……!」
涙が溢れてくる。
体の傷なら直せる。部品なら交換できる。
でも、一緒に過ごした時間は、二度と戻らない。
「なんで言わなかった! 俺はお前の相棒だろ!? 俺との時間を……勝手に捨ててんじゃねえよ!」
『言えば、貴方は旅をやめてしまうでしょう?』
Rabbitの言葉に、コイタは息を詰まらせた。
図星だった。
コイタは進むことしか考えていなかった。新しい星、未知の技術、冒険のワクワク感。
その裏で、一番近くにいた相棒が、どれだけの痛みに耐えていたかも知らずに。
「……バカ野郎」
コイタは袖で涙を乱暴に拭った。
そして顔を上げた時、その瞳にはエンジニアとしての炎が宿っていた。
「返そう」
コイタの声は力強かった。
「俺たちの借金だ。俺たちで返す」
「どうやって?」
タケルが問う。
「見ての通り、システムは崩壊寸前だ。通常の制御じゃ追いつかない」
「簡単なことさ」
コイタはニヤリと笑った。いつもの、悪巧みをする時の顔だ。
彼はバックパックを下ろし、工具を広げ始めた。
「溜め込んだエネルギーを、あるべき場所に流してやる。……詰まった排水溝の掃除みたいなもんだ」
「放流するつもりか?」
ノアが目を見張った。
「コイタ、そのアンカーには銀河規模の時空エネルギーが溜まっている。下手にパイプを開ければ、この工房ごと吹き飛ぶぞ。制御できる量じゃない」
「だから、精密にやるんだよ」
コイタはサミラとタケルを振り返った。
「計算は任せたぞ、秀才コンビ。……タケル、お前の端末でアンカーの『圧力弁』の開閉タイミングを解析してくれ。サミラ、お前はエネルギーの流出経路を確保だ。邪魔な瓦礫があったら吹き飛ばしてくれ」
「人使いが荒いな」
タケルが苦笑し、すぐに端末を展開する。
「了解だ。……エネルギー充填率300%、臨界点まであと90秒。タイミングはシビアだぞ、誤差0.5秒以内にバルブを開けろ」
「分かってる」
サミラもナイフを構え、周囲の崩れたパイプを見定めた。
「物理的な掃除なら任せて。……コイタ、アンカーへの道を開くわ!」
サミラが跳躍した。
彼女は崩落するキャットウォークを軽業師のように飛び移り、邪魔な瓦礫を正確なナイフ投擲で粉砕していく。
「今よ! 行って!」
「よし、Rabbit」
コイタは相棒を目の高さに掲げた。
「お前はナビゲートだ。……もう一人で背負うな。俺と一緒に、このクソ重たい扉をこじ開けるんだ。俺の手を誘導しろ、最適なトルクでおにぎりを握るみたいに優しくな!」
『……ラジャー!』
Rabbitの光が、ピンク色に強く輝いた。
『アンカー接続ポート、検索。……アクセス承認。内部圧力上昇中。……コイタ様、右舷第3バルブ、開放準備!』
ノアは、その光景を見て微笑んだ。
かつてヤラが選んだ「自己犠牲」の道とは違う。
彼らは、誰一人欠けることなく、「全員で生き残る」ために足掻こうとしている。
それがどれほど困難で、非論理的な道であっても。
「……私も手を貸そう」
ノアがコンソールに向かった。
「メインシステムのセキュリティを解除する。……好きに暴れるといい」
コイタはアンカーの巨大なバルブにスパナを食い込ませた。
重い。
銀河の重みが、そのまま腕にかかってくるようだ。
「うおりゃああああ!」
全身の筋肉が軋む。
だが、Rabbitの光がスパナを包み込み、力を増幅してくれる。
ギギギ……ガコンッ!
バルブが回った。
シュゴオオオオッ!!
猛烈な勢いで、輝く蒸気――時空エネルギーが噴き出した。
コイタは吹き飛ばされそうになりながらも、必死に足を踏ん張った。
「よっしゃあああ! 流れたぞ!!」
彼は笑った。
暴走する光の奔流の中で、泥だらけになりながら。
過去のツケを払い、未来を掴み取るために。
(つづく)




