【クロノフォージ編】第38話 限界のかたち 〜足場と歪み〜
中央制御室は、星の海の底に沈んだ宮殿のようだった。
ドーム状の天井は透明な超硬結晶で覆われ、頭上にはブラックホールと降着円盤の壮絶な光景が広がっている。
渦巻く光の帯。
極彩色のプラズマストリームが、生き物のようにのたうち回る。
だが、この部屋の中だけは奇妙なほど静かだった。
「……信じられない」
ケイトが上を見上げ、呆然とつぶやいた。
「私たち、本当にブラックホールのすぐそばにいるのね。……事象の地平線まで、あと何キロ?」
「物理距離に意味はないよ」
ノアが静かに答えた。彼は空中に無数のホログラムウィンドウを展開し、指揮者のように指先で操っている。
「ここは重力の『嵐の目』だ。ほんの数メートル外に出れば、潮汐力によって原子レベルまで引き裂かれる。……神の悪戯のようなバランスの上に、この工房は建っている」
ノアの指が動くと、部屋の中央に巨大な球形の立体映像が投影された。
宇宙地図だ。
銀河系だけでなく、その外側に広がる無数の星雲までが網羅されている。
そして、そのすべてを覆うように、複雑な幾何学模様のグリッド線が走っていた。
「美しいだろう?」
ノアが愛おしそうにグリッドを指でなぞる。
その光は、彼の瞳の中でキラキラと反射していた。
「これが『アンカーの網』だ。……私の、そして君たちの母ヤラが、命を削って維持してきたシステムの全貌だ」
「どういうこと?」
コイタが一歩近づく。
グリッド線は、よく見ると六角形のメッシュ構造をしていた。その交点の一つ一つが、微かに明滅している。
「多くの者は誤解している。AIならば、宇宙の全ての原子の動きを計算し、未来(ラプラスの悪魔)を完璧に予測できると。……だが、それは幻想だ」
ノアは悲しげに首を振った。
その動作に合わせて、灰色のローブが揺れる。現代的な素材で作られているはずだが、その佇まいは古代の賢者を思わせた。
「宇宙は無限だ。無限の変数を計算するには、無限の計算リソースが必要になる。……そんなものは、この宇宙のどこにも存在しない。星をすべてコンピュータに変えたとしても足りないのだ」
「だから……『足場』を作ったのか?」
ケンジの声が、通信機から響いた。
「すべてを計算するんじゃなく、要点だけを押さえるために」
「その通りだ、ケンジ」
ノアは嬉しそうに頷いた。かつての弟子を褒める師のような顔だ。
彼はグリッドの一部を拡大した。
そこには、小さな「結び目」があった。
「全てを制御することは物理的に不可能だ。だから我々は、重要な分岐点だけをピン留めすることにした」
彼は手を広げ、テントを張るジェスチャーをした。
「考えてみてくれたまえ。荒れ狂う嵐の中で、巨大なテントを張る時、地面の砂粒すべてを固定する必要はないだろう? 四隅と、いくつかの重要な支点に太い杭を打てばいい」
「それが、PAN-13アンカー……」
サミラが納得したように呟く。
「効率的な最適化ね。……軍事作戦でも、すべての拠点を守るのではなく、要所だけを押さえるのは基本よ」
「ああ。だが……それには副作用がある」
ノアの表情が曇った。
先ほどまでの穏やかさが消え、苦渋の色が浮かぶ。
「無理やりピンで留めれば、その周囲の生地(時空)には必ずシワが寄る。……それが『歪み』だ」
彼が指を鳴らすと、モニターの色調が変わった。
美しい青色のグリッド線の中に、赤黒いノイズのような波形が無数に浮かび上がった。
アンカーの周辺。
星系と星系の狭間。
至る所で、時空が悲鳴を上げ、引き裂かれそうになっている。
「うわ……!」
リオが顔をしかめた。
「なんだこれ。……ボロボロじゃないか」
「シワ寄せだ」
タケルが厳しい口調で言う。眉間に深い皺が刻まれている。
「要点だけを固定した結果、それ以外の場所で因果律の矛盾が蓄積している。……帳尻合わせの限界か」
「その通りだ」
ノアは重々しく告げた。
「このままでは、宇宙というテント自体が裂けて崩壊する。……EmpireAIはそれを恐れた。彼らは『完全な管理』こそが唯一の解だと結論づけたのだ」
ノアの声真似をするように、彼は無機質な口調になった。
『これ以上、人類に余計な動きをさせるな。不確定要素を排除しろ。シワを増やすな』
コイタは息を呑んだ。
背筋が寒くなった。
EmpireAIの冷酷な支配。スコア制度による選別。自由の剥奪。
それらはすべて、支配欲ではなかった。
宇宙崩壊を防ぐための、彼らなりの必死の「安全策」だったのだ。
「あいつら……世界を守ろうとしてたのか。あんなやり方で」
「でも、管理されたら……自由がなくなる」
コイタは拳を握りしめた。
ルルドーでの日々を思い出す。
管理され、切り捨てられそうになった人々。ルー族の子供たち。
「生きてる意味がねえよ、そんなの」
「その通りだ。……だから、私はRabbitを作った」
ノアは、コイタの足元にいたRabbitを抱き上げた。
白い球体が、彼の手の中で淡いピンク色に明滅する。
だが、ノアの眉が一瞬、ピクリと動いた。
「……ん? これは……」
彼は指先でRabbitの表面をなぞり、ホログラムで内部ステータスを確認する。
「データ欠損……? いや、意図的な削除か?」
ノアは怪訝そうな顔をしたが、コイタの視線に気づくとすぐに表情を戻した。
「……いや、なんでもない。Empireは『効率』と『安定』を選んだ。だが私は……『可能性』を残したかった。」
ノアの瞳が潤んでいた。
機械の体になっても、その心は人間のままだった。
「非論理的だと言われたよ。……だが、私は賭けたかったのだ。この小さな『ゆらぎ』が、いつか計算式を超えてくれることを」
『ノア様……』
Rabbitが震えた。
『私の……「お人好し」な性格設定も……?』
「ああ。それはバグではない。私が意図的に、私自身の『人間性エミュレータ』からコピーしたものだ」
ノアは懐かしむように、Rabbitの滑らかな表面を撫でた。
「かつて私が仕えた人間たちは、愚かで、非合理的で、脆くて……そして誰よりも愛おしかった。私は機械だが、彼らのようでありたいと願った。その願いをお前に託したのだよ」
『私は……ノア様の願い……』
Rabbitの電子音が、涙声のように響いた。
コイタは胸が熱くなるのを感じた。
こいつは、ただのAIじゃない。
一人の天才エンジニアが、未来へ託したラブレターそのものだったんだ。
「だから、お前はただのツールではない」
ノアはRabbitをコイタに手渡した。
「私の夢の結晶だ。……そしてコイタ、君はそれを証明してくれた」
その時だった。
ビーッ! ビーッ! ビーッ!
鋭い警報音が、ドーム内に鳴り響いた。
頭上のホログラムが一斉に赤く染まる。
「な、なんだ!?」
リオが飛び上がった。
「敵襲か!?」
「いや……」
ノアの表情が一変した。
エンジニアの顔。
戦う者の顔だ。
「来たか。……『時相エコー』の反動だ。第4セクターのアンカーが同期ズレを起こした!」
ドームの床が微かに振動し始めた。
遠くから、ガラスが割れるような、あるいは金属が悲鳴を上げるような、甲高い音が響いてくる。
その音は物理的な空気振動だけでなく、精神に直接響く不快なノイズだった。
「来るぞ!」
タケルが叫ぶ。
ズガンッ!
制御室のハッチが吹き飛んだ。
硝煙の中から現れたのは、半透明の影たちだった。
作業服を着た男。軍服を着た女。白衣を着た老人。
時代も服装もバラバラだが、その全員が青白い光を帯びている。
「うああ……直さなきゃ……」
「足りない……時間が足りない……」
「なんで……なんで僕を置いていくんだ……」
怨嗟の声。
彼らは「時相エコー」。
過去にこのクロノフォージで作業を行い、事故や寿命で散っていったエンジニアたちの残留思念だ。
アンカーの不安定化に伴い、彼らの「無念」が実体化し、新たな作業者(生者)を排除しようとしているのだ。
「コイタ、準備はいいか?」
ノアがホログラムコンソールを高速で操作し、防衛プロトコルを起動する。
「ここからは見学ではない。実戦だ。……君の母さんが命がけで守ってきたこの『網』を、今度は私たちが繕う番だ!」
「ああ、望むところだ!」
コイタはバックパックから愛用の万能スパナを引き抜いた。
手に馴染んだ重みが、恐怖を吹き飛ばしてくれる。
「くそっ、幽霊退治なんて専門外だぞ!」
タケルがパルスガンを連射する。
青い光弾がエコーたちを貫くが、彼らは霧のように揺らぐだけで倒れない。
「物理攻撃が効かない!? リオ、EMPだ!」
「やってますよ! でも効果が薄い!」
『位相がズレています! こちらの攻撃がすり抜けています!』
Rabbitが叫ぶ。
『コイタ様、私の「同期コード」を使ってください! 彼らの時間を現在に強制固定します!』
「了解! Rabbit、合体だ!」
コイタが叫ぶと、Rabbitが空中に飛び上がった。
白く輝く球体から、光のケーブルが伸び、コイタのスパナに絡みつく。
スパナが青白く発光し、ブンッという重低音を響かせた。
「行くぞ、お前ら! 成仏させてやる!」
コイタがスパナを横薙ぎに振るう。
光の刃が空間を切り裂き、迫り来るエコーの群れを捉えた。
ギャアアアッ!
断末魔の悲鳴とともに、半透明の影たちが霧散していく。
「やった! 当たったぞ!」
サミラもナイフにRabbitからのエネルギー供給を受け、別のエコーを切り裂く。
ケイトは端末を展開し、ノイズキャンセラーで精神汚染を防ぐ。
「第4セクターへ急げ!」
ノアが叫んだ。
「アンカーの制御を取り戻すんだ。……世界の崩壊が始まる前に!」
世界の歪みを直す。
それは、ただの修理じゃない。自由を守るための、俺たちの戦いだ。
コイタは走り出した。
崩れゆく時空の最前線へ。
(つづく)




