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宇宙は異世界、知性が世界を守る  作者: カピリロ
クロスフォージ編
37/48

【クロノフォージ編】第37話 アンカーの網 〜時の工房と番人〜

 嘔吐感。

 それが、銀河の最果てに到達した最初の感想だった。

 ワープアウトの瞬間、胃の中身が裏返るような強烈な不快感が襲い、コイタは操縦席で口元を押さえた。

 視界がぐにゃりと歪む。色彩が溶け合い、音が遠のく。

 三半規管が悲鳴を上げている。上下左右、時間感覚すらも曖昧だ。


「……息を吐け、コイタ」

 タケルの低い声が、混乱する意識を現実に引き戻した。

「吐いて、吸う。……ここは通常の宇宙空間とは物理法則の密度が違う。慣れるまで動くな」

「……了解」

 コイタは深呼吸を繰り返した。

 肺に酸素が入るたび、少しずつ世界の輪郭が戻ってくる。


「モニター、映像復帰します」

 Rabbitの冷静な声とともに、キャノピーの遮光フィルターが解除された。


 その瞬間、全員が息を呑んだ。

 そこに「星」はなかった。


 巨大な闇。

 視界を埋め尽くすほどの漆黒の球体が、そこにあった。

 事象の地平線イベント・ホライズン

 光すら脱出できない重力の底。

 だが、その周囲には、目が眩むほど美しい光の円盤アクレションディスクが渦巻いていた。吸い込まれる物質が断末魔の悲鳴とともに放つ、極彩色のプラズマストリームだ。


 そして、その光の渦の上に、人工物が浮かんでいた。

 無数のリング。

 直径数万キロメートルにも及ぶ金属の輪が、幾重にも重なり合い、複雑に回転している。

 それぞれのリングは光のケーブルで繋がれ、脈動するように明滅していた。


「これが……」

 コイタは窓に張り付いた。指先が震えているのが分かる。

「クロノフォージ(時の工房)……」

 ヴォルクからもらった「調和結晶」の装甲が微かに共鳴音を立てている。それがなければ、この場所の重力には耐えられなかったかもしれない。


「まるで……時計だ」

 後ろから覗き込んだケイトがつぶやいた。

「巨大な懐中時計の中身を、宇宙サイズに拡大したみたい。……綺麗だけど、怖いくらい」

「時計の部品ギアでできた天体模型だな」

 リオが補足する。彼は得意のカメラを構えることさえ忘れて、呆然と見入っていた。


『空域スキャン完了。……PAN-13アンカー、全基正常稼働中』

 Rabbitの声には、どこか郷愁に似た響きがあった。

『懐かしい……波長です。私が生まれた場所。そして、時を編む場所』


「着陸ポイントは?」

 サミラが尋ねる。彼女の手はシートベルトをきつく握りしめていた。戦場では決して見せない緊張の色が浮かんでいる。

「この重力下での操船は、私の腕でも保証できないわよ」

「中央リングの第3ドックだ」

 タケルが指差した先。

 巨大な金属の輪の一部が、生物の口のようにゆっくりと開いていた。

「あそこだけ重力波が安定している。……誰かが招いてるな」


 船はゆっくりと降下を開始した。

 光の円盤を横切り、金属のリングへと接近する。


 その時だった。

「なっ……!?」

 コイタが声を上げた。


 窓の外を、何かが横切ったのだ。

 それは古い宇宙船だった。錆びつき、あちこちが破損した旧式の作業艇。

 だが、おかしい。

 その船体は半透明で、背景の星空が透けて見えている。


『回避!』

 タケルが操縦桿を倒すが、作業艇はそのままこちらの船体をすり抜けていった。

 衝撃はない。

 代わりに、船内に声が響いた。


『……クソッ、またアンカーの同期ズレかよ……いい加減にしてくれ……』

『……急げ、特異点が崩壊するぞ……!』

『……母さんに……会いたい……』


 男たちの怒号。悲鳴。そして啜り泣き。

 無数のノイズが重なり合い、頭の中に直接流れ込んでくる。


「なんだ、今の!?」

 リオが耳を塞いで叫ぶ。

「幽霊!? 今、船の中に!」


『落ち着いてください。物理的な実体はありません』

 Rabbitが冷静に分析する。

『これは「時相エコー」。……過去にこの場所で作業を行い、命を落としたエンジニアたちの残留思念、いえ、時間の残響です』


 窓の外を見渡すと、一隻だけではなかった。

 無数の半透明な船影が、リングの周囲を漂っていた。

 ある者は黙々と溶接作業を行い、ある者は爆発して四散し、ある者は虚空を見つめて静止している。

 数万年、数億年にわたって繰り返されてきた、維持管理作業の記録。

 ここは工房ではない。

 墓場だ。


「……あの中に、ヤラもいるのか?」

 ケンジが――通信越しにモニターを見ていた父の声が、微かに震えていた。

「いや、分かってる。それはただの記録だ。……だが」


「父ちゃん」

 コイタは無線機のマイクを強く握った。

「行こう。……本物は、この先にいるはずだ」


 船はエコーの海を抜け、ドックのエアロックへと滑り込んだ。

 重厚な金属音が響き、気圧調整のガスが噴出する。

 「ようこそ」と言わんばかりに、ハッチのインジケーターが緑色に点灯した。


   *   *   *


 ドックから続く通路は、静寂に包まれていた。

 空気は冷たく、乾燥している。古い図書館のような匂いと、微かなオゾンの匂いが混じり合っていた。


 そして、壁一面に刻まれた「文字」。

 それはインクや塗料ではない。光の粒子が、金属の表面を流れるように明滅し、絶えず形を変えている。


「文字……じゃないな」

 コイタは壁に近づいた。

 触れようとすると、光は魚の群れのように指先を避けた。

「データだ。膨大な量の」


「これ、歴史のログよ」

 サミラが光の流れを目で追いながら言った。

「見て、ここ。……惑星の誕生。文明の興り。大戦争。そして滅亡。……一つの星の一生が、わずか数秒で流れていく」

「趣味が悪いな」

 タケルが顔をしかめる。

「他人の一生を標本にして眺めてるのか?」


『これは監視ログではありません』

 Rabbitがコイタの肩から飛び降り、通路の先へと進みながら言った。

『「痛み」の記録です。……時を編む過程で生じた矛盾、切り捨てられた可能性、修正された悲劇。それらすべてを忘れないために、ここに刻んでいます』


 通路の最深部に、巨大なドーム状のホールがあった。

 天井はなく、頭上には先ほど見た降着円盤アクレションディスクの光が直接降り注いでいる。

 床は鏡のように磨き上げられた黒曜石。


 そして、その中央に、一人の男が立っていた。

 灰色の髪を後ろで無造作に束ね、古風なゆったりとしたローブを纏っている。

 外見年齢は三十代半ば。だが、その瞳には老人のような――いや、数億年の時間を生きた者だけが持つ、底知れない深淵が宿っていた。


「ようこそ、遠い星の旅人たち」

 男の声は、驚くほど澄んでいた。

 よく通るバリトンボイス。かつて多くの学生を魅了したであろう、カリスマ性のある声だ。

「そして、おかえり。私の小さなRabbit」


『……ただいま戻りました、ノア様』

 Rabbitが空中で一回転し、男の足元に着地した。

 その動作は、いつもの機械的なものではなく、どこか甘えるような、慕うような響きを含んでいた。

 コイタは初めて見る相棒の姿に、少し戸惑った。


「ノア……様?」

 コイタが眉を寄せる。

「ああ、彼は私の創造主マスターです。……そして、この工房の唯一の管理者アドミニストレーター


「創造主だって?」

 タケルが一歩前に出た。腰の銃には手をかけていないが、警戒心は解いていない。

「あんたが、Rabbitを作ったのか? ……人間……じゃないよな? ここに生身の人間が住めるわけがない」


「肉体を持ったことなど一度もないよ」

 ノア・ケンドリックは、穏やかに微笑んだ。

 彼は自らの胸元に手を当てた。

 衣擦れの音と共に、微かな駆動音が聞こえた。心臓の鼓動ではない。もっと硬質で、規則的な音だ。

「私はこのクロノフォージを管理するために作られた、長期観測システムだ。……だが、君たちと対話するには『人の心』が必要だった。だから、君の父親――ケンジ・カマラの記憶データをベースにして、私のインターフェイス(人格)を再構築したのだ」


「親父の名前を……!」

 コイタが反応する。

「あんた、親父を知ってるのか?」


「知っているとも」

 ノアはコイタに向き直った。

 その視線が、コイタを貫く。X線のように内面まで見透かされている気分だ。

「コイタ・カマラ。君のことは全て見ている。君が生まれた瞬間から、地球でゴミ山を漁っていた日々も、ルルドーでの冒険も。……ヤラの子よ」


「母さんを……!」

 コイタが詰め寄ろうとする。サミラが慌ててその腕を掴んで止めた。

「冷静になりなさい、コイタ」

「放せよ! こいつ、母さんのことを知ってるんだ!」

「だからこそよ。話を聞くの」


 ノアは悲しげに目を細めた。

「ああ。ヤラは優秀なエンジニアだった。……私の『修正パッチ』の理論を理解し、その身を捧げてくれた、数少ない同志だ」


 ノアが指を鳴らす。

 空中にホログラム映像が投影された。

 あの日の映像だ。

 コイタが5歳の時。雨の降る線路脇。

 横転した貨物列車の残骸から、一人の女性が光に包まれて空へ吸い上げられていく。


 場面が変わる。

 見たこともない異星の空。巨大なモノリス(EmpireAIの端末)の前で、ヤラが毅然と交渉している。

 『地球に帰して。家族が待っているの』

 『取引ダ。……我々ト共ニ、新タニ居住可能ナ惑星へノ移民計画プロジェクトヲ進メロ』


 Empireは彼女に拒否権を与えなかった。彼女は囚われの身として、来る日も来る日も数式と向き合った。

 そして、その研究の過程で、彼女は深層に潜む「ノア」の声を聞いたのだ。


 さらに場面が変わる。

 暗い実験室。ゲートの前でヤラが何かの装置を操作している。

 『ごめんね、コイタ、ケンジ。……もう、地球には戻れないかもしれない。でも、あなたたちの未来だけは』


 彼女はゲートに飛び込んだ。だが、直後に赤い警報が鳴り響く。

 『Unauthorized Transfer Detected. (不正転送検知)』

 Empireの防衛システムが作動し、転送中の空間が歪められた。


「彼女は私(PioneerAI)のいる領域へ到達しようとした。……だが、Empireはそれを『裏切り』と見なし、転送を妨害して彼女の肉体を構成する情報を強制削除したのだ」


 映像の中で、ヤラの体が光の粒子となって砕け散る。

 だが、その心臓部から溢れ出した金色の光――「魂」のデータだけが、時空の彼方へ飛んでいった。


 彼女は叫んでいた。

 『座標固定! PAN-13、位相接続! ……あの子たちの未来を、閉ざさせはしない!』


 光が溢れ、ヤラの体は粒子となって分解された。

 死ではない。

 データと同化し、システムの一部となったのだ。


「彼女は世界のバグを直そうとした」

 ノアは続けた。

「肉体が崩壊する寸前、彼女は自らを『くさび』としてシステムに打ち込み、破局を止めた。……君を守るために」


 コイタは膝から崩れ落ちそうになった。

 記憶の中の母は、いつも優しく笑っていた。

 だが、その最期は、偉大な戦士のような覚悟に満ちていた。

「母さんは……戦ってたのか。ずっと……」


「そうだ。君と同じだ」

 ノアは一歩近づいた。

「だが、直せるものと直せないものがある。……このクロノフォージは、時間を『管理』するための場所ではない。『綻び』を繕うための、間に合わせの裁縫箱に過ぎないのだよ」


「どういう意味だ?」

 ケイトが鋭く問う。

「あなたは時間の管理者なんでしょ? 歴史を修正したり、無かったことにしたりできるんじゃないの?」


「傲慢な考えだね」

 ノアは苦笑した。

「見てみたまえ」


 彼が両手を広げると、ホールのドーム壁が透明になった。

 天井だけではない。床も、壁も、すべてが透き通り、宇宙空間に放り出されたような感覚に陥る。


 そこには、地獄があった。

 ブラックホールの重力に抗うように、無数のアンカーが蜘蛛の巣のように張り巡らされている。

 だが、その糸は今にも切れそうだった。

 赤く発熱し、火花を散らし、悲鳴のような振動波を上げている。

 時相エコーたちが群がり、必死に修理しているが、崩壊の速度の方が速い。


「宇宙は膨張を続け、時間は常に散逸しようとしている。エントロピーの増大からは誰も逃れられない」

 ノアは、崩れゆく光の網を見つめながら言った。

「それを無理やり繋ぎ止めているのが、このアンカー網だ。……だが、限界が近い。もう継ぎ接ぎだらけで、ボロ布のようだ」


 彼は振り返り、コイタたちに告げた。

「君たちがここに来たのは、その『限界』を見届けるためかもしれないな。……世界の終わりという、最後のショーを」


 絶望的な光景。

 圧倒的な無力感。

 だが、コイタは立ち上がった。

 涙を拭い、真っ直ぐにノアを見据える。


「見届ける? 違う」

 コイタの声には、もう迷いはなかった。

「俺は、助けに来たんだ」


 彼は足元のRabbitを抱き上げた。

 白くて丸い、相棒の温かさ。

「俺の相棒の実家がボロボロなら、直すのがエンジニアの仕事だろ?」

「それに」

 コイタはニカっと笑った。いつもの、悪戯っ子の笑顔だ。

「母さんが守ろうとした世界だ。終わらせてたまるかよ」


 ノアは目を丸くした。

 数秒の沈黙の後、彼は噴き出した。

「くっ……はははは! ああ、血は争えないな!」

 その笑い声は、人間らしく、温かかった。

「いいだろう。……見せてみろ、ヤラの子よ。君の『修理』の腕前を」


 時の番人と、若き修理屋。

 銀河の命運を賭けた、最後の共同作業セッションが始まろうとしていた。


 (つづく)

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