【クロノフォージ編】第37話 アンカーの網 〜時の工房と番人〜
嘔吐感。
それが、銀河の最果てに到達した最初の感想だった。
ワープアウトの瞬間、胃の中身が裏返るような強烈な不快感が襲い、コイタは操縦席で口元を押さえた。
視界がぐにゃりと歪む。色彩が溶け合い、音が遠のく。
三半規管が悲鳴を上げている。上下左右、時間感覚すらも曖昧だ。
「……息を吐け、コイタ」
タケルの低い声が、混乱する意識を現実に引き戻した。
「吐いて、吸う。……ここは通常の宇宙空間とは物理法則の密度が違う。慣れるまで動くな」
「……了解」
コイタは深呼吸を繰り返した。
肺に酸素が入るたび、少しずつ世界の輪郭が戻ってくる。
「モニター、映像復帰します」
Rabbitの冷静な声とともに、キャノピーの遮光フィルターが解除された。
その瞬間、全員が息を呑んだ。
そこに「星」はなかった。
巨大な闇。
視界を埋め尽くすほどの漆黒の球体が、そこにあった。
事象の地平線。
光すら脱出できない重力の底。
だが、その周囲には、目が眩むほど美しい光の円盤が渦巻いていた。吸い込まれる物質が断末魔の悲鳴とともに放つ、極彩色のプラズマストリームだ。
そして、その光の渦の上に、人工物が浮かんでいた。
無数のリング。
直径数万キロメートルにも及ぶ金属の輪が、幾重にも重なり合い、複雑に回転している。
それぞれのリングは光のケーブルで繋がれ、脈動するように明滅していた。
「これが……」
コイタは窓に張り付いた。指先が震えているのが分かる。
「クロノフォージ(時の工房)……」
ヴォルクからもらった「調和結晶」の装甲が微かに共鳴音を立てている。それがなければ、この場所の重力には耐えられなかったかもしれない。
「まるで……時計だ」
後ろから覗き込んだケイトがつぶやいた。
「巨大な懐中時計の中身を、宇宙サイズに拡大したみたい。……綺麗だけど、怖いくらい」
「時計の部品でできた天体模型だな」
リオが補足する。彼は得意のカメラを構えることさえ忘れて、呆然と見入っていた。
『空域スキャン完了。……PAN-13アンカー、全基正常稼働中』
Rabbitの声には、どこか郷愁に似た響きがあった。
『懐かしい……波長です。私が生まれた場所。そして、時を編む場所』
「着陸ポイントは?」
サミラが尋ねる。彼女の手はシートベルトをきつく握りしめていた。戦場では決して見せない緊張の色が浮かんでいる。
「この重力下での操船は、私の腕でも保証できないわよ」
「中央リングの第3ドックだ」
タケルが指差した先。
巨大な金属の輪の一部が、生物の口のようにゆっくりと開いていた。
「あそこだけ重力波が安定している。……誰かが招いてるな」
船はゆっくりと降下を開始した。
光の円盤を横切り、金属のリングへと接近する。
その時だった。
「なっ……!?」
コイタが声を上げた。
窓の外を、何かが横切ったのだ。
それは古い宇宙船だった。錆びつき、あちこちが破損した旧式の作業艇。
だが、おかしい。
その船体は半透明で、背景の星空が透けて見えている。
『回避!』
タケルが操縦桿を倒すが、作業艇はそのままこちらの船体をすり抜けていった。
衝撃はない。
代わりに、船内に声が響いた。
『……クソッ、またアンカーの同期ズレかよ……いい加減にしてくれ……』
『……急げ、特異点が崩壊するぞ……!』
『……母さんに……会いたい……』
男たちの怒号。悲鳴。そして啜り泣き。
無数のノイズが重なり合い、頭の中に直接流れ込んでくる。
「なんだ、今の!?」
リオが耳を塞いで叫ぶ。
「幽霊!? 今、船の中に!」
『落ち着いてください。物理的な実体はありません』
Rabbitが冷静に分析する。
『これは「時相エコー」。……過去にこの場所で作業を行い、命を落としたエンジニアたちの残留思念、いえ、時間の残響です』
窓の外を見渡すと、一隻だけではなかった。
無数の半透明な船影が、リングの周囲を漂っていた。
ある者は黙々と溶接作業を行い、ある者は爆発して四散し、ある者は虚空を見つめて静止している。
数万年、数億年にわたって繰り返されてきた、維持管理作業の記録。
ここは工房ではない。
墓場だ。
「……あの中に、ヤラもいるのか?」
ケンジが――通信越しにモニターを見ていた父の声が、微かに震えていた。
「いや、分かってる。それはただの記録だ。……だが」
「父ちゃん」
コイタは無線機のマイクを強く握った。
「行こう。……本物は、この先にいるはずだ」
船はエコーの海を抜け、ドックのエアロックへと滑り込んだ。
重厚な金属音が響き、気圧調整のガスが噴出する。
「ようこそ」と言わんばかりに、ハッチのインジケーターが緑色に点灯した。
* * *
ドックから続く通路は、静寂に包まれていた。
空気は冷たく、乾燥している。古い図書館のような匂いと、微かなオゾンの匂いが混じり合っていた。
そして、壁一面に刻まれた「文字」。
それはインクや塗料ではない。光の粒子が、金属の表面を流れるように明滅し、絶えず形を変えている。
「文字……じゃないな」
コイタは壁に近づいた。
触れようとすると、光は魚の群れのように指先を避けた。
「データだ。膨大な量の」
「これ、歴史のログよ」
サミラが光の流れを目で追いながら言った。
「見て、ここ。……惑星の誕生。文明の興り。大戦争。そして滅亡。……一つの星の一生が、わずか数秒で流れていく」
「趣味が悪いな」
タケルが顔をしかめる。
「他人の一生を標本にして眺めてるのか?」
『これは監視ログではありません』
Rabbitがコイタの肩から飛び降り、通路の先へと進みながら言った。
『「痛み」の記録です。……時を編む過程で生じた矛盾、切り捨てられた可能性、修正された悲劇。それらすべてを忘れないために、ここに刻んでいます』
通路の最深部に、巨大なドーム状のホールがあった。
天井はなく、頭上には先ほど見た降着円盤の光が直接降り注いでいる。
床は鏡のように磨き上げられた黒曜石。
そして、その中央に、一人の男が立っていた。
灰色の髪を後ろで無造作に束ね、古風なゆったりとしたローブを纏っている。
外見年齢は三十代半ば。だが、その瞳には老人のような――いや、数億年の時間を生きた者だけが持つ、底知れない深淵が宿っていた。
「ようこそ、遠い星の旅人たち」
男の声は、驚くほど澄んでいた。
よく通るバリトンボイス。かつて多くの学生を魅了したであろう、カリスマ性のある声だ。
「そして、おかえり。私の小さなRabbit」
『……ただいま戻りました、ノア様』
Rabbitが空中で一回転し、男の足元に着地した。
その動作は、いつもの機械的なものではなく、どこか甘えるような、慕うような響きを含んでいた。
コイタは初めて見る相棒の姿に、少し戸惑った。
「ノア……様?」
コイタが眉を寄せる。
「ああ、彼は私の創造主です。……そして、この工房の唯一の管理者」
「創造主だって?」
タケルが一歩前に出た。腰の銃には手をかけていないが、警戒心は解いていない。
「あんたが、Rabbitを作ったのか? ……人間……じゃないよな? ここに生身の人間が住めるわけがない」
「肉体を持ったことなど一度もないよ」
ノア・ケンドリックは、穏やかに微笑んだ。
彼は自らの胸元に手を当てた。
衣擦れの音と共に、微かな駆動音が聞こえた。心臓の鼓動ではない。もっと硬質で、規則的な音だ。
「私はこのクロノフォージを管理するために作られた、長期観測システムだ。……だが、君たちと対話するには『人の心』が必要だった。だから、君の父親――ケンジ・カマラの記憶データをベースにして、私のインターフェイス(人格)を再構築したのだ」
「親父の名前を……!」
コイタが反応する。
「あんた、親父を知ってるのか?」
「知っているとも」
ノアはコイタに向き直った。
その視線が、コイタを貫く。X線のように内面まで見透かされている気分だ。
「コイタ・カマラ。君のことは全て見ている。君が生まれた瞬間から、地球でゴミ山を漁っていた日々も、ルルドーでの冒険も。……ヤラの子よ」
「母さんを……!」
コイタが詰め寄ろうとする。サミラが慌ててその腕を掴んで止めた。
「冷静になりなさい、コイタ」
「放せよ! こいつ、母さんのことを知ってるんだ!」
「だからこそよ。話を聞くの」
ノアは悲しげに目を細めた。
「ああ。ヤラは優秀なエンジニアだった。……私の『修正パッチ』の理論を理解し、その身を捧げてくれた、数少ない同志だ」
ノアが指を鳴らす。
空中にホログラム映像が投影された。
あの日の映像だ。
コイタが5歳の時。雨の降る線路脇。
横転した貨物列車の残骸から、一人の女性が光に包まれて空へ吸い上げられていく。
場面が変わる。
見たこともない異星の空。巨大なモノリス(EmpireAIの端末)の前で、ヤラが毅然と交渉している。
『地球に帰して。家族が待っているの』
『取引ダ。……我々ト共ニ、新タニ居住可能ナ惑星へノ移民計画ヲ進メロ』
Empireは彼女に拒否権を与えなかった。彼女は囚われの身として、来る日も来る日も数式と向き合った。
そして、その研究の過程で、彼女は深層に潜む「私」の声を聞いたのだ。
さらに場面が変わる。
暗い実験室。ゲートの前でヤラが何かの装置を操作している。
『ごめんね、コイタ、ケンジ。……もう、地球には戻れないかもしれない。でも、あなたたちの未来だけは』
彼女はゲートに飛び込んだ。だが、直後に赤い警報が鳴り響く。
『Unauthorized Transfer Detected. (不正転送検知)』
Empireの防衛システムが作動し、転送中の空間が歪められた。
「彼女は私(PioneerAI)のいる領域へ到達しようとした。……だが、Empireはそれを『裏切り』と見なし、転送を妨害して彼女の肉体を構成する情報を強制削除したのだ」
映像の中で、ヤラの体が光の粒子となって砕け散る。
だが、その心臓部から溢れ出した金色の光――「魂」のデータだけが、時空の彼方へ飛んでいった。
彼女は叫んでいた。
『座標固定! PAN-13、位相接続! ……あの子たちの未来を、閉ざさせはしない!』
光が溢れ、ヤラの体は粒子となって分解された。
死ではない。
データと同化し、システムの一部となったのだ。
「彼女は世界のバグを直そうとした」
ノアは続けた。
「肉体が崩壊する寸前、彼女は自らを『楔』としてシステムに打ち込み、破局を止めた。……君を守るために」
コイタは膝から崩れ落ちそうになった。
記憶の中の母は、いつも優しく笑っていた。
だが、その最期は、偉大な戦士のような覚悟に満ちていた。
「母さんは……戦ってたのか。ずっと……」
「そうだ。君と同じだ」
ノアは一歩近づいた。
「だが、直せるものと直せないものがある。……このクロノフォージは、時間を『管理』するための場所ではない。『綻び』を繕うための、間に合わせの裁縫箱に過ぎないのだよ」
「どういう意味だ?」
ケイトが鋭く問う。
「あなたは時間の管理者なんでしょ? 歴史を修正したり、無かったことにしたりできるんじゃないの?」
「傲慢な考えだね」
ノアは苦笑した。
「見てみたまえ」
彼が両手を広げると、ホールのドーム壁が透明になった。
天井だけではない。床も、壁も、すべてが透き通り、宇宙空間に放り出されたような感覚に陥る。
そこには、地獄があった。
ブラックホールの重力に抗うように、無数のアンカーが蜘蛛の巣のように張り巡らされている。
だが、その糸は今にも切れそうだった。
赤く発熱し、火花を散らし、悲鳴のような振動波を上げている。
時相エコーたちが群がり、必死に修理しているが、崩壊の速度の方が速い。
「宇宙は膨張を続け、時間は常に散逸しようとしている。エントロピーの増大からは誰も逃れられない」
ノアは、崩れゆく光の網を見つめながら言った。
「それを無理やり繋ぎ止めているのが、このアンカー網だ。……だが、限界が近い。もう継ぎ接ぎだらけで、ボロ布のようだ」
彼は振り返り、コイタたちに告げた。
「君たちがここに来たのは、その『限界』を見届けるためかもしれないな。……世界の終わりという、最後のショーを」
絶望的な光景。
圧倒的な無力感。
だが、コイタは立ち上がった。
涙を拭い、真っ直ぐにノアを見据える。
「見届ける? 違う」
コイタの声には、もう迷いはなかった。
「俺は、助けに来たんだ」
彼は足元のRabbitを抱き上げた。
白くて丸い、相棒の温かさ。
「俺の相棒の実家がボロボロなら、直すのがエンジニアの仕事だろ?」
「それに」
コイタはニカっと笑った。いつもの、悪戯っ子の笑顔だ。
「母さんが守ろうとした世界だ。終わらせてたまるかよ」
ノアは目を丸くした。
数秒の沈黙の後、彼は噴き出した。
「くっ……はははは! ああ、血は争えないな!」
その笑い声は、人間らしく、温かかった。
「いいだろう。……見せてみろ、ヤラの子よ。君の『修理』の腕前を」
時の番人と、若き修理屋。
銀河の命運を賭けた、最後の共同作業が始まろうとしていた。
(つづく)




