【地球編】第03話 動けばなんとかなる
世界は、道一本隔てただけで色を変える。
コイタが暮らす港町B/Sゾーン(ブルーカラー・スラム・ゾーン)が「錆と重油と潮風の茶色」だとしたら、ここアカデミア・ゾーンは「無機質で人工的な白」だ。
強化樹脂で舗装された道路にはゴミ一つ落ちておらず、白いラインが幾何学模様のように引かれている。
街路樹は遺伝子調整された常緑樹で、ミリ単位で剪定〈せんてい〉され、まるでプラスチックの模型のように整然と並んでいる。葉の一枚一枚までが管理されているようだ。
その中を、純白の制服を着た生徒たちが静かに歩いていく。彼らの胸元では、市民ランクを示すIDタグが朝陽を受けてキラキラと光っていた。Aランクを示す銀色、Bランクを示す青色。
その中で、コイタだけが浮いていた。
洗濯したとはいえ、繊維の奥まで染み込んだ古い油のシミが落ちないデザートイエローの作業用ツナギ。
皆が背負っているのはブランド物の耐衝撃通学バッグだが、コイタの背中にあるのは手製の帆布リュックだ。
中には電子教科書ではなく、油紙に包まれた工具セットと、スリープモードのRabbitが眠っている。
「……空気が薄いな」
コイタはマスクの位置を直しながら、小さく呟いた。
物理的には同じ空気だ。
でも、ここの空気は高性能フィルターを通したように無臭で、どこか消毒液のような薬っぽい匂いがする。
生命の匂いがしない。息が詰まりそうだった。
* * *
教室に入ると、ざわめきが一瞬、ピタリと止まった。
視線。
好奇心、軽蔑、無関心。それらが混ざり合った独特の圧力。
「うわ、オイルの匂いしない?」と囁く声が聞こえる。
コイタはいつものように、教室の隅、窓際の一番後ろの席に座り、リュックを抱えるようにして机に突っ伏した。
「おはようございます、皆さん」
ホームルームのチャイムと共に、担任の香月〈こうづき〉先生が入ってきた。
香月夕莉、28歳。
少し大きめのスクエア眼鏡をかけた、真面目を絵に描いたような女性だ。黒髪は肩口できっちりと切り揃えられ、化粧っ気はない。
いつも早口で、手にはEmpireAI教育局発行の手順表が表示されたタブレットを持っている。
「今日はEmpireAIからの通達について確認があります。……ええと、重要です」
彼女は黒板にチョークを走らせるのではなく、手元のタブレットを操作して空中にホログラムを投影した。
【Topic: Resource Optimization & Energy Cut (資源最適化および電力削減)】
「エネルギー割当の変更があります。第3区画の電力供給が見直されました。それに伴い、実習棟の使用時間は17時まで。延長申請は原則認められなくなりました。……皆さん、下校時間を守るように。安全第一です」
教室から小さな溜息が漏れる。
「またかよ」「マジで何もできねえじゃん」
管理社会。すべてはEmpireAIの計算通り。
効率化という名目で、自由な時間は削り取られていく。
でも、コイタは気づいていた。
香月先生が端末を操作する指が、微かに震えていることを。
彼女の目の下には薄っすらと隈がある。彼女もまた、この息苦しさに怯えている一人なのかもしれない。
* * *
「コイタ君、ちょっと」
放課後、廊下を歩いていると呼び止められた。
そこに立っていたのは、三條〈さんじょう〉先生だった。
三條さつき。地域学習センターの指導員も兼ねている、小柄な女性教師だ。化学担当だが、いつも実験室に入り浸っている。
グレーのパンツスーツは地味だが、着こなしには隙がない。眠そうな目をしているが、手元には常に電子ペーパー(Eインク)の端末がある。
「……何ですか、先生。ツナギの汚れなら、これでも洗ったんですけど」
コイタは身構えた。どうせまた、身だしなみチェックか、工具の持ち込み検査だ。
「汚れは個性だよ。問題なのは『手続き』のほう」
三條はため息交じりに端末をタップした。
「今日の放課後、第13実習室。使用申請が出てないけど、使う気でしょ?」
コイタはぎくりとした。
「あ、いや……ちょっと片付けを……」
「嘘は結構。……EmpireAIの使用ログに残らなければいいんでしょ?」
三條は端末の画面をコイタに見せた。そこには【備品点検:実施中(担当:三條)】の文字が表示されている。
「私が個人的な点検作業中ってことにして、枠を取った。17時までなら電源も落ちないし、監視カメラもメンテナンスモードにしてある。……その代わり、派手なことはしないでね。私が始末書を書くのは御免だから」
「え……いいんですか?」
「リスク分散だよ。君みたいなのが外で勝手に実験して事故るより、学校の管理下でガス抜きさせた方がマシっていう判断」
三條は肩をすくめた。
「いいか、コイタ。完璧な答えなんて求めるな。世界は白と黒だけじゃない」
「え?」
「強すぎる光は影を作る。強すぎる正義は争いを生む。大事なのは、その間のグレーゾーンだ。……遊びのないハンドルじゃ、悪路は走れないぞ」
彼女は片目を瞑ってみせた。
「紙と印鑑は非常口。……いざとなったら『書類のミス』で逃げ道を作るのが大人の仕事さ。……適度に暴れなさい、若者」
彼女はヒラヒラと手を振って、あくびを噛み殺しながら去っていった。
情熱や善意ではない。ただ「円滑な運用」のために手を貸してくれる。
そんな大人もいるんだ。コイタは少しだけ、この白い世界の見方が変わった気がした。
* * *
第13実習室。そこは「開かずの間」と呼ばれる、旧式の機材が詰め込まれたガラクタ部屋だった。
埃っぽい匂い。焼けたコンデンサと、古い油の匂い。
コイタには、消毒された教室よりもよほど落ち着く匂いだ。
棚にはCRTモニターや、物理キーボード、用途不明の太いケーブルが山積みにされている。
コイタは作業台のスペースを確保すると、リュックからRabbitを取り出した。
「Rabbit、起動。セキュアモード」
『了解。ネットワーク遮断。ローカル環境で起動します』
Rabbitの目がぼんやりと点灯し、耳がピコピコと動く。
「お前、学校にも連れてきてたのか」
突然、機材の山が崩れ、中から人が出てきた。
タケルだ。
タケル・フカガワ。コイタと同じクラスの、線の細い優等生。いつも最新のARグラスをかけてブツブツ言っている、ちょっと近寄りがたい奴。
「タケル……ここにいたの?」
「ここしか居場所がないんだよ、アナログな人間には」
タケルは埃を払いながら、興味深そうにRabbitを覗き込んだ。
「……すごいな、その球体。君が作ったのか? 授業で使う規格品じゃないな」
「拾って直したんだ。ゴミ捨て場で。OSはカーネルから書き換えて自作したけど」
「自作!? このご時世に? AI生成コードを使わずに?」
タケルの目が輝いた。ARグラスのレンズ越しに、彼の興奮が伝わってくる。
彼はしゃがみ込むと、まるで貴重な宝石を見るようにRabbitの継ぎ接ぎだらけの外装を愛でた。
「すごい……。これ、全部ジャンクパーツだろ? 右腕のアクチュエータは30年前の産業用アーム、視覚センサーは軍用の払い下げ品……。互換性のない部品を物理的にコネクタ改造して繋げてるのか……。クレイジーだ。いや、アーティストだ」
「そ、そうかな……。金がなかったから、あるもので組んだだけで……」
コイタは照れくさそうに頬をかいた。同年代に、こんな風に褒められたのは初めてだった。みんな、「ゴミを漁る変人」としか見ないからだ。
タケルは自分の端末を取り出し、猛烈な勢いで何かを打ち込み始めた。
「僕なら、ここの配線は光ファイバーでバイパスさせて処理速度を上げる。……あ、でもそうすると熱排気が追いつかないか。だからこのヒートシンクむき出しの形状なのか……なるほど、機能美だ。理に適ってる」
二人の間に、奇妙な連帯感が生まれた瞬間だった。オタク特有の、言葉を超えた共鳴だ。
その時、Rabbitが急に反応した。
『警告。微弱な特異点信号を検知。……距離、至近』
「え?」
Rabbitが機材の山――タケルが出てきた奥の暗がり――を指差す。
そこには、一際古い、錆びついた金属の箱があった。
「……ねえ、そこ。男子二人で何盛り上がってんの?」
今度は、入り口から声がした。
そこに立っていたのは、ケイト・ミラーだった。
学園のアイドル的存在。輝くような金髪を高い位置でポニーテールにし、制服を着崩したギャルっぽい出で立ち。スカートの丈は校則ギリギリだ。
彼女は退屈そうに髪を弄りながら、部屋の中を見回した。
「ここならサボれるって聞いたんだけど。……先客? しかもむさ苦しい」
「ケ、ケイトさん?」
コイタは後ずさった。住む世界が違いすぎる。スクールカーストの頂点だ。
だが、ケイトの視線はコイタではなく、その足元の球体に吸い寄せられた。
「なにそれ、可愛い! ウサギ? 天使?」
ケイトはズカズカと部屋に入ってくると、汚れた床も気にせず、遠慮なくRabbitの頬(外装)を突っついた。
『接触を検知。……敵性反応なし。友好度判定……保留』
Rabbitが困ったようにアンテナを垂らす。
「喋った! ウケる!」
ケイトはケラケラと笑った。その笑顔は、意外なほど無邪気だった。
「ねえ、コイタ君だっけ? これ、動かしてみてよ。何ができるの? 踊れる?」
「えっと……簡単な修理とか、計算とか……踊りはプログラムしてないけど」
「動けばなんとかなるっしょ! 見せて見せて! 私、退屈で死にそうなのよ」
彼女の強引なペースに、コイタは圧倒された。
でも、悪い気はしなかった。
彼女はコイタの服の汚れも、Rabbitの継ぎ接ぎだらけの外見も気にしていなかった。ただ純粋に、「面白いもの」として見ている。
この部屋には、不思議な磁場があるのかもしれない。はみ出し者を引き寄せる磁場が。
その様子を、部屋の入り口から静かに見つめる影があった。
教務主任の、白石〈しらいし〉先生だった。
長く艶やかな黒髪。冷ややかな美貌。
彼女の手には、EmpireAIの中央サーバーに直結された、漆黒のタブレットが握られている。画面には、コイタたちの生体データと発言ログがリアルタイムで流れていた。
彼女は何も言わず、ただじっとその光景を記録し、無表情で立ち去った。
まるで、実験動物の経過観察をするかのように。
(つづく)




