【惑星ルルドー編】第13話 海から来た者 〜消えた信号と見知らぬ波〜
その目覚めは、冷たく、そして強烈に塩辛いものだった。
波の音が鼓膜を叩く。
ズゥーン……ズゥーン……。
聞き慣れた地球の海の音とは明らかに違う。リズムが遅く、波の質量そのものが重いかのようだ。
「……っぷぁっ!」
コイタは海面から顔を出し、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
酸素濃度は地球に近い。だが、喉の奥に張り付くような独特の刺激がある。まるで、香辛料のシナモンと潮風を混ぜ合わせたような、スパイシーな匂いだ。
「ここは……どこだ?」
重い手足を動かして、砂浜へと這い上がる。
砂の一粒一粒が、ガラスのように鋭く、キラキラと七色に輝いていた。
仰向けに倒れ込むと、身体が奇妙に軽いことに気づいた。
重力が小さい。地球の0.8倍くらいだろうか。心臓の鼓動が、普段よりも少しだけゆっくりと打っている気がする。
濡れた前髪をかき上げ、空を見上げた瞬間。
コイタは呼吸を忘れた。
空が、青くない。
紫がかった深い藍色――成層圏のさらに上空のような色が、視界の端から端までを覆っていた。
そして、そこには二つの月が浮かんでいた。
一つは凍てつくように青白く、欠けた皿のような形をしている。
もう一つは、血が滲んだかのように赤黒く、不気味な脈動を感じさせる球体だ。
「マジかよ……」
乾いた声が出た。
PioneerAIが「全ゲート開放」を告げた時、まさか物理的な距離をこれほど跳躍するとは思っていなかった。
宇宙船に乗った記憶はない。ただ、データの奔流に飲み込まれ、体を素粒子レベルまで分解されるような感覚があっただけだ。
その最中、一瞬だけRabbitの警告音が聞こえた気がした。
『……負荷検知。……代理……実行……』
ノイズ混じりのその声は、苦しげに歪んでいた。あれは夢だったのか?
「おい、Pioneer! Rabbit! どこだ!」
コイタは上半身を起こして叫んだ。
声が紫の空に吸い込まれていく。返事はない。
左腕のスマートウォッチを見る。
防水仕様の画面はひび割れ、真っ黒だった。ボタンを押しても反応しない。
「嘘だろ……?」
コイタは震える手でバックパックを探った。
中に入っていたタブレットも、予備のバッテリーも、すべて沈黙している。
エレクトロニクスの塊である彼から、電子機器を奪ったら何が残る?
ただの無力な、迷子の子供だ。
「一人かよ……」
圧倒的な孤独が、潮風と共に押し寄せてきた。
地球での、あの灰色の空と油の匂いが、急に恋しくなった。
親父の怒鳴り声も、ケイトの憎まれ口も、今は聞きたくてたまらない。
膝を抱えてうずくまる。涙が出そうになるのを、唇を噛んで堪えた。
その時。
ガサガサッ。
背後の密林が揺れた。
風の音ではない。何かが、こちらを見ている。
コイタは弾かれたように立ち上がり、落ちていた流木を構えた。
「誰だ!」
茂みから現れたのは、意外な姿だった。
二足歩行の猫……いや、もっと精悍な、猫耳と長い尻尾を持つ獣人たちだった。
身長はコイタと同じくらい。しなやかな筋肉の上に、植物の繊維で編まれたベストを着ている。
手には、黒曜石のような鋭い刃がついた槍を持っていた。
『「…………」』
彼らはコイタを見て、金色の瞳を丸くしていた。
敵意はない。あるのは、純粋な驚嘆と、畏敬の念だ。
「えっと……こんにちは?」
コイタがおっかなびっくり手を上げる。
獣人の一人が、震える声で何かを呟いた。
『「……空の……使い?」』
言葉がわかる。
いや、耳で聞いているのではない。脳内に直接、意味が響いてくる感覚だ。
この星の種族は、音波だけでなく、何らかの精神感応のようなもので意志を伝達しているらしい。
彼らは武器を捨て、その場に平伏した。
『「おお、伝説の! 星を渡る使いが現れた!」』
「は? 星を渡る?」
コイタは首を傾げた。
何の話だ? 俺が宇宙から来たってことがバレてるのか?
----
* * *
クレーターの現場から戻ったケンジは、息子のいない工房の中心に立ち尽くしていた。
部屋の時間は、あの日で止まっている。
工具は散らばったままだ。
飲みかけのコーヒーカップの縁には、乾いた茶色の跡がついている。
コイタが愛用していた半田ごてからは、もう熱は感じられないが、染み付いた松脂の匂いが微かに漂っていた。
「……馬鹿な奴だ」
ケンジは呟いた。
声が、やけに広く感じる部屋に吸い込まれていく。
作業台の上には、コイタが残したメモがあった。
『飯は冷蔵庫。洗濯物は頼んだ。あと、俺の部屋には入るな』
殴り書きの文字。家出少年の書き置きそのものだ。
しかし、ケンジはさっき、その目で見た。これは家出ではない。
息子は、質量を捨てて、光になったのだ。二度と、この肉体としての手で触れることはできないかもしれない。
「……あいつ、本当に行きやがったな」
入り口のドアが開く音がした。
三條先生が入ってきた。その後ろには、香月先生もいる。
二人とも、ひどく息を切らせていた。
「け、ケンジさん……! これを!」
香月が、タブレットを作業台に叩きつけた。
画面には、複雑な数式とバイナリコードが羅列されている。
「12年前の論文……『Y.R.』のオリジナルデータです。アーカイブの深層から引っ張り出してきました」
「なんだ、藪から棒に。……今は、そんな気分じゃ」
「見てください。この第4章のデータ構造」
香月が指差す。
「一見するとただのノイズですが、これ、ステガノグラフィ(電子透かし)です。特定の波長でフィルタリングすると、意味のある数列になるんです」
「……座標?」
三條が眼鏡を光らせた。彼女の手元の端末が高速で解析コードを走らせている。
「緯度35.68、経度139.76。……ここです。この工房の、地下2メートル」
「地下だと?」
ケンジは眉をひそめた。この工房は中古で買った物件だ。地下室なんてないはずだ。
だが、ヤラが生前、一度だけ言っていた言葉を思い出した。
『大切なものは、一番足元に埋めてあるの』
「……どけ!」
ケンジはバールを掴み、指定された座標――作業場の床板を力任せに剥がした。
腐った木材の下から、コンクリートの床が現れる。
その一部が、不自然に新しい。
ガンッ! ガンッ!
コンクリートを砕くと、そこには鉛でコーティングされた重厚な金属ケースが埋まっていた。
震える手でロックを外す。
プシュゥゥ……。
密閉されていた空気が抜ける音と共に、中から青白い光が溢れ出した。
中に入っていたのは、見たこともない結晶状の回路が組み込まれた機械装置と、一本の記録媒体だった。
『……ケンジ。これを見ているということは、私はもう、あなたのそばにはいないのね』
ロッドが起動し、空中にホログラムが浮かび上がる。
ヤラだ。12年前の、あの優しい笑顔のままの彼女がいる。
『驚かないで聞いて。……私は、地球の人間じゃないの』
「…………!」
ケンジは息を呑んだ。
香月と三條も、言葉を失ってその映像を見つめている。
『私の故郷は、遥か彼方の星。……ある事故で、この星に転送されてしまった。戻る方法もなくて、途方に暮れていたわ』
映像の中のヤラは、少し寂しげに微笑んだ。
『幸運だったのは、私の姿があなたたちとそっくりだったこと。だから私は、地球人として生きるしかなかった』
「……それで、大学のサーバーを?」
香月が呟いた。
ヤラはまるでその声が聞こえたかのように続けた。
『でも、諦めきれなかった。……だから、一番性能のいい計算機がある場所――大学のシステムに侵入して、ずっと計算していたの。故郷へ帰るための座標を』
それが「Y.R.」の正体だったのだ。
論文ではなく、迷子の計算ログ。
『でも、計算が終わる前に、私はあなたに出会ってしまった』
ヤラの表情が柔らかくなる。
『ケンジ。あなたは私の奇妙な行動を笑わずに、壊れたジャンクPCを直してくれた。……いつの間にか、私は帰ることよりも、あなたと、そしてコイタと生きることを選んでいた』
『この機械は、計算の末に私が作った通信機。……もしもいつか、コイタが私と同じように空へ旅立ってしまったら。その時は、これを使って。これなら、どんなに離れていても声が届くから』
映像が消える。
静寂が戻った工房に、潮騒のようなノイズだけが残った。
「……馬鹿野郎」
ケンジは拳を握りしめた。目から熱いものが溢れてくる。
「水臭えんだよ……! 全部一人で抱え込みやがって……!」
「……ケンジさん」
香月が静かに声をかけた。
「繋ぎましょう。彼女が遺してくれた、最後の希望です」
「ああ、やってやるさ!」
ケンジは涙を拭い、その未知のモジュールを自分の無線機に接続した。
規格も電圧も違うはずだが、吸い付くようにコネクタが適合する。まるで、この日のためにあつらえられていたかのように。
スイッチを入れる。
キュイィィン……!
通常の無線機ではありえない、澄んだ高周波音が響く。
ノイズキャンセリングなんてレベルではない。宇宙の彼方から、特定の波長だけをピンポイントで掴み取っている。
ト・ト・ツ・ー……。
明確なパルス。
コイタが書くコード特有の、あの不器用なリズム。
「見つけた……!」
ケンジが叫んだ。
「生きてる! あいつ、宇宙の向こうで生きてやがる!」
三人は顔を見合わせた。
教師、ハッカー、そして修理屋。
立場も職種も違う三人が、今、一つの秘密を共有した。
「……これ、公文書偽造じゃ済まないわね」
三條が涙ぐんで笑った。
「国家機密レベルの隠蔽工作だわ。……上等じゃない」
「ええ。……覚悟は決めています」
香月も力強く頷いた。
「あの子たちが無事に帰ってくるまで、ここが私たちの最前線です」
ケンジはノイズの海に潜りながら、天国の妻に語りかけた。
(聞こえるか、ヤラ。……お前の息子は、まだ終わっちゃいねえぞ)
体は離れていても、心は繋がっている。
ここから、彼らの反撃が始まるのだ。
----
* * *
コイタは、集落の長老の家に招かれていた。
巨大な樹木の幹をくり抜いて作られたツリーハウスだ。
風通しが良く、床にはふかふかの苔が敷き詰められている。部屋の中には、熟した果実の甘い匂いと、ハーブのような清涼な香りが漂っていた。
『「我々はルー族。この星の守り手だ」』
神官のジジルーが言った。
白髪交じりの老齢のルー族で、杖をつき、神官のローブを纏っている。その瞳は長い年月を生きた者特有の静けさを湛えている。
『「そして、君がここに来たのは運命だ。……今、この星は悲鳴を上げている」』
その横には、三毛猫のような模様を持つ若い女性のルー族が控えていた。
神殿の装飾紐をつけた巫女装束――民族衣装を纏い、控えめな仕草でコイタに果実の盛られた器を差し出す。
『「どうぞ、星の使い様。長旅でお疲れでしょう」』
その声は柔らかく、優しい。
「あ、ありがとう……」
コイタは戸惑いながらも器を受け取った。
『「私はミミケー。神殿の巫女です。父の補佐をしております」』
彼女は丁寧に頭を下げた。控えめだが、その瞳には強い意志が宿っている。
「星の使い、って……俺はただの高校生なんだけど」
コイタが苦笑すると、ジジルーが厳かに首を振った。
『「いいえ。パイオニア様のお告げがあった。『海から光を纏いし者が来る』と。……あなたこそ、予言の子です」』
「悲鳴?」
コイタが聞き返す。
『「ドグルド族だ。彼らは鋼鉄の身体を持ち、黒い球を使って大地を汚している。……パイオニア様が遺した『調和』を壊し、森を枯らせているのだ」』
やっぱりだ。
ここにもPioneerAIの痕跡がある。
そして「黒い球」――それは、Rabbitを構成していた「エントロピー・セル」と同じものだ。
この星の敵は、あのゲート技術の暴走と関係している。
「わかった。……俺にできることがあるなら手を貸すよ」
コイタは言った。迷いはなかった。
恩を売っておけば、情報が手に入る。それに、ここで何もしないで待っているほど、彼は気長ではなかった。
「その代わり、俺の相棒(Rabbit)を探すのを手伝ってくれ。あいつもこの星のどこかに落ちてるはずなんだ。……俺の、大事な片割れなんだ」
『「承知した。……海から来た者よ、我らは歓迎する」』
ジジルーが手を差し出す。コイタは恐る恐る、その肉球のある手を握った。
温かい。
異星人だが、確かに体温がある。
出された果実は、青いリンゴのような形をしていた。
一口かじると、口の中いっぱいに酸味が広がり、疲れが一気に吹き飛ぶようだった。
酸っぱくて、目が覚めるような味。
これが、冒険の味だ。
コイタは窓の外を見た。
二つの月が、森を妖しく照らし始めていた。
(つづく)




