【地球編】第10話 裏切りと野心
執行猶予の時間は、砂時計の砂のように刻一刻と落ちていた。
あと42時間。
あの白い執行官ロッシュが宣告した、港町エリアの「完全解体」までの時間だ。それはつまり、タケルたちがアークシップの制御権を奪取するためのタイムリミットでもあった。
廃校になった旧校舎の地下室。かつて放送部が使っていた防音スタジオには、複数のサーバーと冷却ファンが唸りを上げていた。
「……ダメだ、解析が終わらない」
タケルが血走った目でホログラムキーボードを叩く。
机の上にはカフェイン錠剤の空き瓶と、飲みかけの栄養ゼリーが散乱している。
彼の指は腱鞘炎になりそうなほど酷使され、痙攣〈けいれん〉していた。
「EmpireAIのメインフレームにバックドアの構築には成功した。……けど、アークシップの制御プロトコルが複雑すぎる」
タケルが髪をかきむしる。
「Rabbitという『鍵』があっても、鍵穴の形が数秒ごとにランダムで変化してるんだ。まるで生き物だよ、こいつは」
「帝国の防衛AIも馬鹿じゃないわ」
サミラが目の下のクマを擦りながら、冷めたコーヒーを啜〈すす〉った。
「私たちが侵入しようとしていることに気づいて、防壁を自己増殖させてる。……まるでウイルスへの抗体反応ね。このままじゃ、制御系に触れる前に私たちの市民コードごと焼かれるのがオチよ」
「弱気なこと言うなよ! ここまで来て!」
リオが叫んだ。だが、その声にはいつもの覇気がない。
彼もまた、連日の作業とプレッシャーで限界に近かった。
「ロッシュの野郎、本気でここを更地にする気だぞ。……俺たちの家も、思い出も、全部スクラップにされちまうんだぞ!」
重苦しい沈黙が地下室を支配する。
誰もが分かっていた。
勝ち目は薄い。
相手は、この惑星を管理する絶対的な知性体だ。数人の高校生と、時代遅れのロボット一体で勝てる相手ではない。
部屋の隅で、ケイトはずっと自分の端末を操作していた。
彼女は議論に参加せず、ただ黙っていた。
画面のブルーライトに照らされた横顔は、彫像のように蒼白で、無表情だった。
だが、その瞳の奥だけが、異様な輝きを放っていることに、誰も気づいていなかった。
(……見つけた)
ケイトの指先が震える。
彼女が見ていたのは、タケルたちが必死に解析している「船の航行制御システム」ではなかった。
もっと下層、人事管理局のサーバーにある『乗員選抜アルゴリズム』のソースコードだ。
彼女は気づいてしまったのだ。
難攻不落の操船システムをハッキングする必要などない。
ここのパラメーター、厳密には「優先搭乗者選定」のフィルター係数を一つ書き換えれば、自分と、その周囲の特定個人を「Sランク優先搭乗者」として登録できることに。
船を乗っ取る必要なんかない。
船はEmpireAIに操縦させればいい。
ただ、自分たちが「選ばれる側」に滑り込めばいいだけだ。
「……ねえ」
ケイトが声を上げた。
乾いた、掠〈かす〉れた声だった。
「もしもよ? もしも、船を全部乗っ取るのが無理なら……私たちだけでも助かる方法を考えない?」
全員の手が止まった。
冷却ファンの音だけが響く。
タケルがゆっくりと椅子を回転させて振り返る。
「……どういう意味だ、ケイト」
「だから! 選抜リストに私たちの名前を書き加えるのよ!」
ケイトは立ち上がり、端末をみんなに向けた。
「Rabbitの演算能力をここ一点に集中させれば、一時的にリストを改ざんできるわ! 航行システム全体を掌握するより、ずっと確率が高い!」
彼女は早口でまくし立てた。まるで自分自身を説得するかのように。
「コイタ君のお父さんとか、先生たちとか……全員を救うのは無理かもしれない。でも、ここにいるメンバーと家族くらいなら……!」
「ふざけるな」
タケルが冷たく言い放った。温度のない声だった。
「それはロッシュと同じ発想だ。……99%を見捨てて、自分たちだけが『選ばれた人間』として助かろうとするのか?」
「綺麗事言わないでよ! 死んだら意味ないでしょ!?」
ケイトが悲鳴のような声を上げる。
「私は嫌よ! この汚れた地球で、汚染された空気を吸って、何者にもなれずに野垂れ死ぬなんて! 私はアークシップに行くの。……特待生の私が、こんなゴミ溜めで終わっていいわけないじゃない!」
バン!
サミラが机を強く叩いた。コーヒーカップが跳ねて床に落ち、割れる。
「いい加減にしなさい、ケイト!」
普段は冷静なサミラが、鬼のような形相で睨んでいる。
「それがあなたの言う『優秀さ』なの? 他人を踏み台にして、自分だけ高みに逃げること? ……そんなの、ただの『システム奴隷』じゃない。EmpireAIが望む通りの、都合のいい部品よ!」
「うるさい、うるさい、うるさい!」
ケイトは耳を塞いだ。
「あんたたちには分からないわよ! パパもママもずっと言ってた。『一番になれ』『負けるな』『選ばれる側になれ』って! ……期待を裏切ったら、私は私じゃなくなるのよ!」
彼女は鞄をひったくるように掴むと、ドアへ走った。
「あんたたちみたいな偽善者には付き合ってられない! 私は……私のやり方で生き残る!」
バタン!
重い鉄の扉が閉まる音が、地下室に反響した。
後に残されたのは、やり場のない沈黙と、壊れたコーヒーカップの破片だけだった。
* * *
夜。
コイタは一人、冷たい雨の降る港湾地区を走っていた。
携帯端末に入った、ケイトからの呼び出しメッセージ。「重要なデータを見つけたから、Rabbitを持ってきてほしい。みんなには内緒で」という短い文面。
(……仲直りしたいんだ)
コイタはそう信じていた。
彼女は高慢だし、口も悪い。でも、根は悪い子じゃない。
きっと、みんなの前では素直になれなかっただけで、本当は協力してくれるはずだ。Rabbitがいれば、何か打開策が見つかるかもしれない。
「ケイトさーん!」
指定された場所は、今は使われていない第三ドックの倉庫街だった。
雨に濡れたコンクリートの匂い。
壊れた水銀灯の下、白い制服の背中が見えた。
ケイトは傘も差さずに佇んでいた。
濡れたブロンド髪が頬に張り付いている。
その肩が、小刻みに震えているのが見えた。
「……来てくれたんだ」
ケイトがゆっくりと振り返った。
雨と涙で顔が濡れている。その表情は、今にも壊れそうなほど脆く見えた。
「当たり前だよ。……風邪ひくよ、こんな雨の中で」
コイタは上着を脱ごうとした。
「あいつら、まだ怒ってるけどさ。俺が話せば分かるよ。ケイトさんが見つけたデータを使えば、もしかしたら……」
「ごめんね」
ケイトが遮った。
その声は、雨音にかき消されそうなほど小さかった。
「え?」
プシュッ……。
彼女の背中から、白いガスが噴き出した。
護身用スプレーではない。工業用の高濃度鎮静ガスだ。
甘たるい化学薬品の匂いが、一瞬で鼻腔を突き刺し、脳を麻痺させた。
「う、あ……?」
コイタの視界がぐらりと歪んだ。
世界が溶けていく。
膝から力が抜け、水たまりの中に無様に崩れ落ちる。
冷たい雨水が頬を打つ。
(なんで……?)
霞む視界の中で、ケイトが近づいてくるのが見えた。
彼女はコイタを助け起こすのではなく、背中のリュックに手を伸ばした。
中からRabbitを乱暴に引っ張り出す。
『警告。生体反応異常。コイタ・カマラの意識レベル低下。……ケイト・ミラー、何をするつもりですか』
Rabbitが状況を理解し、青い光を激しく点滅させる。
『攻撃的行動を検知。セキュリティ・プロトコル起動……』
「黙っててよ!」
ケイトは悲鳴を上げながら、Rabbitの強制停止ポート(メンテナンス用スロット)に、自分の端末から伸びるケーブルを突き刺した。
彼女は知っていたのだ。Rabbitの構造も、弱点も。
授業中にコイタが自慢げに話していたことを、彼女はずっと覚えていた。この裏切りのために。
バチバチッ!
激しいスパークが散り、Rabbitの光が消えた。
白い球体は、ただの物言わぬ物体へと変わった。
「……ごめんね、コイタ」
ケイトは、動かなくなったRabbitを胸に抱きしめた。
泥だらけのコイタを見下ろす彼女の瞳から、大粒の涙が溢れ出し、雨と混ざり合っていく。
「私、怖いの。……あっち側に行けなくなるのが、死ぬほど怖いの」
彼女の声が遠くなる。意識の闇に吸い込まれていく。
「父さんも、母さんも、みんなスコアAなの。私だけ落ちこぼれるわけにはいかないのよ! ……戻れないのよ、私は!」
それは、管理社会が生み出した呪いだった。
優秀であらねばならない。選ばれる側でなければならない。
その強迫観念が、芽生えかけた友情も、倫理も、すべてを黒く塗りつぶしていく。
「……ケイト……やめ……ろ……」
コイタの手が空を切り、そして地面に力なく落ちた。
飛沫〈しぶき〉が上がる。
無情な雨風が吹き抜ける。
ケイトは泥棒猫のようにRabbitを抱え、闇の中へと消えていった。
何度も何度も振り返りながら、それでも足は止めなかった。
後に残されたのは、冷たい雨に打たれる少年と、彼が信じた「友情」の残骸だけだった。
(つづく)




