【地球編】第01話 ゴミ山の宝物
口の中に広がる鉄錆〈てつさび〉の味は、この停滞した町の空気そのものだった。
夜明け前の港町は、まだ海霧に包まれている。湿った空気が肌にまとわりつき、遠くで錆びたクレーンがきしむ音が、まるで巨大な獣のいびきのように聞こえた。
古い給水ポンプ小屋の薄暗い闇の中で、二つの影が動いている。
コイタと、父のケンジだ。
「コイタ、継ぎ手の『鳴き』を聞け」
ケンジの声は低く、そして重い。怒っているわけではない。仕事をする時の、職人の声だ。
「金属が悲鳴を上げている音がするはずだ。無理に回せばねじ切れる。……分かったら、潤滑油を『三滴』だけ垂らせ」
「三滴……分かった」
コイタは慎重にスポイトを傾けた。
コイタの手は、年齢の割に節くれ立っている。爪の間には落ちない機械油が染み込み、それが彼の「勲章」のようにも見えた。
一滴。二滴。三滴。
琥珀色の油が、赤錆の浮いたボルトの隙間に吸い込まれていく。毛細管現象だ。物理法則は、いつだって公平で正直だ。EmpireAIの決める理不尽なルールとは違う。
「よし。今だ、回せ」
ケンジの合図で、コイタは細い腕に体重をかけた。
着用しているデザートイエローの作業着は、彼の体には少し大きい。暑がりのコイタは上半身を脱ぎ、腰のあたりで袖を縛っている。その下のデザートグリーンのTシャツが、汗で背中に張り付いていた。
ギィ、という鈍い音がして、長年固着していたナットがゆっくりと回り始めた。
「……動いた」
「ああ。機械は正直だ。手をかければ応える」
ケンジは首に巻いた白いタオルで汗を乱雑に拭い、ポンプの再起動レバーを引いた。
どくん、と配管が脈打ち、新鮮な水が流れ出す音が小屋に響く。
それが、この港町の朝の始まりを告げる音だった。
「行くぞ。今日はドローンの巡回ルートが変わる日だ」
ケンジが小屋の隙間から空を見上げる。
身長163cmと小柄だが、その背中は岩のように頑丈に見える。濃色のツナギにワークブーツ。右膝を少しかばうように歩くのは、昔の怪我の後遺症だというが、詳しくは教えてくれない。
灰色の空を、赤い光点が滑るように横切っていく。EmpireAIの監視ドローンだ。
父さんの横顔が、一瞬だけ険しくなったのをコイタは見逃さなかった。
AIは生活を便利にする。管理都市の人たちにとっては「神様」みたいなものかもしれない。
でも、この港町で生きる父さんは、AIを蛇蝎〈だかつ〉のごとく嫌っている。
その理由を、コイタはまだ、ぼんやりとしか知らなかった。
* * *
そこは、世界中の「忘れ物」が流れ着く場所だった。
海流の関係で漂着する電子機器の残骸、廃棄されたプラスチック、朽ちた建材。それらが積み重なり、巨大な丘を形成している。
強烈な陽射しが、金属の山を熱し、陽炎〈かげろう〉を揺らしている。
腐ったゴムの臭いと、焦げた回路の臭いが混ざり合った独特の悪臭。だが、コイタにとって、ここは宝の山であり、学校よりも多くのことを学べる教室だった。
「……回路基板、腐食なし。コンデンサ、液漏れなし。これ、まだ使える」
コイタは独り言を呟きながら、廃棄されたタブレットを分解していた。
彼の黒い瞳が、基板上の回路図をなぞる。
壊れているんじゃない。捨てられただけだ。
ここにあるものは皆そうだ。少し効率が落ちたり、型遅れになっただけで、「不要」の烙印を押された。
まるで、この港町に住む自分たちのように。
その時だ。
瓦礫〈がれき〉の山の向こうで、何かが微かに光った気がした。
金属の反射ではない。もっと柔らかい、乳白色の光。
「ん……?」
引き寄せられるように、コイタは鋭利な瓦礫を乗り越えた。
山のふもとの泥の中に、それは半分埋まっていた。
白い球体だった。
直径30センチほどの、綺麗な真球。
表面は泥にまみれているが、拭えば高級なセラミックのような光沢がある。
上部には、折れ曲がった二本のアンテナ――まるでウサギの耳のようなパーツが付いており、左右には羽根のようなフィンが泥に濡れて張り付いていた。
柔らかな青色のラインが、球体を一周している。
「ドローン……じゃないな。こんなデザイン、カタログで見たことがない」
コイタは油で汚れた手袋を外し、素手でその外装に触れた。
ひんやりとしている。
だが、指先に微かな振動が伝わってきた。
チリ……チリ……。
中から規則的な音が聞こえる。心拍音ではない。クロック信号だ。生きている。
「外装破損率40%。でも、コア・モジュールへのダメージは……なさそうだ」
コイタの頭の中で、修理の組み立て図が瞬時に展開される。
ここを磨いて、配線をバイパスして、電圧を安定させれば……。
直せる。
いや、直したい。
この子が「助けて」と言っているような気がした。
コイタは周囲を警戒した。上空にドローンの赤い光がないことを確認し、誰も見ていないことを確かめてから、その「宝物」をボロ布で丁寧にくるんだ。
背負い籠〈かご〉の底に隠し、その上からジャンクパーツを被せる。
心臓が、ポンプのピストンのように早鐘を打っていた。
父さんには内緒だ。絶対に見つかってはいけない。
* * *
カマラ家の床下には、コイタだけの秘密基地がある。
古い配管スペースを改造した、高さ1メートルほどの狭い空間。
裸電球の頼りない光の下で、コイタは息を止めて作業に没頭していた。
周囲には、拾ってきたジャンク品で作った測定器や、自作の工具が所狭しと並んでいる。
「メイン・バス、バイパス接続。電圧、3.3ボルトで安定」
アナログテスターの針が振れるのを確認する。
白い球の外装を外し、内部の基板を無水アルコールで洗浄した。
綿棒の先が真っ黒になる。接点の酸化膜を慎重に削り落とし、切断された極細の回路を、髪の毛ほどの細さのワイヤーで繋ぎ直す。
顕微鏡代わりのルーペを目に押し当て、ハンダごてを操る。
まるで外科手術だ。
でも、血の代わりに電気が流れれば、機械は蘇る。人間よりもずっとシンプルで、裏切らない。
「よし……これで、どうだ」
コイタは額の汗を袖で拭い、最後のスイッチを入れた。
ヴゥン……。
低い駆動音が響き、球体の内部で冷却ファンが回り始めた。
正面の黒いディスプレイに、青い光が灯る。
文字列が高速で流れる。
【System Boot... OK】
【Memory Check... Partial Error (Ignored)】
【Language Set: Japanese】
次の瞬間、ディスプレイに二つの丸い「目」が表示された。
ピクセルで描かれた単純な目だが、瞬きをした瞬間、そこに確かな「意思」が宿ったように見えた。
ポローン、と電子音が鳴る。
『……起動確認。環境スキャン完了。ここは、登録されたドックではありません』
合成音声だ。でも、今の管理都市で流れているような人間臭い流暢〈りゅうちょう〉さはなく、どこか無機質で、それが逆に心地よかった。
「ドックじゃないよ。オレの部屋……みたいな場所」
コイタは答えた。自分の声が少し震えているのが分かった。
「オレはコイタ。君を拾って、修理したんだ」
『修理?』
球体がわずかに浮き上がろうとして、ガクンと床に落ちた。
『姿勢制御スラスタ、出力不足。ジャイロ係数、未調整。……現状分析。私は廃棄された個体であり、貴機……訂正、あなたによって再構築されたと推測します』
「正解。スラスタはまだ調整中だから、無理に動くなよ。中の配線がショートする」
コイタは笑った。機械と会話ができている。それが嬉しかった。
「君の名前は? 型番とかあるのか?」
『識別ID:R-Rabbit-Zero-Seven。……推奨呼称は設定されていません』
「R-Rabbit……ラビットか」
コイタは修理したばかりのアンテナを見た。白い耳のような形状。
「ウサギみたいだし、ちょうどいいな。今日から君の名前は『Rabbit』だ」
『Rabbit……ウサギ目ウサギ科の哺乳類。……了解しました。その識別子を登録します』
Rabbitの目が、ニッコリと三日月型に細められた。
ピコっ、と右のアンテナが立つ。まるで感情を表しているようだ。
『コイタ。修理に対する対価報酬は発生しますか? 当機は現在、電子マネーを所持していません』
「お金はいらないよ。その代わり……」
コイタは少し考えてから言った。
「オレの『相棒』になってくれ。話し相手が欲しかったんだ。……父さんには内緒でな」
『相棒(Partner)。……定義を検索中。……「相互に利益をもたらし、目的を共有する関係」。あるいは、「運命共同体」。……了解。合理的です』
合理的。
その言葉が、妙に可笑しかった。
「お前はさ、何かしたいこととか、ないのか? 壊れる前とか」
コイタは何気なく聞いてみた。
Rabbitは少し沈黙し、アンテナを天井――いや、その向こうの空へ向けた。
『……当機のメモリには、空の向こうに行きたいという、未定義の欲求が記録されています』
『いつか、この曇った空の向こうにある、本当の星を見てみたいのです』
「星、か……。ここからじゃ、スモッグだらけで見えないもんな」
コイタは苦笑した。
「いいぜ。いつか連れてってやるよ。……俺たちは相棒だからな」
その時、頭上の床板からドシドシと足音が響いた。
父さんが帰ってきたのだ。重いワークブーツの音。
「しっ! 隠れて!」
コイタが指を立てると、Rabbitは即座に反応した。
『危険信号を受信。ステルスモードへ移行』
ディスプレイの光が消え、ファンの回転音が止まる。ただの「白いジャンクパーツ」に擬態したのだ。
コイタは安堵〈あんど〉の息を吐いた。
合理的で、少し理屈っぽくて、でも頼もしい。
このゴミ溜めのような世界で、初めて自分だけの秘密兵器を手に入れた気分だった。
最高の相棒ができた。
(つづく)




