『君、またミスをしたのか』と冷徹な上司に呼び出されたが、なぜか心の声がダダ漏れで説教どころではありません
「佐藤、また計算が合わないぞ」
静まり返ったオフィスの空気が、さらに三度ほど下がった気がした。
私のデスクの前に立っているのは、営業一課の絶対君主、氷室《ひむろ》蓮《れん》課長だ。
整った顔立ちに、銀縁の眼鏡。背も高く仕事も完璧。けれど、その眼差しは南極の氷よりも冷たい。
「も、申し訳ありません……! すぐに修正します」
「……あとで私のデスクに来なさい。話がある」
「は、はい」
課長が去った後、私はデスクに突っ伏した。
終わった。入社して三年、何度目の呼び出しだろう。
きっと愛想を尽かされたに違いない。氷室課長は私を嫌っている。誰にでも厳しいけれど、私には特に当たりが強い気がするのだ。
「はぁ……行かなきゃ」
重い足取りで、パーテーションで区切られた課長の席へと向かう。
覚悟を決めて、私は声をかけた。
「失礼します。佐藤です」
「入れ」
短く冷たい返事。
中に入ると、課長は眉間に深いシワを寄せてパソコンの画面を睨んでいた。私が前に立っても、視線すら寄越さない。
「あの、先ほどの見積書の件ですが……」
「佐藤。君はこれで何度目だと思っている」
低い声が響く。私は思わず身を縮こまらせた。
「すみません、確認したつもりだったんですが……」
「つもり、では困るんだ。君のその不注意さが、いずれ大きな損失に繋がる可能性があると、何度言えば――」
そこまで言って、課長がふと口をつぐんだ。
眼鏡の奥の瞳が、じっと私を見つめている。
怒られる。怒鳴られるかもしれない。私はギュッと目を閉じた。
その時だ。
「(――はぁぁぁ、可愛い)」
え?
今、誰か喋った?
恐る恐る目を開ける。
目の前には、相変わらず眉間にシワを寄せた氷室課長がいるだけだ。
空耳か。いよいよストレスで幻聴が聞こえるようになったのかもしれない。
「……反省しているのか」
「はい、深く反省しています」
「ならいい。次は気をつけるように」
淡々とした口調。
しかし、その直後。
「(上目遣いで涙目の愛理ちゃん、破壊力高すぎだろ……! くそっ、抱きしめて『いいよいいよ、ミスくらい僕がカバーするよ』って言いたい! 言いたいけど、上司として示しがつかない! 俺のバカ!)」
「……え?」
私は思わず声を出してしまった。
課長が怪訝そうに眉をひそめる。
「なんだ?」
「い、いえ。あの、課長? 今、何かおっしゃいました?」
「次は気をつけるように、と言っただけだが」
課長の顔は、鉄仮面のように無表情だ。
でも、確かに聞こえた。
愛理ちゃん? 抱きしめて? 僕?
じっと課長を見つめる。
すると、課長の視線がわずかに泳いだ。
「(うわっ、そんな大きな目で見つめないでくれ。心臓が持たない。今日この日のために新しいネクタイ締めてきてよかったー! 愛理ちゃん気づいてくれたかな? いや、説教された直後にネクタイ褒める部下いないよな……あああ、嫌われたくないなぁ)」
――全部、聞こえてる。
心の声じゃなくて、口から出てますよ、課長!!
私はポカンと口を開けてしまった。
あの鬼の氷室課長が? 私のことを?
というか、新しいネクタイって私のために?
「あの、課長」
「……なんだ」
「そのネクタイ、よくお似合いですね。爽やかなブルーで」
試しに言ってみた。
課長の表情はピクリとも動かない。
しかし。
「(キタァァァァァーーーッ!! 愛理ちゃんが褒めてくれた! 死んでもいい! いや死なない、このネクタイ一生洗わない! 表情筋、耐えろ! ここでニヤけたら変質者だぞ!)」
課長の手が、プルプルと震えている。
デスクの下で、拳を握りしめているのが見えた。
……なにこの人。
面白い、じゃなくて。
可愛い。
今まで恐怖の対象でしかなかった氷室課長が、急に愛しい生き物に見えてきた。
私はこみ上げる笑いを必死に噛み殺し、一歩前に進み出た。
「課長、あの」
「な、なんだ。話は終わったはずだが」
少し声が裏返っている。
私はニッコリと、これ以上ない笑顔を向けた。
「今夜、もしお時間があれば、この間のミスの埋め合わせに食事でもいかがですか? ……ネクタイのお礼も兼ねて」
その瞬間、課長の眼鏡がカシャンとずり落ちた。
「(えっ!? デート!? これ実質デートの誘いだよね!? 神様ありがとう! 明日地球が滅亡しても悔いはない!!)」
「……コホン。まあ、部下の指導も上司の務めだ。行ってやらないこともない」
真っ赤になった耳を隠すように、課長が顔を背ける。
その背中からは、隠しきれないハートマークが溢れ出ているようだった。
鬼上司の攻略法、意外と簡単かもしれない。
これからは、ミスじゃなくて笑顔で攻めてみよう。
そう心に決めて、私はスキップしたい気分で課長のデスクを後にした。
背後で「よしっ!」という小さなガッツポーズの音が聞こえたのは、聞かなかったことにしておこう。
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